鬼和尚 2022/07/17(日)

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
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446:避難民のマジレスさん[]:2022/07/17(日) 02:45:26 ID:qTt0I4uw0
2.4.他学派による附託の定義(3):その他の学派   p231-235

  しかし、別の人々は94、[附託とは]XがYに附託された時、Yにはまさに [それに]反する属性があると誤って構想すること(kalpan?・)である、と主 張している。

  しかし、別の人々は、すなわち、これ(これまで述べてきたakhy?・tiの見解)にも満 足しない人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反する 属性があると誤って構想することである、と主張している。ここ(本文中)で言おうと していることは以下の通りである。銀を求める人は、「これは銀である」という観念に 基づいて、眼前に存在する実体に向かったり、[その実体と銀とを]同格関係で表現し たりする。これは、広く知られているところである。[しかし]、知覚と想起およびその [それぞれの]対象が互いに異なることに対する単なる無理解から、このことが[起こ る]ということはありえない。というのは、精神神的存在の日常的経験(vyavah?・ra, 活動)95と表現は、理解に基づいており、[それらが]単なる無理解から[起こること]は決してありえないからである。
  [Akhy?・tiv?・din][それらは]単なる無理解から[起こるの]ではない。そうではなくて、知覚と想起は、それ自体に関しても、また、[その]対象に関しても、互いに異 なることが理解されていない場合には、[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]眼前に存在する銀に関する正しい認識と類似しているために、[「これ」と「銀」とを]区別しない日常的経験(活動)や[両者の]同格関係による表現を引き起すのである。
  [Akhyati批判][このようにあなたは]言っていったが、では、これら(知覚と想 起)が正しい認識と類似していると理解されている時に、[その類似性が]日常経験(活 動)を引き起こす原因となるのか、あるいは、[類似していると]理解されていなくて [も]、単に[類似性が]存在するだけで、[それが日常経験(活動)を引き起す原因と なるの]か。[このうち、知覚と想起が正しい認識と類似していると]理解されている 場合には、[この理解は]、さらに、 「『これ』という[知覚]と『銀』という[想起]と いうこれら二種の認識は、正しい認識と類似している」という形の理解になるか、「こ れら二種[の認識]は、実に、[認識]それ自体に関しても、また、その[それぞれの] 対象に関しても、互いに異なることが理解されていない」という形の理解となるか[のいずれかであろう]。このうち、まず、 「正しい認識と類似している」という認識は、 正しい認識のようには、日常的経験(活動)を引き起すことはない。というのは、「カ ヴァヤ96は牛に似ている」という認識は、牛を求めている人を、ガヴァヤに向かわせる ことはないからである。一方、 「これら二種[の認識]は、実に、異なることが理解 されていない」という認識は、自己矛盾である。というのは、「[両者が]異なることが理解されていな」ければ、 「これら二種[の認識]は」という形はとらないし、 「こ れら二種[の認識]は」という理解があれば、 「[両者が]異なることが理解されてい ない」ということはないからである。従って、[次のように]言うべきである。すなわ ち、[「これ」という知覚と「銀」という想起が眼前に存在する銀に関する正しい認識と 類似しているという事実が]単に存在するだけで、[知覚と想起が]異なることを理解していないということが分からなくなり、[それが]日常的経験(活動)の原因となる のであると。

脚注
94Ratnaprabh?・は、「空観派の人々」と解し、Ny?・yanirnayaは、中観派の人々 と解している。Bh?・mat?・がどう解していたかは不明だが、その註釈は、(中観派の人々 )と解している。
95日常的経験という語には、日常的活動という意味あいも含まれている。
96 牛に似て牛に非ざるものの例としてよく用いられる雄牛の一種。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

447:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/07/18(月) 00:07:57 ID:7bvYmyZM0
さらに別の派のものは付託とは、あるものが付託され時にそれとは反する属性があると、誤って構想することというのじゃ。
 それは単なる無理解ではなく、知覚と想起が主客共々、互いに異なることが理解されていない時に区別しない表現を引き起こすというのじゃ。
 つまり真珠母貝が銀と誤認された時に、実は過去の記憶から想起されたものであるのに、知覚されたと思ってしまうということじゃな。
 それも類似しているからというのじゃ。

 反論なのじゃ。

 正しい認識と類似しているという認識が、それらの認識を引き起こすことはないというのじゃ。
 
 
 さらに二種の認識が異なることが理解されていないというのは自己矛盾であるというのじゃ。
 異なることが理解されていなければ、これら二種の認識はという形はとらないからなのじゃ。
 その理解があれば両者が異なることが理解されていないということはないからだというのじゃ。
 
 そうであるから、対象の知覚と想起が、想起対象の正しい認識と類似しているという事実が単に存在するだけで、
 知覚と想起が異なることの無理解が起こり、誤認の原因となるのであると言うのが正しいというのじゃ。

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