鬼和尚 2021/12/19(日)

鬼和尚に聞いてみるスレ part19
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/

556:避難民のマジレスさん[]:2021/12/19(日) 14:06:01 ID:q.ad6W3Q0
>>555
問答23

問:解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょうか?

答:すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述べている。
それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。
ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。
心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問いつづけるべきである。
この探究がどうして書物のなかでできるだろうか?
人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。
真我は五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。
真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。
いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。
アンナー・マヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。

Q:Is it any use reading books for those who long for liberation?

A:All the texts say that in order to gain liberation one should render the mind quiescent;
therefore their conclusive teaching is that the mind should be rendered quiescent;
once this has been understood there is no need for endless reading.
In order to quieten the mind one has only to inquire within oneself what one’s Self is;
how could this search be done in books?
One should know one’s Self with one’s own eye of wisdom.
The Self is within the five sheaths; but books are outside them.
Since the Self has to be inquired into by discarding the five sheaths, it is futile to search for it in books.
There will come a time when one will have to forget all that one has learned.

557:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/19(日) 14:51:50 ID:sskB6J8c0 [4/4]
鬼和尚様
人が夢の内容をほとんど忘れてしまうのは何故ですか?
起きた瞬間には憶えていてもすぐに忘れてしまったりよほど印象的な夢しか覚えてないと思います

それともむしろ現実でのことを記憶しているのは過去や現実への執着が強すぎるからでしょうか?

夢にしろ現実にしろ記憶は細かいことまできちんと残していくほうが修行としていいでしょうか?
それとも細かい記憶は残らないほうがいいでしょうか?

悟った人はどの程度どのように記憶をしているのですか?

558:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/19(日) 16:34:02 ID:czRftzgI0 [7/7]
禅の歌を見つけました
https://youtu.be/bw_odBsdOXE

duke aces the zen


562:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/12/19(日) 21:28:19 ID:1d4drIFg0 [175/177]
>>556 本に書いてある知識はただ実践のための方法を示すものじゃ。
 方法がわかったらもはや本は要らないのじゃ。
 自分自身を追及する実践をひたすら続けるべきなのじゃ。
 本で得た知識もいずれは捨て去られる瞬間がくるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

>>557 記憶が働いていたり、いなかったりするからなのじゃ。
 所々働いていて、断片的に覚えていたりするのじゃ。
 肉体的な要因なのじゃ。

 目覚めている時は記憶能力が常に働いているからなのじゃ。

 残さなくて善いのじゃ。

>>558 よいことじゃ。
 どんどん歌うと善いのじゃ。

559:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/19(日) 19:04:33 ID:DPZIW9O60 [6/8]
>>552
ご返信くださり、ありがとうございます。
正しい道を歩んでいると言っていただきましたし、悟ること以上に求めるものもないので、これからも観察や集中を続けていきます。

更に質問があります。

1,ブッダは悟る直前に「悟るまでは立たない」と決意したとのことですが、「ただし飲水と排泄は除く」だったということでしょうか?
他の禅僧なども同じでしょうか?書物などによると断食は瞑想と兼ねる修行も多かったようですが。

2、7日間とか座りっぱなしのとき、脳は睡眠状態になるかもしれませんが、体はエコノミー症候群などにはならなかったのでしょうか?
実は排泄後の座る前とかに足の曲げ伸ばしやマッサージとかもしていたのですかね?

3,どんな姿勢であっても深い瞑想状態になったり悟ることもありえるが、正しい姿勢の方がそれらの状態になりやすい、という理解でよろしいでしょうか?

560:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/19(日) 19:05:40 ID:DPZIW9O60 [7/8]
4,正法眼蔵の坐禅儀によると、座禅は昼夜ともに明るい場所で目を細く開いて行わなければならない、とのことですが、どうしてこのように言っているのでしょうか?
明るい場所で目を開いて行うメリットは何ですか?居眠りしないとか妄想が発生しにくいとかですか?

5,また坐禅儀では、
「一切の環境に捉われる心の働き(原文では「諸縁」)を投げ捨てて、心身を休息させなさい。
善の心、悪の心に捉われないそのままの心が座禅である。
座禅は思いはからい(原文では「心意識」)でも瞑想(原文では「念想観」)でもない。
仏になろうとしてはいけない。(別の訳では「悟ろうと思ってはならない」)
座ったり寝たりするという差別の気持を捨てなさい(原文では「座臥を脱落すべし」)」
とあります。
なんとなく、「心を操作せず、ただそのままにしておけ。無心で座れ」と言っているように読み取ったのですが、合っているでしょうか?
この方法は実践してみる価値はあると思われますか?散漫になるだけでしょうか?

563:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/12/19(日) 21:33:49 ID:1d4drIFg0 [176/177]
>>559 1 そうじゃ、そうでなくては死ぬだけなのじゃ。
     同じなのじゃ。
     断食しても尿は出るのじゃ。
     誇張表現なのじゃ。

    2 一時間毎にたって歩いたりするのじゃ。     
     今の禅堂でもやっていることなのじゃ。
     それも除いてあるだけなのじゃ。
     全部含めて座禅なのじゃ。

    3 そのような理解で善いのじゃ。
      実践で確かめるのじゃ。

>>560 魔に囚われるからというのじゃ。
    暗いところでは妄想も激しくなったりするからのう。

   そのような理解で善いのじゃ。
   ただひたすら集中するのじゃ。
   
   数息観などで習熟してからの方が善いのじゃ。
   雑念がなくなってから無心で座ると善いのじゃ。

561:避難民のマジレスさん[sage]:2021/12/19(日) 19:06:23 ID:DPZIW9O60 [8/8]
6,鬼和尚は目を開けるか閉じるかについて、本人がやりやすい方でやるのがよい、とおっしゃっていますが、鬼和尚が図書館から帰宅し悟られたときの瞑想では目は開けていらっしゃいましたか?
また、現在瞑想されるときはどうされていますか?参考までにお聞きしたいです。

7,集中の瞑想時に、呼吸に気づいている意識がありつつ考えごともしているという場合、それに気づくたびに呼吸だけに意識を集中させるようにしています。
両方を並行させている方が楽で時間が過ぎるのも早いのですが、やはり呼吸だけに集中させた方がよいでしょうか?

8,心身すべてを俯瞰して眺める瞑想のとき、漠然とか散漫といった状態になりやすく、気づくとボーッと考えごとをしているような状態であることが多いです。
何か一箇所を観察する方が、集中の瞑想で磨いた集中力を発揮できる気がするのですが、漠然とした観察でもよいのでしょうか?

以上、溜まっていた疑問なので多くなりましたが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

564:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/12/19(日) 21:37:36 ID:1d4drIFg0 [177/177]
>>561 わしは目を閉じていたのじゃ。
    今も眼を閉じているのじゃ。
    それがわしに合っているからなのじゃ。
    あわない者は眼を開けてやるとよいのじゃ。


  7 呼吸に集中するとよいのじゃ。
   意識を向けなければ思考はいずれ止まるじゃろう。
   それを目指すのじゃ。

  8 そのような者は手とか足とかを一つずつ観察する法がよいじゃろう。
   実践してみるとよいのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】  33 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597157592/

611:おさかなくわえた名無しさん[]:2021/12/19(日) 13:44:25.46 ID:WHJfXKd3
鬼和尚、宗教板での自作自演はもうやめましょう。
昔の様にもう騙せなくなってますので、別の何か騙す方法を考えましょう。
取り敢えず、論敵に成り済ましたり誉め殺しするのが効くみたいです。

612:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/19(日) 21:23:15.90 ID:ROnxShWG
↑臨済宗天龍寺派のジャンキーが自作自演しているのに、わしに言っても無駄なのじゃ。
 おぬしが駅前で裸踊りをしながら臨済宗天龍寺派のジャンキーは自作自演を止めろとか歌うとよいかもしれん。
 実践あるのみなのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】 80 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1613875666/

705:マジレスさん[sage]:2021/12/19(日) 13:45:55.85 ID:0QC1dVEI
鬼和尚、宗教板での自作自演はもうやめましょう。
昔の様にもう騙せなくなってますので、別の何か騙す方法を考えましょう。
取り敢えず、論敵に成り済ましたり誉め殺しするのが効くみたいです。

706:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/19(日) 21:23:00.10 ID:TIuoIuLA
↑臨済宗天龍寺派のジャンキーが自作自演しているのに、わしに言っても無駄なのじゃ。
 おぬしが駅前で裸踊りをしながら臨済宗天龍寺派のジャンキーは自作自演を止めろとか歌うとよいかもしれん。
 実践あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 –  したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

494:避難民のマジレスさん[]:2021/12/19(日) 09:18:28 ID:HhQ5xIZQ0
43.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)~SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d②
獲得することで失う啓示

