鬼和尚 2021/03/02(火)

鬼和尚に聞いてみるスレ part18
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1611967514/

264:避難民のマジレスさん[]:2021/03/01(月) 23:03:53 ID:TglySyq60
なにもしないということをしているようです。
それをやめるためには、時間、過去にたいして完全に死ぬ必要がありそうです。

265:避難民のマジレスさん[]:2021/03/01(月) 23:43:28 ID:7A7hrJrA0
鬼和尚さん

お寺のお坊さんは、座禅や数息観を毎日されていると思いますが悟っている人はほとんどいないように思います。座禅や数息観をやるだけでは不十分でしょうか?

もう一点、
数息観は集中力がつくとは思いますが、注意力や観察力も身につきますか?
資格勉強をしていて、その役に立つのかなと思いました。

よろしくおねがいします。

266:261[sage]:2021/03/02(火) 01:07:50 ID:XYcS8oQg0 [2/3]
>>263
えっ、止まるのですか。
この反応はほぼ条件反射のようなもので、例えば、蜘蛛や蛇を見ると嫌悪感を起こす、梅干しを見ると唾液が分泌される的な反応の話で、無我に至ってからの認識の滅で消える話だと思っていたのですが、また違うのでしょうか?
認識を止めずとも、なんであるかの認識が起きたあとの感覚の反応の関連付けを縁切りすることができるという事でしょうか?
よろしくおねがいします。

270:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/02(火) 21:25:49 ID:1d4drIFg0 [66/67]
>>264 そうじゃ、しないことをするとよいのじゃ。
 することもしないとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>265 そうじゃ、十分ではないのじゃ。
 それらは自分を観るための道具でしかないからのう。
 自分を観なければ悟りは訪れないのじゃ。
 
 身につくじゃろう。
 集中力があればそれらも強くなるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

>>266 出来るのじゃ。
 それもまた観念によるものでしかないからのう。
 観察に拠って観念の縁起を厭離できればそれも消えるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

267:261[sage]:2021/03/02(火) 03:26:22 ID:XYcS8oQg0 [3/3]
http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-category-15.html
では、
悲しみ自体は自然な反応であり、苦ではないが、それが記憶による認識の不備により、何度も繰り返し起こり、止められず、増大していく事が苦になるのじゃ。
例えば病による痛みは今、ここにあるものじゃが、それは本来体に備わった、警報に過ぎないものじゃ。
 体のどこかに不具合があれば、体は痛みという警報装置で教えてくれる。
 痛みはただの警報であり、それが体を傷めるものではない。

過去の出来事により作られた反応と、引用に書いてある自然な反応とはまた違うものですか?
過去の記憶による反応も、学習による機器回避の警報と思われるのですが?

268:避難民のマジレスさん[]:2021/03/02(火) 14:35:45 ID:w.ItkDtU0 [36/36]
260です。脳内麻薬が出ることが初禅に入ったということですか?

269:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/02(火) 19:41:21 ID:1QHAiUWA0 [14/14]
↓下記の動画で、
【UG】神になったサル『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ 著)徹底解説
https://youtu.be/J6QaWq8TZYQ?t

【UG】神になったサル『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ 著)徹底解説


44:52 前段
50:13「サリーの頭の中から一切の雑音がなくなったそうです」
と言ってますが、これはサマーディの状態でしょうか。

271:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/02(火) 21:33:41 ID:1d4drIFg0 [67/67]
>>267 経験による反応は観念によるもの死なのじゃ。
 そであるから厭離できるのじゃ。

 痛みは観念ではないから観察しても在るのじゃ。
 それを苦としないようにすることだけが出来るのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

>>268 それは初禅の条件の一つに過ぎないのじゃ。
 その他、欲を離れるとかの条件が揃っていれば初禅となるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

>>269 違うのじゃ。
 まだ自分を忘れていないのじゃ。
 軽い集中状態じゃな。
 催眠術でも出来る程度なのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

224:避難民のマジレスさん[sage]:2021/03/02(火) 20:49:21 ID:Dp/qMVVc0 [109/109]
第五の質問:あなたは、クリシュナのビジョンやキリストのビジョンを霊的な経験だとは見なさないのですか?

そうだ、それは霊的な経験ではない。どのビジョンも霊的な経験ではない、なぜならば、その水準でのすべての経験は心理的だからだ。他の誰かのビジョンや実現がある限り、それは自己の実現ではありえない。そのような経験であっても、あなたはまだ自分自身の外にいて、自分自身に入ってきていない。自分の中に入ってくるということは、外の経験がないときに起こるのだ。意識が何の対象にも関係していないとき、それは自然に自己に落ち着く。対象のない意識だけが自己に落ち着くことができる。

自己の外では、私は物質の世界と心の世界という二つの世界に囲まれている。これらはどちらも私の外にある。物質が外にあるだけでなく、心も外にある。心は身体の内側にあるので、内側にあるような錯覚を起こすが、心は内側にはない。自己は内側にあり、心の背後にあり、心を超えたところにあるのだ。

