鬼和尚 2022/08/06(土)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1649249411/

380:避難民のマジレスさん[]:2022/08/06(土) 05:15:46 ID:qILOEfpY0 [2/2]
何故、意識が永遠だとか無限だと言えるの?
単なる信仰でしかないのでは?

381:避難民のマジレスさん[]:2022/08/06(土) 13:54:45 ID:BSdGEadw0 [2/2]
>>379
自分のしたことだけをみて他人のしたことをみるな、
ということですね。
教えていただきありがとうございました。

383:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/08/06(土) 22:36:43 ID:DaOPWT1A0 [1/2]
>>380 そこに時間はないからなのじゃ。
 時間という観念も幻想と気づくからなのじゃ。

 前にも書いたが、おぬしが観念として認識している全てが記憶によるまやかしなのじゃ。
 そうであるから何を聞いても、非であり、無という答えにしかならないのじゃ。
 根本から認識しているものごとが違うのであるからのう。
 自ら悟りを得て確かめるしかないのじゃ。

>>381 そうじゃ、自分を見て進むじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

382:避難民のマジレスさん[]:2022/08/06(土) 20:04:33 ID:/E.6Jbwo0 [18/18]
行動経済学の本の中で、ある思考実験が紹介されていました。
それは、麻酔無しで手術を受けた後、その記憶を忘れる薬を飲まされるとしたら、手術の経験についてどう思うか?というものです。
著者やその周りの人は「手術を受けて苦しんだ自分については、苦しんでいる他人への同情程度にしか思わない」との意見が大半とのことでした。
この場合、記憶しているのが自分であり、実際に経験している自分は他人のようなもの、と多くの人は考えているのだろうと著者は結論づけていました。

私もこの思考実験をしたところ「なんか麻酔無しで手術を受けて相当痛かったらしいね」くらいにしか思わないだろうなと考えました。
これはつまり、事実より記憶をある種の実感として捉えているからだと思います。しかし、それに気づいても、鬼和尚様のように自我が落ちたりだとか特別な経験はありませんでした。
これは自分で気づいたものでは無いからでしょうか?

384:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/08/06(土) 22:38:22 ID:DaOPWT1A0 [2/2]
>>382 そうじゃ、自ら観察して気づいたことではないからなのじゃ。
 観察しなければ気づくことはなく、厭離も起こらないのじゃ。
 観察すれば気づきが起こり、厭離も起こって進歩するのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 55
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1643336428/

841:ウサ[sage]:2022/08/05(金) 23:31:19.72 ID:oja3KBN3
>>840
鬼和尚さんありがとうございました。
ウサは実践で確かめるようにします。

842:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/08/06(土) 04:33:47.46 ID:K9INeXbB
鬼和尚は毎年終戦記念日が来るたびに
悲惨な原爆を落としたアメリカを許すまじと
決意恨みを新たにしますか?

843:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/08/06(土) 13:56:19.63 ID:zOyEK+Xz
鬼和尚は、空海の言う弥勒菩薩ですか?
この世を救うために生まれて来たのですか?

846:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/08/06(土) 22:47:35.38 ID:HCCRw4pz [1/2]
>>841 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>842 しないのじゃ。

>>843 それはおぬし自身が見極めることじゃ。
 他人が弥勒であっても、なくても、おぬし自身が今実践して悟りを得たならば、弥勒によって導かれたことになるのじゃ。
 そうでなければ一度も会わなかったことになるのじゃ。
 全てはおぬし次第なのじゃ。

844:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/08/06(土) 18:36:35.91 ID:RJQqPhSs
鬼和尚
星野くんの二塁打の話を仏教的にはどう捉えるのか
教えてください

845:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/08/06(土) 19:20:48.98 ID:TL3pvE+I
カブトムシ和尚、鬼おじさんの季節が来ました
よろしくお願いします

847:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/08/06(土) 22:48:05.11 ID:HCCRw4pz [2/2]
>>844>>845 無何思

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

487:避難民のマジレスさん[]:2022/08/06(土) 03:00:05 ID:CrLGiYa20
2.11.聖典に基づ<日常経験も無明に基づく  p257-259

