鬼和尚 2020/12/16(水)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

645:崇蓮[sage]:2020/12/16(水) 15:53:49 ID:VHpJSyVE0 [3/4]
鬼和尚さま

いつもありがとうございます。
教えてください。

鬼和尚さまはどうしてお釈迦さまの教え(仏教)が死を超える方法だと判ったのですか?

646:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/16(水) 21:09:45 ID:1d4drIFg0 [171/171]
>>645 それは舎利弗と目連の話からなのじゃ。
 二人はまだお釈迦様に会っていなかった時に、どちらかが不死の法を見つけたら教えあおうと約束していたのじゃ。
 後に舎利弗が先にお釈迦様に逢って修行して不死の境地に達したのじゃ。
 舎利弗が目連と合うと、目連は神通力で素早く舎利弗が不死の境地に達したことを知ったのじゃ。
 目連は約束どおりに自分にも教えるようにと舎利弗に言うと、お釈迦様の下へ連れて行かれたのじゃ。
 そして目連も修行して不死の境地に達したのじゃ。

 わしは悟る前にその話を読んでお釈迦様の教えは死を超える方法だとわかったのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

59:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/16(水) 20:50:26 ID:Dp/qMVVc0 [32/32]
第4章 2日目の朝 1964年6月5日 午前

友よ、私たちは自分自身と戦ってはならない、自分自身を知らなければならない。自己についての無知のために私たちの中で発展してきた矛盾や自己矛盾はすべて、自己を知ることによって蒸発していくのだ – 草の上に落ちる露が太陽が昇るとともに消えていくように。

私はあなたの知への好奇心と意気込みをよく理解している。あなたは真理を知りたい、理解したいと思っている。あなたは生の謎を解き明かして、その完全性を得られるようにしたいと思っている。しかし、私たちが今、生と呼んでいるものは、本当の意味での生ではない。それはあたかも、ただ死ぬことの長い、引き延ばされた過程と呼べる。生を知らずして生を得ることはできないというのは事実だ。誕生は一つのことであり、生は全く別のものだ。ただ生きているだけのことと、生の完成の間には大きな違いがある。その違いは、死と不死の間と同じくらい大きい。死は生の必然的な終わりであるのに対し、生の完全な完成は、神的な生によって冠される。

神的な生を送りたいと願う者、神と真理を知りたいと願う者には、二種類のアプローチがあるように思える。一つは道徳のアプローチ、もう一つは宗教のアプローチだ。道徳と宗教は通常、二つの異なる道とは見られていない。道徳と宗教は、同じはしごの上にある2つの連続したステップと見なされている。一般的に、人が宗教的になるためには、まず道徳的にならなければならないと信じられている。しかし、これは私の見解ではない。

私が知っていることを話そう。宗教的な人は常に道徳的だが、道徳的な人が本質的に宗教的であるとは思わない。人は単に道徳的になることによって宗教的になるのではないし、道徳は宗教の出発点でもないし、基礎でもない。それどころか、道徳は宗教的になることの結果なのだ。道徳の花は宗教の草の上に咲く。道徳とは、宗教的生活の表現だ。私は、宗教と道徳を二つの異なる道、ただ異なるだけでなく、互いに正反対の二つの道と見ている。

道徳、規律とは、振舞いの浄化、行いの浄化を意味する。それは、人間の人格を周辺部で変えようとするものだ。この人格の周辺部は、他者との付き合いの結果だ。それは、自分の振舞い、他者との関係だ。自分が他人にどのように反応したり、行為したりするかは、自分の振舞いだ。振舞いとは関係性なのだ。

宗教と道徳が互いに正反対の二つの道というのが、分かりにくかったので、少し詳しく教えていただけますでしょうか? 慈悲と道徳は違うということでしょうか?

60:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/16(水) 21:24:54 ID:1d4drIFg0 [28/28]
道徳とは振る舞いであり、肉体的な行動によるものじゃ。
それが心の中に変容を起こすことは無いのじゃ。
真の宗教は心の中に変容を起こす方法を教えるものじゃ。
それでこそ真理も理解できるのじゃ。
道徳的な行いも出来るのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

479:おさかなくわえた名無しさん[]:2020/12/16(水) 06:49:53.86 ID:CtGZBKk3
鬼和尚、コロナがなかなか治まりません。
政府が「GoToキャンペーン」をするからだと思います。
経済も大事ですが、人の命の方がもっと大事です。
「GoToキャンペーン」はしばらく中止すればよいと思うのですが、どうですか?

480:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/16(水) 20:53:27.73 ID:hdUfAllF
>>479 そうじゃ、停止するとよいのじゃ。
 ワクチンが出回ってから再開するとよいのじゃ。
 本末転倒なのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

158:避難民のマジレスさん[]:2020/12/16(水) 20:47:22 ID:CD61wBH20
255
嘲文章  1/2  文章をあざける
人具畜生牛馬愚 人はそなふ畜生牛馬の愚
詩文元地獄工夫 詩文は元地獄の工夫
我慢邪慢情識苦 我慢邪慢情識の苦
可嘆波旬親得途 たんすべし波旬親しく途をうることを

蔭木英雄先生訳・解説
(牛は牛、馬は馬のままで至道無難なのだが)人間というものは(それに気付かず)畜生の牛馬の愚かさを
持っておる  
詩文はもともと地獄行きの工夫なのじゃ
我慢や邪慢の心で(詩を作って)情欲や分別的知識に苦しんで  
悪魔につけこまれるとは嘆かわしい事じゃ

