鬼和尚 2022/04/30(土)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
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96:避難民のマジレスさん[]:2022/04/30(土) 21:38:04 ID:YlWLof520 [1/2]
スマナサーラ長老ってこのままだと死後どこにいくと思いますか?

97:避難民のマジレスさん[]:2022/04/30(土) 21:48:30 ID:YlWLof520 [2/2]
悟るとどうして輪廻しないとわかるのですか?
悟っても将来何が起きるかわからないと思うのですが。

98:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/30(土) 22:14:32 ID:1d4drIFg0 [29/29]
>>96 それほど悪事もしていないから、人間じゃな。
 自分でわかって嘘をついているのではなく、周りから阿羅漢じゃとか言われてその気になっているのであるからのう。
 迷いから迷いにさまよう人間を続けるじゃろう。

>>97 そもそも輪廻するものがないと気づくからなのじゃ。
 輪廻するものがないから、輪廻もないと気づくのじゃ。
 輪廻とは個我であるものが、死んでもまた同じ個我として生まれかわるという概念であるからのう。
 
 個我とか魂とか自性とかが移動するという概念なのじゃ。
 それがないと知れたら、輪廻という移動もないのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

810:避難民のマジレスさん[]:2022/04/30(土) 12:28:28 ID:R4vJvKO60 [1/2]
ラマナ・マハルシとの対話 313

グリーンリース氏
 バガヴァンは昨日、人が「内なる神」の探求に従事している間は、外側の仕事は自動的に進むだろうとおっしゃいました。
 シュリ・チャイタニヤの生涯には、彼は生徒たちへの講義をしながらクリシュナ(真我)を探し求めているうちに、自分の体がどこにあるのか忘れてしまい、クリシュナのことを話し続けたと説明されています。
 このように考えると、仕事は放っておいても大丈夫なのか、という疑問が湧いてきます。
 身体的な仕事に一部でも注意を向けるべきでしょうか?

マハルシ
 真我がすべてです。
 今、私はあなたに尋ねます。
 あなたは真我から離れているのでしょうか?
 真我から離れて仕事は続けられるでしょうか?
 あるいは、身体は真我から離れているのでしょうか?
 どれも真我から切り離すことはできません。
 真我は普遍的なものです。
 ですから、あなたが自発的に従事するかどうかにかかわらず、すべての行為は続いていきます。
 仕事は自動的に進んでいきます。
 真我に注意を向けることは、仕事に注意を向けることを含んでいます。

質問者
 もし私が仕事に注意を向けなかったら、仕事はうまくいかないかもしれません。

マハルシ
 あなたは自分自身を身体と同一視しているので、仕事は自分によってなされるものだと考えています。
 しかし、身体と、仕事を含む活動は、真我から離れたものではありません。

 あなたが仕事に注意を向けるかどうかが、どうしたというのでしょうか?
 例えば、あなたがある場所から別の場所へ歩いたとします。
 あなたは一歩一歩に注意を払っているわけではありません。
 しかし、しばらくすると、あなたは気づくと目的地に到着しています。
 仕事、つまり歩くという行為は、あなたがそれに注意することなく続いていたことに気づきます。
 他の種の仕事についても同じです。

質問者
 では、それは寝ながら歩いているようなものですね。

マハルシ
 全くその通りです。
 子供がぐっすり眠っているとき、母親は子供に食事を与えます。
 子どもは、起きているときと同じように、その食べ物をよく食べます。
 しかし、翌朝、その子は母親に「お母さん!昨日の夜はご飯を食べなかったよ」と言います。
 それでも、母親や周りの人たちは、その子が食べたことを知っています。
 しかし、本人は「食べていない」と言います。
 本人は気づいていませんが、行為は続いていたのです。
 夢遊病は、まさにこの種の仕事の良いアナロジーです。

 別の例を見てみましょう。
 荷車に乗った乗客が眠ってしまいました。
 その旅の途中で、牛は動いたり、立ち止まったり、頚木を解かれたりします。
 彼はこれらの出来事を知りませんが、目を覚ますと違う場所にいることに気づきます。
 彼は途中の出来事について至って無知でしたが、彼の旅は終わったのです。

 人の真我ついても同じです。
 彼は身体の中で眠っています。
 彼の覚醒状態は牛の動きであり、彼の三昧は牛の静止状態です(なぜなら三昧=ジャーグラト・スシュプティであるため)。
 つまり、彼は行為に気づいていますが執着していないのです。
 だから、牛は引き具につながれていますが、動かないのです。
 彼の眠りは牛の頚木を解くことです。
 なぜなら、活動の完全な停止は、牛が頚木から解放されることに相応するからです。

 さらに別の例もあります。
 映画館では、シーンがスクリーンに映し出されます。
 しかし、動画はスクリーンに影響を与えたり、変化させたりはしません。
 見る者は画像に注意を払い、スクリーンを無視します。
 画像はスクリーンから分離することはできません。
 それでもスクリーンの存在は無視されます。
 このように、真我もまた、その上に画像、すなわち行為が進行しているスクリーンなのです。
 人は、前者を無視して、後者を意識しています。
 それでも、彼は真我から離れていません。
 意識していようがいまいが、行為は続いていくのです。

