鬼和尚 2020/12/06(日)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

585:龍閃[sage]:2020/12/06(日) 00:00:58 ID:5V2XQZsc0
ヨーガ根本経典、続ヨーガ根本経典
っていい本ですか?
おすすめのヨーガの本があれば教えてください。

586:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 10:09:17 ID:/scPtNIg0 [1/3]
昨日 座蒲が届いたのですが
かなり座りやすくなりました。
前よりは楽に1時間位座れる様になりました。
座り方については研究して行こうと思います。

正しい座り方では、
何時間でも楽に座っていられて、
体の事に気を取られず集中が出来、
凝ってモゾモゾしたりもせず姿勢を動かさないでいられる

そんな感じになるのですか?

587:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 10:52:32 ID:/scPtNIg0 [2/3]
毎日瞑想しようとすると家族が居る時も瞑想せざるを得ないのですが、
イビキやウロチョロされたり等の雑音で集中がしづらいです。
雑音に囚われず集中するにはどうしたら良いでしょうか。

また、瞑想を現実逃避と思われたくない自分が居ます。それには瞑想しているメリットを周囲にも体感してもらわないといけないと思っていますが、自然に現れるでしょうか?それともそういった気持ちを諦めるべきでしょうか?
これは私自身、親が創価学会で題目を上げている姿を現実逃避だと軽蔑する所があったためです。

ところで瞑想というより座禅と言った方がまだ家族の印象が良い様でした。オ○ムのせいで瞑想に悪い印象が付いてしまっているようです。

瞑想する事によって経済的成功も得られるでしょうか? 行き詰まっている時に成功への道を見出したい時にはどんな瞑想をしたら良いでしょうか?
まずは集中をして、その後にその問題について考えれば良いのですか?自分が何をすべきか(何をしたら楽に売れるか)というところで行き詰まってしまっています。

よろしくお願いいたします。

595:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/06(日) 22:34:26 ID:1d4drIFg0 [155/156]
>>585 善い本なのじゃ。
 それだけで十分なのじゃ。
 原典を読むべきなのじゃ。

>>586 本当に正しい座り方ができたならば、快が生じて時間も忘れるのじゃ。
 サマーディにも入れるのじゃ。
 自分を忘れるからなのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

>>587 雑音も雑念として流していくと善いのじゃ。
 そうすれば囚われなくなるのじゃ。
 それもまた起こっては消えて行くものであるからのう。
 囚われる必要も無いのじゃ。

 期待しないようにするのじゃ。
 そうすれば期待はずれになっても苦にならないのじゃ。

 成功もできるじゃろう。
 ただひたすらに自分の能力や性質を見極めるのじゃ。
 成功の道はそこにのみあるのじゃ。
 外からの知識は迷いのもとになるだけなのじゃ。
 自分の性質や能力を常に見ていなければ失敗してしまうのじゃ。
 自分の性質や能力以上のことをしようとして限界を迎えるからなのじゃ。
 いずれはわかるじゃろう。
 実践によって確かめるのじゃ。

591:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 19:55:40 ID:czRftzgI0 [30/30]
スピリチャル関係の中では、今だにトランプが次期大統領になると言っている人が結構います。和尚さんはどう思われますか?

593:避難民のマジレスさん[]:2020/12/06(日) 20:51:03 ID:rlAecqNg0 [11/11]
鬼和尚様

数息観をして意識が統一?されて雑念がなくなって今に集中?できるようになったら悩みが何もなくなるのですが苦を観察しようとしてもその苦自体が消えているから観察の仕様がないのですがどうしたら苦を観察して消せる様になりますか?

