鬼和尚 2022/06/05(日)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
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262:避難民のマジレスさん[]:2022/06/04(土) 21:31:11 ID:Dp/qMVVc0 [3/3]
>>259 ありがとうございます。
信念を養うための実践ですが、「自我は消えても大丈夫」とか「自分はニセモノ」のような言葉を繰り返し唱えてみたのですが、後者の方が抵抗がありました。ということは後者の方が良いということでしょうか。

あと観察も試してみたのですが、難しいです。苦滅の場合、実際に苦が生じる状況を思い出して再現することで順観ができるのですが、自我が消えそうな状況をまだ自由に再現できません。どうすれば観察できるでしょうか?

263:避難民のマジレスさん[]:2022/06/05(日) 22:31:02 ID:e2UfT75Y0 [3/3]
うつで休職中です。
うつの原因は仕事や結婚生活からの逃避と観ました。
この先、どのように観察すればよいでしょうか?

264:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/06/05(日) 23:22:08 ID:1d4drIFg0 [78/78]
>>262 そうじゃろう。
 実践して確かめるのじゃ。

 いつでもありのままに観察するのみなのじゃ。
 そのような状況が起きていない時でも常に観察していれば、自然にできるようになるのじゃ。
 他にもいろいろと気づくことができるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

899:避難民のマジレスさん[]:2022/06/05(日) 20:14:58 ID:932BnNBU0 [1/2]
ラマナ・マハルシとの対話 349

シュリ・シャンカラの識別による救済への道

シュリ・ラマナ・マハルシによる注釈

(『ビジョン』の最新号には、シュリ・ラマナ・マハリシによるシュリ・シャンカラーチャーリャの『ヴィヴェーカ・チューダマニ』または『識別の宝冠』の翻訳に対して彼が書いた序文をS・クリシュナ氏、M.A.が翻訳した、以下の注釈が発表されている。)

この世に存在するすべての者は、悲しみの痕から解放されて常に幸せでありたいと願い、自分の真の本性ではない身体の病を取り除くことを望んでいます。
さらに、誰もが自分自身に対して最大の愛を抱いており、この愛は幸福がない場合には不可能です。
深い眠りの中では、すべてのものがないにもかかわらず、人は幸せであるという体験をします。
しかし、人は幸福そのものである自分自身の真の本性に無知であるために、幸福に至る正しい道を捨てて物質的存在の大海原で彷徨い、この世とあの世の快楽を得ることが幸福になる道であるという誤った信念の下に行動するのです。

安全な道しるべ

しかし、ああ!悲しみの痕のない幸福は実現されていません。
シヴァ神がシャンカラーチャーリャに姿を変えて、この至福の素晴らしさを讃える、ヴェーダーンタの三大聖典(プラスターナ・トラヤ)の解説書を書き、自らの人生の例によってそれを示したのは、まさに幸福へのまっすぐな道を指し示すためなのです。
しかし、これらの解説書は、赦免の至福を実現しようとするけれども、それらを研究する学識のない、熱心な求道者たちにはほとんど役に立ちません。

シュリ・シャンカラが、赦免を求める人々が把握しなければならない点を詳細に説明し、それによって彼らを真正でまっすぐな道へと導くよう、『識別の宝冠』というこの短い論説の中で、解説書の本質を明らかにしたのは、これらのためなのです。

学問は役に立たない

シュリ・シャンカラはこのテーマの冒頭で、人間の誕生を達成することは本当に難しいことであり、人は(それを達成したならば)真に自分の存在の本性である解脱の至福を実現するために努力しなければならない、と述べています。
この至福は、ジュニャーナあるいは知識によってのみ実現され、ジュニャーナは、ヴィチャーラあるいは着実な探究によってのみ達成されます。
この探究の方法を知るために、シュリ・シャンカラは、人はグルの恩恵を求めるべきだと言います。
それから彼は続けて、グルとそのシシュヤ(弟子)の資質、そして後者がどのように師に近づき、仕えるべきかを説明します。
彼はさらに、解脱の至福を実現するためには、自分自身の個人的な努力が不可欠な要素であることを強調します。
単なる書物の学習では、この至福は決して生じません。
それは、探究あるいはヴィチャーラを通してのみ実現され、シュラヴァナあるいはグルの戒律への献身的な注意、マナナあるいは深い黙想、ニディディアーサナあるいは真我への安定した姿勢の養成からなります。

3つの道

粗雑、微細、原因(コーザル)の3つの身体は、非真我であり、非実在です。
真我、または「私」は、それらとは全く異なるものです。
真我ではないものに、真我や「私」という見解を押し付けるのは無知のせいであり、これがまさに束縛です。
無知から束縛が生じるので、知識から解脱が生じます。
グルからこれを知ることが、シュラヴァナです。

