鬼和尚 2020/12/25(金)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

699:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/24(木) 23:27:50 ID:pggXERck0 [1/2]
心とは分別する働きと
その奥の認識の働きと
意識そのものの存在なのですね。

心が沈んだり弱ったりしている時は、
原因によって分別や認識の働きがネガティブな方向に行きやすくなったり働きが弱まっている状態なのでしょうか?

たしかに沈んでいる時は物事を悲観的に捉えがちでネガティブな側面ばかり見たり、
不安やプレッシャーがあると正しい判断が出来なくなったりもします。

700:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/24(木) 23:29:40 ID:pggXERck0 [2/2]
赤いイメージについてありがどうございます。
赤で心配なのは怒りっぽい時には赤は更に熱くなってしまいそうな気がしました。
赤と言っても明るく優しく爽やかな色合いとかにすればのでしょうか?

他にもその時の自分の求める状態によって色を使うと良いのでしょうか?
鎮静したい時は青の方が良いですか?
緑や黄色や紫など他の色はどんな効果があるでしょうか?

これは気を操る方法ですか?
心と気は違うものでしょうか?
気は目に見えない体のようなものですか?

701:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 00:28:28 ID:UhQUFYPg0 [3/4]
大悟徹底以前で観念が問題になっているということは、現象を実体として誤認するということですよね。
感受作用が起こり、それを即座に観念としてとらえる。それで見るとか感じるとか、起こってくる。
それは記憶、過去の出来事であるのに。

空観は、空性であると観ずることによって実体としての観念を生起させない働きがあるということでしょうか。
空観で大悟徹底までいけますでしょうか?

705:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/25(金) 22:58:28 ID:1d4drIFg0 [186/188]
>>699 そのようなこともあるのじゃ。
 悪いところばかり見るのじゃ。
 原因から観察して厭離するのじゃ。

>>700 ピンク色に近い色が善いというのじゃ。
 いろいろ試して見るのじゃ。
 
 青が善いじゃろう。
 他の色はそのものの生理的な反応よりも、記憶による反応が大きいじゃろう。
 昔黄色いものを食べてあたったから黄色が不快とかのう。
 
 生理的な反応による方法なのじゃ。
 心も気のエネルギーで働くといえるのじゃ。
 気はエネルギーなのじゃ。

>>701 そのような理解で善いのじゃ。
 強い意志があれば大悟徹底までいけるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

702:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 01:21:07 ID:UhQUFYPg0 [4/4]
観念と認識は相互依存的でしょうか?観念がないと認識も無いと思います。

703:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 08:18:58 ID:gWMQhK.c0
最近の研究では、人間は極寒や飢餓状態になると細胞が活性化し、様々な能力が開放され若返りにもなるそうですが、これで思い出したのはお釈迦様が悟りを開く前に苦行を通して《極度の飢餓状態》に居たことです。後世の人間は「釈迦は苦行を否定した」「苦行など無意味」と言う人が居ますが、実は瞑想する前の苦行も悟りにかなり役に立っていたのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

704:龍閃[sage]:2020/12/25(金) 22:02:50 ID:cPQMP3CM0
好奇心で伺うのですが、鬼和尚さんは、神通力で私が今どういう状況かわかったりするのでしょか。
わかるならどのように見えるか教えて欲しいです。
くだらないことですみません。

707:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/25(金) 23:08:27 ID:1d4drIFg0 [187/188]
>>702 阿頼耶識はそのように言えるのじゃ。
 記憶に依存しているからのう。
 本来の認識は記憶にも依存していないから観念にも依存していないのじゃ。
 
>>703 役に立っていなかったのじゃ。
 瞑想が役に立ったのじゃ。
 そうであるから苦行を勧めず、瞑想を教えたのじゃ。
 
>>704 わからんのじゃ。
 何も見えないから安心して風呂に入ると善いのじゃ。

706:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 23:08:13 ID:w.ItkDtU0 [1/3]
無色界禅定に入っても目に見えるものはちゃんと目に見えるんでしょうか?

色界四禅から無色界禅定に入ったらどうやったら入ったとわかるんでしょうか?

709:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/25(金) 23:16:00 ID:1d4drIFg0 [188/188]
>>706 見ようとすれば見えるのじゃ。
 修業して不自由に成るのではないのじゃ。

 肉体が無と感じるのじゃ。
 色とは色身のことであるからのう。
 心に対する物理的な肉体のことなのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

77:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/25(金) 21:16:51 ID:Dp/qMVVc0 [41/41]
第二の質問:あなたは「道徳性は社会的有用性である」と言いますが、個人にとっては無益なのでしょうか? それは個人には全く役に立たないのでしょうか?
道徳や道徳的行動は、社会に関する限り、単に実用主義的なものだが、個人にとっては、それは実用ではなく、喜びだ。したがって、社会のニーズは疑似道徳でも満たされるが、個人にとってはそれだけでは十分ではない。他人に対して良い振る舞いをすることは、社会にとってはそれで十分だが、個人にとってはそれで十分ではない。自分の内面が良いかどうか–このことをこそ、見極めなければならない。社会はあなたの内面ではなく、あなたの人格に関心を持っている。しかし、あなたにとって人格は衣服にすぎない。この覆いが外れたところからあなたは始まるのだ。この人格の仮面から離れて、その背後にあるのがあなたの本当の存在だ。そして、ここに本当の道徳が生まれるのだ。

偽りの道徳によって作られた社会を文明と呼び、本当の生に到達した人間で構成された社会を文化と呼ぶ。これが文明と文化の区別である。文明は実用であり、文化は内なる調和と喜びだ。

今日の私たちには文明はあるが、文化はない。文明は他人との関係を浄化することから生まれ、文化は自分自身を浄化することから、徳を積むことから生まれる。文明とは肉体であり、文化とは魂だ。魂にしっかりと根を張っている者だけが文化を創ることができるのだ。

第三の質問:宗教は社会的なものではないのですか? 完全に個人的なものなのでしょうか?
そうだ。宗教は絶対に個人的な問題だ。社会には魂も意識の中心もない。社会は、私たちの相互関係の産物に過ぎない。魂を持っているのは個人であり、それゆえに宗教も同様に個人的なものでなければなならない。宗教は私の関係の一つではなく、私の存在だ。自分の本性、自分の本当の存在を発見することと、その後に続く表現が宗教なのだ。

宗教、ダルマは自己認識だ。宗教は社会的なものではないので、修行、宗教の実践は集団とは関係ないが、宗教的な経験は集団や社会に光を当てる。宗教の実践は個人的なものだが、社会にも影響を与える。人が内なる光に満たされていれば、その人の行動も内なる光で満たされる。内なる存在は個々のものであり個人的だが、行動は社会的なものだ。

修行は決して集団的ではあり得ない。なぜならば、他者と一緒にではなく、独りで、完全に独りで自分自身を知るようになる必要があるからだ。プロティノスはよくそれを表現した:「独りから独りへの飛翔。」 まさにその通りだ。その飛翔は確かに非常に孤独で、仲間のいないものだ。しかし、飛翔から得られる喜びは他の人に感染し、彼らもまた動かされる。孤独の中で得られるもの、自己の孤独の中で得られるものは、四方にその香りを広げていくのだ。

プロティノスは悟りを得ていたのでしょうか?

78:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/25(金) 23:18:16 ID:1d4drIFg0 [37/37]
プロティノスは悟っては居ないのじゃ。
しかし、サマーディにまでは到達していたのじゃ。
エクスタシスとは忘我であるから正にサマーディなのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

493:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2020/12/25(金) 03:39:46.08 ID:A7mbNInZ
仏教の小話で
悪口を言われたら、わたしのことを語ってくれてありがとうと思います
殴られたら、殴ってくれてありがとうと思います
殺されたら、私を殺してくれたことに感謝します

みたいな釈迦の弟子の話があったと思うんだけど
その弟子の名前を知ってる人いたら教えてください

494:おさかなくわえた名無しさん[]:2020/12/25(金) 05:07:08.76 ID:zHGokCvi
>軒下に小屋をつくっていれて飼い猫とか言うと善いのじゃ。