一休にとり詩作は地獄入りの片道切符であり、本来否定さるべきものであった。結句は、『碧巌録』九十七
の、”伎禰既に無ければ、波旬途を失う”(清い透明な心を持っていて、情欲や知識の働きをとめると、悪
魔も誘惑のしようがない)の裏返しなのである。しかも一休は、”狂雲は大徳下の波旬”と、自分を大徳寺
門下の悪魔であると自認している。従って結句は、一休自身が詩魔にほかならず、その自己を嘲りつつ苦し
んでいると解釈出来よう。
中国の詩論書『詩品』の冒頭は、人の感性は外物からの刺激に反応して、そこから詩が生じることを述べる。
室町時代の気が物情を動かし、室町禅林の乱れた景物が一休の歴史的心情を揺り蕩かして、一見、抜舌罪や
不邪淫戒を犯すような罵署の偈や、耽色の詩が生まれたのであった。西脇順三郎が、詩人は詩作することに
よって、自分の脳髄の心理的調整をはかろうとする。あるいはまた心理的体操をやって脳髄の健康と安定を
保とうとする。        
と述べているのは、詩人一休の心情に部分的にあてはまる。

くま訳
人は、畜生牛馬の愚かさを備えてているのである。
地獄の欲界における工夫なのである。  
我に執着して拠り所とし、徳がないのに、あるといって昂ぶる、迷情による心の働きにより苦しむのである。
自分から進んで悪魔に付入る途を与えるとは、嘆かわしいことである。
(´・(ェ)・`)つ

159:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/16(水) 21:37:17 ID:1d4drIFg0 [75/75]
そんな感じじゃな。
人は畜生と同じくらい愚かだというのじゃ。
それが詩文でもっと苦しむというのじゃ。
慢心が起こるからなのじゃ。
魔と共に歩む道なのじゃ。
自省の詩じゃな。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

428:避難民のマジレスさん[]:2020/12/16(水) 21:03:46 ID:CD61wBH20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 1

質問
 私は、あなたが話しておられる真理を、何の前準備もなく、この場で悟れるでしょうか。

 あなたのいう真理とは何でしょうか。私たちがその意味を知らない言葉は、使わないようにしましょう。私たちはもっと単純な言葉、もっと直接的な言葉を、使えます。あなたは問題を直接的に理解できるでしょうか。了解できるでしょうか。それが、含意されていることなのではないでしょうか。あなたは即時に、今、あるがままを理解できるでしょうか。あるがままを理解するなかで、あなたは真理の意義を理解するでしょう。しかし真理を理解しなければならないと言うことは、ほとんど意味がありません。あなたは問題を直接的に、充分に理解して、それから自由でありうるでしょうか。それが、この質問に含意されていることなのではないでしょうか。あなたは、危機を、挑戦を、即時に理解し、その全体の意義がわかり、それから自由でありうるでしょうか。あなたが理解するものは、跡を残しません。ゆえに真理または理解が解放者です。あなたは問題から、挑戦から、今解放されうるでしょうか。生は、一連の挑戦と応答なのではないでしょうか。挑戦へのあなたの応答が、条件づけられ、制限され、不完全であるなら、そのときその挑戦はその跡を、その残余を残します-それは、もう一つの新しい挑戦によりさらに強められます。それで常なる残余の記憶、蓄積、傷跡がありますし、これらすべての傷跡をもって、あなたは新しいものに出会おうとします。ゆえに決して新しいものに出会いません。ゆえにあなたは決して理解しません。どんな挑戦からの解放も、決してありません。
 問題は、問いは、私は完全に、直接的に、挑戦を理解できるだろうか-そのすべての意義、そのすべての香り、その深さ、その美しさ、その醜さを感じて、それから自由でありうるか-です。挑戦はいつも新しいのではないでしょうか。問題はいつも新しいのではないでしょうか。例えば、あなたが昨日持った問題は、あなたが今日それと出会うとき、それはすでに新しいほどに、修正を受けた・被ったのです。しかしあなたは古いものをもってそれと出会います。なぜなら、あなたはたんに自分自身の思考を修正するだけで、変容させることなく、それと出会うからです。
 それを違った仕方で述べましょう。私は昨日あなたに会いました。その間に、あなたは変化しました。あなたは修正を受けました。しかし私はやはり昨日のあなたについての映像を持っています。私はあなたについての自分の映像をもって、今日あなたに会います。ゆえにあなたを理解しません-私が昨日取得したあなたについての映像だけを理解するのです。私は、修正され、変化しているあなたを理解したいなら、昨日の映像を取り去らなければなりません。自由でなければなりません。言い換えれば、挑戦すなわちいつも新しいものを理解するには、私もまた新たにそれと出会わなければなりません。昨日の残りがあってはなりません。それで私は昨日にさようならを言わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

429:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/16(水) 21:27:44 ID:1d4drIFg0 [160/160]
他人の言う真理を他の者が悟れるはずも無いのじゃ。
人は自らの真理を悟らなくてはいかんのじゃ。
真理を悟ってから他人が話す真理も理解できるのじゃ。
それは真理に対する全ての妄想がなくなった時に可能に成るのじゃ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました