鬼和尚 2020/12/09(水)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

613:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/09(水) 00:15:49 ID:Uemv6Dco0
ありがとうございます。

この点についてのご助言も頂けますでしょうか。

>瞑想していると夢見の状態に陥りがちなのですが、
どうすれば良いでしょうか?

数息観の時にこの状態になってしまうのは、
集中力が足りないのでしょうか?

一点に意識を固定し切れていなくて散漫になっているとかでしょうか?
それとも姿勢に問題がありますか?

よろしくお願いいたします。

614:513[]:2020/12/09(水) 20:46:48 ID:cFzo4cZc0 [4/4]

>>鬼和尚

  善事を行えば行うほど、他の人から善事を施されるという実感があります。
 
1 これは妄想ではなく、慈悲の法ですか。

2 これは間接的にも影響しますか。

 たとえば、平和を望み、平和的な行為をしていると、社会も平和な方向に進みますか。

616:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/09(水) 21:52:57 ID:1d4drIFg0 [161/161]
>>613 集中していられる時間だけ座るのじゃ。
 むしろ長く座って意識が深くなったが、コントロールできないのじゃ。
 姿勢はよいじゃろう。
 コントロールできる時間だけ座るのじゃ。

>>614 一 妄想ではないのじゃ。
        善事が還ってくるのじゃ。

    二 しないのじゃ。
       おぬしの周りだけなのじゃ。
       自分の行為は自分にのみ還って来るからなのじゃ。
       更に善事をつむと善いのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

45:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/09(水) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0 [25/25]
質問7
第七の質問:なぜ、ディヤーナ、瞑想は行為ではないと言うのですか? それは同様に行為ではありませんか?
どうか、ここを見て欲しい。 私の拳は閉じている。拳を閉じるには、積極的に行動しなければならない。拳を閉じることは行為だ。しかし、それを開きたいと思ったとき、私は何をしなければならないのだろうか? 開くために何もする必要はない。拳を閉じる努力を捨てれば、自動的に拳は開き、手は自然で正常な状態に戻る。したがって、私は拳を開くことを行為とは呼ばない。それは無行為であり、お望みであれば、それを負の行為と呼んでもよい。しかし、それは何の違いもない。私は言葉では議論しない。私の言っていることを理解して欲しい。その本当の意味を理解して欲しい。

瞑想を「無行為」と呼ぶことで、瞑想を仕事や活動として捉えてはいけないということを示したい。瞑想はそのような業務から解放されている。それは自然な状態であり、それをいかなる種類の精神的緊張に変えることはできない。もし瞑想が精神的な緊張状態になってしまったら、あなたを自然な状態にも精神的な平穏にも導くことはできない。緊張は一種の落ち着きのなさであり、もし平安を得たいと思うならば、まず静かになることから始めるべきだ。もし最初の段階で平穏も静けさもないのであれば、最後の段階では確かに何もないだろう。最後の段階は、最初の段階の集大成に過ぎないのだ。

私は人々が寺院に行くのを見て、神々を崇拝するのを見る。また、瞑想の中で座っているのも見る。しかし、彼らにとっては、それはすべて活動であり、緊張した落ち着きのなさのようなものであり、このような活動のすべてが平穏の花と実を結ぶことを期待するのは、全くの愚かなことだ。もしあなたが平安を望むのであれば、平穏になりたいのであれば、今この瞬間から平穏の中でスタートすることが不可欠だ。

皆に言いたい。真実を探してはならない。真実を探すことにはエゴがあり、障害となるのはエゴなのだ。ただ自分自身を失いなさい。あなたのアイデンティティを失いなさい。単に自分自身であることを止めなさい。エゴである「私」がいなくなって初めて、本当の自分が見えてくるのだ。自我、「私」の感覚が消えてこそ、本物が見えてくるのだ。自分を失うことによってのみ、人は自分自身に到達する。種から新しい生命が芽を出すのと同じように、不老不死は、種である魂の鞘である「私」がバラバラになり消えた時にのみ芽を出すのだ。どうかこの原理を覚えておいて欲しい:自己を達成するためには、自分が存在することを止めなければならない。不老不死は、死の犠牲を払うことで得られる。雨粒は海の中でそれ自身を失うときに海になるのだ。

坐る時には、姿勢を保つためにどうしても腰に緊張が生じるのですが、これは問題ないのでしょうか?

46:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/09(水) 21:43:44 ID:1d4drIFg0 [21/21]
腰と腹に力が入り、緊張するのはよいのじゃ。
問題はないのじゃ。
上体からは力を抜かないといかんのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

真のディヤーナは行為ではなく、行為しないことだというのじゃ。
手から力を抜けばこぶしが開くように、行為しないことで心が解放されるのじゃ。
自己をも手放すことで、永遠に達するのじゃ。
自分を失うことで真の意識に回帰するのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

453:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2020/12/09(水) 20:03:59.28 ID:TOgSik/H
将来的に人類の間で悟りを開くことがブームになることはあり得ますか?
一大ムーブメントになって、悟りを目指すのがトレンドになる世の中、とか。

人類の歴史を振り返ってみると、私はあまり期待できないと感じています。
鬼和尚はいかがですか?

454:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/09(水) 21:54:27.21 ID:KlR+oubK
>>453 そのようなこともありえるじゃろう。
 それでも本当に悟りを得るのはごく一部じゃろう。
 おぬしの活躍次第なのじゃ。
 頼んだのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

682:マジレスさん[]:2020/12/09(水) 01:28:20.41 ID:CAHGWwQj [1/2]
>>679
回答ありがとうございました、続けて疑問点をお尋ね致します、お手隙の時にでも宜しくお願いします。

(1)先の体験に於いて、想念が完全に停止した後で、消えたくない!と呟いて、胸から抜けて消えて行ったのは何であるか?のご見解をお持ちでしたらお訊きしたいです、

(2)寝ても覚めても、24時間の想念停止状態が、1年半以上に渡って続いた状態はどの様な位置付けと考えれば良いでしょうか?

(3)この体験から半年くらいした頃のことです、相変わらず思考・想念が無い状態が続いていました、お腹がすくと云う感覚が全く起きず、周りにが心配してくれるのですが、あんパン一つすら食べるという思いが起きませんでした、

食べようとして、お弁当屋の前で立ち竦んみ、値段の高いものを買おうとすると、無欲が出て一番安いものを購入してしまう、こんなこともありました、この無欲は何処からのものなのでしょうか?

(4)また、自分・私という思いが全く無いので、男女の性差と私・貴方という境界が消えて、誰に対しても、全ての生き物に対しても、普遍なる兄弟愛のような慈愛の意識のみになり、この時「皆と供に生きている」という感覚だけが有りました、これは自我の喪失とは違うのでしょうか?

この頃は、欲の死滅と自他の死滅の時期だったように感じます、まだ幾つかの変遷の中での出来事が有りますので、追って点検いただければ幸いです。

687:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/09(水) 22:02:31.78 ID:o1Y0ZJbt [2/3]
>>682 一 それは観念なのじゃ。
        今までの自我観念が消えたのじゃ。

     二 忘我なのじゃ。
        自我が忘れられているから防衛とか、欲による思考が無かったのじゃ。
        思い出したら帰ってきたのじゃ。

     三 それも忘我だからなのじゃ。
        自我観念が忘れられているから食べようとはとか、よいものを食べようという観念も無かったのじゃ。

     四 まだ喪失はしていないのじゃ。
        自我に囚われているのじゃ。
        本当に自我が無ければわしに聞く必要も無く、智慧が起こっている筈なのじゃ。

       自分がある筈だとか、自分が無ければならないとか、自分という思いが無ければ自分が守れないとか、強く思っていると完全に無我にはならないのじゃ。
        自我に囚われたままでいるのじゃ。

683:[]:2020/12/09(水) 01:36:48.94 ID:CAHGWwQj [2/2]
もう一つお願いいたします、

(5)思考・想念・感情を、完全に超えて存在する、無心の自己とも言えないこの意識は何なのでしょうか?それは、

あの体験の後に、新たに生まれたとも言える、目の奥から胸・腹を貫いて目の奥で煌々としているこの意識のことです、宜しくご教授お願いいたします。

688:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/09(水) 22:09:19.44 ID:o1Y0ZJbt [3/3]
>>683 それは仏教では阿頼耶識といわれるものじゃ。
    記憶による分別の基盤となる認識能力なのじゃ。
    それがあれば自我が忘れられても認識することができるのじゃ。
    観念はまだ生成されているからのう。 
    それにも囚われれば障害になるものじゃ。
  
    自分を完全に捨て去る覚悟で今一度修行を初心からやり直すのじゃ。
    どこかに未練が残っていれば完全な無我にもならないのじゃ。
    世間に対する未練も全て捨てるのじゃ。

    それでも今までの修行や体験は無駄にはならないのじゃ。
    次に観照が起きたら自分をも全て捨てるつもりで、更に進むのじゃ。
    百尺竿頭からまた一歩踏み出すのじゃ。
    実践あるのみなのじゃ。  

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

144:避難民のマジレスさん[]:2020/12/09(水) 18:52:18 ID:Nev.XIZs0
243    2/4
有僧眼白在妻青 僧にありてはまなこ白く妻に有っては青し
對客唯言我薄情 かくに対して唯だ言ふ我れ薄情と
花前酌盡一樽酒 か前にくみ尽くす一そんの酒
半醉夜深猶半醒 半酔夜ふけて猶ほ半醒

