鬼和尚 2021/12/27(月)

鬼和尚に聞いてみるスレ part19
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/

593:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/27(月) 17:36:14 ID:sskB6J8c0 [5/7]
初禅が思考や感情がまだあるが離欲による快がある状態だということについてお聞きしたいのですが

それは思考や感情を自分だとまだ同一視している状態ですか?
それとも思考や感情が自分ではないと同一視が抜けたけどまだ今までの慣れで気を抜くと余計な思考や感情が出てしまうような状態ですか?

禅定と厭離についての相関が本など読んでもいまひとつ分からないので
初禅において思考や感情が自分でないときちんと分かっているのかまだ分かってないのかが知りたいのでおしえてください

594:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/27(月) 17:40:56 ID:sskB6J8c0 [6/7]
あと禅定はあくまで何かへの集中状態で集中対象以外を認識下に眠らせているだけできちんと厭離できてるわけでないのか
それとも禅定に入った時には厭離できているのか
そのへんもおしえていただけるとありがたいです

597:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/12/27(月) 23:07:31 ID:1d4drIFg0 [187/188]
>>593>>594 同一視しているのじゃ。
 禅定の間だけ離れているのじゃ。
 禅定から覚めればまた同一視してしまうのじゃ。

 禅定だけでは厭離はできないのじゃ。
 禅定は厭離ができやすい心の状態をつくるだけなのじゃ。
 四禅や三昧を極めても全く厭離が出来ていない者もありえるのじゃ。
 実践によって確かめるのじゃ。

595:避難民のマジレスさん[]:2021/12/27(月) 18:43:45 ID:rlAecqNg0 [17/17]
鬼和尚様

高藤聡一郎さんの仙人入門という本の19ページに

人間が肉体を持ったまま、生死を超えて天地と一体化する。これこそ本当の悟りである。

とあるのですがそうなんでしょうか?

598:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/12/27(月) 23:10:49 ID:1d4drIFg0 [188/188]
>>595 違うのじゃ。
 それは仙道の考えなのじゃ。
 仏教的には無色界の境地じゃな。

 真の悟りは違うものじゃ。
 そこにはまだ観念があるからいつかはまた生まれかわってしまうのじゃ。

 無我になり、無認識になれば観念も滅して永遠の意識に没入するのじゃ。
 それが真の大悟徹底なのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】  33 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597157592/

671:おさかなくわえた名無しさん[]:2021/12/27(月) 22:25:38.93 ID:yWNmFhl8
鬼和尚はお風呂に入るのが面倒とかいう人をどう思いますか?
裸に成って入って出て体拭くだけでしょう?
どこが面倒なんですか?
息するのも面倒なレベルなら死ぬべきですか?

672:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/27(月) 23:03:50.32 ID:AtD1xxf2
↑何も思わないのじゃ。
 びっくりするほど思わないのじゃ。
 すべて無なのじゃ。
 無という思いも無い無なのじゃ。

【天空時】悟りをひらいた人のスレ632【鬼・和尚】 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639472221/

728:神も仏も名無しさん[]:2021/12/26(日) 23:27:16.52 ID:nUbd7UFa
金剛般若経

鬼和尚期待してますよ。

宜しくです。

746:神も仏も名無しさん[]:2021/12/27(月) 18:59:04.37 ID:h6ELCRXK
金剛般若経は鬼和尚が悟りを開いたきっかけとなった経なので期待

747:チゥ(* ^)(*ё_ё*)ポッ♪たん ◇pottan7VXM[]:2021/12/27(月) 20:58:27.34 ID:gGvpHWMV [3/7]
如是我聞(かくの如く我は聞けり)
あるとき仏陀は、千二百五十人もの修行僧たちとともに舎衛国の祇樹給孤独園(ジュータ林にある孤独なものに食を給する長者の館、平家物語に出て来る祇園精舎のこと)に滞在していた。
朝食を済ませた仏陀が、座禅をしながら精神を集中していると、多くの修行僧たちは、近づいて仏陀の両足を頭に戴き、仏陀のまわりを右回りに三度まわってかたわらに座った。
これは貴人に対するインド流の礼儀作法である。
すなわち仏像に向って右肩を向けながら立つのである。

