鬼和尚 2020/12/08(火)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

601:避難民のマジレスさん[]:2020/12/07(月) 21:56:14 ID:96zIZFjo0
色界、無色界に対する執着について語っていただけないでしょうか?

602:避難民のマジレスさん[]:2020/12/07(月) 23:44:08 ID:rlAecqNg0 [13/13]
鬼和尚様
今日も私の質問に答えてくださり本当にありがとうございます。

自分語りになりますが、心の働きの観察というと小学2年生の頃に駅で1人帰りの電車を待っていた時に、小1の時に違うクラスの男子から廊下でいきなり私に向かって「う○こ!!」と言われて私は唐突のことで凍りついたのですが、私はこのことで理不尽だとか他にも人がいたのに恥ずかしかったとかで怒っていて、私はその男子への怒りで苦しんでいたんだなということに1年経ってから思い出して気付いてそれからは男子にもその記憶にも苦しむことがなくなったということがありますが、これが原因は自分の中にあり、これが厭離したということなのでしょうか?

603:避難民のマジレスさん[]:2020/12/08(火) 09:59:43 ID:It0uZehQ0 [11/11]
良心は誰にでも備わっているのでしょうか?根っからのサイコパスはいますか?

610:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/08(火) 22:03:04 ID:1d4drIFg0 [158/160]
>>601 どのような境地にも執着すれば魔になるのじゃ。
 欲を離れた境地にも、肉体を離れた境地にも執着すればまた苦に陥るのじゃ。
 そのような境地にも囚われずに修行を進める事で、悟りの境地にも至れるのじゃ。

 階段を登るには下の階段から足を離さなければならないのと同じなのじゃ。
 階段の途中で止まればそれで終わりなのじゃ。
 どんな境地にも囚われずに進むことが大事なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>602 そうじゃ、それで厭離はできたのじゃ。
 原因から起こる苦が見えたのじゃ。
 そのようにしてどんどん苦を滅していくと善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>608 そうじゃ、あるのじゃ。
 無いように見える者も、何かの原因で隠れているだけで、本来あるものじゃ。
 何事も自分の身に引き比べて思うことは出来るからのう。
 観察して確かめるのじゃ。

604:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/08(火) 15:10:43 ID:9istxLE20 [1/3]
夢見の状態は忘我では無いですよね?
寧ろ忘我は夢の無い眠りの状態に近いものですか?

瞑想していると夢見の状態に陥りがちなのですが、
どうすれば良いでしょうか?

ある意味自分の事・・体とか普段の自己像は忘れており、
無関係な観念をぼーっと見てしまい、
体もグラッとしたりして、
ハッとしてまた数を数え・・という状態になることがあります。

自分と感じる事、思考とかを観ていると感じている事、自分という感じを観察しようとすることは、良いですか?

また、夢や眠りの意識は不思議ですが覚醒時とどう違うのかを観察しようとする事は役立ちますか?

605:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/08(火) 15:19:40 ID:9istxLE20 [2/3]
忘我というのは観ている者が居なくなる(自己を意識しなくなる?)状態ですか?
以前洗面台で音と自分の境目が無くなって一体化したような感じになったことがありますが、それは忘我に近いでしょうか?

その時は不思議を感じてすぐに終わってしまいましたが・・
その忘我から自己が起こる瞬間を観れたら悟りであり、その瞬間を観れるように、忘我になれるようにする、というのが止観の修行でしょうか?

606:避難民のマジレスさん[]:2020/12/08(火) 15:20:24 ID:dKyq7Lu.0
色界四禅に入った後に、苦の原因を智慧で観れば悟りますか?

611:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/08(火) 23:11:00 ID:1d4drIFg0 [159/160]
>>604 そうじゃ、忘我ではないのじゃ。
 近くないのじゃ。
 明晰な意識でも起こるからのう。

 観察の行をする時にそれらを観ようとするのはよいのじや。
 集中の時には集中だけわするのじゃ。

 何でも観察すれば役に立つじゃろう。
 実践で確かめるのじゃ。

>>605 文字通り自分を忘れる状態なのじゃ。
 近いといえるのじゃ。
 音と一つになったのじゃな。
 
 そのような理解で善いのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

>>606 苦の根本原因である自我が観られれば無我になるのじゃ。
 更に認識をも厭離できれば大悟なのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

607:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/08(火) 15:22:39 ID:9istxLE20 [3/3]
自己の客観視を出来る様になりたいのですが、どうしたら良いでしょうか。
悩みが起きた時もこれが他人の事であればいくらでもアドバイス出来るのに、と思いました。
「自分」ごとと感じると途端に、客観視が出来なくなります。これは何故なのでしょうか。

608:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/08(火) 19:00:49 ID:O/DXgKUo0 [2/2]
数息観中に延々と空想にはまってしまい、数の数えがままならないのです
小一時間位は思考していて何のために座っているのか…時間が無駄でしょうもないのです。

どうすれば良いでしょうか?

609:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/08(火) 20:11:04 ID:h5P9mv0k0 [24/24]
時代とともに技術のイノベーションによって社会は目覚ましい発展を遂げています。
人間の暮らしがより便利になり、生活にゆとりが生まれました。

これは昔に比べて解脱に至りやすい環境が整ったと言えるのでしょうか?
そう考えればイノベーションによる社会発展も悪いことではないですよね?

また、科学技術が解脱の役に立つことはあるのでしょうか?

612:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/08(火) 23:14:31 ID:1d4drIFg0 [160/160]
>>607 集中して観れば善いのじゃ。

 人には主観しかないからなのじゃ。
 主観に拠って主観を観るしかないのじゃ。
 
>>608 時間が長すぎるのじゃ。
 五分だけ集中して座っていられるようにするのじゃ。
 それから集中する時間を長くしていくのじゃ。
 散漫に成ったらやめるとよいのじゃ。

>>609 そのように言えるじゃろう。
 悪くないのじゃ。

 まだ役に立たないのじゃ。
 迷信も多いのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

42:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/07(月) 21:12:14 ID:Dp/qMVVc0 [23/24]
質問4
第四の質問:無思考になるために私たちは心を集中させるべきでしょうか?
私はあなたに集中しなさいとは言わない。集中は一種の強制であり、一種の緊張だ。何かのアイデア、何かの形やイメージ、または何かの言葉に集中した場合、それは無思考にも意識の覚醒にもつながらず、無意識の精神的な昏睡状態になる。それは自己催眠のようなものだ。強制的な集中は無意識につながる。そして、この無意識をサマーディと勘違いするのは間違いだ。サマーディは無意識の状態でも昏睡状態でもない、サマーディは完全な意識の実現だ。サマーディとは、無思考と完全な意識の組み合わせなのだ。

質問5
第五の質問:どのように瞑想で吸うことと吐くことのプロセスを見るのですか?
背骨を直立させなさい。曲がらないように。背骨が直立している状態では、体は自然なバランスを保っている。その姿勢では地球の引力が身体に均一に作用し、その引力から解放されやすくなる。重力の力が最小になると、身体は、人が空になること、思考がなくなることを妨げない。体の緊張や硬直なしで、背骨の直立した状態を保ちなさい。あたかも布をフックに引っかけるかのように、身体を背骨に引っかけるように、体をリラックスさせなさい。

体を完全にリラックスさせてから、ゆっくりと深く呼吸しなさい。吸うことと吐くことで、臍の中心は上下に動く。この動きを見続けなさい。それに集中する必要はない、ただそれを見る。それの見者でいなさい。集中を勧めているのではないことを覚えておきなさい。私は単純な油断のなさと気づいていることをアドバイスしている。子供たちがするように呼吸する – 彼らの胸は動かない、彼らのお腹が動く。これは、吸うことと吐くことの自然なプロセスだ。この自然な呼吸の結果として、安らぎはより深く、より深くなって、私たちの上に降りてくる。

心の乱れと緊張状態のために、私たちは徐々に深く、完全に呼吸する能力を失っている。思春期になる頃には、表面的で人工的な呼吸が習慣化する。あなたは間違いなく気づく。心が乱れれば乱れるほど、自然でリズミカルな呼吸ができなくなることに。リズミカルに、楽に、自然な方法で呼吸しなさい。自然な呼吸の調和は、精神的な落ち着きのなさを一掃する助けになる。

これは一箇所を見続けるということで、止の瞑想と言って良いのでしょうか。初心の頃は集中しないと一箇所を見続けるのが難しかった記憶があります。私の場合は、慣れるまでは努力して集中して一箇所に意識をとどめ、そのうちに勝手に集中するようになってきたら、集中の意志を減らしてゆくという方法が合っていました。
いつも数息観では鼻先の息の出入りを見守っていたのですが、今日は試しに、自分の名前を呼ばれた時に感覚が生じる臍の下あたりを見続けてみます。

43:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/08(火) 20:17:56 ID:Dp/qMVVc0 [24/24]
第6問
第六の質問:なぜあなたは呼吸プロセスを観察するように私たちに助言するのですか?
私がそうするのは、呼吸は、吸ったり吐いたりすることで、肉体と魂の間の橋渡しをしているからだ。魂は呼吸を通して、そして呼吸のために体の中に存在している。自分の呼吸に気づくことで、呼吸を直接知ることで、人は次第に自分が肉体ではないことを経験する。

私は肉体だが、肉体であるだけではない。それは住まいではあるが、土台ではない。呼吸の直接の認識が深まるにつれて、人は、体ではない何かの存在の間近さを経験する。一瞬の間、人は自己が身体ではないことをはっきりと見る。そうすると、あなたは3つの層、あなたの人格の3つの鞘を見ることができる – 身体、呼吸、魂。身体は殻であり、呼吸は橋であり、接続リンクであり、魂である自己は基礎である。

呼吸が中心点であるため、自己実現への道における呼吸の役割は最も重要なものだ。一方には肉体があり、もう一方には魂がある。私たちはすでに物理的なレベルで存在しているが、私たちが憧れるのは、魂の領域に入ることだ。しかし、それができるようになる前に、プラーナ、呼吸の、自然な調和に至ることが不可欠だ。そうしなければ、魂の王国に入ることはできない。

呼吸のレベルで見ていると、人は両方の道を見ることができる。ここから、肉体と魂への道が明らかになる。道は一つで同じであるが、二つの方向ははっきりとしている。その結果、魂の領域に向かって、内側に向かって一歩を踏み出すことが可能になる。私が呼吸を強調する理由が分かってもらえただろうか。

ここでの「魂」とは何を指すのでしょうか?

44:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/08(火) 21:32:33 ID:1d4drIFg0 [20/20]
アートマンとかじゃな。
認識できない認識主体なのじゃ。
自己の基盤となるものじゃ。
それが存在するのではないが、意識がそれに向かって行くことで悟りも得られるのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

449:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2020/12/08(火) 20:11:45.04 ID:0oboclo1
四十肩は何が原因で発症するのでしょうか?
また治し方はありますか?

450:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/08(火) 23:15:43.53 ID:nF3B229j
>>449 年をとると血行が悪くなるからなのじゃ。
 常に動かすようにすると治るのじゃ。
 ヨーガとか気功法をやるとよいのじゃ。
 マッサージでも善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

668:マジレスさん[]:2020/12/07(月) 22:17:39.08 ID:ufeI0TQt
>>667
ありがとうございます。
今晩も朝まで、姿勢を作り全てを捨てて私を追求します

672:Y[]:2020/12/08(火) 04:40:31.86 ID:v/npsSzA
鬼和尚にお尋ねします、一回同じ質問を天空寺に書いたのですが、ここの方が早いと思いますので、此方にも貼らせてもらいます。

自分はずいぶん前に、和尚が言うような止の行が完成した翌年に、神社の近くの自販機で缶コーヒーを買ったおり、缶が落ちて来るガラガラという音を聞いた途端、如何なる問題も無いという覚悟が閃き、その一瞬の後に、

一切の観て聞いている世界の認識が一旦消えてしまいました、その後に認識が現れ世界を認識して心を自覚したのが、自販機から30mくらい離れた公園でした、

これと似た体験として、ラーマナマハリシが寺院で17歳からの3年間サマディーに浸っていた時の体験としてありますが、これはどの段階の体験でしょうか?ご教授いただければ幸いです。

ついでに止の体験も書いてみます、実は上の体験に先立つ1年半くらい前に、50日間連続して行をした結果、ある時何もしないで座っていると、思考・想念がピタリと止んでしまっていることに気づきました、

何が起きたのかと外に飛び出して見ると、自分の意識が空間と融合したかのようになっていて、帰路を急ぐ人の靴音が、音楽のように聞こえたのを覚えています、

それは夕方だったのですが、夜に友人が二人で訪ねて来ても、誰かは分かるのですが、一切名前が出てこない状態でした、全くです、全く思考・想念が消えてしまっていました、

それから漸くたった夜の9時ころ友人と居る時、胸の奥から次々に大歓喜が沸き上がって来てアップアップの状態が1時間以上に渡って続きました、そして最後に、自分の自我の声が聞こえました、それは「消えたくないよー!」と一言叫んでそれは消えて行きました、

そして後で気付いたのは、過去の記憶がまるで他人のことのように思えるようになり、自分は新しく生まれたんだと云う感じが強烈にしました、この二度目の誕生のような感じはその後3年は続いていて、常時胸の奥が「我在り!」と宣言しているような感じがしていました、

