鬼和尚 2020/12/26(土)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

708:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 23:15:59 ID:ShvP1ug.0
>>705
この精進は大悟徹底するまで消えないです。引き続き精進しますm(__)m

710:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 23:22:53 ID:w.ItkDtU0 [2/4]
質問1
鬼和尚は猫背じゃないと思いますが子供の頃から猫背じゃなかったんですか?

2
鬼和尚は座ふを敷かずに地べたに半跏趺坐を組んだ場合でも猫背になりませんか?私は座ふを敷かないで半跏趺坐を組むとどうしても骨盤が後ろに倒れて猫背になってしまいます。

3
椅子に座るとき鬼和尚は正しい姿勢をキープできますか?つまり病院の椅子などに座っている時、骨盤が後ろに倒れることなくピンと正しい姿勢をキープし続けているかということです。

711:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 23:27:01 ID:w.ItkDtU0 [3/4]
>>709
見ようとすれば見える、というのは目を開ければ見えるし目を閉じたら見えないという意味でおっしゃっていますか?

718:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/26(土) 21:47:13 ID:1d4drIFg0 [189/191]
>>708 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>710 わしは猫背であった時も在ったが、気をつけて直したのじゃ。

 2 猫背にはならないのじゃ。
  座布団をしいてよいのじゃ。

 3 出来るのじゃ。
  むしろ下に座るより楽なのじゃ。
  実践して確かめるのじゃ。

>>711 違うのじゃ。
 見る能力を使用すれば見られるのじゃ。
 しなければ見ないのじゃ。
 自在なのじゃ。

712:避難民のマジレスさん[]:2020/12/26(土) 09:34:37 ID:rlAecqNg0 [15/16]
鬼和尚様
今となってはもう夢か現かわかりませんが
今朝の装置5時半くらいに猫に起こされて
朝起きてすぐは瞑想に良いということを覚えていて
自分の思考を観察していたら突然「これが自分がなくなるということか!」という理解とともに
思考が爆発?して一瞬だけ自分がなくなった
んですけどこれは現実だったんでしょうか?
自分でも何を言っているのかわかりませんが
これが夢だったら夢の中でも瞑想をしていたら
無我になったりサマーディになったり悟れたりするんでしょうか?

713:避難民のマジレスさん[]:2020/12/26(土) 18:32:09 ID:w.ItkDtU0 [4/4]
同じ初禅でもより気持ちいい初禅、というように同じ初禅でも気持ち良さに振れ幅はありますか?
座禅をしていると気持ちいいは気持ちいいんですけど気持ち良さが未だ微弱なんです。

714:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/26(土) 20:05:09 ID:RjYaaFcI0 [1/2]
心は感情や思考とは別ですか?鬼和尚は時にはそれらも含めて心と言うこともありますか?

心は感情や思考を認識・分別する働きであるなら、それらとは別であり、心そのものが弱ったりはしないのかなと思い疑問に思いました。

719:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/26(土) 21:55:05 ID:1d4drIFg0 [190/191]
>>712 今起きているのと同じ位に現実なのじゃ。
 夢の中ではサマーディになる位なのじゃ。
 もともと忘我であるからのう。
 無我になるには自分を見なければならないのじゃ。
 夢の中では忘れている故にはっきり見ることはできないのじゃ。

>>713 多少はあるじゃろう。
 もっと快が強くなってしまえば深く瞑想に入ってしまうのじゃ。
 二禅に行ってしまうのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

>>714 わしは始から心には思考も感情も含まれると書いているのじゃ。
 肉体の働きさえも心といえるのじゃ。
 感情は肉体の反応ともいえるからのう。
 心身不二なのじゃ。

715:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/26(土) 20:08:26 ID:RjYaaFcI0 [2/2]
長く座って居られる姿勢は、力を抜いても倒れないですか?

サマディーになると姿勢の事は意識して居られなくなりますよね?
ということは姿勢が不安定だと倒れてしまうか、倒れる前に意識を取り戻しサマディーに入れない、ということになりますか?

私は長く座っているとグラッと倒れそうになるので、やはりそれで深い集中に入れないのかもしれません。

横には倒れないですが前後、特に後ろの方に倒れそうになります。姿勢のどこら辺が悪いのでしょうか?