鬼和尚、自分は飼い猫にしたくはありません。
早く大人になって、出て行く事を望んでいます。
オスばかりなので自立して、出て行って欲しいのです。

495:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/25(金) 21:56:51.98 ID:bx8EzVcR
>>493 それは常不軽菩薩のことかもしれん。
 法華経二十章にでてくるのじゃ。
 読んでみると善いのじゃ。

>>494 飼っているふりをするだけなのじゃ。
 そうしないと野良猫にえさをやってはいけないという者がでてくるかもしれんからのう。
 やってみるとよいのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

784:779[]:2020/12/24(木) 22:58:36.79 ID:xMcd4FLw [3/3]
なんだかよく分からないレスが来たけど、まともじゃ無さそうな人なのはよく分かった。

785:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/25(金) 21:53:30.11 ID:oOYhVsgG
>>784 他人がまともじゃなさそうに見えるならばおぬしがまともではないからじゃろう。
 寺の息子に生まれて無理やり禿げにされたことを怨んでいるのかもしれん。
 ニートになって死ぬか、精神病院にいれられるのを待つだけの人生かもしれん。
 5ちゃんねるに書き込むことで自分が少しはまともであるというような証が欲しいのかもしれん。
 家を出て働くとよいのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

447:避難民のマジレスさん[]:2020/12/25(金) 12:28:21 ID:y8r1aV7o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 1

質問
なぜあなたは精神の静寂について語られるのでしょうか。そしてこの静寂とは何でしょうか。

私たちが何かを理解しようと思うなら、精神が静寂であることが、必要ではないでしょうか。私たちは問題を持つなら、それについて悩まないでしょうか。私たちはそれに入ります。それを分析します。それを理解することを願って、ずたずたに・断片に引き裂きます。そこで、私たちは、努力をとおし、分析をとおし、比較をとおし、何かの形の精神的格闘をとおして、理解するでしょうか。確かに、理解は、精神がとても静かであるときだけ、来るのです。私たちは、飢餓の、戦争の、または他のどんな人間の問題も、 [それと] 格闘すればするほど、それと葛藤すればするほど、ますますそれをよく理解するだろうと、言います。そこで、それは真実でしょうか。戦争-個々人の間の、社会の間の抗争-が、幾世紀の間続いてきました。内面と外面の戦争が常にあります。私たちは、さらなる葛藤・抗争により、さらなる格闘により、ずるがしこい尽力により、その戦争、その葛藤・抗争を解決するでしょうか。それとも私たちは、直接にその前にあるとき、事実と向き合うときだけ、問題を理解するのでしょうか。精神と事実の間に干渉する興奮・動揺がないときだけ、私たちは事実に向き合えるのです。それで私たちが理解すべきである・しようとするなら、精神が静かであることが重要ではないでしょうか。
「どのようにして精神は静かにできるのでしょうか」と、あなたは必然的に訊くでしょ
う。それが即時の応答なのではないでしょうか。「私の精神は興奮し・動揺しています。それでどうしてそれを静かにしておけるのでしょうか」と、あなたは言います。何かの体系が精神を静かにさせられるでしょうか。公式、修練は、精神を静かにさせられるでしょうか。できます。しかし精神が静かにさせられるとき、それは静けさでしょうか。それは静寂でしょうか。それとも精神は、観念の中に、公式の中に、文句の中に囲い込まれる・閉じ込められるだけでしょうか。そういう精神は死んだ精神なのではないでしょうか。そういうわけで、霊的、いわゆる霊的であろうとするほとんどの人たちは、死んでいるのです。なぜなら、彼らは自分たちの精神を静かであるように訓練してきたからです。彼らは静かである間、自分たち自身を公式の中に囲い込んだ・閉じ込めたのです。明白に、そういう精神は決して静かではありません。それは抑圧され、押さえつけられ・抑えられるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

448:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/25(金) 23:36:09 ID:1d4drIFg0 [169/169]
理解は精神が静寂であるときだけ来るというのじゃ。
しかしそれは修練によるものではいかんというのじゃ。
観念や公式の中に閉じ込められた精神は死んでいるというのじゃ。
訓練による静寂は観察には役に立たないというのじゃ。
それはただの抑圧であるからなのじや。
 

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