鬼和尚 2022/04/27(水)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1649249411/

86:避難民のマジレスさん[sage]:2022/04/27(水) 00:58:40 ID:K08fOcCE0
>>84
動植物虫界の共生とはロボットが設定されたプログラムに従って他に仕えることでしょう。
鮭が産卵後河を骸だらけにするのも
熊が狩った餌を残すのも
虫が鳴くのも
食べ物を探すのも
長距離を移動するのも
ビーバーがダムを作るのも
何をどの様に補食するのかも
強い遺伝子を残す為に闘争するのも
彼らが自己の為にやっている様に見えても
それが彼らの意思であっても
その本質は肉体やシステムを創造したクリエイターが決めたプログラム通りに働いているだけです。
他と闘い食い殺しても別の被造物の利益に必ず直結している故に他の為と創造主の為に仕えていると言えます。
人類が存在しない場所でもそれは既に変わらない事実です。

家畜の世界はあからさまです。
家畜は人間に仕える用に作られた動物です。
それは品種改良などではなく1からという意味です。
彼らはバイクであり車であり、コンバインでありクレーン車、戦車、兵隊です。
馬には人を乗せる仕事の為にインターフェースが設定されてます。
犬が群隊の序列に人間を含めるのは彼らが人に仕える兵隊だからです。
庭鳥が飛べず、無精卵を産むのも人の為、
象や牛も同様です。
家畜な関しては搾取の言い訳にはあたりません。人類ありきの動物です。


客観的に観察すれば解る事です。
むしろ一般的に言われている常識こそ人間中心に考えられた片寄った狭い了見です。
恐竜ですらその幾つかのデザインから当の時代に人類が居た事が導きだせます。

卵と鶏どちらが先か?
仕事が先で形が次ということです。


ロボットが命令プログラム通りの行動をしてそれが悪というのなら、
常に傷つけ合うシステムや肉体の創造主こそ悪なのではないのですか
その悪をやめる選択はロボットには設定されてないのですから。

そして法に善悪がないのならば悪こそ、自分があるから存在する概念、
特定の状態の安定に対する影や不都合に付けた名前と分類なのではないのですか。

しかしまぁ、宇宙五分前仮説が真理なら全てはゴミグズで覆るワケですが。

87:避難民のマジレスさん[sage]:2022/04/27(水) 12:23:42 ID:aMk4njgI0 [2/3]
>>85
ありがとうございます。
思いがけない言葉をいただいて、これから何回も読み返して、考えてみます。

88:避難民のマジレスさん[sage]:2022/04/27(水) 12:45:59 ID:aMk4njgI0 [3/3]
最初の3行に、人のせいではなく、自分の問題なのだとハッといたしました。

89:83[sage]:2022/04/27(水) 18:51:31 ID:kRdzYdak0
>>85
鬼和尚さん、安心できました。
さらに練習を続けます。
ありがとうございます

91:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/27(水) 23:57:52 ID:1d4drIFg0 [26/27]
>>86 そのクリエイターというのを観察すると善いのじゃ。
 どのような色形わしているのかとか。
 男なのか女なのかとか。

 なぜ人類ありきの動物とか思うのか、自分の心を観察して滅するのじゃ。

 客観的に観察すれば解る事じゃ。
 人類ありきの動物というのが人間中心に考えられた片寄った狭い了見であると観るとよいのじゃ。

 創造主というのが居ると思うならば、なぜそのような妄想をもつのか、自分の心を観察して滅するとよいのじゃ。

>>87>>88 そうじゃ、実践して確かめるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>89 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

90:避難民のマジレスさん[sage]:2022/04/27(水) 20:36:24 ID:h5P9mv0k0
善行と悪行を同じくらいの比率でしてきた人間が、すこしだけ多めに善行をして死んだ場合、天に行けるのでしょうか?
そんなに甘い話ではないのですか。
また人間に生まれて同じような事を繰り返し、そして苦しんで死んでいくのを延々と繰り返していくのでしょうか。

92:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/27(水) 23:59:48 ID:1d4drIFg0 [27/27]
>>90 その位では無理じゃろう。
 人になるだけじゃな。
 少しは環境がよくなる程度なのじゃ。
 
 人として生まれたチャンスを生かして、自分を追及し続ければ輪廻から抜け出ることもできるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

803:避難民のマジレスさん[]:2022/04/27(水) 07:08:37 ID:OSx.b5H.0
ラマナ・マハルシとの対話 310

グリーンリース氏
 10月にこのアーシュラマムを去った後、私は10日間ほどバガヴァンの平安に包まれていることに気づきました。
 仕事に追われている間じゅう、その一体感の平安が奥底を流れていたのです。
 それは、退屈な講義で半分眠っているときの二重意識のようなものでした。
 そして、それは完全に消え去り、代わりに以前の愚かさが戻ってきたのです。

 仕事が、瞑想する時間を残してくれません。
 常に「私は在る(I Am)」を思い出し、実際に仕事をしながらそれを感じようとすることで、十分なのでしょうか。

マハルシ
 それは、心が強くなったときに、常にできるようになります。
 繰り返し修練することで心が強くなり、そのような心は流れにつかまることができるようになります。
 その場合、仕事に従事していようがいまいが、流れは影響を受けず、途切れることはありません。

質問者
 別の瞑想はまったく必要ないのですか?

