鬼和尚 2021/02/15(月)

鬼和尚に聞いてみるスレ part18
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1611967514/

140:132[]:2021/02/15(月) 00:18:25 ID:ZlZ6/t1g0 [7/7]
何かの研究をしてたんですかね。全く覚えがない。白衣なのか、白い着物なのか。
白衣なら科学者でしょうかね。
本好きなのは今も変わらないですがね。

141:132[]:2021/02/15(月) 16:58:01 ID:3VgSkIyI0
人間の魂とは、東洋哲学で言う「気」とか「プラーナ」のことであり、プラーナが身体を出入りしているだけだとしたら、死や生も個人も他者も無い世界となりますが、そんな感じですかね。
しかし、すると「前世の記憶」とかが何なのかが分からなくなってくる。

142:避難民のマジレスさん[]:2021/02/15(月) 19:16:49 ID:2PJWwhYQ0
鬼和尚は末那識、阿頼耶識を仮設されているとのことですが、
普段から無認識というわけでは無いと言うことでしょうか?
対象の無いサマーディ(無相)あるいは涅槃に入らないと、再び無認識にはならないということでしょうか。
仮設されたものであるから無為に座せば自然に落ちていくという感じでしょうか?

144:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/02/15(月) 21:34:54 ID:1d4drIFg0 [35/36]
>>140 何度も記憶をさかのぼってみると善いのじゃ。
 いつか思い出すじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>141 それもまた幻想なのじゃ。
 映画を次々に見ているようなものじゃ。
 個我の幻想から生まれた幻想なのじゃ。

>>142 それは阿頼耶識を使っているだけなのじゃ。
 本来全て無認識なのじゃ。
 阿頼耶識も人と話すための道具として使うのみなのじゃ。
 なにか本体があって阿頼耶識になったりならなかったりするのではないのじゃ。

143:137[sage]:2021/02/15(月) 21:20:47 ID:7nGZKOJ20
>>139
鬼和尚さん、ようやく意味がわかりました。
ありがとうございます。

その観念の自分とは、現実には記号のマークです。
つまり、ゲームの中にあるアバターみたいなものです。
それなのに、それが自分に思えます。
そして、苦の元になります。

なぜ、その観念の自分が起こるかを観察すると、「その記号は、こういう意味を持つものだ」というようなイメージによって、起きている気がします。
でも、それがあまりに当たり前過ぎて、そのイメージがない時を想像しにくいです。
何か良い方法があれば教えてください。
よろしくお願いします。

145:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/02/15(月) 21:52:05 ID:1d4drIFg0 [36/36]
>>143 寝ている時にはイメージは無いじゃろう。
 赤子の時にもイメージはなかったじゃろう。
 父母未生の自己を見出せばそこに自分が起こらないことを観察できるじゃろう。
 実践によって確かめるのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

188:避難民のマジレスさん[sage]:2021/02/15(月) 20:50:17 ID:Dp/qMVVc0 [94/94]
科学は聖典であるが、宗教はそうではない。科学は対象物に関する情報であり、宗教は自己の知だ。科学は聖典、経典だ。宗教は修行、実現への道だ。

私は説教をしているのではない。そのアプローチは全く実りのないものだ。必要なのは説教ではなく、治療だ。私は真理に関連する教義を解説するつもりはない。それは全く役に立たない。だが、価値があるのは、真理を見ることができる方法だ。この方法は病気の治療法として機能し、それゆえに目は開く。そうすれば、光について考える必要はない。あなたはすぐにそれを見る。視力がないときは考えなければならないが、視力があれば考えることは問題外となる。失明しているときは、考えることが目の働きをしているが、視力が回復するとすぐに、考えることは不要になる。

私が見るに、思考は知ではなく無知の証だ。知とは、思考がない状態のことだ。それは思考ではなく、洞察なのだ。そして、この洞察は、真理に関するいかなる教義によっても不可能だ。教義は単に物事を知的な獲得に還元し、それらは記憶の一部になる。教義は決して知の一部になることはできない。