Q:私が不思議に思うのは、なぜ「そこ」から見るとすべてが見せかけですべてが実在しないように
見えるのに、肉体に戻って来るとすべてがまた実在しているように見えるのかです。

 そうだ、そうだ。これは、非常によい経験だ。分かるかね?  最初にあなたは言う、「これが私の
肉体、これらが私の心配、肉体は私のもの、他の肉体はすべて私に関係している」これが苦しみで
あった。
 これはただのマインドの概念にすぎなかった。肉体は頭の中にある概念だ。今あなたはこれを知っ
ている。その理解があなたの所にやって来たのだ。あなたがそれを征服したのだ。
 何ヶ月かここに居て、サットサンガが「肉体は実在する」という概念を取り除くことができる唯一
の場所だ。
 だから、現れるものはすべて実在しない。なぜなら実在するものはいつも「ここ」にあるべきだか
らだ。目覚めの状態の現実は夢の中で見る現実とは異なる。しかし、両方共眠りの中では消えてしま
うからだ。
 あなたはそのことに目覚めたのだ。あなたは静かにしていて、マインドも静かであった。すべては
実在しない。そうして、遠くにある未知のどこかに入っていった。顕現のすべてが実在するという概
念が消えたとき、説明できない他のどこかに到着した。
 そこに休息を見つけた。その休息の中で波が起こる。以前のようなマインドとしてではない。以前
の波はマインドの観念であった:「これは実在する」「私の肉体は実在する」「このすべては実在す
る」。
 そして、このマインドの源泉に行った時それらは消えてしまった。すべてが消えてしまった。それ
が休息の場所、意識であった。今、意識から、意識が意識の中で反射して、意識だけが光り輝く。そ
の意識の反射として、波が存在として起こる。
 意識から起こるものはすべて、すぐに、そこに顕現する。意識の内で波が起こり、意識に面して波
が輝く。その輝きが知恵だ。その知恵の中では実在しないものは何もない。至るところに意識は存在
する。宇宙、世界の至るところに意識は存在する。
 たぶん、何千、何百という宇宙が意識の中にぶらさがっているに違いない。その観点から見ると、
つまり意識そのものから無そのものから見ると、すべては無だ。あなたはそこから見るのだ。
 源泉に行って波を起こらせなさい。この経験は本物の経験だ。今あなたはどこへ行こうとも幸福で
いられる。自由だ。すべてが実在する。意識の中で実在しないものは何かね?
 死はどこにある? どこに肉体がある? あなたは探して見つけた。
 以前はあなたは言った、「私は肉体-エゴだ」「私は生まれつきのエゴだ」「私は死んで行くエゴ
だ」。それがあなたを困らせた。すべての人がトラブルの中にいて、来世の始まりは又トラブルと共
に始まる。終わりのないサイクルだ。
 少数の人がこのみじめな生と死の輪廻から抜け出すことができる。あなたの体験は本物だ。私はと
ても嬉しい。あなたには何の問題もやってこないだろう。
 すべてが実在する。無の中で無が実在しないという問題はどこにあるのかね? 無は無だ。その見
方は、肉体の目によってではない。聞くことも違って来る。
 何が実在するかしないかと見わけることが不可能になる。これも去って行く。これかあれかの識別
はなくなるだろう。その中間も失くなるだろう。これが自由だ。誰もが自由になることができる。そ
こから見て、今何か質問があるかね?
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

如何是臨済下事  いかなるかこれ臨済下(か)のじ
五祖演曰五逆聞雷  五祖演曰五逆雷(らい)を聞く
機先一喝鐵圍崩   機先の一喝てっちをくづる
五逆元來在衲僧   五逆元来のうそうにあり
桃李春風清宴夕   桃李春風清宴の夕べ 
半醒半醉酒如縄   半醒半醉酒縄(じょう)のごとし。 

くま訳
これはいったいどういうことか!臨済宗の弟子たちのあり様は!
臨済の五祖法演も、大罪を犯したものは雷鳴を聞いただけでびくつくものだと戒めてる。
まずは一喝 鉄囲(てっち)を崩す。
大罪は、元来禅僧にあり
弟子たちはのんきに宴会の夕べを過ごし、
酔っ払っている様である。

*鉄囲山古代インドに始まる世界説で,三千世界のそれぞれを取り囲む山
*如縄(國訳禅学大成):まどろみの中に居る
 如?夏(民友社版:(勤め)のごとし:ほろ酔い加減でいることが勤めであるかのようである
(´・(ェ)・`)b

495:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2021/12/19(日) 23:23:53 ID:1d4drIFg0 [196/197]
サマーディに入り、一度は永遠の意識を見たとしても、戻れば全てはあるように見えるのじゃ。
まだ観念があり、観念への囚われもあるからなのじゃ。
自分という観念からまだ完全に逃れでていないのじゃ。
自分の観念から自分の肉体とか思考という観念もまた実在として認識してしまうのじゃ。
更に進んで全ての観念から離れれば、意識だけがあるのじゃ。

496:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2021/12/19(日) 23:31:25 ID:1d4drIFg0 [197/197]
そんな感じじゃな。

 臨済宗の下の者はどうなっているのじゃ?という題じゃな。

五祖の法演は五逆のものは雷を聞き、
 最初の一音でもう鉄の囲いも崩れるようなきがするのじゃ。
 その五逆は元来僧の中にあるものじゃ。
 桃李の香る春風がふく清宴の夕べに
 半醒半酔で酒は如縄なのじゃ。

【天空時】悟りをひらいた人のスレ631【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639295737/

827:福音伝道[]:2021/12/19(日) 00:52:02.00 ID:iXJidv4p [2/17]
>>824
浄土三部経の最初は阿弥陀経についてなのじゃ。

以下は『大無量寿経』ですね

839:福音伝道[]:2021/12/19(日) 08:43:59.88 ID:iXJidv4p [3/17]
>>824
鬼和尚さん、経典を読んでから語りましょう。読んでないでしょ

阿弥陀如来は前世では法蔵菩薩といい、
大経原文では元々は「法蔵比丘」です。
誓願後、六波羅蜜を行じてから「法蔵菩薩」となります。

大乗仏教の修業をしていたというのじゃ。
1.まず二百一十億の諸仏の国土をすべて調査されました。
2.その上で五劫の間、思惟されました。
3.その上で自分の仏国土についての誓願を48立てられ、これのクリアを目標にされたのです
4.クリアのために六波羅蜜を行じられました。つまり大乗の修行ですね

 その時に有名な四十八の誓願を立てたというのじゃ。
48願は法蔵比丘が建てたのであって、法蔵菩薩ではありません
むしろ誓願を立てた事で菩薩になったとも言えます

 それには自分が極楽といえる仏国土を持つ他に、
大経には「極楽」という言葉はないです。阿弥陀経で繰り返される概念です
大経では釈尊曰く「その仏の世界を名づけて安楽と曰う」です

その地に生まれる衆生にさまざまな恩典が受けられるようにという誓願が在るのじゃ。
ポイントはそこではなくて、第十八願に
「十八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと
欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。」とあるように、他の仏国土に住む者にも、願えば
我が国に生まれされるという誓願です。
41願から48願など、我が国生まれない他方国土のもろもろの菩薩衆を名指しして
我が名を聴いただけで功徳があるように誓っています。

841:福音伝道[]:2021/12/19(日) 09:51:12.50 ID:iXJidv4p [4/17]
>>825
この条件があるために浄土宗や、浄土真宗も古くから非難されているのじゃ
それはちゃいますよ。
親鸞がいわゆる『教行信証』にて善導の『観経疏』を引用して曰く
「(散善義)光明寺の和尚云わく、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、
ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。
この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。
答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。
四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。
衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。
ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、
またこれ摂せざるにはあらざるなり。
また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、
捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。
しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて
「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。
これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。」

つまり五逆と謗法とは重罪なので大経では「抑止」のために除くと言っている。
ただし五逆は我々が既に犯している罪なので「観経」では摂せられている。
謗法は、いまだ作らざる罪なので「往生できない」と諸経典に説かれたままで
あるがもし仮に犯せば弥陀は還りて摂取して救ってくださる、と。
これが善導流の浄土教の立場ですので、その非難はあたりませんし、
諸宗はここ(唯除五逆誹謗正法)を非難しているわけではありません。

845:福音伝道[]:2021/12/19(日) 10:11:49.06 ID:iXJidv4p [5/17]
>>825
阿弥陀如来の念仏一筋に特化して、他の教えを捨てるならば、
それこそ正法の誹謗に当たるからなのじゃ
天才・法然の「捨閉閣抛」に対する批判の論点はそこですね
ただみんな天才の論理を理解できてないです。
弥陀浄土に往生したいのであれば、と限定して、それならば、他の修行でも
法華でも弥陀浄土に往生できるけれども念佛に特化したほうがお得ですよ
ということです。
「大経」の48願自体に
「十九 たとい我、仏を得んに、
十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、
心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。
寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ」
とあるように、「大経」自体は念佛に特化しなさい、他の修行を捨てよなどと説いてません。
経典を読みましょう。
読まないで、その辺の解説本からの先入観で論じるならばそれは鹿野園君と同じですよ

974:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/19(日) 22:04:02.00 ID:Mo2srYHF [1/2]
>>827 まだなのじゃ。
 もう少し在るのじゃ。

>>839 おぬしは本をあまりよんでいないようじゃのう。
 古人の呼称は最終経歴に統一するのが一般的なのじゃ。
 例えば大佐で退役した軍人は、吉田大佐は高卒で軍に入隊したとかかかれるのじゃ。
 大佐も入隊時には二等兵かもしれんが、煩雑をさけるために統一するのじゃ。
 法蔵菩薩は菩薩で最終経歴であるから菩薩に統一するのじゃ。

 わしは「極楽といえる」と書いているのじゃ。
 極楽という国名とはかいていないのじゃ。
 それが一般的な呼称である故にわかりやすいように書くのじゃ。

 本当は安楽国でさえないのじゃ。
 安楽国でさえも翻訳の一つに過ぎないのじゃ。
 
 それは概要であるから四十八全てに平等に言及するのじゃ。
 
>>841 それは善導の感想ですよね、なのじゃ。
 その文が違うならば他宗がどのように非難したのか資料で述べるべきなのじゃ。
 
>>845  それもまたおぬしの感想なのじゃ。
 おぬしはそれで正法の誹謗ではないとしたいのであるかもしれんが、捨閉閣抛を主張した時点で既に誹謗なのじゃ。
 なぜならば西方浄土は存在せず、念仏をして簡単にいけるということもありえないからなのじゃ。
 ただ集中のための難行であるのに、他の易行を避けさせる時点で正法の誹謗なのじゃ。
 
 わしはその無量寿仏経に念仏に特化しろと書いてあるとは書いていないのじゃ。
 むしろわしは無量寿仏経には念仏に特化するな、正法を捨ててはいかんと書いてあるという主張なのであるがのう。

 わしの書いた文をよく読むのじゃ。
 わからなければ聞けば善いのじゃ。

993:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/12/19(日) 23:10:04.81 ID:Mo2srYHF [2/2]
 こんな話が在るのじゃ。
 昔、信仰熱心な商人が居たのじゃ。
 寺に度々お参りして、神仏を拝んでいたのじゃ。
 自分の心身の全てを捧げて帰依すると声に出して誓って礼拝していたのじゃ。
 
 すると身を屈しているものだから、財布が懐から転がり出たのじゃ。
 商人はあわてて拾って懐にしまったのじゃ。
 周りで見ていた者達は、
 「全てを捧げて帰依するのではなかったのか」
 と、商人に聞いたのじゃ。
 「お金は別だ」
 と、商人が答えるとみんな大笑いしたのじゃ。
 商人は顔を赤くして寺から去ったのじゃ。

 このような商人でなくとも皆、全てを捧げて帰依するといいながら、やはり別に捧げたく無いものがあるじゃろう。
 名声や権力や家族などを全て捧げるというものは極稀なのじゃ。
 神仏に帰依する道はこのようにたやすい方法に見えて、実は困難な道なのじゃ。

 旧約聖書にも神に子供を捧げたアブラハムの話が在るのじゃ。
 神が子供のイサクを捧げよと、告げたからイサクを焼いたのじゃ。
 まるで美談のように語られているが、現代でやれば狂信的な犯罪者なのじゃ。
 
 インドにも神に全てを捧げて生活も崩壊したというものの話が在るのじゃ。
 実際に全てを捧げれば、そのようになるしかないのじゃ。
 現代で家族と生活して仕事もある人間には、神仏への完全な帰依などできないことなのじゃ。

 できたとしてもサマーディで止まってしまうのじゃ。
 神仏を捨てることが出来ないから、囚われになるのじゃ。
 行き止まりで、困難な道なのじゃ。

 むしろただ座って呼吸を数えるほうが容易な行なのじゃ。
 何も捨てず、捧げなくてよいからのう。
 ただひたすらに座って集中すれば、サマーディも訪れるのじゃ。
 
 この無量寿仏経では華麗な極楽浄土の様子が描かれ、そこに僅か十念でいけるというから皆魅了されるが、それもまた法の一つであり至って困難な道であることをも、知っておかなければならんのじゃ。

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