716:龍閃[sage]:2020/12/26(土) 20:08:47 ID:cPQMP3CM0 [2/4]
死んで天にいく人間、死んでまた人間に生まれ変わる人間、地獄にいく人間、
だいたいそれぞれどのくらいの割合なんでしょうか。

畜生界は地獄の類なのですか。

717:龍閃[sage]:2020/12/26(土) 20:13:14 ID:cPQMP3CM0 [3/4]
そういえば、数ヶ月前に鬼和尚さんが年末ぐらいから災禍が起こると言うような趣旨のことをおっしゃってた気がしますが、それは現在問題となっている疫情悪化のことでしょうか。それともそれ以外のことでしょうか。

720:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/26(土) 21:59:51 ID:1d4drIFg0 [191/191]
>>715 そうじゃ、倒れないのじゃ。
 そうなるのじゃ。

 後ろに倒れるということは重心が後ろに傾いているからなのじゃ。
 体の真ん中に重心が真っ直ぐにおりるようにするのじゃ。
 上から線で釣られているようなイメージで座るのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

>>716 それは時代の影響等でもかわるから誰にもわからんのじゃ。
 いつの時代でも天に行くものは少ないじゃろう。

 畜生でも恵まれた環境で安楽になることもあるのじゃ。

>>717 もはやそう言えるかもしれん。
 更にまた何かあるかもしれん。
 常に死を想って修行に励むのみなのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

79:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/26(土) 21:02:32 ID:Dp/qMVVc0 [42/42]
第四の質問:神とは何ですか?
神とは人ではなく、経験だ。観ること、自我を解体した後の宇宙についての経験、それが私が神と呼ぶものだ。神の経験には特定の種類のものはなく、むしろ、完全で普遍的な愛の経験が神だ。それは中心を持たず、すべての存在だ。すべての存在がその中心だ。神の経験を語るのは間違いだが、あなたは完全な愛の経験は神だと言い得る。

愛とは、二人の人間の間の関係だ。この同じ関係が個人と存在の間にあるとき、私はそれを神と呼ぶ。究極の段階、愛の開花こそが神なのだ。そして、ここで私は、「神は愛なり」というキリストの格言を思い出す。

「私」が消えたとき、残るものは愛だ。自我を取り囲む壁が崩れたとき、残るものは愛だ。愛そのものが神なのだ。それゆえに、神を知ることは不可能だが、神になることは可能だ。

第五の質問:あなたは、私たちが生きているこの生は、全く生ではなく、死ぬことの長い引き延ばしの過程だと言いました。これはどのようなことを意味していますか?
我々が生と呼んでいるものが生ではないことは、まったくの真実だ。もしそれが本当に生であるならば、いったいどうやって死で終わるのだろうか? 生と死は二つの矛盾したものなので、どうして死が生の成就になるのだろうか? 死は誕生の終わりであって、生の終わりではない。

そして、死は最後に来るということから、死は最後にだけ始まると考えてはならない。死は誕生そのものの中に現前しているのだ。それは生まれたその日から始まるのだ。生まれた後、私たちは刻一刻と死んでいく。この死の過程が完了したとき、私たちはそれを死と呼ぶ。生まれた時に種として存在していたものが、最後には完熟した形で現れる。したがって、死後には何も確実なものはないが、死は確実だ。それは、誕生そのものと一緒にやってくるからだ。誕生は死の別名にすぎない。このことをよく理解しておこう。あなたは生まれたその日から死に始める。だからこそ、私たちが知っているような生は、生ではなく、ゆっくりと徐々に死んでいく長い過程であると言いたいのだ。

私たちはこのゆっくりとした死に慣れていて、生には慣れていないので、いつもこの死から自分自身を救おうと忙しくしている。私たちの計画や活動はすべて、ある種の安全と自己防衛を目的としている。そして、私たちは何をしているのだろうか? 私たちはいつも死から身を守ることに忙しくないだろうか? また人は、同じ理由で、防衛のために宗教的になる。死が近づいていると感じた時に宗教に入るのは、そのためだ。 ほとんどの場合、老人の宗教はこの種のものだ。私はこれを本当の宗教性とは呼ばない。それは死への恐怖の一側面に過ぎない。それは最後の安全対策だ。真の宗教性とは、恐怖からではなく、生の経験から出てくるものなのだ。

仕事や娯楽に打ち込むのも、死から身を守るというか、死を忘れるための活動だと感じ、何をしているのだろうと思う時があります。一方で、そのような活動から得られる快を好ましく感じる時もあります。引き続き、偽りの観念の観察に励みます。

80:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/26(土) 23:13:49 ID:1d4drIFg0 [38/38]
神とは愛だというのじゃ。
そして無我になった時から現われる宇宙の体験も神だというのじゃ。
キリストも神は愛と言ったのじゃ。
神を知ることは不可能だが神にはなれるというならば、愛を知ることは不可能だが愛には成れるという事なのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

496:おさかなくわえた名無しさん[]:2020/12/26(土) 07:35:07.54 ID:hXx26QF3
鬼和尚、最近は経済(お金)の事ばかりで、人の優しさなど求めていないようです。
コロナの問題でも同じで、人の命より経済を優先しているようです。
人間をもっと大事にするには、どうしたら良いのでしょうか?

