鬼和尚 2021/08/09(月)

鬼和尚に聞いてみるスレ part19
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/

32:避難民のマジレスさん[]:2021/08/09(月) 12:28:09 ID:UHMrSEps0
ナーガルジュナが悟っていないとすると、大乗仏教は全滅ですか?

33:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/09(月) 17:54:10 ID:h5P9mv0k0
この世の中の不幸や酷い事件は人間の魂の進化向上のために存在していて、
いつか人間が完全な状態になったら、また再び不完全な人間として生まれてきて
延々とそれを繰り返す、という主張をしている知り合いがいます。

この世に報いを持って生まれてくるのなら、その原点は一体どこにあるのか?
現世で大量殺戮をおかした人物がたとえ恐ろしい報いをいつか受けるにしても、
それを目撃している周囲の人や遺族が納得のいくような罰や報いが与えられているとは
とても思えないから怒りが湧く、と。

とりとめのない話ですが、このような主張は鬼和尚から見れば真理を理解していないと思われますか?

34:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/09(月) 20:55:45 ID:/J7lVcJE0 [1/3]
これではない、と自己でないものを取り除いて行った時、記憶は自分ではないけれど、記憶の機能が無ければ自分という観念は無さそうだと思いました。

また、思考も感情も自分ではないし、感覚も自分ではないが、
それらが無ければと想像した時、認識する対象物が何も無ければ、自分という感覚が起きようがない気がします。

記憶と対象物がないと、自分という感覚は無くなり、自分は認識出来なくなるのではないでしょうか?
それが眠っている時かもしれませんが…。

その先の自分を探すにはどうしたら良いのでしょうか。

これではない、は思考実験ではなく、行う事で自己に意識を向ける事が目的ですか?

通常の意識では眠っている時の自分を認識出来ないのと同じように、悟りの意識になっても認識は出来ないのでしょうか?

自我では認識出来ないから、真我(悟りの意識?)が目覚めるのを待つしかないのでしょうか?

その為に唯一出来ることが自己に意識を向ける事ですか?

35:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/09(月) 21:34:15 ID:/J7lVcJE0 [2/3]
日常生活で対象と一体化しない訓練が必要なのですか?
1人静かに自己を見つめようとすることは出来ますが
人との会話においては全く忘れて反応に無意識に一体化してしまいます。

内面の至福とはどのような状態でしょうか?
プンジャジが幼い頃から内面の至福へ向かい、外界へ意識を向ける事が難しかったと言っていました。
そのような状況になれば内面への探求は自然に起こるり、「努力無しに自然に起こる」状態なのだと思います。

内面の至福を見つける事ができれば、自然に内側へと向かう事が出来るようになるのではと思いますがどうでしょうか?
内面の至福を見付けるにはどうしたら良いでしょうか?

36:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/09(月) 21:36:41 ID:/J7lVcJE0 [3/3]
私は喜びや安らぎは経験した事があっても、
至福と言えるような感覚は経験した事が無いと思います。

37:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/08/09(月) 23:25:37 ID:1d4drIFg0 [11/11]
>>32 役に立つ法もあるのじゃ。
 誓願とか空の法とかのう。
 役に立つ法を選んで実践すれば善いのじゃ。

>>33 そうじゃ、幻想なのじゃ。
 関わらなくて善いのじゃ。
 
>>34 それが本当かどうか自分で実践してみるのじゃ。
 記憶と対象がないと自分がどうなるのか、観察して明らかにするのじゃ。

 自己は無いから意識は向けられないのじゃ。
 
 悟れば真の認識が在るのじゃ。

 真我は法であるからもはやいらないのじゃ。
 
 自己は無いから意識は向けないで善いのじゃ。
 記憶と対象がないと自分がどうなるのか、観察して明らかにするのじゃ。
 
>>35>>36 必要ないのじゃ。
 記憶と対象がないと自分がどうなるのか、観察して明らかにするのじゃ。

 悟ればわかるのじゃ。
 言葉にするのは無意味なのじゃ。
 記憶と対象がないと自分がどうなるのか、観察して明らかにするのじゃ。

 悟らなければわからないことを、今見つけようとしても不可能なのじゃ。
 記憶と対象がないと自分がどうなるのか、観察して明らかにするのじゃ。

悟りを得なければわからないのであるから、経験したことは無いのじゃ。
 記憶と対象がないと自分がどうなるのか、観察して明らかにするのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】  33 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597157592/

320:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2021/08/09(月) 10:56:26.19 ID:yurvN6sV
偶然、犯罪現場を目撃してそれを止めることができなかったり通報する勇気が持てず
スルーしてしまったら、なにか報いがあるんでしょうか?

犯罪現場に介入して逆に自分の身に危険が及ぶ可能性があったら、逃げるのも悪いことではないんでしょうか?

323:おさかなくわえた名無しさん[]:2021/08/09(月) 19:24:35.52 ID:zYvmcUqf
鬼和尚、和歌山毒物カレー事件の真犯人を霊視してください。
林眞須美死刑囚は冤罪を主張しているようですが、真実はどうなのでしょう?
冤罪であれば悲しすぎます。

325:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/08/09(月) 23:15:47.49 ID:r1KQZpkM
>>320 何も報いは無いのじゃ。
 悪意でなにかしたわけではないからのう。
 
 逃げるのもよいのじゃ。
 自分の利益を求めたのじゃ。
 自分の力で出来る善事をつむとよいのじゃ。

>>323 子供じゃな。
 庇っているのじゃろう。
 それはそれで立派な意志なのじゃ。
 今までの悪事を滅して善事わしたことになるからのう。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 54 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1619894557/

441:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2021/08/09(月) 11:48:28.73 ID:yurvN6sV
過激な刺激を追い求めてそれを体験しないと生きてる実感が湧かない、
普通の娯楽では空虚で心が満たされないという状態は心の病なんでしょうか?
過激なアブノーマル世界に足を踏み入れて際限なくそれを求めている状態は重症ですか。

443:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/08/09(月) 23:17:41.75 ID:r1KQZpkM
>>441 病というほどではないのじゃ。
 心に原因があるからなのじゃ。
 ただ執着が強くなっているだけなのじゃ。
 心の中の原因がわかればなくすことができるのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】 78 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1618136809/

682:マジレスさん[sage]:2021/08/08(日) 17:35:31.06 ID:lK1rB10b
鬼和尚

日本国民のワクチン接種率はまだ4割のようですが
何割の人がワクチンを射ち終われば、この感染症は終息するのでしょうか?

また今回のワクチンに関してはSNSなどで様々な情報が流れており
安全性について懸念する声も聞かれます
河野大臣は、アメリカで2億回接種したけれど一人も死んでないと言っていますが
この内容は本当でしょうか?

ワクチンの安全性をどう評価すれば良いのか、誰の言ってる事を信じれば良いのか
分からなくなっているのですが、鬼和尚はワクチンの安全性については
どのような情報から判断していますか?

よろしくお願いします

689:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/08/09(月) 23:13:15.79 ID:2jrx60vM
>>682 七割から八割もうてば終わりが見えるじゃろう。
 
 本当かもしれん。
 
 何も判断していないのじゃ。
 西式健康法を実践していればかからないからのう。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

687:避難民のマジレスさん[]:2021/08/09(月) 00:05:56 ID:sKKZB2ek0 [1/4]
 くま訳全面改
 食籍
 飯縁食籍あればいささかでも茶湯にして仏に供養すると善いのだ。
 竹も菊籬を縛り、梅も垣根を補うように食籍を役立てるのだ。
 そうすれば人が悉く餓死することになろうと
 地獄を遠離して長く安楽でいられるのだ。

493
南園殘菊 南園殘ぎく
晩菊東籬衰色秋 晩ぎく東籬衰しょくの秋
南山且對意悠悠 南山且つ對して意悠悠
三要三玄都下識 三要三玄すべてしらず
淵明吟興我風流 淵明が吟興我が風流

