鬼和尚 2022/03/24(木)

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】  33 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597157592/

970:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/03/24(木) 13:58:51.52 ID:yaFU1ZXI [1/2]
鬼和尚も四回目の接種に行きますか?
後何十回でも打てと言われたら打ちますよね?

971:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/03/24(木) 14:02:04.48 ID:yaFU1ZXI [2/2]
鬼和尚はなぜお仕着せの新しい生活様式なんかに賛成なのですか?

972:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/03/24(木) 23:05:15.68 ID:kTEhizGq
>>970 打てといわれれば打つじゃろう。
 それも衆生の不安をしずめるためなのじゃ。
 
>>971 それも衆生の不安をしずめるためなのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 55
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1643336428/

191:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/03/23(水) 09:53:54.46 ID:Gf9Ql3bt
鬼和尚、私には「気」の流れが大体分かります。
気の流れの悪い所や家は、殆んど必ずと言っていいほど禍(わざわい)が起こります。

早く病気で亡くなったり、集中豪雨の時に床上浸水したり、横の堤防が切れて家が破壊
されたり、事故にあって亡くなったり、お金を横領してその家に住めなくなったり、
悪い事が起こります。

ちょっと工夫して気の流れが良くなる場合は、アドバイスをして直してもらいます。
でも、家を他の場所に移し替えるなんて事は簡単には出来ないので、何も言いません。

簡単に改善できない場合、放って置くしかありません。
なので、多少の罪悪感があります。
私はどうすればいいのでしょうか? 何かに役立てればいいのですが。

192:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2022/03/23(水) 20:17:02.37 ID:iooouN6h
生まれつき慈悲深い人々は、前世の影響でそうなったのでしょうか?
もしその場合、彼らはどのような前世だったと考えられますか?

193:おさかなくわえた名無しさん[]:2022/03/24(木) 06:59:15.59 ID:yXDQBiys
鬼和尚、>>191をお願いします。

196:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/03/24(木) 23:08:21.77 ID:kTEhizGq
>>191 何もしないで善いのじゃ。
 自分をどこまでも追求するとよいのじゃ。
 それだけがこの世の人間が安楽になるための修業なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>192 そう言えるじゃろう。
 慈悲深くあろうとしたのじゃな。
 そうであるから今の生でも慈悲深くなったのじゃ。
 おぬしも精進あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

743:避難民のマジレスさん[]:2022/03/23(水) 23:41:58 ID:qDqxAQJQ0
137.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)~SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3
死と死ぬこと(4)

Q:真理でないものは「今ここ」にはない!
 
 確かにそうだ、一度ロープは蛇ではないと知ったなら、たとえ努力してもそれを蛇だと想像するのは難しい。しかも、ロープは決して蛇に変化しなかった。

 それは全てあなたの想像であった、蛇を殺そうと掴んだ石や棒も含めて。自分自身でそれがロープだと確かめなさい。静かにして全ての概念、意図を切り捨てなさい。

Q:私の父の死は私を深い沈黙に連れて行き、私の母は踊るようにして死んで行きました。彼女が彼女の肉体に「さようなら」と言った時、私達は一つの愛として燃えていました。二人の死は大きな愛と自由を私に与えてくれました。あなたといることがこれを思いださせてくれます。パパジ、どうか美しい死の秘密を話して下さい。

 人が完全に意識して死ねるとは、身近な人に別れを告げて死んで行けるとは、何とすばらしい死か!これは大変美しいことだ。ほとんどの人は執着の為に泣き苦しんで死んで行くものだ。

 死に際に何かに執着しているとそれは非常に痛々しい。棘のついた藪から布をはぎ取るようなものだ。執着の棘がマインドの布に付着して、苦痛を引き起こすのだ。

 しかし執着のない稀な人は、ただ呼吸が止まったと感じるだけだ。このように彼は何も苦痛を感じない。ただ呼吸が止まる、それで終わりだ。彼らはこの宇宙から美しく去ってゆく。動物でさえ、この美しい死を経験することができる。

 昔、三人の妻と五人の子供を持った雄象が湖に水浴びに行った。彼が湖に入るや否や巨大なワニが彼の足にかぶりついて引っ張り始めた。彼は妻達や子供達に向かって助けを求めたが、彼らはただ立ちすくんで見ているだけだ。

 彼はどんどん深い水の中に引っ張られて行った、最後の一息の為に鼻を水面から上に伸ばした時、一輪の蓮の花を見た。彼はそれを鼻で摘んで、未知の誰かに助けを求めてその花を差し出した。空に向かって助けを求めた。

