鬼和尚 2021/08/02(月)

鬼和尚に聞いてみるスレ part19
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/

4:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/02(月) 21:25:14 ID:oc3ps2l20 [1/3]
マハルシのこの言葉は私という感覚に常に意識を向けるということでしょうか?

以下引用

偽りの「私」を消し去る必要などないのです。どうして「私」がそれ自身を消去できると言うのでしょう?あなたがするべきすべてとは、その源を見いだして、そこにとどまることだけです。あなたが努力によって到達できるのはそこまでです。その後は、彼方なるものに身を任せるだけです。そこでは、あなたは無力です。努力でそこに到達することはできないからです。

5:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/02(月) 21:28:53 ID:oc3ps2l20 [2/3]
私の源を探すと、それは主体です。
見たり感じたり考えたりする事は自分ではない、とはわかります。
体についても「自分の体」と思うように、主体は体ではなく体を持っている、体の感覚を感じている者だと感じます。

私という主体の感覚が、
自己の観念であり自我である、ということなのでしょうか?

6:避難民のマジレスさん[sage]:2021/08/02(月) 21:38:12 ID:oc3ps2l20 [3/3]
胸の快に集中する事を集中の行として行っても良い、元々そのような法があるとのことでしたが、それもお釈迦様が説かれた法なのですか?

それと、胸に意識を向けると快が生じるのはアートマンが目覚めてきたからとのことですが、
それはエネルギーか何かなのでしょうか?
快を感じると言うのはその法が向いているということでもあるのですか?

気分が良くない時も胸に意識を向けたらそこにはスッとした快?というのか、少なくともそこに意識を向けると嫌な感覚や憂鬱さはありませんでした。

そもそも普段自動的に意識を向けている所は何処ともなく散漫とさまざまな身体感覚や思考と感情になりますが、無意識に苦痛に意識を向けてしまっていたりもするのでしょうか?

胸の快は自分でも不思議なので気のせいでもないようです。これで気持ちや身体の不快感を減らせるならどんどんやっていきたいですが、
それは麻酔のように対処療法で本当の原因を放置していることになってしまわないでしょうか?

7:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/08/02(月) 23:10:00 ID:1d4drIFg0 [2/3]
>>4 そうじゃ、私を探してそこにとどまるのじゃ。
 消そうとしなくて善いのじゃ。
 ただありのままに感じるのじゃ。

>>5 その感覚に観念が投射されたものが自我なのじゃ。
 観念とは自分の名前とかイメージなのじゃ。
 その感じがおぬしの名前やイメージなのであるのか、よく観察して見極めるのじゃ。

>>6 そうじゃ、説いているのじゃ。

 全ては意識なのじゃ。

 楽に続けられるならば向いているのじゃ。
 実践で確かめるしかないのじゃ。

 そのようなこともあるのじゃ。
 苦痛に自己の観念を投射して、それが自分と思ってしまうのじゃ。

 
 集中とわかって実践しているならばよいのじゃ。
 どんどん続けると善いのじゃ。

8:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/08/02(月) 23:29:25 ID:1d4drIFg0 [3/3]
5ちゃんねるに書き込みできなくなったのじゃ。
おかしなことじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

666:避難民のマジレスさん[]:2021/08/02(月) 02:07:52 ID:e1PCX0Dg0
487
病中 二首 1/2
破戒沙門八十年 破戒の沙門八十年
自慚因果撥無禪 自ら慚づ因果撥無の禪
病被過去因果果 やまひは過去因果の果をこうむる
今行何謝劫空縁 今何を行じてか劫空の縁を謝せん

くま訳
病中 二首 1/2
破戒の修行僧として八十年
自ら愧じているのである、因果の法理を否定する邪見を用いたことを。
病は因果の果を被るのである。
今何を行じて、永遠のご縁に表わしたらよいものやら。

くま質問:一休さんは、因果の法理を説く為に、自分の病に託けて、「自慚因果撥無禪」と詠んでるのであ
 りましょうか?
*野毛孝彦先生解説
 「婬犯肉食」による「破戒沙門八十年」の禅であった。鉗鎚 、鉗鎚 、また鉗鎚 、比類なき厳峻の師の 
 下で一休が参学し得たも一のは、その師華叟さえも絶対否定することによって自己を証する自己存在の在 
 り方であった。亡き謙翁のひそみに習い、華叟から与えられた印可の証を断固拒否した一休の態度になに 
 よりもそれが如実に示されている。
*因果撥無(いんがはちむ)483の詩:因果の理法を否定する邪見。道元禅師は、「百丈野狐話」の不落因 
 果を撥無因果とし、これによりて悪趣に堕す。としている。
*空劫:世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間
(´・(ェ)・`)つ

667:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/08/02(月) 23:19:47 ID:1d4drIFg0 [327/328]
↑そうじゃ、病は過去の因果が還って来たせいだというのじゃ。
 何もかも無であると説いてはいかんのじゃ。
 それは邪見なのじゃ。
 因果はあると説くべきなのじゃ。

668:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/08/02(月) 23:22:18 ID:1d4drIFg0 [328/328]
それでよいのじゃ。

 病中なのじゃ。

 破戒の沙門として八十年経てきたのじゃ。
 因果は無いと説いてきた禅を愧じるのじゃ。
 病は過去の因果を被ったからなのじゃ。
 今はどのようにして劫空の縁を謝れば善いのであろうか。

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