くま訳
南園の殘菊
東側のまがきの菊も色衰える晩秋
その時も南山を眺める心はゆったりとしている。 
玄妙な真理の仕組みを全く知らなくても、
陶淵明の詩情を我が事としてその風流を味わうことはできるのだ。

*南園殘菊:陶淵明の詩に「菊を東籬の下に採り、悠然として「南山を見る」と(大成脚注)
 俗世間から離れ、心にもの思うこともなく、自然を楽しんで生きる心境を現すことば。
 [由来] 陶淵明の「飲酒」という詩の一節から。勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心 
 境を、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る(東の垣根のところで菊の花を折り取り、ゆったりと
 した気持ちで南方に見える山を眺め見る)」とうたった。

*おまけ1「飲酒」 其の五、陶淵明           
 結廬在人境 いおりを結んでじんきょうにあり
 而無車馬喧 しかも 車馬の かまびすしきなし
 問君何能爾 君に問う 何ぞ よく しかるや と
 心遠地自偏 心遠ければ 地 おのずから へんなり
 采菊東籬下 菊をとる とうりのもと
 悠然見南山 ゆうぜんとして南山を見る
 山気日夕佳 さんき にっせきに よく
 飛鳥相与還 ひちょう あいともに かえる
 此中有真意 このうちに真意あり
 欲弁已忘言 べんぜんと欲すれば すでに げんをわする
 
  藤原鎌足公 孫 45代 先生訳
 私は隠居の庵を人の住んでいる所で営んでいる(普通は人里離れた所だが)。
 しかし、訪問客の乗り物である車馬の音が騒々しい事はない。
 どうしてそんなことができるのか、と貴方に問う(自問自答)
 「心を遠い境地(超然とした心情)に馳せていれば、住んでる場所も自然と辺鄙になるのだよ」と。
 東側のまがきのもとで菊を摘み
 心 ゆったりとして南山をながめる。
 山の気配は 日暮れ時こそ すばらしい
 鳥たちも群れになって 山のねぐらに帰ってゆく。
 こう言う生活、こんな自然の風景の中にこそ 人生の真意が込められている
 この素晴らしさを言葉で言い表わそうとしても 言うべき言葉を忘れてしまった。
 (実に 何とも言えない満ち足りた心境なのだ)
(´・(ェ)・`)つ

688:避難民のマジレスさん[]:2021/08/09(月) 00:11:32 ID:sKKZB2ek0 [2/4]
おまけ2「臨済三句」「三玄三要」(臨済録 上堂9)
 上堂。
 (臨済の三句)
 僧問:「如何是第一句?」          僧問う、「如何なるか是れ第一句」と。
 師云:「三要印開朱点側,未容擬議主賓分」。 師云く、「三要印開して朱点側(そばだ)つ、未だ擬議を                     
                       容れずして主賓分かつ」と。
 問:「如何是第二句?」           問う、「如何なるか是れ第二句」と。
 師云:「妙解豈容無著問,沤和争負截流機」。 師云く、「妙解(みょうげ)豈に無着(むじゃく)の問を容
                       れんや、沤(オウ)和争(いか)でか截流(せつる)の機に負
                       (そむ)かん」と。
 問:「如何是第三句?」           問う、「如何なるか是れ第三句」と。
 師云:「看取棚頭弄傀儡,抽牽都来裏有人」。 師云く、「棚頭(ほうとう)に傀儡を弄するを看取せよ、 
                       抽牽(ちゅうけん)都来(すべ)て裏に人有り」と。
 (三玄三要)
 師又云:「一句語須具三玄門,        師又云わく、「一句語に須らく三玄門を具すべく、
 一玄門須具三要,有権有用。         一玄門に須らく三要を具すべくして、権有り用有り。
 汝等諸人,作麼生会?」下座。        汝等諸人、作麼生(そもさん)か会す」といって下座す。
             