教義は教えることはできても、人の本当の人格を変えることはできない。衣服のように、外側のレベルでは変化をもたらすが、内側の存在は以前のままだ。精神は教義に影響されず、そしてベール、カバーが新しい形と新しい色をしている。あなたがこのようであれば、智慧はあなたの上に降りることはできない。それどころか、偽善の溝に落ちてしまう。

自分という感覚を観ようとしていて、かえって自我に囚われていることに気づきました。対象を決めずに観察に励みます。

189:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/02/15(月) 21:49:32 ID:1d4drIFg0 [95/95]
オショーは思考や知識は知ではないとさえ言うのじゃ。
それは記憶に過ぎないからなのじゃ。
記憶は過去と同じことを繰り返すのみであるから変容をもたらさないのじゃ。
洞察することこそ知であり、変容をもたらすものなのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

968:マジレスさん[sage]:2021/02/15(月) 20:11:32.14 ID:/0uIxpX7
鬼和尚さま
ホテルのルームメイクの求人をみつけました!
明日晴れたらハロワいって応募しようと思います

969:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2021/02/15(月) 21:09:05.56 ID:01WXgln/
>>968 善いことじゃ。
 そのように挑戦し続けることで成功にも近づくのじゃ。
 それだけでも偉いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

295:避難民のマジレスさん[]:2021/02/15(月) 00:12:23 ID:e8HPhVb.0
くま訳改
第二句:野川の釣り船の横で空しく詩を吟じていたのだ。
第四句:詩は楽しいからやめないのだ。

326
佛誕生
三世一身異號多 三世一身異号多し
何人今日定誵訛 何びとかこんにちごうがを定めん
娑婆来往八千度 娑婆来往八千度
馬腹驢胎又釈迦 馬腹ろたいも又釋迦

くま訳
法報応(ほっぽうおう三身)の仏は一つであるが、異なった多くの呼ばれ方をする。
誰が、今日、この仏の現われの入り組んで、むつかしきを正しく理解できているのか
衆生教化のために、この世に来生されたことが、すでに八千遍に達すると、言われるのだ。『梵網経』
馬や驢馬の子も、万物ありのままが釈迦なのだ
あるいは、見るロバも見られる驢馬も又釈迦というのが、法身のたとえである。『従容録』第五二則

*誵訛(ごうが):?寤訛とも書く。いりくんで、むつかしきこと
*三世:有為の事物は一刹那の間も止まらず、生じ終わると直ちに滅す。よって来生を未来世となし、生じ 
 たるを現在世となし、滅し終えたるを過去世となす。仏教では、時間を実体的に捉えず、つまり実在する
 ものとは見ない。変化し移ろいゆく現象や存在の上で、仮に3つの時間的な区分を立てるに過ぎないとす 
 る。
*三身:      [説明]                   [三徳]  [仏 / 如来] 
法身(ほっしん) 宇宙の真理、仏性。 法身 毘盧遮那仏
報身(ほうじん) 仏性のもつ属性、はたらき。修行して成仏する姿。般若 阿弥陀仏
応身(おうじん) この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。解脱 釈迦牟尼仏

*井の驢を?櫺るが如し:『従容録』第五二則「曹山法身」に出てくる言葉で、仏の真法身は虚空のようであ 
 るが、物に応じて形を現す。その様子を徳上座が「驢の(驢馬が)井(井戸)を?櫺(見)るが如し」と 
 言ったのに対し、まだ不十分だとして、曹山禅師が言った言葉が先の「井の驢を?櫺るが如し」
 驢馬にも目があるので井戸を見れば、主観(見るもの)と客観(見られるもの)とが成立する。しかし、 
 井の驢を?櫺るが如しでは、目のない井戸が見るとは、無心で見るあり方を言っていると考えらる。
(´・(ェ)・`)つ

296:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/02/15(月) 23:39:44 ID:1d4drIFg0 [136/136]
仏は三世に一つの身でるが名前が違うというのじゃ。
誰がその正邪を定められるのかというのじゃ。
八千度も娑婆世界に生まれかわって法を説いているのじゃ。
馬もロバも皆釈迦というのじゃ。

三世の娑婆世界も一切衆生も皆仏ということじゃな。

コメント

タイトルとURLをコピーしました