5つの鞘(肉体、生気、精神、知性、歓喜)からなる3つの身体を「私」ではないとして拒絶し、その3つの身体すべてとは異なり、そしてアハムまたは「私」としてハートの中で唯一かつ普遍的に存在し、トヴァム(聖典の格言「タット・トヴァム・アシ」─汝それなり)という言葉で示されるもの、── ちょうど草の葉の葉柄が繊細に引き抜かれるように ── それを「私は誰か?」という微妙な問いかけを通して抽出すること、この微妙な探究の過程が、マナナあるいは深い黙想です。

900:避難民のマジレスさん[]:2022/06/05(日) 20:37:12 ID:932BnNBU0 [2/2]
至福

名前と形の世界は、サットまたはブラフマンの付属物に過ぎず、それと異なるものではないことから、そのようなものとして否定され、そしてブラフマン以外の何ものでもないと肯定されます。
真我と至高者の同一性を宣言する、マハヴァーキャである、タット・トヴァム・アシという、グルによる弟子に対する指導がウパデーシャです。
それから、弟子は、絶対者である「私」、アハム・ブラフマンの至福の中に留まるようにと命じられます。
それにもかかわらず、心の古い傾向が厚く強く芽生え、(その至福の状態への)障害となります。
これらの傾向は三重であり、その根源である自我性は、ヴィクシェーパあるいは散逸(ラジャスによる)と、アーヴァラナあるいは包摂(タマスによる)の力によって引き起こされた外在化し分化した意識の中で繁茂するのです。

心を攪拌する

これらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること、そして、 ── アハム・ブラフマスミ(私はブラフマンである)とブラフマ・イヴァーハム(ブラフマンだけが私である)という格言で表される ── アートマンの特徴である真の同質の傾向を、揺るぎない、絶え間ない警戒で呼び起こすことは、ニディディアーサナあるいはアートマーヌサンダーナ、すなわち真我への安住と呼ばれています。
これは、他ではバクティ、ヨーガ、ディヤーナと呼ばれています。

アートマーヌサンダーナは、バターを作るために凝乳を撹拌することに例えられ、心は撹拌棒に、ハートは凝乳に、真我への安住の実践は撹拌のプロセスに例えられます。
ちょうど凝乳を撹拌することによってバターが抽出され、摩擦によって火がつき、 ── 絶え間ない、油の途切れることのない糸状の流れのように ── 真我への揺るぎない油断のない安住によって、自然なあるいは不変のトランス、あるいはニルヴィカルパ・サマーディが生まれ、そしてそれが、知識であり体験であり、時間と空間を超えた、直接の、即時の、妨げられない、そして普遍的なブラフマンの知覚を容易に、自然にもたらすのです。

無限の至福

これが真我実現であり、それによって、フリダヤ・グランティまたはハートの結び目が切り離されます。
この結び目を構成している、無知の誤った妄想や、悪性の長年の心の傾向は、破壊されます。
すべての疑念は払拭され、カルマの束縛は断ち切られます。

このように、シュリ・シャンカラは、この『識別の宝冠』の中で、疑いと二元性を超えた解脱の無限の至福であるサマーディや超越したトランスを説明し、同時に、その達成のための方法を示しています。
この二元性から自由の状態を実現することが、人生の至高善です。
そして、それを勝ち取った者だけが、ジーヴァン・ムクタ(生きている間に解脱した者)であり、プルシャールタあるいは人間の努力の望ましい究極の目的を構成するものについて単に理論的に理解している者ではありません。

最終的な解脱

このように、ジーヴァン・ムクタは三重のカルマ(サンチタ、アーガーミ、プラーラブダ)の束縛から解放されていると宣言されます。
この段階に到達した弟子は、自分の個人的な体験を話します。
解脱した者は本当に好きなように自由に行動し、死すべき体を離れるときに赦免を遂げ、この「死である生」に戻ることはありません。

シュリ・シャンカラはこのように、解脱を含意する実現を、上記のように二重のものとして、すなわちジーヴァン・ムクティ(生きている間の解脱)とヴィデーハ・ムクティ(身体を離れた後の解脱)として説明しています。
さらに、グルとその弟子との対話形式で書かれたこの短い論説の中で、彼は多くの関連する主題を考察しています。

901: さと[sage]:2022/06/05(日) 23:33:54 ID:1d4drIFg0 [405/406]

 これはシャンカラの本の序文だというのじゃ。
 ほぼ悟りへの道の概要を示しているのじゃ。
 苦から逃れるための動機から、観念を捨てて悟りに至る道なのじゃ。
 仏教とも通じる道なのじゃ。

902:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/06/05(日) 23:34:41 ID:1d4drIFg0 [406/406]
上もわしなのじゃ。

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