鬼和尚 2021/03/09(火)

鬼和尚に聞いてみるスレ part18
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1611967514/

312:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/08(月) 21:55:21 ID:OIGzVmTg0 [1/2]
身体の厭離についてですが
ごく稀に自分の手とかが自分のものでは無く感じて驚いてしまう時があったのですが、
それは一瞬、体への自己の投射が遅れてしまって起きていることなのでしょうか?

また、寝起きとかに、自分の現在の環境を思い出すのに時間がかかる時があるのですが、
覚醒している時と夢の中では参照される記憶が違っているのですか?
記憶喪失のように、普段の自分の生活や周りの人の事を思い出せなくても、人間だとか物だとか基本的な事は覚えているので、それも不思議だと思いました。
それは身に付いた習慣の深さによるのでしょうか。

夢を見て普段の自分は忘れていても、
別のキャラクターになっているだけで
人間や世界の捉え方はほぼ同じです。

あとボーッと取り留めもない雑念を観ている時もありますが、その時は自意識が無くなっています。
自己が無いという感じではありません。
自意識はなくただ目の前のものを観ている感じです。
これは忘我ではないですよね?

忘我というのは、前に一瞬だけ音と一体化してビックリした事があったのですが、そのように、観ているという感覚が無くなる感じになりますよね?

自意識が無い状態というのはそれも記憶の作用が違っているからですか?

また、このようなことが不意に一瞬起こるのは何故なのでしょうか?
起こそうと思っても難しく、不意に起こっても無自覚か驚いて一瞬で終わってしまいます。
驚かずに継続させたり細かく観察するにはどうしたら良いでしょうか?

314:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/08(月) 21:56:36 ID:OIGzVmTg0 [2/2]
気が頭頂のブラフマンドラに入ればサマディーに至るとのことですが
頭頂に意識を向ける事はどうなのでしょうか?
それによって気を登らせたり、
頭に入りやすくなったりは、
出来ないのでしょうか?

315:避難民のマジレスさん[]:2021/03/09(火) 09:25:55 ID:4IphjdbQ0
>>313
ありがとうございました。

そのように伝えます。

317:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/09(火) 21:40:16 ID:1d4drIFg0 [80/81]
>>312 そうじゃろう。

 違うじゃろう。
 そうじゃろう。

 忘我ではないのじゃ。
 自分が在るのじゃ。

 そうじゃ、自分が忘れられて対象と一体化しているのじや。

 作用は同じなのじゃ。
 ただ主体を忘れているだけなのじゃ。

 それが本来の状態であるからなのじゃ。
 自己観念への囚われがある方が不自然なのじゃ。
 ただひたすら毎日止観を実践し続けるとよいのじゃ。
 そうすれば今は出来ないこともできるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

>>314 そのような法もあるのじゃ。
 頭のチャクラに集中する法なのじゃ。

 しかしそれをやると頭に気も意識も集中して眠れなくなったりするのじゃ。
 頭もおかしくなり易いのじゃ。
 熱で脳細胞が死滅するようじゃ。
 気を完全にコントロールできなければやるべきではないのじゃ。

>>315 そじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

316:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/09(火) 14:08:44 ID:1Y7jTcx60
312もお願い致します。

ブログで正中線が真っ直ぐになるようにと書かれていたので確認したところ
正中線が曲がって歪んでいました。

そういえば以前写真に写った時に片方の肩が上がっており、違和感を感じていましたし、顔にも左右の歪みが出てきているようです。

これは骨格が歪んでしまって、普段の自然な姿勢に歪みが出てしまっているのでしょうか?

歪みを治さないと状態では丹田が揃わず気が登らないですか?
歪みを治すには何をしたら良いでしょうか?

318:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/09(火) 21:43:05 ID:1d4drIFg0 [81/81]
>>316 312に↑答えたのじゃ。
 
 そうじゃろう。
 
 直さなければ丹田は揃わないじゃろう。
 ヨーガとか気功法とか西式健康法で正すと善いのじゃ。
 治れば自然に健康になるからわかるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

240:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/09(火) 21:05:28 ID:Dp/qMVVc0 [116/116]
心とは何だろうか? 心とは、感覚によって知覚されたものの収集者であり、また収集物でもある。心を自己と見なす人は誰でも、使用人を主人と勘違いしている。そして、もし本当の自己を実現したいならば、あなたが知っているものをあきらめなければならないし、知る者に従わなければならないだろう。心はあなたが知っているものに過ぎず、自己はあなたがすべてを知っていることを意味する。

見者、知る者とは自己のことだ。この自己は、生と死とは異なり、マーヤーとモクシャとも異なり、幻想と解放とも異なる。それはただ見者であり、光の、闇の、世界の、涅槃の、すべてのものの見者だ。自己はすべての二元性を超えている。

人はこの見者を知るとすぐに、蓮のようになる – それが生まれた泥から離れ、生きている水から切り離される。そのような人は、喜びの中にも痛みの中にも、名誉の中にも屈辱の中にも – ただの目者であるため – 生のすべての状況で穏やかであり、落ち着いている。どんなことでも、起こることは、起こる。しかし、それはその人に起こるのではなく、その目の前で起こる。その人は目撃する。その人はちょうど鏡のようになる。鏡は何千ものイメージを映し出すが、痕跡は残らない。

以前は縁起を観察するように意識していたのですが、いつの間にか最近はただ観察するようになっていました。縁起に注意するようにした方が良いでしょうか? それとも、新たな発見があるうちは、今のままで良いですか?

241:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/09(火) 21:55:35 ID:1d4drIFg0 [125/126]
↑縁起が観えるならば観ると善いのじゃ。
そうでなければ観ないでよいのじゃ。
いずれはそれも自然に観えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。

242:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/09(火) 21:58:28 ID:1d4drIFg0 [126/126]
心とは主人ではなく、使用人であるというのじゃ。
それは主体ではなく、認識されたものなのじゃ。
全てのものを見るのが自己であると言うのじゃ。
ただ見るだけであり何も知識とはしないのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

717:おさかなくわえた名無しさん[]:2021/03/09(火) 03:08:20.27 ID:Ji48QPzh
鬼和尚、真言宗の加持祈祷は「ほとんど」役に立たないのでしょうか?
「全く」役に立たないのでしょうか?

最近、「気」に関係する本を読んで興味があります。

718:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/03/09(火) 21:25:38.65 ID:foBhLT24
>>717 信じる者には七割役に立つのじゃ。
 信じない者には役に立たないのじゃ。
 全て自分次第なのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

345:避難民のマジレスさん[]:2021/03/08(月) 23:35:13 ID:NK3zmx/U0 [2/2]
348
佛魔一紙
聖凡萬里隔郷關 聖凡萬里郷關を隔つ
清淨沙門塵事間 清淨の沙門塵事の間
殘雪殘梅窓外月 殘雪殘梅窓外の月
吟中猶劍樹刀山 中猶ほ劍樹刀山のごとし

松本市壽先生訳
聖人と凡人とには、万里もの隔たりがあるものだ。
清浄な僧と、俗事との間も大きな隔たりがあるものだ。
窓の外は残雪と残梅を月が照らしていてとても美しい。
しかし、それを吟じている私の腹の中は、剣樹が乱立する地獄絵図のような煩悩が巣くっている。
仏魔紙ひとえというもので、表面から見てもわかりにくいというだけだ。

くま訳
仏魔紙一重
聖人と凡人は万里も隔たりがあるのだ。
清淨な僧と俗事の間の関係はどうか。
残雪と残梅を窓外の月が照らしている。
それを吟じる我が胸中は、剣樹刀山の地獄の山でのたうちまわっているのだ。

*刀山剣樹:酷く危険な境遇。「刀山」は刀の刃が上を向いた状態で、無数に立てられている山。
 「剣樹」は葉や枝、花、実の全てが剣で出来ている樹。刀山を歩かされたり、剣樹を登らされては落とさ 
 れるという地獄で行われている刑罰のことから。
(´・(ェ)・`)つ

346:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/09(火) 22:02:32 ID:1d4drIFg0 [159/159]
聖人と凡人では万里の差があると言うのじゃ。
清浄な僧でも凡俗とは塵のように小さな差しかないのじゃ。
残雪残梅の外に月が出ているような風流を吟じている中にも剣の木、刀の山があるのじゃ。

清浄な僧も直ぐにも堕落するかもしれんから気をつけろということじゃな。

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