個人レベルでもそういう風になりつつあります。

497:鬼和尚信者に捧げます[]:2020/12/26(土) 17:53:40.01 ID:mAJI9DIa [1/3]
https://note.com/butsudesi

498:鬼和尚信者に捧げます[]:2020/12/26(土) 18:18:11.55 ID:mAJI9DIa [2/3]
鬼和尚の教え(ことば)を、喩え50年聞いたところで、
その人が修行完成することは「絶対に無い」ことを約束します。
そして行者が失う50年は、とてつもない命/時の喪失である、とも言っておきます。

499:鬼和尚(愚かな者)信者に捧げます[]:2020/12/26(土) 18:28:13.60 ID:mAJI9DIa [3/3]
鬼和尚の意識は
「在家の人々も出家した修行者たちも、つねにわたくしのことを知れ。およそなすべきこととなすべからざることについては、わたしの意に従え」
愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまるのである。利益を得るよすがは、ニルヴァーナにいたる道とは異なっている。」

ここに留まっています。
彼やその信者が修行完成することは「絶対に」ありません。

500:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/26(土) 21:44:18.37 ID:PA2Z8KVJ
>>496 他人も自分の一部や身内と思って考えれば大事にできるのじゃ。
 それが慈悲なのじゃ。
 自他一如なのじゃ。
 そのような心がけで生きると善いのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

787:マジレスさん[]:2020/12/26(土) 19:12:45.08 ID:LYd9U4eR
鬼和尚、薬や手術に依らずに眼圧を下げる方法がありましたら教えてください

788:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/26(土) 21:42:44.93 ID:vkFlnJak
>>787 それはまず首の周りから治していくのが大事なのじゃ。
 首の静脈やリンパ管がつまると眼の中の液体がうまく排出されずに眼圧が上がるのじゃ。
 首の周りの筋肉をマッサージするのじゃ。
 硬くなっていたり、痛かったりするところがあればそこを揉み解して下にさするのじゃ。
 首を前後左右に十回ずつ曲げる運動をするのじゃ。
 次は縦や横に回したりする運動もするのじゃ。
 歩くのも善いのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

181:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 12:26:20 ID:y8r1aV7o0
263
懺悔抜舌罪   抜舌の罪を懺悔す
言鋒殺戮幾多人 言鋒殺戮す幾多の人
述偈題詩筆罵人 偈を述べ詩を題して筆人をのる
八裂七花舌頭罪 八裂七花舌頭の罪
黄泉難免火車人  くわうせん免れ難し火車の人

蔭木英雄先生訳・解説
ワシは剣のような言葉でどれ程多くの人を殺してきた事か
偈や詩を作って、筆で人を罵倒する(しかし、これは雲門や黄檗のように慈悲行なのじゃ)
人を惑わす舌先三寸の罪は  
死出の旅路で火車に乗せられることだろう。

碧眼録 六 平鋪の処に到って又却て人を罵る(雲門文語は日常会話でも人を罵って導く)
碧眼録 十一 人多く喚んで、「黄泉人を罵る」と為す。具眼の者は自ら他の落処を見ん(多くの人は 
「黄壁希運は、よく人を罵るお方だ」と言うが、具眼の者は黄壁の真意を知っているだろう)。
の用例で明らかな如く、罵署の詩偶は胡乱の修行者を覚醒させ、警策する接化の手段なのであった。

くま訳
懺悔する。悪言を吐いて舌を抜かれる罪を犯したのである。
言葉を剣として、幾多の人を殺戮したのだ。
偈や詩により、筆で人を罵ったのだ。
人々をばらばらに裂き、砕けさせる舌頭罪を犯したのだ。
黄泉の旅路で火の車に乗せられることは免れないであろう。
           
*鋒(ホウ):1 刃物の先端。ほこさき。きっさき2 軍隊の先陣。「先鋒」3 物事の鋭い勢い。
*七花八裂(シチカハチレツ):ばらばらに裂け砕けること。
(´・(ェ)・`)つ

182:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/26(土) 23:28:12 ID:1d4drIFg0 [85/85]
一休も懺悔するのじゃ。
今まで毒舌を吐いたことをわびるのじゃ。
しかし、実は自分の筆の鋭さを誇っているようにも見えるのじゃ。
筆先だけで地獄にも落ちる罪を重ねたというからのう。
かなりの筆力なのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

449:避難民のマジレスさん[]:2020/12/26(土) 18:10:15 ID:dLTm0wg60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 2

 精神は、それが静かであるときだけ、理解が来るという真理がわかるとき、静かです-
私はあなたを理解しようと思うなら、静かでなければならない。あなたに対して反応を持ってはならない。先入観を持ってはならない。自分の結論、自分の経験すべてを片づけて、あなたに面と向き合って出会わなければなりません。そのときだけ、精神が自分の条件づけから自由であるとき、私はほんとうに理解するのです。私がそれの真理がわかるとき、そのとき精神は静かです-そのときどのようにして精神を静かにさせるか、という問いはありません。真理だけが、精神をそれ自身の観念作用から解放できるのです。真理がわかるには、精神は、それが興奮・動揺しているかぎり、理解を得られないという事実を、悟らなければなりません。精神の静けさ、精神の平静さは、意志力により、願望のどんな作用によっても生み出されるものではありません。それが [産み出] されるなら、そのときそういう精神は、囲い込まれ・閉じ込められ、孤立しています。それは死んだ精神です。ゆえに適応性、柔軟性、すばやさの能力がないのです。そういう精神は創造的ではありません。
 私たちの問題は、そのときどのようにして精神を静かにさせるのかではなくて、あらゆる問題が私たちに生じるままに、それの真理がわかることです。それは、風が止むとき、静かになる池に似ています。私たちの精神は、私たちが問題を持つから、動揺しています。問題を避けるために、私たちは精神を静かにさせるのです。そこで精神はこれらの問題を投影してきました。それで精神から離れて問題はありません。精神がどんな感受性の着想でも投影し、どんな形の静寂でも実践するかぎり、それは決して静寂でありえません。静寂であることによってだけ、理解があることを、精神が悟るとき、そのときそれはとても静かになります。その静けさは課されません。修練されません。それは、動揺した精神が理解できない静けさです。
 精神の静けさを求める多くの人たちは、活動的な生から村へ、修道院へ、山へ退きます。
または観念の中へ退いたり、信念の中に閉じこもったり、自分たちに迷惑・面倒をかける人たちを避けたりします。そういう孤立は精神の静寂ではありません。観念における精神の閉鎖や、生をやっかいに・面倒にする人たちを避けることは、精神の静寂をもたらしません。蓄積をとおした孤立の過程がなくて、関係の過程全体についての完全な理解があるときだけ、精神の静寂が来るのです。蓄積は精神を老けさせ・古くします。蓄積の過程なしに、精神が新しいとき、新鮮であるとき、そのときだけ、精神の平静さを持つ可能性があるのです。そういう精神は死んでいません。それはもっとも活動しています。静寂な精神が最も活動的な精神です。しかしあなたはそれを実験し、それに深く入る気があるなら、静寂には思考の投影がないことが、わかるでしょう。思考はすべての水準で、明白に記憶の反応です。それで思考は決して創造の状態でありえないのです。それは創造性を表現するかもしれませんが、思考それ自体には決して創造性がありえません。静寂が、結果ではない精神の平静さがあるとき、そのとき、その静けさには、思考により動揺させられた精神が決して知ることのできないとてつもない活動、とてつもない行動があることが、わかるでしょう。その静寂には、定式化がありません。観念がありません。記憶がありません。その静寂は、「私」という過程全体の完全な理解があるときだけ、経験されうる創造の状態です。そうでないと、静寂は意味がありません。結果ではないその静寂においてだけ、永遠のものが発見されます-それは時間を超えています。
(´・(ェ)・`)つ

450:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/26(土) 23:26:10 ID:1d4drIFg0 [170/170]
修練による静寂は結局は死んでいるというのじゃ。
真の静寂は精神が新鮮であり、観念が無く、記憶も無いと言うのじゃ。
そのような精神の静寂は修練でなければどのようにもたらされるのかを説くのじゃ。
それは私という過程全体に気付く時に現われるというのじゃ。
つまり観照が起こり、無我になった時なのじゃ。
無我になった時に無我になれる静寂があるということになるのじゃ。
矛盾しているのじゃ。

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