594:避難民のマジレスさん[]:2020/12/06(日) 21:12:23 ID:jQXQ.Ey60 [5/5]
>>583

いつも質問に答えてくださりありがとうございます。
精進します。

596:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/06(日) 23:49:36 ID:1d4drIFg0 [156/156]
>>591 幻想に囚われているのじゃ。
 もはや決まっているのじゃ。
 
>>593 苦は原因から起こるものじゃ。
 先ずは苦の原因を集中して探すと善いのじゃ。

 苦の原因を思い浮かべれば自動的に苦が起こることを観られるじゃろう。
 それを観ると善いのじゃ。
 苦が起こらなければ正しい原因ではないのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

>>594 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

40:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 20:50:09 ID:Dp/qMVVc0 [22/22]
愛着と嫌悪の両方からの自由は、知によって達成される。執着は一種の無知であり、執着にうんざりした時の反応は嫌悪だ。この反応もまた無知だ。最初のケースでは、人は世界に向かって走り、2番目のケースでは世界から逃げる。どちらの場合も人は走る。しかし、私たちの内に秘められている人の喜びが、世界を追いかけたり、世界から逃げたりすることによってではなく、自分自身にしっかりと留まることによって達成されることを、皆はほとんど知らない。世界に向かって走ってはならないし、世界から逃げてもならない。私たちは、本当の自分自身に、入っていかなければならないのだ。

覚えておきなさい。私たちは自分自身の中に入っていかなければならない。この自己の中に入ることは、愛着や嫌悪によっては不可能だ。愛着と嫌悪の間に内在する対立の見者になることによってのみ可能なのだ。私たちの中には、愛着と嫌悪の両方を観るものがいる。私たちはそれを知らなければならない。知ることで、私たちは自動的に愛着と嫌悪の両方からの自由を得ることができる。知ることは、自己認識の自然な結果なのだ。

質問3
第三の質問:家庭や家族の放棄は無意味だと思いますか?
マハヴィーラの格言を覚えている。彼は言った、「愛着とは所持である」と。 彼は「所持とは愛着である」とは言わなかった。 なぜか? 無知のため、愚かさのために、私たちは世俗的なものに執着している。内面が空っぽなので、自分を大切な存在だと錯覚させるために、外のもので自分を満たしたいのだ。このような状況下で執着を放棄し、無知が残っている場合、本当に執着を取り除くことができるだろうか? 人は物事からは解放されるだろうが、執着心からは解放されない。執着はまだそこにあるだろう。

もし僧院のために自分の家を離れた場合、僧院への執着が自分の家への執着の代わりになるだろう。宗派に入るために家族のもとを離れた場合、家族と同じように宗派に執着することになる。愛着は内面にあり、それはどんな新しい状況下でも表現される。したがって、知る人たちは、物質的なものではなく、欲望と無知の放棄を勧めている。一旦知が明けると、役に立たないものは放棄する必要さえなく、自動的に離れ落ちるのだ。

他者から伝えられるのではなく、自分で気づくことに近づけるため、訳語の「知識」を「知」に変えました。
好きな物事を放棄するのではなく、その物事に対する執着を放棄するというのは納得です。私の場合も物事そのものを放棄するよりも、物事への執着を放棄することを決めて、その物事を楽しんでいる時に自分自身を観察することで、そのいくつかを厭離することができています。

41:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/06(日) 21:59:14 ID:1d4drIFg0 [19/19]
執着が心に残っているならば家族を捨てても無駄なのじゃ。
執着が無いならばあえて捨てることも無いのじゃ。
ありのままにそれを観ることができたならば自動的に滅するのじゃ。
何か変ったことをしようとするのではなく、ただひたすらにありのままに心を観ればよいのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

655:マジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 07:56:26.56 ID:H39AsYFc
鬼和尚さんご回答ありがとうございます。さらに質問させて下さい。

頂いたアドバイスにピンときていないものがあります。せっかくの悟った人からのアドバイスだから深く理解に努めればいいのか?それともピンときていないから、その自分の感覚を頼りにより観察していいのか?どちらがよろしいのでしょうか?

656:マジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 07:59:04.34 ID:hhNngf9t [1/2]
期待せずに教える……

期待せずに行動することってできるのでしょうか?
最初から期待そのものがなければ、行動しようとも思いません。

さらに助言をお願いします。

個人的には教えるそのものが好きだからやっているという考えならピンときます。

657:マジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 08:05:16.57 ID:hhNngf9t [2/2]
慢性的な痛みからネガティブな妄想を引き起こすと観察しました。

病=慢性的な痛みととらえると、病はずっと妄想を引き起こすものと考えられます。

その妄想を一つ一つ観察していくとなると、とても疲労するように感じます。

病を観察しても、疲労しない方法があるのでしょうか?悟った人は老病死を超えるとのこと。であれば病であっても疲労しないのでは?と考えています。よろしくお願いします。

660:マジレスさん[sage]:2020/12/06(日) 23:15:47.99 ID:TuvmAMVl
明日の朝まで座禅したら
朝までに悟れますか?

661:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/06(日) 23:54:42.58 ID:EtqEC9kV
>>655 観察して理解に勤めると善いのじゃ。
 そうすればわかってくるのじゃ。
 
>>656 出来るのじゃ。
 結果に囚われず今ここで最善を尽くすのじゃ。
 期待は欲と同じ時間への囚われなのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>657 更にその原因を探すのじゃ。
 原因から起こることが観察できれば消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>660 おぬし次第なのじゃ。
 全てを捨てて己を追及すれば出来るのじゃ。
 捨てなければ出来ないのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

133:避難民のマジレスさん[]:2020/12/06(日) 13:13:11 ID:ephB6SPw0
くま訳訂正
渇 → 喝

240
偶作   2/3
我唯有一息出入 我唯だ一息出入有り
日面月面志左右 日面ぐわち面左右を忘ず
釋迦老師大覺尊 釋迦老師大覺尊
祖病治得用牛乳 祖病のぢとく牛乳を用ふ 

くま訳
私はただ、一息一息が有るのみである。
千八百年生きようが、一日生きようが、志次第である。
釋迦や老師や大学尊も同じである。
祖病に徳があるのは、命がけで瞑想し、スジャータの乳粥を食してい悟りをひらいた釈迦のお陰なのだ。

* 日面仏、月面仏:おまけ 参
* スジャータの乳粥供養:は、釈迦が悟る直前に乳がゆを供養し命を救ったという娘である(乳粥供養)。
 釈迦の苦行放棄のきっかけとなった

おまけ:『碧巌録』第三則( 細川景一先生訳・解説)
 馬大師不安。院主問う、「和尚、近日尊候如何」。大師云く、「日面仏、月面仏」。
 「馬大師」とは、禅宗第八祖馬祖道一禅師(唐代の代表的禅僧。709~788)のことです。「不安」 
 とは、病気になること、「院主」とは、寺務を主宰する役です。
 馬祖道一禅師が、あるとき病気になられます。病勢いよいよ悪化して、余命いくばくもないとき、寺の執 
 事があたふたと見舞いにかけつけます。「和尚、ご機嫌いかがですか」という問いに対して、馬祖は答え 
 ます。「日面仏、月面仏」と。
 「日面仏」とは、賢却千仏(現世において出世される千人の仏さまたち)の第五十八仏で、千八百歳とい 
 う寿命の長い仏さんです。「月面仏」とは、“がちめんぶつ”と読み、賢却千仏の第二百二仏に当たり、 
 一日一夜という寿命の短い仏さまです。
 馬祖は千八百歳まで生きる仏さまもあれば、一日一夜の仏さまもあるではないか、病気など気にするな、 
 「生きるもよし、死ぬるもよし」と、泰然自若として言いきったのです。
 病む時は、病むがよろしく候
 死ぬ時は、死ぬがよろしく候 (良寛和尚)
(´・(ェ)・`)つ

134:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/06(日) 21:54:59 ID:1d4drIFg0 [64/64]
もはや自我は無く一息一息の出入りがあるのみというのじゃ。
完全にサマーディに入っているのじゃ。
日月も左右も無いのじゃ。
お釈迦様も牛乳を用いて病を治したというのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