 さてその時、象が夢にも見たことのない人が突然現れて、ワニの顎を砕いて象を助けた。象は湖の岸辺に戻って来たが、子供達や妻達とは言葉を交わさず、一人で森の中に入って行った。

 彼が執着していたのもは何の役にも立たないと悟って、彼は決して戻ってこなかった。死後、彼は天国に行ったという話だ。最後の願い、最後の一息があれば神はその人を助けることができる。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

744:鬼和尚 ◆01mzPGVdXo[sage]:2022/03/24(木) 22:54:26 ID:1d4drIFg0 [337/337]

 死は執着がなければ悲しむことでもないのじゃ。
 ただ変化があるだけなのじゃ。
 意識は消滅しないのじゃ。
 常にいまここにあるものじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

285:避難民のマジレスさん[]:2022/03/24(木) 00:08:35 ID:qDqxAQJQ0
6.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号7-8)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29-30)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●第一 心眞如門

心眞如者。卽是一法界大總相法門體。
所謂心性不生不滅。
一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念則無一切境界之相。
是故一切法從本已來。離言説相。離名字相。離心緣相。畢竟平等無有變異。不可破壊。唯是一心故名眞如。
以一切言説假名無實。但隋妄念不可得故。言眞如亦無有相。
謂言説之極。因言遺言。
此眞如體。無有可遺。以一切法悉皆眞故。亦無可立。一切法皆同如故。
當知一切法。不可説不可念。故名爲眞如。

   心眞如とは、卽ち是一法界大總相法門の體なり。
   所謂心性は不生不滅なり。
   一切の諸法は、唯妄念に依って差別(しゃべつ)有り。若し心念を離るれば、すなはち一切境界の相無し。
   是の故に、一切法は本(もと)より已來(このかた)、言説(ごんせつ)の相を離れ、名字の相を離れ、心緣の相を離れ、
  畢竟平等にして、變異有ること無く、破壊すべからず。唯是れ一心なり。故に眞如と名づく。
   一切の言説は、假名(けみゃう)にして實無く、ただ妄念に随って、不可得なるを以ての故に、眞如と言ふも、亦相
  有ること無し。
   謂はく、言説の極(ごく)、言(ごん)に因って言を遣(や)る。
   此の眞如の體は遺(や)るべき有ること無し。一切の法は、悉(ことごと)く皆眞なるを以ての故に。亦立つべき無し。
  一切の法は皆同じく如(にょ)なるを以ての故に。
   當(まさ)に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからず、故に名づけて眞如と爲す。

問曰。若如是義者。諸衆生等云何隨淳而能得入
答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念是名隨順。若離於念。名爲得人。

   問うて曰はく、若し是くの如き義ならば、諸(もろもろ)の衆生等(とう)は、云何(いかん)が隨順し、而も能く得入(とく 
  にゅう)せん。
   答へて曰はく、若し、一切の法は、説くと雖も能説の説くべき有ること無く、念ずると雖も亦能念の念ずべき無しと
  知らば、是を隨順と名づく。若し念を離るれば、名づけて得人と爲す。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 眞如門:初に、その本體を擧示す。眞如は、もと、吾人の言語思慮を絶したるものにて、唯自ら證悟して始めて知る 
べき所なるを、假に消極的言説を洩って其の一斑をあらはさんとするが、此の一段なり。故に慈(ここ)に説く所を稱して離言眞如といふ。
 一法界大總相法門:平等無二にして、出世見間の聖法も、之を基として起こるが故に、法界(聖法の源)といひ、此の中一切の諸法を含有するが故に大と呼び、生滅門を別相門といふに對して眞如門を總相門とす。
 心性:衆生一心の本性。之は迷ふと悟るとに於て、生ずる事も滅する事もなし。
 妄念:通常吾人の有する思慮をいふ。佛陀の心識の澄浄(ちょうじょう)なるに對していふなり。妄心
 心念:心とは吾人の有する心。念とは、この心の差別的にはたらきをいふ。妄念・相對的の思慮
 無一切境界之相 :我他 彼此(がたひし)等と差別する如き執着なく、随って、一切の境界を差別することなし。
 心緣:思慮といはんが如し。
 ~不可得:總ての言語は吾人の相對的の心によって與へたるものなる故、絶對の説明に契當すべからざるをいふ。
 謂言説之極。因言遺言。此眞如體。無有可遺。:眞如てふ(と言う)名は、あらゆる相対的名字を拝して最後に穢たる(言説の極)なれば、この眞如という名(言)に因って、總ての他の差別的言説を否定し(遣る)たるなり。
 遣る:否定するなり。
 立つ:相対的言説を以て説くをいふ。
 随順:眞如の妙理に随順するなり。
 得入:悟入と云はんが如し
 能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
(´・(ェ)・`)b

286:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2022/03/24(木) 23:37:17 ID:1d4drIFg0 [148/148]
一つ目の心真如門の解説なのじゃ。

 心眞如とはこれは一法界大総相法門の体だというのじゃ。
 つまり全ての法の本体だというのじゃ。
 これこそが真の法であり、他の法は方便であるとも言えるのじゃ。

 しかしそれを解き明かすことは困難なのじゃ。
 それは言葉を離れたものであるからのう。
 故に方便の法も説いているのじゃ。

 心性は不生不滅とは真如であるからなのじゃ。
 一切の法は妄想であれこれと差別があるというのじゃ。
 もし観念を離れれば一切の境界の相はないというのじゃ。
 全てが一つであると言うのじゃな。

 このゆえに一切法は元来 言葉や名前や縁起の相も離れて平等であり、変異なく、破壊も出来ないものなのじゃ。
 ただ一つの心があるだけなのじゃ。
 それゆえに真如と名づけるというのじゃ。
 一切の言葉や説は仮の名前であり、実際は無いものであり、ただ妄想にしたがって、得られないものであるから、真如と言うのも本当は何も無いのじゃ。
 
 言説の極まるところは言葉で言葉を遺すことにあるのじゃ。
  真如の体は遺す言葉も無いのじゃ。
 一切の法はことごとく皆真如であるからというのじゃ。

 観念を立てることも無いのじゃ。
 一切の法は皆、如であるからというのじゃ。
 本体のない、なにかの如きものというのじゃな。

 正に知るべきなのは、一切の法は説いてはいかんもの、念じてはいかんものであるから名づけて真如なのじゃ。

 また質問するのじゃ。
 もしそのようであれば衆生はどのように修業したらよいのかと聞いたのじゃ。
 答えは 一切の法はよく説いたものでも説いたものではなく、念じることも念じたものではないと知るべきなのじゃ。
 これが正しい実践というのじゃ。
 もし観念を離れれば、それが法に得入したといえるのじゃ。

【天空寺】悟りをひらいた人のスレ647【仏教】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1638616972/

661:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2022/03/24(木) 23:38:33.41 ID:ywgCbOBE
一つ目の心真如門の解説なのじゃ。

 心眞如とはこれは一法界大総相法門の体だというのじゃ。
 つまり全ての法の本体だというのじゃ。
 これこそが真の法であり、他の法は方便であるとも言えるのじゃ。

 しかしそれを解き明かすことは困難なのじゃ。
 それは言葉を離れたものであるからのう。
 故に方便の法も説いているのじゃ。

 心性は不生不滅とは真如であるからなのじゃ。
 一切の法は妄想であれこれと差別があるというのじゃ。
 もし観念を離れれば一切の境界の相はないというのじゃ。
 全てが一つであると言うのじゃな。

 このゆえに一切法は元来 言葉や名前や縁起の相も離れて平等であり、変異なく、破壊も出来ないものなのじゃ。
 ただ一つの心があるだけなのじゃ。
 それゆえに真如と名づけるというのじゃ。
 一切の言葉や説は仮の名前であり、実際は無いものであり、ただ妄想にしたがって、得られないものであるから、真如と言うのも本当は何も無いのじゃ。
 
 言説の極まるところは言葉で言葉を遺すことにあるのじゃ。
  真如の体は遺す言葉も無いのじゃ。
 一切の法はことごとく皆真如であるからというのじゃ。

 観念を立てることも無いのじゃ。
 一切の法は皆、如であるからというのじゃ。
 本体のない、なにかの如きものというのじゃな。

 正に知るべきなのは、一切の法は説いてはいかんもの、念じてはいかんものであるから名づけて真如なのじゃ。

 また質問するのじゃ。
 もしそのようであれば衆生はどのように修業したらよいのかと聞いたのじゃ。
 答えは 一切の法はよく説いたものでも説いたものではなく、念じることも念じたものではないと知るべきなのじゃ。
 これが正しい実践というのじゃ。
 もし観念を離れれば、それが法に得入したといえるのじゃ。

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