鬼和尚 2022/04/19(火)

鬼和尚に聞いてみるスレ part20
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1649249411/

55:避難民のマジレスさん[sage]:2022/04/19(火) 06:20:48 ID:czRftzgI0
「自分がないということは、自分で何もしていない、つまり思考や体が機械のように勝手に作動している。この世の出来事も整然と起きているだけ。自分がないから、偶然も失敗もない(失敗すべき主体がない)から、この世界は完璧に進行している」
という理解でいいですか?

56:避難民のマジレスさん[]:2022/04/19(火) 06:32:54 ID:ehQV/BTA0 [13/14]
でも目に見えるものは継続してあるんですよね?
例えば壁を見ながら無色界禅定に入ったとしたら壁は見えてる状態のまま肉体感覚がなくなるってことですよね?

壁として見えていたものすらなくなるわけではないですよね?

57:みかんちゃん[]:2022/04/19(火) 09:27:22 ID:va058Wp60
>>55
みかんちゃんもこれに関して時々感じるのは、
悟ればきっと世界は思い通りになると同時に
世界で起こってることがそもそもみかんちゃんの思いであり、世界とみかんちゃんに違和感は生じないのだろうと思います。

58:避難民のマジレスさん[]:2022/04/19(火) 12:39:26 ID:NU9Prn3E0
鬼和尚は大衆部と上座部をわけることになった大天の五事についてどう思いますか?
(引用)
釈尊の没後 100年頃,大天の唱えた五ヵ条の異議のこと。
五事とは,次の5つをいう。

天魔に誘われた時は阿羅漢も不浄の漏失を免れない
阿羅漢には不染汚無知というものがある
阿羅漢にも世間的な疑惑はある
真実、苦しいと叫ぶことから聖道が生じる
他令入──阿羅漢でもみずからは阿羅漢となったことを知らず,必ず他人が汝はもう阿羅漢の位に入ったと悟らせてくれて,初めて自分が阿羅漢であることを知る。

上座部の長老たちはこれを妄語としたため,五事を認める人たちが一派をなして大衆部を立てたといわれる。

61:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/19(火) 23:31:38 ID:1d4drIFg0 [16/17]
>>55 そのような理解で善いのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>56 それは壁として見えるものではなくなるのじゃ。
 意識として感じるのじゃ。
 全てが意識として広がっていることを感じるのみなのじゃ。

 それが形の観念を離れた境地なのじゃ。

>>58 確かに妄語なのじゃ。

 無漏になったのが阿羅漢なのじゃ。
 有漏であったらそもそも阿羅漢ではないのじゃ。

 知識もまた観念の中のものなのじゃ。
 観念を離れれば知識も要らないのじゃ。

 世間そのものがないのじゃ。

 苦しいだけではいかんのじゃ。
 実践するのじゃ。

 悟ったら自分でわからない筈はないのじゃ。
 それが究極の境地であると智慧が教えるのじゃ。

59:避難民のマジレスさん[sage]:2022/04/19(火) 21:22:56 ID:WNsBG/Iw0
>>47
46ですが、
どのようにすればそうなりますか?

60:避難民のマジレスさん[]:2022/04/19(火) 23:12:08 ID:.tofT0a20 [3/3]
知恵の完成というものは、例えば私の知恵が完成したとか、私の知恵が働く、のような主体はないですよね

62:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/19(火) 23:37:00 ID:1d4drIFg0 [17/17]
>>59 なるのではないのじゃ。
 今のおぬしの能力を引き出すのじゃ。
 
 おぬしは引き寄せができるというのであるから、その力を伸ばせばよいのじゃ。
 まずは引き寄せの力を強いものにすることを、引き寄せるのじゃ。
 それからいろいろ引き寄せるとよいのじゃ。
 あと六日で引き寄せるのじゃ。

>>60 そうじゃ、それこそ真の智恵の完成なのじゃ。
 主体があればまだ智恵は完成していないのじゃ。
 実践して完成を目指すのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

786:避難民のマジレスさん[]:2022/04/19(火) 06:25:07 ID:1s9vYmVk0
ラマナ・マハルシとの対話 302

トゥリチから来たある若者が、ウパデーシャ・マンジャリの中で熟達した弟子の資格としてアティヤンタ・ヴァイラーギャム(完全なる無執着)が述べられていることについてシュリ・バガヴァンに質問し、尋ねた。

質問者
 ヴァイラーギャとは何ですか?
 世俗的な物事から離れ、解脱を欲すること。
 そうではないですか?

マハルシ 
 誰がそれを得ていないのですか?