マハルシ
 瞑想は、今のあなたの真の本性です。
 あなたがそれを瞑想と呼ぶのは、他の想念があなたの気を散らしているからです。
 これらの想念が払い除けられたとき、あなたは一人、つまり想念から解放された瞑想の状態にとどまるのです。
 そして、それこそが、あなたが今、他の想念を遠ざけることによって得ようとしている、あなたの真の本性なのです。
 このように他の想念を遠ざけることが今、瞑想と呼ばれています。
 修練がしっかりしたものになると、真の本性がそれ自身を真の瞑想として顕わします。

 あなたが瞑想しようとすると、他の想念がより力強く生じるのです。

すぐに他の数名が質問を一斉に唱えた。

シュリ・マハルシは続けた。

マハルシ
 そうです、瞑想中にはあらゆる種類の想念が生じます。
 それはまったく正しいことです。
 あなたの中に隠れているものが引き出されるのです。
 それらが浮かび上がってこない限り、どうして破壊されうるのでしょうか?
 それゆえ、それらは、やがて消滅させられるために自然に浮かび上がり、このようにして心を強くするのです。

訪問者
 すべてはブラフマンであると言われています。

マハルシ
 そうです、すべてはブラフマンです。
 しかし、あなたがそれらが分離していると考える限り、それらは避けられなければなりません。
 一方、それらが真我であることが分かれば、「すべて」と言う必要はありません。
 なぜなら、存在するものはすべてブラフマンだけだからです。
 ブラフマンの他には何もありません。

質問者
 リブ・ギーターは、非常に多くの対象を非現実であると語り、最後に、それらはすべてブラフマンであり、したがって現実であると付け加えています。

マハルシ
 そうです。
 あなたがそれらを非常に多くのものとして見るとき、それらはアサット、すなわち非現実です。
 しかし、あなたがそれらをブラフマンとして見るとき、それらは現実であり、それらの基質であるブラフマンから現実性を引き出しているのです。

質問者
 なぜウパデーシャ・サーラムは、身体などをジャダ、すなわち非生命だと語っているのですか?

マハルシ
 あなたが、それらは真我から離れた身体などであると言う限りにおいてです。
 しかし、真我が見いだされれば、この身体なども真我の中にあることがわかります。
 その後、誰もその質問をしなくなり、誰もそれらが非生命であるとは言わなくなります。

質問者
 ヴィヴェーカは、真我と非真我を識別することだと言われています。
 非真我とは何ですか?

マハルシ
 実は、非真我というものはありません。
 非真我は真我の中にも存在します。
 真我が非真我のことを語るのは、自分自身を忘れてしまったからです。
 それは自分自身を見失ってしまったので、結局のところ自分自身以外の何ものでもないものを非真我と思い込んでいるのです。

こうして、諸説の主唱者たちの議論は白熱した。

804:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2022/04/28(木) 00:03:47 ID:1d4drIFg0 [365/365]

 瞑想とは真の本性以外の想念を遠ざけることだというのじゃ。
 最初は想念がいろいろと浮かんでくるが、瞑想を続けていれば全て滅して行くのじゃ。
 そして思考に隠されていた真の本性も観えてくるのじゃ。
 それが全てであるブラフマンなのじゃ。
 全てのものごとは全く同じ本性をもっているからなのじゃ。
 自分自身にあるその本性を追求することで、全ての本性も見出せるのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

378:避難民のマジレスさん[]:2022/04/26(火) 23:32:36 ID:GrWkzV0M0
41.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号43-44)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲大悲觀   

 如是當念一切衆生從無始時來皆因無明所薫習故令心生滅巳受一切身心大苦現在即有無量逼迫。未來所苦亦無分齊難捨難離而不覺知衆生如是甚爲可愍

     是くの如く當に念ずべし。「一切の衆生は、無始の時より來(このかた)、皆無明に薫習せらるるに因るが故に、
    心をして生滅せしむ。巳(すで)に一切の身心の大苦を受け、現在に卽ち無量の逼迫有り、未來の所苦も亦分
    齊無く、捨し難く離し難くして、而も覺知せず。衆生は是くの如く、甚だ愍(あはれ)むべしと爲す」と。