くま訳
僧に対しては、視線をそらして相手にせず、妻とはしっかり向き合う、
客にはただ。わしは薄情なのだと言う、
花見酒で、一樽飲み干した
半酔ので更けたが、まだ、しっかりしてるんじゃい。

*おまけ:青眼白眼:晋書・巻四十九・阮籍伝
 籍又能為青白眼、 籍、又 能く青白眼を為し、
 見禮俗之士、   禮俗の士に見(まみ)ゆるに、 
 以白眼對之。   白眼を以に對す。
 
 紀 頌之先生訳・解
 阮籍は、青(黒)目と白目を使い分ける事ができ、
 礼儀作法にとらわれている俗人と会う時には、
 白目をむいて向かい合った。
 白眼とは、視線をそらす、ということ
 
 まともに目をあわせると、黒目がしっかりと見える。これが青眼で、顔はむけけてても視線をそらせると
,4相手に自分の白目を多くみせることになる。これが白眼である。視線をそらすとか相手の目をちゃんと
みないというのは、不誠実のあらわれ
 つまり、阮籍は世俗人には実に自由奔放に、気の無い冷たい態度で接するということで自分の意思を示し 
 たのである。
(´・(ェ)・`)つ

145:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/09(水) 21:49:20 ID:1d4drIFg0 [68/68]
もはや僧には白目で逢い、妻には愛想が善いというのじゃ。
それを聞いた客はわしが薄情というのじゃ。
花を前に。一樽の酒を飲む干すのじゃ。
半分酔って夜更けてまだ半醒なのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

413:避難民のマジレスさん[]:2020/12/09(水) 17:42:28 ID:PfnRtg620
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘につい-て 1

質問
 あなたが言ってこられたように、真理は反復されるとき、どうして嘘になるのでしょうか。嘘とは、ほんとうは何でしょうか。嘘を付くことは、なぜ間違っている・悪いのでしょうか。これは、私たちの存在の水準すべての上で、奥深い、微妙な問題ではないでしょうか。

 これには二つの問いがあります。それで最初のものを検討しましょう-すなわち、真理は反復されるとき、どうしてそれは嘘になるのか、です。私たちが反復するのは何でしょうか。あなたは理解を反復できるでしょうか。私は何かを理解します。私はそれを反復できるでしょうか。私はそれを言葉にできます。それを伝達できます。しかし経験は確かに反復されるものではないでしょう。私たちは言葉に捕らわれて、経験の意義を逃し・見失います。あなたは経験をしたなら、それを反復できるでしょうか。あなたはそれを反復したいと思うかもしれません。それの反復、それの感動への願望を持つかもしれません。しかしいったんあなたが経験をしたなら、それは終わって・済んでいます。それは反復できません。反復できるものは感動と、その感動に生命を与えるところの付随する・一致する言葉です。不幸にも、私たちのほとんどは宣伝者なので、言葉の反復に捕らわれるのです。それで私たちは言葉を糧に生きているし、真理は否定されるのです。
 愛の感情を例に取りましょう。あなたはそれを反復できるでしょうか。「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉を聞くとき、それはあなたにとって真理でしょうか。あなたが自分の隣人をほんとうに愛するときだけ、それは真理です。その愛は反復できなくて、ただ言葉だけ[が反復できるの]です 。けれどもあなたがたのほとんどは、「あなたの隣人を愛しなさい」や「貪欲であってはいけない」という反復でもって、幸せで満足しています。それで他の一人の真理、またはたんに反復をとおしてあなたがしたことのある現実の経験は、真実にならないのです。反対に、反復は真実を妨げるのです。たんに一定の観念を反復するだけでは、真実ではないのです。
 これの難しさは、対極という見地に立って考えることなしに、問いを理解することです。嘘は、何か真理と対立したものではありません。嘘や真理という対立において、対比においてではなく、言われていることの真理を見ることができます。私たちのほとんどは、理解することなく反復するということを、ただ見てください。例えば、私たちは感情などに名づけることと名づけないことの議論をしてきました。あなたたちの多くは、それが「真理」であると考えて、それを反復するであろうと、私は確信します。一つの経験が直接の経験であるなら、あなたはそれを決して反復しないでしょう。あなたはそれを伝達するかもしれませんが、それがほんとうの経験であるとき、その裏の感動は去っています。言葉の裏の情動的満足は全く消失しています。
(´・(ェ)・`)つ

414:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/09(水) 21:45:42 ID:1d4drIFg0 [153/153]
理解とは反覆できないものというのじゃ。
何かを理解した瞬間は繰り返すことはできないからのう。
無理に繰り返せば嘘であり、欺瞞になるのじゃ。
直接の体験は反覆できないのじゃ。
 

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