その修行僧たちの中に、長老須菩提もいて、右の肩をはだけ、右の膝を地につけ、合掌しながら仏陀に言った。
「世尊よ、善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さんに、まさに、いかんが住すべき、いかんがその心を降服すべきや」と。
阿耨多羅三藐三菩提とは、「このうえない正しい悟りに向かう心」という意味であり、求道者の道をめざす心の事である。
その心を得るためには、どのようにしたらよいのか、と聞いているわけである。
それに対して仏陀は次のように答える。
「あらゆる一切衆生の類、もしは卵生、もしは胎生、もしは湿生、もしは化生、もしは有色、もしは無色、もしは有想、もしは無想、もしは非有想、もしは非無想なるもの、われ、皆、無余涅槃に入れて、これを滅度せしむ。
かくの如く無量無数無辺の衆生を滅度せしめたれども、実には衆生の滅度を得るもの無し」と。
そのあらゆる存在について、仏陀である自分はかれらを滅度(さとりを得させること)させたけれども、実際に衆生が滅度したことはないのだ。
仏陀は「もし菩薩に、我相、人相、衆生相、寿者相あらば、すなわち菩薩に非ざればなり」と。
我相とは自我という思い、人相とは人間として生きているという思い、衆生相も寿者も個人という思いを言う。
その自我というものにこだわっている限り、そのものはもはや求道者とはいえない。
だから自分のことをそのような自我を持ったものと思うなら、そのような自分が衆生を滅度させるわけにはいかない。
自我を持たない限りにおいて、真に衆生を滅度させることができる。
仏陀は、次のように付け加える。「菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし」と。
施しをする場合、施しという意識さえ持たず、虚心に施すべきである。

748:チゥ(* ^)(*ё_ё*)ポッ♪たん ◇pottan7VXM[]:2021/12/27(月) 20:59:42.91 ID:gGvpHWMV [4/7]
>>747

仏陀はまた続けて言う。「色に住せずして布施し、声・香・味・触・法に住せずして布施するなり。
須菩提よ、菩薩はまさにかくの如く布施して相に住せざるべし。
何を以ての故に。もし菩薩、相に住せずして布施せば、その福徳は虚空に思量すべからざればなり」と。色は形のこと。声以下は心の働きの対象のこと。
それらすべてのものにとらわれずに布施すべきである。
そのような布施がもたらす福徳は、およそ考えの及ばない程計り知れない。る。

そこで計り知れないことの比喩として、東方の虚空があげられ、また南西北方四囲上下の虚空の計り知れなさがあげられる。
それらが計り知れないのと同じように、物にとらわれない布施のもたらす福徳は計り知れないのである。

仏陀は更に、身相を以て如来を見るべきやいなや、と問う。
身相とは如来が備えている身体的な特徴のことで、三十二あることから三十二相とも呼ばれる。
そうした特徴を以て如来を見るべきではないというのであるが、その意味は、そのような特徴は虚妄にすぎないからであり、そういうものにとらわれずに如来を見なければならぬ、つまり虚心に如来を見るべきである、ということである。

以上で言わんとしているところは、物事にとらわれたり、あるいは外見にとらわれてはならない。
行為はものにとらわれずにせねばならぬし、人を判断するのに外見にとらわれてはならない、というようなことである。

750:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/27(月) 23:30:43.50 ID:Qsh/6my3 [1/2]
>>728 こちらこそよろしくなのじゃ。


>>746 そうじゃ、wktkしてまつのじゃ。

>>747 ご苦労さんなのじゃ。
 たまにはぼったんも役に立つのじゃな。

754:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/27(月) 23:45:45.21 ID:Qsh/6my3 [2/2]
 金剛般若経は能断金剛般若経というのが正式名なのじゃ。
 金剛石、ダイアモンドのように断つことができる智慧の経なのじゃ。
 何を断つことができるのかといえば、執着とか疑惑だというのじゃ。

 つまりダイアモンドのように執着や疑惑を断つことかできる智慧の法門を説いた経なのじゃ。
 それは通常の般若経のように、空という観念を用いて断つのではないのじゃ。
 ただ観念論理の逆転を用いて断つのじゃ。

 それが般若、つまり智慧の法門なのじゃ。
 他の般若経典ではものごとがひたすら空であると観じて執着や疑惑を捨てるものじゃ。
 しかし、金剛般若経では空と言う単語は使っていないのじゃ。

 それでも般若経であるというのじゃ。
 つまり般若とは観念の執着や疑惑を断つ智慧であり、それができるならば空と言う観念もいらないということなのじゃ。
 般若経といえば空の思想であるとか、仏教とは空を悟ることであるとか、そのような一般論は無知の証でしかないのじゃ。
 
 空もまた修業のために一時的に使用する観念を破壊する観念に過ぎないのじゃ。
 執着や疑惑を捨てれば、空もまた捨て去るべきなのじゃ。
 この金剛般若経で説いている逆説による観念の破壊法もまた一時使用して、効果があれば捨て去るべきものなのじゃ。
 始めに先ずそれを知っておかなければならないのじゃ。
 法にも執着しないのが、真の般若の法であるからなのじゃ。

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