鬼和尚 2021/01/12(火)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

858:龍閃[sage]:2021/01/12(火) 20:45:23 ID:cPQMP3CM0 [7/7]
サマーディ=小悟
なのですか。

859:避難民のマジレスさん[]:2021/01/12(火) 20:46:30 ID:cFzo4cZc0 [5/5]
瞑想をすると首の後ろ、後頭部下あたりに何かが詰まったような違和感があります。
これは上に向かう気が詰まっているんでしょうか?
また、首を上に向いたり曲げたりしたくなるのですが、それに任せて動かしたほうがいいですか。それとも動かさずに位置を固定したほうがいいですか?

860:82[sage]:2021/01/12(火) 21:16:34 ID:W1L/QWkQ0
鬼和尚さん、気づいたのですが、私は自分の持っている蔵書を失うことが恐いです。
自分の過去を失う気がするからです。
蔵書とその内容についての記憶は過去の蓄積で、自分の自己イメージの元になっています。
自己イメージは人形のようなもので、それは自分を助けることもなく、苦の元になっていると思ってみても、やはり失うことが恐いです。
過去を失うと、空っぽで何もない自分になってしまうと思って、恐ろしくなります。
個性や内面世界は反応作用に過ぎないと思えません。
というよりも、機械の反応のようなものだとしても、個性として問題はない気がしてしまいます。
それなりのパターンの数と多様性にはなるはずです。
ただの反応作用に執着するのはおかしなことなのでしょうか?

861:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/01/12(火) 21:27:21 ID:1d4drIFg0 [226/226]
>>858 サマーディはまだ小悟でもないのじゃ。
 我を忘れているだけなのじゃ。
 我を失くせば小悟なのじゃ。
 認識をも滅すれば大悟徹底なのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

>>859 そうじゃろう。
 首は多くの者が気が詰まる所なのじゃ。
 細いからよく凝ったりするのじゃ。

 動かして善いのじゃ。
 それによって凝りも解れて気が停滞しなくなるのじゃ。
 凝りがなくなれば止まるのじゃ。

>>860 それがおかしなことか観察して確かめるのじゃ。
 例えば狗にベルの音と共に餌を与えればベルが鳴るだけでよだれをたらすのじゃ。
 ベルが鳴ってよだれをたらすことに執着するのはおかしいことじゃろうか?
どこまでも自ら観察して答えを出すのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

114:避難民のマジレスさん[sage]:2021/01/12(火) 20:52:47 ID:Dp/qMVVc0 [60/60]
まさにあなたの目を開くこと、この見ることこそが変容であり、新しい生の始まりだ。目を開くと変化が始まり、その後の行動は何をするにしても、あなたを真理へと導く。闇の層を突き破り、光の中へと歩を進め、罪の網を一掃して神を得る、無知に致命的な打撃を与えて、魂に到達するのだ。

これは、自己実現への旅のための、修行のための正しい道だ。そして、その前に夢を見る必要はない – 魂と神についての夢、サット・チット・アーナンダとブラフマンについての夢を見る必要は無いのだ。これは本当の楽園が失われている間、愚か者の楽園に住んでいるようなものだ。あなたもまた、行為の道によって、カルマによって、無知と闇を払拭することによって、完全な状態、サット・チット・アーナンダに到達することができる。

昨夜、ある人にサットサンガとは何かと聞かれた。私は答えた。サットサンガとは、自己の仲間、真理の仲間を意味する、そして真理は外では見つけられない。グルも、先生も、シャスターラも、あなたにそれを与えることはできない。それはあなたの中にあり、もしそれを得たいのなら、あなた自身の仲間を求めなさい。自分自身と一緒にいなさい。しかし、私たちは常に誰か他の人と一緒にいるのであって、決して自分一人ではない。

エックハルトは、かつて孤独な野原の木立の下に一人で座っていた。通りすがりの友人が彼がそこに座っているのを見た。その友人は近づいて言った。 「私はあなたが一人で座っているのを見て、一緒にいてあげようと思ったので、あなたに加わるためにやってきました。」 あなたはエックハルトが何と答えたか知っているだろうか? 彼は言った。「私は自分自身といたが、あなたが来てくれたので、今私は完全に独りになった。」

こんなふうに独りでいたことがあるだろうか? これがサットサンガだ。 これが祈りだ。 これが瞑想だ。私は自分の中に独りでいて、何の考えも、誰についての考えもないとき、私は自分自身の仲間の中にいる。外の世界が不在の時、内には自己の仲間がいる。その同伴者のない孤独の中で、あなたの純粋な存在の中で、真理が実現される。

「カルマによって」とありますが、意味がよくわかりませんでした。行為の道(the path of action)→(良い)カルマ→無知と闇を払拭でしょうか? カルマと関係なく、正しく観察すれば気づきがあるのかと思っていました。
また、エックハルトの答えについても教えてください。自分の思考に気づいたということかと思ったのですが、もし完全に独りになったのなら、友人と会話できないのではないでしょうか。

115:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/01/12(火) 21:47:38 ID:1d4drIFg0 [55/55]
カルマとはもともと行いの報いを解釈するために作られた概念なのじゃ。
そうであるから実践の成果とか、因果とか、結果でよいのじゃ。
行いとその成果で無知と闇を払拭するのじゃな。

悟っても会話はできるのじゃ。
友人の訪問によって自分を観ている自分に気付いたのじゃ。
そして独りになったのじゃ。
それがアートマンの独存なのじゃ。
実践に拠ってのみ理解できるのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

220:避難民のマジレスさん[]:2021/01/12(火) 14:00:40 ID:E.c2fM8.0
280 2/8 
佛殿
古佛堂中露柱雲雨 古佛堂中露柱雲雨
作以手分破勢云  手を以って分くる勢をなしていわく
分破後如何    分破して後如何
雲門霧露     雲門霧露 

くま訳
古佛は堂中の柱や雲雨と同じである。
直接自ら道を切り開いた経験から云うのである。
切り開いた後、さて、どうなるかというと、
雲門が言うように、いつでもどこでも霧露は霧露と言うことである。

*雲門文偃(うんもん ぶんえん、864-949年、中国の唐末から五代の禅僧。五家七宗の一つ、雲門宗の
開祖。一休さんお気に入りの師匠。
 雲門語録:「誕生したばかりの世尊は、七歩あるいて、「天上天下、唯我独尊」と言われました。この世
尊の故事を評して雲門は、「我れ当時(そのかみ)、若し見しかば、一棒に打殺して、狗子(くし)に与え
て喫却せしめて、貴ぶらくは、天下太平を図(はか)りしに」と言ったのです。「俺がその場にいたら、そ
の赤子を打ち殺して犬に食わせたものを、そうすれば、天下は太平であったのだ」というような意味で
す。」(禅文化研究所のブログ)
*露柱雲雨:雲門の示衆に曰く「古佛露柱と交わるる、是れ第幾機ぞ。」自ら代わって曰く、「南山に雲を
起し、北山に雨を下す」と。即ち釈迦も達磨も彌勒も露柱も皆同じなり。同一真理何も別はない、南山も北
山も自ら創痍ならずして雲雨の相応するの自然、具眼者須らく自得すべし。(国訳禪学大成脚注)
(´・(ェ)・`)つ

221:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2021/01/12(火) 22:02:53 ID:1d4drIFg0 [102/102]
そんな感じじゃな。
古仏は柱と同じであり雲と雨も同一じゃな。
分別の手を以って分ければどうなるかというのじゃ。
雲門は霧露の同じ水である如しというのじゃ。

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