鬼和尚 2022/07/01(金)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1649249411/

314:避難民のマジレスさん[]:2022/06/30(木) 22:26:20 ID:/E.6Jbwo0 [5/6]
鬼和尚様
マハラジ(タバコ屋のおやじ)の本を読んでいます。
「私は在る」という以外の想念を捨てろとありますが、
「私は在る」という感覚がどういうものかわかりません。
誤訳のような気もするのですが、
解説していだだけないでしょうか。

315:避難民のマジレスさん[]:2022/07/01(金) 20:21:31 ID:/E.6Jbwo0 [6/6]
自分の左手を観察してみました。
「左手」という言葉に対する実体は存在しないが、
私の左手は「左手」という言葉で表されていると見ました。
こういうのはただの観念妄想なのでしょうか?

316:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/07/01(金) 23:30:51 ID:1d4drIFg0 [96/98]
>>314 それでよいのじゃ。
 最初からわかったと思うならば、それは観念なのじゃ。
 それがどのようなものかわからないから追求するのじゃ。
 
 観察するのもそれを追求する方法の一つなのじゃ。
 観察して私ではないとわかった想念は捨てていくとよいのじゃ。
 どこまでも追求すれば悟りはやってくるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>315 それは観念妄想ではないのじゃ。
 正しい気づきなのじゃ。
 左手は実在しているが、おぬしの心の中では言葉で認識しているのじゃ。
 それは私ではないのじゃ。
 言葉であるからのう。
 
 そのようにしてどこまでも追求するのじゃ。

317:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/07/01(金) 23:56:40 ID:1d4drIFg0 [97/98]
また5ちゃんねるにかけなくなったのじゃ。
 鍵がないとかいうのじゃ。
 おかしなことじゃ。

318:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/07/01(金) 23:59:53 ID:1d4drIFg0 [98/98]
書けたのじゃ。
同意が必要だったのじゃ。
騒がせてすまんのう。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 55
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1643336428/

569:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/06/30(木) 21:26:19.12 ID:rlzJOECN [1/3]
夫婦がセックスレスなのはよくないことですか

582:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/07/01(金) 23:59:14.57 ID:XudvM9in
>>569 そのようなことはないのじゃ。
 肉体や精神に原因があることもあるからのう。
 話し合って続けるならば、肉体や精神の原因を追求して対処すればよいのじゃ。

576:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/06/30(木) 23:06:21.67 ID:rlzJOECN [3/3]
569もお願いします。<(_ _)>

578:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/07/01(金) 12:22:00.30 ID:4CprDT4M
鬼和尚さん
弥勒菩薩さまが下生されたいうことですが、
観自在菩薩さまも来ているように思います。
あるいは、弥勒菩薩さまも観が自在なのでしょうか?

579:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/07/01(金) 15:32:13.98 ID:UhAOwgt/
人はよほど痛い目をみないと、なかなか自分を変えていこうとか成長しようとしないものですが、
弥勒信仰の本質とは、人類に弥勒の救済を起こせるだけの破壊と痛みがあり、それ自体が自分を変えていこうという力となり、
つまり、痛みや苦しみそのものが弥勒の救済であると思います。
しかし、弥勒が何億人とかいう人を救済する(成長に向かわせる)という話なので、
よほどの社会変革も伴う痛みなのでしょうか?
今の世は特に日本人は信仰から離れています。信仰に頼らずにはいられないほどの痛みや改革があるということですよね?
信仰心や観察や瞑想抜きで弥勒の救済とは言えないと思うのです。
と書きつつ、自分なりの答えは出ております。
弥勒救済の深い意味に思い当たって、まだ少しこれから起こることが怖いと思っています。

580:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/07/01(金) 18:07:31.21 ID:g8SzzV0D
下生した弥勒は大衆に対してどのようなアプローチをするのでしょうか?
積極的に教えを説いたり仏教集団を形成したりするのでしょうか?
釈迦でも釈迦と接して悟った弟子はそれほど多くないので弥勒であっても弥勒に接して悟る人は少ないと思いますがどうなのでしょうか?

583:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/07/02(土) 00:05:54.69 ID:6GWVuyAX
>>576 答えたのじゃ。
 
>>578 そうじゃ、来ているのじゃ。
 
 自在なのじゃ。
 仏の智恵は菩薩よりも広大であるからのう。
 
>>579 すでに衆生は痛みは受けてるのじゃ。
 老病死の苦に貧窮困苦に愛別離苦等なのじゃ。
 特に老病死の苦は誰もが免れない苦なのじゃ。
 
 賢い者はそれを予測して修行の道に入れるのじゃ。

>>580 自らの心を観るようにネットでもいろいろな法を説いているのじゃ。
 
 少ないじゃろう。
 それは賢い者が少ないからなのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

411:避難民のマジレスさん[]:2022/07/01(金) 05:39:25 ID:9bAKjdDg0
1.4.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[II]
ブラフマンは考察に価するという論証      p210-211

   また、[反対主張者は]、アートマンが「私」という語(経験)の対象であることを論証しようとしていたが、[その]彼らでさえ、これ(「私」という語(経験)の対象としてのアートマン)が、[アートマンの]真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、[「私」という語(経験)の対象が真のアートマンだとすると、アート マンは]遍在36している[はずなのに]、「私はこの家の中だけにいても知っている」と [いう表現(経験)に見られるように]、有限なものと理解されることになるからである。[それは]ちょうど、平地にいる人には、非常に高い山の頂上にある大木が、草の葉のように見えるようなものである。
  [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマ ンが[有限であることが経験されているのでは]ない。
  [答論]それは誤りである。というのは、もしそうだとすれば、[この表現(経験) は]、「私は」と[いう形を取ら]ずに、[「身体が」という形を取るはずである]。また、 [「私」という語は]比喩的意味[で用いられており、実際には身体を意味している]とすると、[身体は物質的なものだから]、「知っている」と[いう表現には]ならないは ずである。
  さらに、比喩的意味[が成り立つの]は、話し手と聞き手の間に、「X[を意味する]語がYに対して用いられるのは、[XとY に共通に]認められる性質を通してである」 という理解が[成立している]時である。[従って]、それ(比喩的意味が成り立つ)に は、[XとYとの]相違を知っていることが前提となっている。それ(比喩的意味)の例には次のようなものがある。アグニホートラという語は、日々行わなければならないアグニホートラ祭をもともとは意味するが、「アグニホートラ祭を一ヶ月間行うべし」37という[儀軌に見られる]ように、カウンダパーイナーム・アヤナ祭に[用いられる。 これは]比喩的用法である38。何故なら、[この場合、アグニホートラという語が用い られるのは]、行わなければならない事柄(s?・dhya)が似ているからであり、[両祭式 が]異ることは、文脈(prakarana)39の違いにより確定しているからである。また、 ライオンという語が[人に]用いられるのも、人がライオンと違うことは経験上広く知 られているからである。[従って]、もし[「私」という語がもともとはアートマンを、意味していると経験的に知っていれば]、X(アートマン)[を意味する]語が身体等(Y) に[用いられることになるから]、比喩的用法ということになる。しかし、[実際には、 人々は]、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。[従って、比喩的用法とは考えられない]。

脚注
36アートマンが遍在であることは、『ブラフマ・スートラ』において述べられており、シャンカラもヴァーチャズバティ・ミシュラもこの見解を受けついでいる。
37
38アグニホートラ祭は、日々義務として行わなければならない祭式で、一方、カウンダパーイナーム・アヤナ祭は、臨時に行われる祭式である。 「アグニホートラ祭一ヶ月を間行うべし」という儀軌中のアグニホートラという語がカウンダパー イナーム・アヤナ祭に用いられるのは、第一には両祭式において行わなければならない事柄、すな わち祭式が基本的に同じだからであり、第二には文脈が違うことによる。本文は、実際には、「ウパサッド(供養祭)を行なったのち、アグニホートラ祭を一ヶ月間行なうぺし」となっている。このウパサッド供養祭は、アグニホートラ祭では行われていない。従って、ここで命じられている祭式は、 アグニホートラ祭とは異なることになる。これが文脈の違いである。
39文脈とは、祭式の違いを判断する六つの認識根拠、すなわち、別の語・ 反復・数・従属要素・文脈・名称の一つであ る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

412:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/07/02(土) 00:15:23 ID:1d4drIFg0 [219/219]

 さらに反対者が私という言葉の対象がアートマンではないとわかるはずというのじゃ。
 それは観念であるからのう。
 アートマンはどこにでも偏在しているのに、私は部屋にいるとか言えば有限なものとなるからなのじゃ。
 
 それに反論するのじゃ。
 それは身体が有限であるだけだというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それならば身体がというように話すはずだというのじゃ。

 比喩であれば違う物事が、共通することについて喩える筈であるが、
 人々は私という言葉が身体とは別のものとしてのアートマンである事を知っている訳ではないから比喩ではないというのじゃ。

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