質問者
 映画館にはオペレーターがいますね。

マハルシ
 映画館は非生命の材料でできています。
 スクリーン、画像、照明などは非生命であり、オペレーター、つまり生命意識を持つ行為者を必要とします。
 真我の場合、それは意識そのものですから、必要なものは全て揃っています。
 オペレーターが別に存在することはありえません。

質問者は、上記の回答が示唆するように、自分が身体とオペレーターを混同していないと抗議した。

811:避難民のマジレスさん[]:2022/04/30(土) 12:29:14 ID:R4vJvKO60 [2/2]
マハルシ
 身体の機能は、オペレーターの要求を伴っていることを覚えておかなければなりません。
 なぜなら身体という非生命体には、オペレーター、生命意識を持った代理人が必要だからです。

 人々は自分がジーヴァだと思っているので、シュリ・クリシュナは、神がジーヴァのオペレーターとしてハートに宿っていると言ったのです。
 実際には、ジーヴァもオペレーターもいません。
 真我がすべてを構成しています。
 それはスクリーンであり、画像であり、観客であり、演者であり、オペレーターであり、照明であり、その他すべてなのです。
 あなたが真我を身体と混同し、自分自身を演者として想像することは、観客を映画の画像の中の演者だと述べているのと同じことです。
 画像の中の演者が、スクリーンなしでシーンを演じることができるかどうか尋ねるのを想像してください。
 真我と離れて行為をしていると考えている人はこのようなものです。

質問者
 観客に映画の画像の中で演技をしてくれと頼んでいるようなものです。
 夢遊病が望ましいようですね。

マハルシ
 カラスは、どんなものを見るにも、どちらかの目に虹彩を1つだけ入れるという説があります。
 虹彩はただ1つですが、眼窩はふたつあります。
 その視覚は望むままに操られます。

 また、象は1本の鼻で呼吸をし、水を飲むなどの行為をします。

 また、蛇は見るにも聞くにも同じ器官を使うといわれています。

 同様に、行為や状態も、その人の視点によります。
 眠りながらの覚醒も、覚醒しながらの眠りも、夢を見ながらの眠りも、夢を見ながらの覚醒もほぼ同じです。

質問者
 私たちは、物理的な覚醒の世界で、物理的な身体を扱わなければなりません。
 もし仕事の最中に眠ったり、眠りが襲ってきたときに仕事をすると、仕事がうまくいかなくなります。

マハルシ
 睡眠は無知ではありません。
 それはあなたの純粋な状態です。
 覚醒状態は知識ではなく、無知です。
 睡眠には完全な自覚があり、覚醒には完全な無知があります。
 あなたの真の本性は、その両方をカバーし、それを超えて広がっています。
 真我は、知識も無知も超えています。

 睡眠、夢、覚醒は、真我の前を通過する様態にすぎません。
 あなたが気づいているかどうかに関わらず、それらは進行します。
 それが、覚醒、三昧、深い眠り、夢の状態が通過するジニャーニの状態であり、それは前述したように、乗客が眠っているときに牛が動いたり立ったり頚木を外されたりするようなものです。
 これらの質問は、アジニャーニの観点からのものであり、そうでなければこれらの質問は生じません。

質問者
 もちろん、真我にとってそれらが生じることはありえません。
 そこに尋ねることができる誰がいるというのでしょうか?
 しかし、残念ながら私はまだ真我を実現していないのです。

マハルシ
 それこそが、あなたの道を阻んでいるものです。
 あなたは、自分がまだ真我を実現していないアジニャーニであるという考えを捨てなければなりません。
 あなたは真我なのです。
 一時でも、あなたが真我から離れていたことがあったでしょうか?

質問者
 つまり、それは夢遊病、あるいは白昼夢の実験なのです。

バガヴァンは笑った。

812:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2022/04/30(土) 22:52:57 ID:1d4drIFg0 [368/368]

 マハリシは仕事をしている時でも真我に注意を向けるようというのじゃ。
 全ては真我であるからというのじゃ。
 自分が仕事をしているという思いがあれば、自我の強化になってしまうのじゃ。
 肉体が自動的に仕事を処理していく過程を見守るのじゃ。
 そうすれば仕事によって修行も進んでいくのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

386:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/30(土) 22:07:46 ID:1d4drIFg0 [206/206]

 まとめなのじゃ。

 この論は大乗の教えを総じて説いたものじゃ。
 そうであるから時々二乗が劣っていると、書いてあるが妄想であるから捨てて善いのじゃ。

 この論で重要なのは真如というものが衆生にあると説いたところなのじゃ。
 全ての観念を捨てれば、真如に至れると実践の法も教えているのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

 全ての衆生に真如はあるのであるから、自分は悟りを得られないのではないかとか、思わなくて善いのじゃ。
 真如は心の奥底にあり、観念がなければ誰でもたどり着けるのじゃ。

 そして真如は不空であり、大きな功徳があるというのじゃ。
 大抵の大乗の経論等には、空の法を説いているから、全ては空と説くのじゃ。
 しかしこの論では、空とはただ執着や観念を捨てるための方便であるというのじゃ。
 その方便によってたどり着いた、真如は空ではなく、大きな功徳があると言うのじゃ。

 その功徳とは当然ながら悟りの功徳なのじゃ。
 一切の苦から逃れ、永遠の喜びに回帰する大きな功徳なのじゃ。
 それがこの論で最も記憶すべき重要な教えといえるのじゃ。

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