禪と悟りhpより抜粋① 
     
注:
印開する:印章を押す。
朱点(しゅてん)側(そばだ)つ:赤い色模様がくっきり出てくる。
主賓分かる:主体と客体に分離する。
妙解(みょうげ):文殊菩薩の悟りの智慧。
無著(むじゃく):五台山に現れた文殊菩薩と問答したという
華厳寺無著(「宋高僧伝」二十)のこと。
?和(おうわ):梵語ウパーヤの訳。仮に応用する方便。
棚頭(ほうとう):舞台。
抽牽(ちゅうけん):引くこと。
三玄門:古来、玄中玄(理)、句中玄(智)、体中玄(行)などの
3つに分けられているが具体的内容は不明である。
権有り用有り:権は方便のことで実に対する言葉である。
用は作用や働きのこと。

現代語訳
上堂するとある僧が尋ねた、
「師は三句をもって修行者を指導されるとのことですが、禅の第一句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「それを印章に譬えて言うと、三要(さんよう) の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出
てくる。そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」。
僧が質問した、
「では第二句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「文殊菩薩の悟りの智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。その智慧の力は煩悩の流れを断
ち切る働きをする」。
僧が質問した、
「では第三句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっきりと見取るが良い」。
師はさらに、
「いま三句を説明したが、この三句の内どの一句にも三玄門が具(そな)わっていなければならない。一玄門
には三要が具(そな)わっていなければならない。そうなれば方便も働きも出てくるのだ。諸君、そこをどの
ように会得したかな?」と言って座を下りた。

(´・(ェ)・`)b
(1/3)

689:避難民のマジレスさん[]:2021/08/09(月) 00:24:25 ID:sKKZB2ek0 [3/4]
禪と悟りhpより抜粋② 三玄門の解釈とコメント①
この上堂説法は臨済の「三玄三要」の思想とされる。
古来、三玄門は玄中玄(理)、句中玄(智)、体中玄(行)などに分けられるとされる。・・・
第一句から第三句までの説明は論理的で筋が通ったものである。・・・
  第一句とは
「それを印章に譬えて言うと、三要の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出てくる。
そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」と説明している。
この三要の印や朱点とは何を指しているかわからない。
しかし、印鑑を押してから持ち上げると印がはっきりと現れるように、脳の記憶作用や判断・認識作用を指
していると思われる。
最後の「主賓分かる」も主・客が分離する、分別意識(=理知)の働きを言っていると考えられる。
そのように考えると、
第一句は分別智(理知の本体である上層脳の働き)を禅の立場から比喩的に説明していると思われる。
  第二句の説明で臨済は、「文殊菩薩の玄妙な智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。
その智慧の方便は無明の流れを断ち切る働きをする」と言っている。
第二句のキーポイントは
妙解(みょうげ)(文殊菩薩の玄妙な智慧)と無著(むじゃく)の問いにある。
妙解(みょうげ)(文殊菩薩の玄妙な智慧)とは仏教の悟りの知恵である無分別智(下層脳中心の脳から生ま
れる悟りの智慧)を指していると考えることができる。
これに関連すると思われる文殊菩薩と無著(むじゃく)の問答が碧巌録第35則にある。
そこでは無著は文殊の問いに対してトンチンカンな返答をする未熟な禅僧として描かれている(「碧巌録」
第35則を参照)。
これより無著(むじゃく)の問いとは文殊の無分別智には及ばない、分別智(理知=第一句)の段階にある
無著(むじゃく)の境地を指していると考えることができる。
そのように考えると、第二句は「文殊菩薩の無分別智(玄妙な悟りの智慧)は無著(むじゃく)の分別智を寄
せ付ける余地も無い。
文殊菩薩の智慧の方便(=無分別智)は煩悩の流れを断ち切る」と言って禅の基本的立場を説明しているこ
とが分かる。
即ち第二句は無分別智(=玄妙な悟りの智慧)を指していると考えることができる。
  第三句は「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっき
りと見取るが良い」である。これは人間をあやつり人形に譬えて説明している。
人間はあやつり人形のような存在であり、舞台裏でそれを操る人(無位真人=脳)を看取せよと言っている
のである。あやつり人形とは肉体であり、舞台裏でそれを操る人とは脳や無位真人と考えて良いだろう。
そのように考えれば第一句は分別智(上層脳中心の理知)、第二句は無分別智(下層脳中心の智慧)、第三
句は脳全体(上層脳+下層脳)について言っていると考えることができる。
このように考えると、臨済の言っている「三玄三要」とは、
①分別智(上層脳)、
②無分別智(下層脳中心の脳から生まれる悟りの智慧)
と③それを一つにした全脳(上層脳+下層脳)
の三つの法門のことだと考えることができる。