▲大願觀   

 作是思惟即應勇猛立大誓願。願令我心離分別故?衆於十方修行一切諸善功徳。盡其未來。以無量方便救拔一切苦惱衆生令得涅槃第一義樂

     作是(こ)の思惟を作(な)し、卽ち應に勇猛に大誓願を立つべし。「願はくは、我が心をして、分別を離れしむる
    が故に、?衆(あまね)く十方に於て、一切の諸善功徳を修行し、其の未來を盡し、無量の方便を以て、一切の苦
    惱の衆生を救拔(くばつ)し、涅槃第一義の樂を得せしめん」と。

▲精進觀  

 以起如是願故於一切時一切處所有衆善。随巳堪能。不捨修學心無懈怠 
 唯除坐時專念於止若餘一切悉當觀察應作不應作 
 若行若住若坐若臥若起皆應止觀倶行 所謂雖念諸法自性不生而復即念因緣和合善悪之業苦樂等報不失不懷。雖念因緣善悪業報而亦即念性不可得。

     是(かく)の如きの願を起すを以ての故に、一切の時・一切の處(しょ)に於て、有らゆる衆善、己(おのれ)が堪能
    (かんのう)に随って、修學するを捨せず、心に懈怠無し。
     唯坐する時のみ專(もっぱ)ら止を念ずるを除く。若し餘の一切にも、悉(ことごと)く當(まさ)に、應作と不應作とを
    觀察すべし。 
     若くは行、若くは住、若くは坐、若くは臥(ぐわ)、若くは記、皆止と觀とを倶(とも)に行ずべし。所謂、諸法の自性
    は、不生なりと念ずと雖も、而も復(また)、卽ち因緣和合する善悪の業・苦樂等の報は、不失不懷(ゑ)なりと念
    ず。因緣善悪の業報を念ずと雖も、而も亦、卽ち性(しょう)は不可得なりと念ず。
 
 若修止者對治凡夫住着世間能捨二乘怯弱之見。
 若修觀者對治二乘不起大悲狹劣心過遠離凡夫不修善根 
   
     若し止を修すれば、凡夫の、世間に住著するを對治し、能く二乘怯弱(こにゃく)の見を捨す。     
     若し觀を修すれば、二乘の、大悲を起さざる狹劣(けふれつ)の心過を對治し、凡夫の、善根を修せざることを
    遠離す。

 以是義故是止觀二門共相助成不相捨離若止觀不具則無能入菩提之道

     是の義を以ての故に、是の止と觀との二門は、共に相助成(あひじょじゃう)して、相捨離せず。若し止と觀と具
    (そな)はらざれば、則ち能く菩提の道に入ること無し。

(´・(ェ)・`)b

379:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/28(木) 00:26:23 ID:1d4drIFg0 [201/202]
 このように念じるのじゃ。

 「一切衆生は始まりもない昔から無明に薫習されているから、心をして生滅させるのじゃ。
  すでに一切の心身の大きな苦痛を受けて、現在にも無量の逼迫があるのじゃ。
  未来に受けるであろう所の苦も限界なく、、捨て難く、遠ざけることも難しく、知覚もできないのじゃ。
  衆生はこのようにとても哀れむべきもの」

 このように思って勇猛に大誓願を立てるのじゃ。
 
 「願わくばわが心が分別を離れるが故に、遍く十方において一切の諸善功徳の法を修行し、
  未来の尽きるまで、無量の方便をもって、苦悩の衆生を救済し、涅槃第一義の楽を得させよう」

 このような誓願をすれば、どんな時や所でも自分が出来る限りのあらゆる善行と修学を捨てず、怠け心もなくなるのじゃ。

380:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/28(木) 00:35:20 ID:1d4drIFg0 [202/202]

 ただ座禅する時のみ止の行をするのは除くのじゃ。
 他の時にはことごとく自分のしたことやしなかったことを観察するのじゃ。

 行住坐臥や話すときに皆止観をともに行じるのじゃ。
 いわゆる諸法の自性は、不生であるがまた因縁和合する善悪の業、苦楽の報いは失うことも壊れることもないと念じるのじゃ。
 因縁善悪の業の報いを念じるといっても、なおまたまた性は得られるものではないと念じるのじゃ。

 もし止を修行すれば、凡夫の世間に住み執着することを退治して、二乗の怯弱い見解をすとるのじゃ。
 もし観を修行すれば、二乗の大悲を起こさない狭く劣った心の過失を退治して、凡夫が善根を修行することもできるのじゃ。

 このような意義があるから、この止観の二門は、共に相助成して、相捨離することもないのじゃ。
 もし止観を修行しないならば、悟りの道に入ることも出来ないのじゃ。

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