鬼和尚に聞いてみるスレ part18
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1611967514/
322:避難民のマジレスさん[]:2021/03/10(水) 22:47:36 ID:uc6hAApM0
319です。
回答ありがとうございます。
四の五の言わずにとりあえず短いたびに出てみます。
ありがとうございます
323:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/11(木) 11:29:52 ID:34vXqpTw0 [1/2]
感情の原因を観て感情が起こらないようにする事と
感情を厭離してしまうのは、
どちらが簡単だと思いますか?
観察も行っているのですが、
根っこの自我に近いものを観れない限りは
膨大な記憶や原因があってあまりに
道程が長過ぎる気がしました。
私は感情が自分の性質で一番ネックだと思っているのでまず感情を厭離してしまいたいです。
感情をある程度厭離出来れば
日常生活の喜怒哀楽程度は煩わされなくなりますか?
厭離の感覚がよくわかりませんが、
感情が起きてもそれが自分のもののように感じなくなれば厭離されたということなのですか?
例えば悲しみが起きても「悲しみがある」と認識はするけど、苦しくはないのですか?
悲しみイコール苦しみではないのでしょうか?
悲しみや怒りがあっても、苦しくはないという感じがわかりません。
それとも厭離されたら
悲しみや怒りも遠くに感じてそれほどダイレクトには感じなくなるのですか?
感情の観察は上手く行かず、(大抵嫌な感情が起きた時のみ観察に励んでしまいますが)、
嫌な感情に浸りっぱなしになってしまいます。
もっと、感情から脱出した高い視点は可能なんじゃないかと思うのですが、
その視点をみつけて揺らがないようにしたいです。
感情をどのように観察すれば厭離出来るのでしょうか?
324:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/11(木) 11:34:51 ID:34vXqpTw0 [2/2]
瞑想や観察は自己への善事になるのでしょうか?
(周りの人にとっても良い存在になりたいという善の心もあれば他への善事にもなるのでしょうか?)
しかしそれによって金銭的に恵まれるといった事は起きないですか?
偶然かわかりませんが瞑想に励んでいた時の売上が良かったのでもしかしてそんな事もあるのかな、とか思いました。
325:避難民のマジレスさん[]:2021/03/11(木) 21:48:35 ID:87SUUXN20 [5/5]
自分のことを知るとはどういうことでしょうか?
人間一人ひとりに生まれつき特性があるからそれを知るということですか?
ある者は計算が早く、別のものはコミュニケーションがうまい、ある者は細かいチェックが得意。
人それぞれ生まれつきの強みがあるのですか?
それとも強みは開発することで誰もが身に着けれることですか?
自分を知ると言っても、自分は変化していくものだから知ることが難しいと思います
326:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/11(木) 21:50:08 ID:1d4drIFg0 [83/83]
>>322 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>323 それは人や状況に拠って違うのじゃ。
原因が直ぐにわかれば苦を厭離するのが早いじゃろう。
いつまでもわからなければ時間がかかるじゃろう。
感情が原因から機械的に起こることをただ観察すると善いのじゃ。
喜びの原因から喜びが起こるのを観るのじゃ。
怒りの原因から怒りが起こるのを観るのじゃ。
悲しみの原因から悲しみが起こるのを観るのじゃ。
そのようにして感情が原因から機械的に起こるのを観られれば、感情との同一化もなくなるのじゃ。
それは苦の原因を探して厭離することにも繋がるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>324 なるのじゃ。
他人のためと思えば他人への善事にもなるじゃろう。
起きないのじゃ。
偶然なのじゃ。
少しずつでも布施をすれば金運もつくのじゃ。
無財の七施でもよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/
245:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/11(木) 21:13:32 ID:Dp/qMVVc0 [118/118]
サマーディでは、既知のものに対象がないので、サマーディの状態を知と呼ぶことはできない。それは確かに普通の意味での知ではないが、同時にそれは無知でもない。そこには知るべきものは何もない。それは、知と無知の両方とも異なる。対象が全く存在しないから、対象を知ることも知らないこともないのだ。そこにあるのは主観だけだ。そこにあるのは知る者だけだ。どんな対象についての知もなく、純粋な知、つまり中身が空な意識があるだけだ。
ある人がサドゥーに「瞑想とは何ですか?」と尋ねたことがある。サドゥーは、「近いものの中にいることが、ディアーナ、瞑想だ」と答えた。
何があなたに近いだろう? 自分自身を除いて、すべてのものは自分から離れていないだろうか?あなただけがあなたの自己の近くにいる。しかし、あなたは永遠に自分自身を離れ、常に自分自身から遠く離れている。あなたはいつもどこか周囲にいる。自己の中にいて、周囲にいないことが瞑想だ。あなたがどこにもいなくて、あなたの心もどこにもないとき、そのときでさえもあなたはどこかにいる。そのどこかが瞑想だ。
私がどこにもいないとき、私は自分自身の中にいる。それは周囲にいることではなく、離れていることでもない。それは内向きであり、親密だ。そこにいることによってのみ、人は真理に目覚めることができる。あなたは周囲にいることによってすべてを失っているが、それはすべてあなたの自己の中にいることによって取り戻すことができる。
―
忘我の体験では、自分という主体や感覚がないとき、どこにも自分はなく、ただ何も無いという観ることがあるだけでした。ですので、「あなたがどこにもいなくて、…、そのときでさえもあなたはどこかにいる。」という状況が腑に落ちない感じです。元が主語を必要とする英語の言い回しだからでしょうか。今日のオショーのことばを、少し詳しく教えてください。
246:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/11(木) 22:01:43 ID:1d4drIFg0 [128/128]
自分という観念も、感覚も無く、心の働きさえも感じられない時、そこにも確かに意識は在るのじゃ。
それらを認識している意識が在るからそれもわかるのじゃ。
自分が全ての認識の主体であると思っていると、自分が無いと何もないと想うのじゃ。
自分さえも実は認識の主体ではなく、ただ観念として認識されたものとして知れば、自分の無い意識も感得できるのじゃ。
何か存在するものがあると言えるのは、その意識だけなのじゃ。
全てを捨ててその意識に回帰すればそれが瞑想なのじゃ。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/
724:おさかなくわえた名無しさん[]:2021/03/11(木) 14:28:51.20 ID:7Z3hGn2M
鬼和尚は朝鮮人は醜く弱く卑怯なので嫌いですか?