  しかし聖典に基づく日常的経験[たとえば祭式の執行等]に関して言えば、 たとえ思慮深い人であっても、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては、その資格がない164。それにもかかわらず、ウパニシャッドによって知られ、飢餓等を超越し、バラモン・クシャトリヤ等の区別を離れ、輪廻しないアートマンという真理は、[祭式等を執行する]資格として前提とされていない165。何故なら、アートマンは[その]役に立たないし、また資格 とも矛盾するからである166。しかし聖典は、このようなアートマンの認識が起こる前には機能するから、聖典が無明を持っている者に関係しているという事実に背くものではない。例えば、「バラモンは祭式を執行すべきである」等の諸聖典句は、アートマンに対する、階層・生活期・年齢・状態等167の特殊性の附託に基づいて[始めて]機能するのである。

  [反対主張]直接知覚等は無明を持っている者に関係しているのだとしておこう。しかし、「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」168等の聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能するわけではない。実に、この場合には、来 世で果報を享受するのに適した者に[祭式を執行する]資格があると考えられるのであ る169。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、同じ趣旨のこと(果報を享受する者と祭式を執行する者とは同一であるということ)を、「聖典[に命じられて いる行為の]果報は、[行為を実際に]遂行する人に[生ずる]。何故なら、[そのことは]それ(聖典)から明らかだからである。それ故、[人は、聖典に命じられている行 為を実際に]自分で行わなければならない」170と[述べている]。身体等は[死後]灰 に帰す[ので]、他界(天界)で果報[を享受するの]には適しない。従って、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」等]の聖典は、[祭式を執行する]資格のある者が身体とは異なるなにかであることを暗に意味しているのである。そして、それ(祭式を行う資格のある者すなわち身体とは異なるアートマン)171を理 解することが明知なのである。それ故、聖典が、どうして、無明を持つ者と関係していたりしようか。

脚注
164 聖典の命ずる祭式を行なって天界に生まれる場合、天界に達するのは、死後灰となる身体ではなくて、 アートマンである。従って、アートマンが他の世界(天界)と関係していることを知る必要があるのであ る。
165
166アートマンは、行為主体でも経験主体でもないので、祭式を行ってその果報を享受することはありえ ないのである。
167 個々の具体例及ぴ「等」に何が含まれているかについては、本訳260頁参照のこと。 168この儀軌はあらゆるミーマーンサーの文献の中で常にこの形であらわれるにもかかわらず、このままの形では現存のヴェーダ文献中には見当らない。
169この聖典句の場合、身体は、死後灰に化すわけだから、来世(天界)で果報を享受するのに適した者ではなく、死後も存続するアートマンが天界で果報を享受するのに適した者であることになる。従って、祭式を行なう資格があるのはアートマンであって、身体がアートマンに附託されている必要はないのである。
170 供犠の主催者自身が個々の祭式 を直接行なうべきなのか、それとも、供犠の主催者は供物を捧げるだけで十分であって、個々の祭式は供儀僧にまかせておけぱいいのか、という点が問題となっている。このうち前者が反対主張であ り、後者が定説である。ところで、当該スートラは反対主張に属するものなので、ここで典拠として引用 されているのは一見不適当であるように思われるが、反対主張も定説も、果報のために祭式に従事した人 に果報が生ずることは緩めているので、反対主張に属すスートラをここで典拠としても問題はないとされる。
171
(´・(ェ)・`)
(つづく)

488:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/08/06(土) 23:32:19 ID:DaOPWT1A0
 しかし祭式の執行等に関しては、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては執行資格はないというのじゃ。
 それでも輪廻しないアートマンという真理の実現は、祭式等を執行する資格として前提とされていないのじゃ。
 アートマンは祭式執行の役には立たず、また資格とも矛盾するからというのじゃ。
 聖典はこのようなアートマンの認識が起こる前には機能するのであるから、聖典が無明を持っている者に説かれることは正しいのじゃ。
 例えばバラモンは祭式を執行すべきである等という諸聖典句は、アートマンに対する、階層や生活期や年齢や状態等の特殊性の附託に基づいて機能するのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである等と書いてある聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能しているのではないのじゃ。
 この場合には来世で果報を享受するのに適した者に、祭式を執行する資格があると考えられるのじゃ。
 
 身体等は死後には灰に帰すものであるから、天界で果報を享受できないのじゃ。
 そうであるからそれらの聖典は、祭式を執行する資格のある者が身体とは異なるものであることを暗に意味しているのじゃ。
 祭式を行う資格のある者とは、すなわち身体とは異なるアートマンを理解している者なのじゃ。
 そうであるから聖典は、無明を持つ者と関係していないのじゃ。

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