先の質問と合わせて、この止の体験も点検いただければ幸いです。

679:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/08(火) 23:22:15.27 ID:0Ip2nr8e
>>668 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>672 気づきが起きたのじゃ。
 認識も止まったのじゃ。

 無我になる寸前で自我のなくなる恐れが起きて逃避してしまったのじゃ。
 まだ自我が自分と思っているのじゃ。
 そのために恐れが起きて、度々観照の寸前で逃避しているのじゃ。

 自我は自分ではないことを骨の髄まで浸透しせしめるのじゃ。
 それはただの幻影であり、名前とイメージのみのものじゃ。
 胸の奥にも我は無いのじゃ。
 それは魔の声ともいえるのじゃ。
 騙されてはいかんのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

140:避難民のマジレスさん[]:2020/12/07(月) 21:42:00 ID:9WeB0o4g0
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)b

141:避難民のマジレスさん[]:2020/12/08(火) 18:48:50 ID:ZQVqKKDE0
242    1/4
大慧武庫曰 有俗士投演出家   大慧武庫にいはく、「俗士有り、演を投じて出家し、
自曰捨縁 演曰 何請捨縁    自ら捨縁といふ。演いはく『何をか捨縁といふ』
士曰 有妻子捨之 請之捨縁   士いはく、『妻子有り之を捨つ、 之を捨縁といふ。』
演曰 我也有箇老婆還信否    演いはく、『我もまたこの老婆有り、還って信ずるや否や』
士黙然 演乃頌曰 我有箇老婆  士黙ぜんたり、演すなわちじゅしていはく、『我にこの老婆有り、
出世無人見 晝夜共一處     出世して人の見る無し、昼夜共に一処 
自然有方便 云云 余亦作頌記之 じねんに方便有り』うんぬん。」  余もまたじゅを作り之を記す。
     1/4
愛孫愛子對妻歌 そんを愛し子を愛し妻に対して歌う
滅却魔宮猶入魔 魔宮を滅却して猶ほ魔に入る、
貪着風流年少境 風流年少の境似貪着して
自然無一點?犯和 じねんに一点のおうわなし

くま訳
大慧禅師が弟子に語った、こんな話がある。「見識の無い弟子入り希望者が、演禅師に身を捧げて出家し、
自ら捨縁して来ましたと言った。演禅師が尋ねた『何を捨縁と言うのかね』 
士が答えて言った、『妻子が有りましたが、捨てました』
演禅師が言った。「わしにも老いた母が有る。信じるかね』
士黙りこんでしまった。演禅師は詩文にして言った、『我に有一人の老婆有り、
わしが出家したので世話するもの無し、それで昼夜一緒に住んでいる、
人の本性として、自ずとなるべくしてなるための方便は有るのだ。云云 これを読んで、わしもまた、詩文
を作り示すのである。
         
孫子を愛し、妻に向かって歌う、
欲の魔宮は滅却したつもりだったが、なおもまた魔に魅入られているのである、
貪り執着しているのである風流な少女に、そんな境涯である。
自然にしていては、全く?犯和(問題解決の方法)は機能しないのである。

*大慧宗杲1089-1163宋代の臨済宗の僧。諡は普覚禅師。仏日大師。
 真の禅法をめぐって曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用
 いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅し、その疑問を打ち破ることにより悟りへ 
 と向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。対立する正覚は、悟りという目標を設定すること 
 によって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるために、坐禅すること自体が坐禅の目的で 
 あるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れるとしたので、宗杲はこれを「黙照禅」
 と呼んで批判した。” “大慧武庫:宋朝禅林の逸話を集める。大慧が弟子たちに語ったもの
*俗士:世間並みの人。また、見識のないつまらない人。俗人。
*頌(しょう・すしょう・する・じゅ・ず)文体の一種。もと『詩経』の作品を風,雅,頌の3体に分けた
 一つで,周の宗廟の祭祀にあたって奏され,先祖の功徳をたたえる韻文であったが,のち一般に人や物事 
 をほめる内容の文章の一体をさすことになり,散文でも韻文でもつくられるようになった。
*自然:人為を離れて、法の本性としてそうなること。
*?犯和:截流機指斷滅煩惱而得解脫;即以各種方便法而求絕對之解脫。Waheはサンスクリット語のup?・ya 
 (便宜)の音訳であり、閉鎖マシンとは、トラブルを解消して救済を得る、つまり、さまざまな便利な方
 法で絶対的な救済を求めることを意味する。
 18の詩 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/567-n >>638 参
(´・(ェ)・`)つ

142:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/08(火) 21:57:19 ID:1d4drIFg0 [67/67]
孫を愛し、子を愛し、妻に対し詠うのじゃ。
それは魔を滅却してまた魔に入るようなものじゃ。
風流にも貪り執着するのは子供の境地なのじゃ。
そうなれば自然に苦に陥って何も出来なくなるのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

411:避難民のマジレスさん[]:2020/12/08(火) 18:54:03 ID:ZQVqKKDE0
訂正、
403の後に、次の↓文章が抜けておりました。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 4

 私が感情に名づけないなら、つまり思考がたんに言葉のためにだけ機能していないなら、または私が言葉、イメ-ジ、象徴という見地に立って考えないなら-私たちのほとんどはそうします-そのとき何が起きるでしょうか。そのとき確かに精神は、たんに観察者だけではないのです。精神が言葉、象徴、イメ-ジという見地に立って考えていないとき、思考すなわち言葉から分離した思考者はありません。そのとき精神は静かなのではないでしょうか-静かにさせられるのではなく、それは静かです。精神がほんとうに静かであるとき、そのとき生じる感情は、即時に取り扱えるのです。感情が連続性・継続性を持つのは、私たちが感情に名前を付け、よってそれらを強めるときだけです。それらは中心に貯えられています-そこから私たちはそれらを強めたり、伝達するために、さらなるレッテルを貼るのです。
 精神がもはや、言葉で、過去の経験で作り上げられた思考者としての中心でないとき-それはすべて、貯えられ、範疇に、仕切りに入れられた記憶、レッテルです-それがもはやそれらのものごとを何もしていないとき、そのとき明白に精神は静かです。それはもはや縛られていません。それはもはや私という中心を持ちません-私の家、私の達成、私の仕事-それらはやはり言葉であり、感情に勢いを与え、よって記憶を強めているのです。これらのものごとが何も起きていないとき、精神はとても静かです。その状態は否定ではありません。反対に、その地点に至るには、あなたはこのすべてを経なければなりません-それは途方もない仕事・企てです。それはたんにわずかな言葉を習い覚えて、男子生徒のようにそれらを-「名づけないこと」、「名づけないこと」 [と言って]- 反復するだけではありません。そのすべての含意・意味合いを遂行する・徹底的にやり抜くこと、それを経験すること、精神がどのように働くのかを見て、よってあなたがもはや名づけていない地点に至ること-それは、もはや思考から離れた中心がないという意味です-確かにこの過程全体がほんとうの瞑想です。
 精神がほんとうに平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることが、可能です。他のどんな過程も、真実への他のどんな探求も、たんに自己投影的で、自家製であるし、ゆえに非真実です。しかしこの過程は困難です。それは、精神が、内面的にそれに起きているあらゆることに常に気づいていなければならない、という意味です。この地点に至るには、始めから終わりまで-これが終わりであるということではありません-判断も正当化もありえません。終わりはありません。なぜなら何かとてつもないことがなを起きている・続いているからです。これは約束ではありません。それはあなたが実験し、自分自身の中にますます深く入っていくことです。そのため中心の多くの層すべてが解消されるし、あなたはそれを急速にまたは怠けてできるのです。精神の過程-それがどんなに言葉に依存するか、言葉がどんなに記憶を刺激したり、死んだ経験を生き返らせ・復活させて、それに生命を与えるか-を見守ることは、とてつもなく興味深いのです。その過程のなかで、精神は未来や過去のどれかに生きているのです。ゆえに言葉が、心理的と共に神経学的にも途方もない意義を持つのです。どうかこのすべてを、私からも本からも学ばないでください。あなたはそれを他の一人から学んだり、本の中で見つけたりできません。あなたが学んだり本の中で見つけたりできるものは、真実ではないでしょう。しかしあなたはそれを経験できます。あなたは行動の中で自分自身を見守り、考える自分自身を見守り、自分がどのように考えるのか、感情が生じるままに、どんなに急速にそれに名づけているか、がわかることができます-過程全体を見守ることが、精神をその中心から自由にします。そのとき精神は静かであり、永遠であるものを受け取れるのです。
(´・(ェ)・`)つ

412:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/08(火) 21:51:46 ID:1d4drIFg0 [152/152]
言葉による名づけが無いならば、観察する者ではなく観察されるものであると気付くというのじゃ。
その時精神は静かになるのじゃ。
それもまた思考の過程を見守ることで可能になるのじゃ。
そして永遠であるものを受け取れるというのじゃ。

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