 人はそれぞれ幸福を求めますが、苦痛に伴う快楽を幸福と誤解しています。
 そのような幸福は一過性のものです。
 誤った行為は、つかの間の喜びを与えます。
 世界には苦痛と快楽が交互にやってきます。
 苦痛を生むものと喜びを生むものとを識別し、幸福を生みだす追求だけに専念することがヴァイラーギャです。
 苦痛を伴わないものとは、いったい何でしょうか?
 人はそれを求め、それに従事します。
 そうでなければ、この世に片足を突っ込み、もう片足を霊的な追求に突っ込むことになります(どちらの領域でも満足に進歩しない)。

グルの役割についてまた質問が出た。

マハルシ
 人は自分自身ではどうすることもできず、自分があまりにも弱いことを知り、グルの形をとったより強い力を求めるのです。

787:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2022/04/19(火) 23:20:18 ID:1d4drIFg0 [357/357]

 苦痛から逃れ、快楽を得ようとするのは生物の根源的な欲求なのじゃ。
 それは全ての衆生に備わっている本能なのじゃ。
 そうであるから悟りを求めるのも、苦から離れて永遠の喜びを求めるのであるから全ての衆生がもっている欲といえるのじゃ。
 ただ悟りの道が本当に一切の苦から逃れる道で在ると、確かに知らないから俗世の欲を求めてしまうのじゃ。
 正しい知識があれば、誰もが悟りを求めるのは当然なのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

356:避難民のマジレスさん[]:2022/04/19(火) 15:49:10 ID:64/cpPPY0
32.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号33-34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 菩薩發是心故則得少分見於法身。以見法身故随其願力。能現八種。利益 衆生。所謂從兜率天。退人胎住胎出家成道轉法輸入於涅槃

     菩薩、是の心を發(おこ)すがに、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、    其の願力に随ひ、能く八種を現じて、衆生を利益す。所謂、兜率天(とそつてん)より、退し、      
    人胎(にったい)・住胎(ぢうたい)し、出家成道して、法輸を轉じ、涅槃に入る。

 然是菩薩未名法身以其過去無量世來有漏之業。未能決斷。随其所生與微苦相應。亦非業?壓。以有大願自在力故

     然れども、是の菩薩は、未だ法身(ほっしん)と名づけず。其の過去無量世來(このかた)有漏 
    の業、未だ能く決斷せず、其の所生(しょしゃう)に随って、微苦(みく)と相應す。亦業?壓(ご 
    うけ)に非ず。大(だい)願自在力有るを以ての故なり。

 如修多羅中 或説有退堕悪趣者非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令彼勇猛故

     修多羅の中(うち)に、或(あるひ)は悪趣に退堕する有りと説く如きは、其の實退に非ず。但 
    (ただ)初學の菩薩、未だ正位に入らずして、懈怠するを、恐怖(くふ)せしめ、彼をして勇猛 
    (ゆうみゃう)ならしめん爲の故なり。

 又是菩薩一發心後遠離怯弱畢竟不畏堕二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱以信知一切怯從本巳來自涅槃故

     又此の菩薩、一たび發心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(をんり)し、畢竟じて二乘地に堕 
    するを畏れず、又無量無邊阿僧祇劫に、勤苦(ごんく)難行して、乃(すなは)ち涅槃を得と聞く 
    も、亦怯弱(こにゃく)ならず。一切の法は、本より巳來(このかた)自(おのずか)ら涅槃なりと 
    信知するを以ての故なり。
(´・(ェ)・`)b

357:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/04/20(水) 00:07:41 ID:1d4drIFg0 [188/188]

 このような方便を持つことのできる菩薩は、少し法身を見ることができるのじゃ。
 法身を観ることができるから、その願力に従って、八種の如来の生涯のできごとを表して衆生を助けられるのじゃ。
 その八種とは、兜卒天から降りて、胎に入り、胎の中で成長して、生まれて、出家して、悟りを得て、法輪を転じて、涅槃に入るのじゃ。
 
 しかしこのような菩薩もまだ法身とは名づけられないのじゃ。
 その過去の無量の生の有漏の業はまだ断たれておらず、その生まれに従って僅かな苦をうけるのじゃ。
 
 それは業に縛られたからではないのじゃ。
 大願自在法力があるからなのじゃ。

 経典の中に、或いは悪趣に堕ちる者もあると、説いているのは実は堕ちたのではないのじゃ。
 ただ初学の菩薩でまだ、正式な道に入っておらず怠ける者がいるから恐れさせて勇猛にさせるためなのじゃ。

 またこの菩薩は、一度発心して後には怯弱を厭離して、二乗に堕ちることを恐れないのじゃ。
 また無量無辺阿曽祇劫という長年月も実践修行して、涅槃を得ても怯弱ではないのじゃ。
 一切の法はもとよりこのかた、自ら涅槃で在ると信じ、知っているからなのじゃ。

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