鬼和尚 2022/06/27(月)

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 55
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1643336428/

554:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/06/26(日) 23:27:04.38 ID:WnNzOexS
ありがとうございます!
さっき気づいたのがいくら思考であれやこれや考えても心がそういう、状態になってないと本当にはそうならないのでこれし始めました↓
心を見張り常に穏やかな状態に静める

↑心が静まっている状態なら何を言われてもふぉっふぉっふぉっみたいな感覚で流せるというか対応出来ると思いました
心が何かに反応して流されてるのが弱みだなと思いました
日々実践して精進して改善します やり方間違っていたり上手くできなかったらまた工夫して変えます

555:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/06/27(月) 16:15:22.44 ID:lVB6M9tW
鬼和尚、キリストは生まれ変わっていますか?
職業などは分かりますか?

556:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/06/27(月) 17:58:41.93 ID:iKjOd/f/
>>552
と、おっしゃいますと、
以前、空海は天にいるとご回答された時分から、最近になって情勢が変わったということですね?
弥勒下生の世が到来した、または、このたび弥勒が下生したと言うことですね?

557:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/06/27(月) 22:45:16.26 ID:MbQd9u8s
>>554 よいことじゃ。
 そのようにして進んでいくならば、悟りもやってくるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>555 何度もうまれかわったのじゃ。
 今はヒーラーじゃな。
 
>>556 そうじゃ、やっときたのじゃ。
 すでに下生していたのじゃ。
 法輪も転じているのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

397:避難民のマジレスさん[]:2022/06/26(日) 23:28:57 ID:D5cVyf3c0 [2/2]
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 204-206 104左/229

  「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象で ある客観は、光と闇のように本性が相反しており、[主・客が]互いに入れ換 わること(itaretarabh?・va)は起りえない。[この事実は]広く認められているので、そ(主観と客観)の諸属性に関しても、互いに入れ換わることはなおさら起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤り(mithy?・)であると[理解するのが]正しい。[にもかかわらず・・・・]

  [反対主張者が]このような(先に紹介したような)考えを抱いて[まず]疑問を提示し、[それに対し、師シャンカラが答えているのが]「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]は[云々の箇所]である。このうち、「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]はから誤りであると[理解するの]が正しいまでが、[反対主張者の]疑問の箇所であり、にもかかわらず以下が、[それに対する]答えの個所である。この[答えの箇所には]にもかかわらず(tath?・ api)と述べられているので、疑問の個所に、たとえ…であっても(yady api)[という語]を[補って]読むべきである。[この箇所は]「私」という観念の対象[である主観]と「これ」という観念の対象[である客観]は、と言うぺきところであるが、[ここで]「汝」[という語]が用いられているのは、[主・客が]完全に異なることを暗示するためである。その典拠は、「『汝』という語は、『私』と いう語と相入れない(pratiyogin)。しかし、『これ』という語はそうではない。何故なら、『これが(ete)私達である。この(ime)私達が座っている』という用法が、よく 見られるからである」と[いう章句にある]。主観(visayin)とは、純粋精神を本質と するアートマンのことであり、客観(visaya)とは、物質を本質とする統覚機能・器 官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)[が対象と呼ばれるの]は、 純粋精神であるアートマンを対象化する(visinvanti)22するからである。[すなわち、 アートマンを]束縛したり、[形態のないアートマンを]自己の形態で規定したりなどするからである。[このように主・客の]本質が完全に相反するところに、相互附託の 起りえない理由があり、[その]例として、光と闇のようにと[述べられているのである]。というのは、光と闇のように明らかに異なる存在(samud?・caradvrttin?・)23か互 いに[相手の]本質を共有しあっていると考えることは、決して誰にもできないから である。[このことが本文中では、主・客が]互いに入れ換わることが起りえないと述べられているのである。[主・客が]互いに入れ換わるとは・[主・客が]互いに[相手の]性質を有すること(itaretaratva)・[主・客の]同一性(t?・d?・tmya)等[の意味]である。[そして]それ(互いに入れ換わること)が起りえない時にというのが、[文の脈略である]。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア-トマンの形相を通 して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22ここでは、対象(visaya)の語源を/vis(束縛する)という動詞から説明しているのである。
23
(´・(ェ)・`)
(つづく)

398:避難民のマジレスさん[]:2022/06/27(月) 10:44:15 ID:mgKnwXpc0
くまなりまとめ1。『パーマティー』序論  1.『註解』冒頭文の趣旨説明 

反対主張 
(一)考察の対象に価しない理由1
1、賢者の考察の対象は、疑問の余地があるものであるべき。ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら、このブラフマンは、疑問の余地が無い。(論理的反対主張)
2、(語源的には、)アートマンが偉大であり(brhatva)、 身体等を成長させる[存在]である(brmhatva)ので、ブラフマンと呼ばれるのであり、身体、感覚、思考等とは異なる。
3、身体、感覚、思考等は、経験を通して観念を介して間接的に知れるものであるが、「私」という「直接経験」は疑いの余地が無い。
4、私という語は、身体の属性を表わす語と同格関係にあるから、その対象が身体である
 というのは誤りである。
 加齢に従い身体は変化するが、

 変化してゆくものの中にあって変わることなく存在するものは、それら変化してゆくものとは異なっている。
 「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく身体中に存在しているので、それはそれら(身体)とは異なっているのである。
 「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。又、器官でもない。
 「私は、以前、視覚を通して物を見ていた。その同じ私が、今、触覚を通して物に触れている」という経験に見られるように、「私」という語(経験)の対象は、用いられる器官が異なっても、再認識されているからである。
 一方、この 「私」という語(経験)の対象が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というのは、統覚機能や思考器官19は、行為する時に用いられる手段であるから、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現に用いられる「私」という語の対象ではありえないからである。従って、「私」という語(経験)の対象が身体等と同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、ある種の比喩的用法だと考えるのが正しいのである。

脚注
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。

  全く自明な「私」という経験によって理解されるアートマンは、「経験」の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。

(ニ)考察の対象に価しない理由2
 アートマンを考察の対象にすることが無意味だからである。
 ヴェーダーンタ側が主張しようとしている考察の意味(目的)は、 輪廻の止滅すなわち解脱である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに人々が開眼しないところにある。 従ってありのままのアートマンが知られれば、輪廻は止滅するはずである。これがヴェーダーンタ側の主張であろう。しかし、この輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識もまた無始である。従って、 これらはたえず共存している。それ故、ありのままのアートマンが知られたところで、どうしてこの輪廻が止減したりしようか。というのは、これらは相反する ものではないからである。また、人々がありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。従って、このアートマンを別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、「私」という自明の経験と反するからである。従って、アートマンとブラフマンの同一性を説くウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と理解するのが正しい。

何やら、説得力のある反対主張と思えてしまうくまであります。
(´・(ェ)・`)ゞ

399:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/06/27(月) 23:07:57 ID:1d4drIFg0 [212/212]
 ↑そのような理解でよいのじゃ。

 それに対する反論として、まずは主客が入れ代わったりしないことをシャンカラは述べているというのじゃ。
 光と闇のように主客はあいいれない性質であるというのじゃ。
 つまりアートマンと、意思とか思考の機能はいれかわることはないというのじゃ。
 相互に依託する事もないというのじゃ。

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