鬼和尚 2022/05/25(水)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1649249411/

214:避難民のマジレスさん[]:2022/05/24(火) 23:05:14 ID:Uyqn4ylU0 [3/7]
ありがとうございます。
阿頼耶識って間髪をいれず働いているのになぜサマタで観れないんですかね

215:避難民のマジレスさん[]:2022/05/24(火) 23:20:45 ID:Uyqn4ylU0 [4/7]
六識がパラパラ漫画で展開されていて、パラパラ漫画のコマに無明の心の働きがあり、我々はそれに気づかないせいで、本来一元のパラパラ漫画を二元と錯覚してしまう。
サマタは高速で展開されるパラパラ漫画の盲点になっている無明のコマをみるために行う。
って感じで合っていますか?

216:避難民のマジレスさん[]:2022/05/25(水) 19:03:56 ID:Uyqn4ylU0 [5/7]
四禅は一切の受が捨てられる状態で、それはヨーガスートラで言うと
我想三昧(我という思いだけがある)とのことですが、
四禅って微細な感覚も完全に捨てられているんでしょうか?
感覚がない時でも我という実感はあるんでしょうか?
マハルシは胸に私という実感を感じるといっていますが、感覚が無くなったら感じないのでは?と思いました。

220:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/05/25(水) 21:44:34 ID:1d4drIFg0 [63/65]
>>214 今おぬしが自分だと思っているものが、その阿頼耶識で作られた観念であるからなのじゃ。
 そうであるからその観念以上の存在を感知できないのじゃ。
 自分と認識しているものが、観念に過ぎないと気づいて捨てられれば、観ることもできるようになるのじゃ。

>>215 おぬしがそれ゛納得して実践できるならばそれでもよいのじゃ。
 実践できなければ間違いなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>216 受がないのであるからもはや感覚もないのじゃ。
 三昧では我も忘れられているのじゃ。
 
 それは真我なのじゃ。
 全て無として感じることもなく感じるのじゃ。

217:避難民のマジレスさん[]:2022/05/25(水) 20:07:08 ID:Uyqn4ylU0 [6/7]
我想三昧から忘我の三昧までいくには、我を観なくてはいけなくて、そこから対象の無いサマーディ(夢想三昧)にいくには阿頼耶識を観なくてはいけないということは、努力で対象の無いサマーディまでいけば悟りですか?

221:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/05/25(水) 21:46:39 ID:1d4drIFg0 [64/65]
>>217 三昧ですでに我は忘れられているのじゃ。
 対象のないサマーディによって全て観られるのじゃ。
 我も、阿頼耶識も全て観られて大悟徹底なのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

218:避難民のマジレスさん[]:2022/05/25(水) 20:21:26 ID:qnUfmUvw0 [6/6]
いつも教えていただきありがとうございます。
集中力をつけるのは観察ができるようになるためであるとお聞きしております。
目安として具体的にどのような自己観察ができるようになるまで、
集中力をつけることに専念すべきでしょうか?
また、ある程度集中力がないと観察は無駄でしょうか?

219:避難民のマジレスさん[]:2022/05/25(水) 21:20:19 ID:Uyqn4ylU0 [7/7]
あとさっきなんですが、胸に私の魂っていう感覚、実感がすごいしたのでそこに集中、観察したらすっぽり抜けました。
私、魂っていう実感が消えてるんですが、これってただの忘我で元に戻るんですかね?

222:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/05/25(水) 21:52:46 ID:1d4drIFg0 [65/65]
>>218 できれば心の働きがとまる二禅までいくとことが望ましいのじゃ。
 しかし、そこまでいかなくとも雑念が流せて、囚われない位のところでもよいのじゃ。

 悟りへの情熱があれば集中力がなくともできるのじゃ。
 マハリシは集中などはしたことがなかったが悟れたのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

>>219 すでに戻っているのじゃ。
 本当に無我になっていたらもはや書き込むこともないじゃろう。
 さらに実践あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

877:避難民のマジレスさん[]:2022/05/25(水) 19:56:56 ID:UXxPZjRw0
1937年1月23日

ラマナ・マハルシとの対話 338

アメリカ人女性、ジェニングス婦人が以下の質問をした。

質問者
 神を肯定することは、「私は誰か?」という探求よりも効果的ではありませんか?
 肯定はポジティブであるのに対し、他方はネガティブです。
 しかも、それは分離を指し示しています。

マハルシ
 あなたが実現の方法を知ろうとする限り、この助言があなたの真我を見つけるために与えられるのです。
 あなたがその方法を求めていることが、あなたの分離を示しているのです。

質問者
 「私は誰か?」と尋ねるより、「私は至高の存在です」と言う方が良いのではないでしょうか?

マハルシ
 誰が断言するのですか?
 それをする人がいるはずです。
 その人を見つけてください。

質問者
 瞑想は探求より優れているのではないでしょうか?

マハルシ
 瞑想は心的イメージを暗示しますが、探求は実在に対するものです。
 前者は客観的であり、後者は主観的です。

質問者
 このテーマには、科学的なアプローチがあるに違いありません。

マハルシ
 非実在を排除し、実在を追求することが科学的なのです。

質問者
 私が言いたいのは、最初に心の、次に知性の、そして最後に自我の段階的な排除があるに違いないということです。

マハルシ
 真我だけが実在です。
 他のすべては非実在です。
 心や知性はあなた離れたところにあるわけではありません。

 聖書には「静かにして、私が神であると知りなさい」とあります。
 静寂は、神としての真我を実現するための唯一の必要条件です。

質問者
 西洋はいつかこの教えを理解するでしょうか?

マハルシ
 時間と空間の問題はありません。
 理解できるかどうかは、心の成熟度によります。
 東洋に住んでいるか西洋に住んでいるかがどれほど重要だというのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、その女性に 『明かされた真理』のいくつかの連とターユマーナヴァルを紹介した。
彼女は退いた。

その後、シュリ・バガヴァンは、ヴェーダーンタ全体は、聖書の二つの声明に包含されると言った。
「私は私で在るものである」と「静かにして、私が神であると知りなさい」である。

鉄道員であるK.S.N.アイヤール氏は、シュリ・バガヴァンに対して、 『宇宙意識』の編纂者は、個人の一生における一定の年齢制限の範囲内でのみ実現は可能であると考えている、と述べた。

マハルシ
 「私はある年齢の前後に生まれなければならないのだろうか?」と言う人がいるでしょうか?
 彼は今ここにいるのです。
 このような声明は誤解を招きます。
 なぜなら、人々は、今回の転生では真我を実現できないので、別の転生でチャンスをつかまなければならないと信じるようになるからです。
 それはまったく馬鹿げています。

878:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/05/25(水) 23:47:48 ID:1d4drIFg0 [395/395]

 自分が神であるとか、年が合わなければ実現はないとか、それらは逃避に過ぎないのじゃ。
 自我の喪失を恐れるから逃避している観念遊戯なのじゃ。
 今すぐにでも自分を観ることができるならば、実現は可能なのじゃ。
 迂遠な観念遊戯を繰り返す意味はないのじゃ。

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