(´・(ェ)・`)b
(2/3)

690:避難民のマジレスさん[]:2021/08/09(月) 00:30:19 ID:sKKZB2ek0 [4/4]
禪と悟りhpより抜粋③ 三玄門の解釈とコメント② 
三玄三要
「三玄三要」は分別智(上層脳)、無分別智と全脳の三法門のこと
臨済は「禅は常にこれらの三つの玄妙な法門(脳に関する法門)に関係している」。
従って禅を説く時は
「常に脳に関係した三つの玄妙な法門について説かなければならない」
と言っていることが分かる。
・・・
この上堂説法で注目されるのは第一句である。
第一句は分別智(上層脳=知性)を意味している。普通、禅や仏教では無分別智(下層脳中心の脳)を重視
するあまり分別智(理知、理屈)を軽視しがちである。
しかし、この上堂説法では分別智を軽視していない。臨済禅では公案と問答を通して禅と悟りの世界を何と
か表現しようとする伝統がある。
これは臨済宗の開祖臨済の分別智(上層脳=知性)をゆるがせにしない姿勢に起因しているといえるかも知
れない。
臨済の分別智(上層脳から生まれる智慧=理知)重視の姿勢は「示衆4-2」や「示衆5-2」に見られる
「真正の見解」重視の姿勢に通じ、注目されるところである。

*おまけ3
『碧巌録』にみる麻三斤 (禅の視点 - life - hp)
ある時、1人の僧が守初禅師に質問をした。「仏とは何でしょうか」
守初禅師は答えた。「三斤の麻」以上。おしまい。これだけ。
……
三斤の麻とは
斤というのは重さの単位で、三斤あれば僧侶の衣を一着仕立てることができるという。
守初禅師の暮らしていた湖北省の襄州地方は麻の産地として有名だったというから、守初禅師にとっても麻
はとても身近なものであったと思われる。・・・・

古来、禅の問答においてもっともポピュラーな問いは「仏とは何か」であるが、・・・
仏とは何かと問われて、「三斤の麻」と答えた守初禅師。
しかし三斤の麻が仏なのではない。
強いて言うなら、三斤の麻を仏と捉える守初禅師の心こそ仏と言うべきだろう。
修行をして悟りやら仏を目指すといっても、悟りやら仏やらに執着すればもうそれは立派な煩悩である。
概念としての悟りや仏に捉われるのは執着であり、その執着から離れれば木も石も水も雲もただありのまま
の存在に感じる。・・・
仏は仏であり、仏でない。特別なものなど何もない。あらゆるものは、ただそのもの。そうした心から世界
を眺めれば、石と仏に差などない。
比べる心で見てしまえば石と仏は別物かもしれないが、比べなければあらゆる存在は「ただの存在」である。
ただの存在だから尊いのである。
そうした「ありのまま」の姿を捉える心こそ、仏といえるのではないか。
言葉の字面と睨めっこするのではなく、言葉の奥を深読みするのでもなく、言葉を発した守初禅師の心を想
う。・・・
(´・(ェ)・`)b
(3/3)

691:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/08/09(月) 23:36:57 ID:1d4drIFg0 [336/336]
それでよいのじゃ。

 南園の殘菊なのじゃ。

 東籬の晩秋の菊が衰色をしているのじゃ。
 南山かつ対して心は悠々なのじゃ。
 三要三玄など全てしらない、
 陶淵明も興にのって吟じるのが我が風流なのじゃ。

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