405:避難民のマジレスさん[]:2020/12/06(日) 13:25:06 ID:ephB6SPw0
うむ。科学、技術的な言葉、観念わ否定するのではなくて、感情、感覚などを蓄積した記憶に基づく観察を否定しているのでありますね。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 1

質問
 私たちの精神は、知られたものだけを知っています。私たちの中で、知られないもの、真実、神を見つけるように駆り立てるのは、何でしょうか。

あなたの精神は知られないものに向かって駆り立てるのでしょうか。私たちには、知られないもの、真実、神への衝動があるのでしょうか。どうかそれを真剣に考え抜いてください。これは修辞学的な問い・反語ではなくて、現実に見出しましょう。私たち各自には、知られないものを見出したいという内面の衝動があるのでしょうか。あるのでしょうか。どうしてあなたは知られないものを見つけられるでしょうか。あなたがそれを知らないなら、どうして見つけられるでしょうか。真実への衝動があるのでしょうか。それともそれはたんに知られたものへの拡大された願望でしょうか。私のいうことがどういう意味なのか、理解していますか。私は多くのものごとを知ってきました。それらは私に幸せ、満足、喜びをくれませんでした。それで今や私は、もっと大きな喜び、もっと大きな幸せ、もっと大きな生命力-何であれ-を自分にくれるであろう何か他のものを、欲しがっているのです。知られたもの-それは私の精神です-なぜなら、私の精神は知られているから、過去の結果であるからです-その精神が知られないものを求められるでしょうか。私は真実を、知られないものを知らないなら、どうしてそれを探求できるでしょうか。確かにそれは来なければなりません。私はそれを追ってゆけません・追いかけられません。私はそれを追ってゆくなら、何か自分が投影した知られたものであるものを、追っているのです。
 私たちの問題は、私たちの中で、知られないものを見つけるように自分たちを駆り立てるのは何なのかではありません-それは充分明らかです。それは、もっと安全で、もっと永久的で、もっと確立され、もっと幸せでありたい、騒乱・騒動から、苦痛、混乱から逃避したいという私たち自身の願望です。それが私たちの明白な駆動力です。その駆動力、その衝動があるとき、あなたは-ブッダに、キリストに、政治的とその他すべてに-すばらしい逃避、すばらしい避難所を見つけるでしょう。それは真実ではありません。それは知ることのできないもの、知られないものではありません。ゆえに知られないものへの衝動は、終わらなければなりません。知られないものへの探求は止まなければなりません-それは、累積する知られたもの、すなわち精神の理解がなければならないという意味です。精神は、知られたものとしてのそれ自体を理解しなければなりません。なぜならそれが、それが知っているすべてであるからです。あなたは、何か自分が知らないものについて考えられません。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。
 私たちの困難は、精神が知られたものに進んでいかないことです。それは、精神がそれ自体を [理解して] 、そのすべての動きが、どのように過去から現在をとおして未来にそれ自体を投影しているかを理解するときだけ、起きるのです。それは知られたものの一つの連続した動きです。その動きは終わりうるでしょうか。それは、それ自身の過程の機構が理解されるときだけ、精神がそれ自体とその働き、そのやり方、その目的、その追求、その要求を-表面的な要求だけでなく、深い内面的な衝動と動機を-理解するときだけ、終わりうるのです。これは全く困難な作業です。*あなたが見出すのは、ただ会議の中や講義においてや本を読むことにおいてではないのです。反対に、それは、思考のあらゆる動きへの常なる見守り、常なる気づきが要るのです-あなたが起きているときだけでなく、また眠っているときも、です。それは散発的な、部分的な過程ではなく、総合的な過程でなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

406:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/06(日) 21:57:27 ID:1d4drIFg0 [150/150]
悟っていない者が知るのは記憶の中にあるものだけなのじゃ。
記憶に無いものごとは知られないのじゃ。
それでも知ろうとする意志は起こるのじゃ。
その意志をも観察して理解することで無くすのじゃ。
本当に知らないものが理解できるのはその後なのじゃ。
 

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