私たちは物理的な経験を霊的な経験と間違うことはないが、私たちの心理的な経験は霊的であるかのような錯覚を作り出す。なぜならば、私たちが見ている心のイメージは、私たちが知っている世界のものとは異なり、目を閉じた後にもそれを見るからだ。しかし、私たちは心理的な経験の中で、夢を霊的経験とは考えない。夢もまた目を閉じている時にのみ現れ、目覚めて外の世界との接触すると終わるにもかかわらず。

現実的で霊的であるかのような錯覚を引き起こす、特定の心理的経験がある。それは、心理的な投影だ。心は、目を開いた後でも、目を閉じて見ている夢を見ることができる程度に自分自身に催眠術をかける能力を持っている。それは一種の覚醒した眠りの中で起こる。こうして、私たちは見たいように神を見るのだ – クリシュナやキリストを。そのようなビジョンは、ただの心理的な投影だ。そこでは私たちは実際にあるものではなく、誰であれ見たいと願うものを見る。これらの経験は霊的なものでも神的なものでもない。それらは単に心理的な経験であり、自己催眠によって引き起こされる。

上で、「心理的(psychological)」、「心の(mental)」と訳したものは、「精神的」、「精神の」とも訳すことができます。肉体的-精神的-霊的 という分類はより明確かもしれませんが、最後は分類も捨てるとすれば、そこにこだわらなくとも良いようにも思います。いかがでしょうか?

225:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/02(火) 21:36:32 ID:1d4drIFg0 [116/117]
↑それでよいのじゃ。
ここでは心理と霊的なものとの二つの分類であるからのう。
拘らなくて善いのじゃ。

226:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/02(火) 21:41:05 ID:1d4drIFg0 [117/117]
瞑想中にいろいろな映像を見るのはよくあることじゃ。
お釈迦様も悟りを得る前に見たというのじゃ。
それらは自らの心理的な原因から見るものであり、悟りとは何の関係も無いものじゃ。
全ての映像もなく、感じられるものも無く、感じる自分も無くなれば悟りに近いのじゃ。
何かが感じられるのならばまだ悟りには程遠いと覚えておくのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】77
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1576583672/

842:マジレスさん (アウアウエー Sa72-DFeu [111.239.154.81])[sage]:2021/03/02(火) 05:09:42.03 ID:HdobHixSa
>>841
鬼和尚様
おはようございます
行ってみてよかったと思います
自分の病気の事再確認できたし
一日6時間以上働くと精神的におかしくなること
また、職場で周りに人がいるとつらくなってくることがわかりました
この経験をいかして次の職場探そうと思います

843:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8  (ワッチョイ 3a67-oL1e [219.192.74.62])[sage]:2021/03/02(火) 20:44:46.72 ID:eIhvPY4D0
↑そうじゃ、よっかたのじゃ。
自分を知ることが出来たのであるからのう。
新たな仕事に向かうと善いのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

331:避難民のマジレスさん[]:2021/03/02(火) 00:04:23 ID:7sxj34Oc0
うむ。邪推をしてしまったであります。

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示焚書籍僧   書籍を焼く僧に示す
始皇自然辨邪正 始皇じ然に邪正を辨ず
波旬餘殃如看掌 波旬の余あうたなごころを看るが如し
看看劫火洞然時 看よ看よ劫火洞然の時
書籍金剛不壊性 書籍金剛不えの性

くま訳
書を焼いた僧に示す
始皇帝は自ずと正邪を弁えていたのである。
悪魔も自分の悪行により子孫が報いを受けるか占う為に占は書を焼かなかったのだ。
見よ、この世の終末、劫火が激しく燃えても、
本当に価値のある書籍は、決して消失することはないのだ。

*秦の始皇、丞相李斯の言を用ひて、醫薬卜筮(ぼくぜい)種樹に關する書の外、皆之を集めて焚き、然して 
 天下の民を愚にして、上の政を議するなからしめたり、然れども遂に波旬の餘殃掌を返すが如く、萬萬代
 と豫想したりし帝業も、項羽が一火の爲に東籬の春雪の如く消え失せぬ(脚注) 
*劫火洞然時:僧、大隋法眞禪師に問ふ、劫火洞然として大千倶に壊す、這箇壊か不壊か。隋曰く、壊と。 
 此の世界の滅する時、大火ありて、壊する時をいふ、これを又臨銘終の時に比す、眞の書籍は火位では焼
 けぬ(脚注)
*臨命終時(りんみょうじゅうじ):人の命が尽きようとするとき。略して、臨終
*余殃(よおう):先祖の行った悪事の報いが、災いとなってその子孫に残ること
(´・(ェ)・`)つ

332:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/03/02(火) 22:01:00 ID:1d4drIFg0 [152/152]
本を焼いた僧が居たのじゃな。

始皇帝は邪な本を焼くと言ったのじゃ。
しかし、悪魔が掌を裏返すが如く国が破滅したのじゃ。
本を焼くのはこの世の終わりの劫火のようじゃ。
しかし、本の知識は焼くことができないのじゃ。

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