725:ほし[sage]:2021/03/11(木) 17:54:03.90 ID:7ot1CnqU [1/7]
自分を知ることは、自分の観念を知ることと同じ意味ですか?
それと偽和尚さんに質問があります、どこへ行けば会えますか?
726:ほし[sage]:2021/03/11(木) 18:03:03.40 ID:7ot1CnqU [2/7]
ほし から 彗天 と名乗ってもよろしいでしょうか?(なんとなくかっこいいので)
730:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/03/11(木) 21:33:48.14 ID:aJy/ePBt [1/2]
>>724 わしにはもはや好悪は無いのじゃ。
>>725 そうなるじゃろう。
自分が観念でしかないことを知ることになるのじゃ。
それまで実践あるのみなのじゃ。
>>726 よいのじゃ。
彗天よ実践あるのみなのじゃ。
727:ほし[sage]:2021/03/11(木) 19:47:33.08 ID:7ot1CnqU [3/7]
自分の観念も自分の心状(自分の心のありさま・自分の心の状態)から生まれている気がします。
自分の観念を知るよりも、自分の心状を知ったり自分の心状を理解することの方が先のようにもおもえますがいかがでしょうか?
自分の心のありさま・心の状態でさえも観念と見ていけばいいのでしょうか。
728:ほし[sage]:2021/03/11(木) 20:31:50.07 ID:7ot1CnqU [4/7]
気持ちも観念なのでしょうか?
729:ほし[sage]:2021/03/11(木) 20:59:25.26 ID:7ot1CnqU [5/7]
頭や心に浮かんだものを「これも観念とみていく」スタイルでもオーケーでしょうか?
731:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/03/11(木) 21:40:10.05 ID:aJy/ePBt [2/2]
>>727 そうじゃ、それもまた観念なのじゃ。
全て見ていけば善いのじゃ。
全てをありのままに観るのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>728 観念なのじゃ。
認識するものは全て観念なのじゃ。
>>729 それでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/
349:避難民のマジレスさん[]:2021/03/10(水) 23:15:38 ID:PDgIfnws0
350
止大用庵破却 2/2
認定盤擔板漢禪 定盤をとむたん板漢の禪
衲僧作略豈膠絃 衲僧の作略豈に絃にかうせんや
殺活從横悪手段 殺活從横悪手段
鑄消正印漢王前 正印をちうせうす漢王の前
くま訳
物事を判断する厳格な基準の存在を認めるのが、一面のみを見て、全面をしらざる禅である。
真の師家が何で、絃の張り具合に拘る事があろうか、中ぐらいが良いのである。
恣意的な基準で活かしたり殺したりするのは、悪い手段である。
漢王も将軍の印を作って与えて後で取り上げたりしたのである。
*定盤:表面を水平で平滑になるように作った平面盤。組み立てなどを正確に行うのに用いる。
*擔板漢(たんばん):一面のみを見て、全面をしらざる痴漢をいふ。
*膠す:① ねばりつく。くっついて動かない。② 物事にこだわる。拘泥(こうでい)する。
*弾琴の喩:一生懸命に修行をしているのに、いっこうに悟りの境地に至ることができないと、修行に行き
詰った悩みを弟子ソーナ(琴奏者)から打ち明けられた際に、琴をかなでるには、弦をつよく緊(し)めす
ぎず、ゆるすぎず、ほどよく弦を緊めることが大事、修行も琴の音を調える時のようにその中道をとらね
ばならない、と助言して悟りに導いた。
*鑄消正印漢王前:https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>23 >>24
(´・(ェ)・`)つ
350:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/11(木) 23:04:44 ID:1d4drIFg0 [161/161]
上っ面だけで全面を知らないのが今まで大用庵を修めていた衲僧の禅であるというのじゃ。
その策略は膠に糸がこびりついたような殺活縦横の悪手段なのじゃ。
正に漢王が印を鋳して取り消すが如きものなのじゃ。
コメント