鬼和尚 2020/12/04(金)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

575:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/03(木) 23:33:59 ID:pGqhoCNU0
では数を数えられて、
落ち着いてボーッとしてきた頃には
私は一応ディヤーナに入れているのでしょうか?
ディヤーナは何分位続けると良いとかはありますか?更に深める必要がありますか?

無理に深めようとか時間を伸ばさなくても
そのボーッとする状態になるまでの瞑想(大体10~15分です。)を
毎日、出来るだけ高頻度で行っていれば自然にもっと深められるのですか?

瞑想後のボーッとした状態で観察を行うと良いのですか?


>>瞑想中には何でもありえるのじゃ。
これはよく仰られていますが、瞑想中に何か起こるのは何故なのですか?
夢や幻覚のようなものですか?
それとも超能力のようなものですか?>>何でも見えるのじゃ。>>見えないものが後ろに居たりするほうが恐ろしいかもしれん。

見たくない場合はどうしたら良いですか?
見えないものが後ろに居るとはなんの事でしょうか…?
不動心を得たら何も怖くなくなるのですか?

前も聞いたかもしれませんが、子供の頃壁に顔を見た事がありますが、あれは何だったのでしょうか?
あるべきでないものが急にあるとかはかなり恐ろしいです。今の自分はまだ不動心も無く見えたら怖いのでもう見たくありません。


何度も同じような質問をしてしまいすみません。
よろしくお願いいたします。

576:513[]:2020/12/04(金) 19:13:20 ID:zefO2ruM0
>>鬼和尚

クリシュナムルティと鬼和尚のまとめによると。

「観念による行動は、思考に依るもので、観念に基づかない行動だけが、変容を引き起こす。」

ということですが、

1 その観念から起こる行動-人を助けたり、物をお布施すること、をしようとしているとき、その観念に気づいたら、行動するのを止めたほうが、悟り・変容に近づきますか。

2 善い人間でありたい。という観念が、過去の自分に対する償いや、誰かに対する恐れから起こっているならば、それから起こる行為をやめることが自分への善・慈悲になりますか。

3 「善い人間でありたい。という観念」についても、ただひたすら観ればよいですか。

577:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/04(金) 22:01:29 ID:1d4drIFg0 [152/152]
>>575 変化があったならば入れていると言えるのじゃ。
 無いのじゃ。
 五分でも善いのじゃ。

 更に実践して深く入ると善いのじゃ。
 
 日々実践していれば自然に深くなるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

 瞑想しながら観察すると善いのじゃ。

 観念が見えるからなのじゃ。
 幻覚なのじゃ。
 
 眼を開いて見えて触ったり、聞こえたりするならば幻覚ではないのじゃ。
 見なければ善いのじゃ。
 おぬしに縁のある者がいるかもしれん。
 怖くないじゃろう。

 幻覚なのじゃ。
 見ようとすれば見られるのじゃ。

>>576 一 とめなくてよいのじゃ。
       そのまま見れば悟りに近いのじゃ。

     二 それに本当に気付いたならば、その時行いは落ちるのじゃ。
        やめようと思うのも囚われなのじゃ。

     三 観るのじゃ。
        全てありのままに観るのじゃ。
        更に善事を積むと善いのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

36:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/04(金) 20:20:36 ID:Dp/qMVVc0 [20/20]
第3章 初日の夜 1964年6月4日午後
質問1
最初の質問:宗教と科学の間に矛盾はありますか?
ない。 科学の知識は不完全だ。 それは、世界中に光がある一方で、あなた自身の家に暗闇があるようなものだ。そのような不完全な知識では、自己の知識なしでは、生は単に不幸になる。生が平和、満足、充足感を得て輝くには、物質的なものを知るだけでは十分ではない。そのような道では、人は繁栄を得るかもしれないが、満たされはしない。そのような道では、所有物を得るかもしれないが、光は持てない。そして、光がなければ、知識がなければ、所有物は束縛となり、自分で作った縄で自分の首を吊ることになる。

世界だけを知る者は不完全であり、不完全さは不幸につながる。世界を知ることによって、人は力を得る。そして、科学は知識と力の探求だ。科学はすでに人類の手に無限の力への秘密の鍵を握らせているのではないだろうか? しかし、そのような力を得ても何の価値も生まれてこない。間違いなく人間は力を持っているが、平和は持っていない。平和は、物質的なものではなく、神を知ることによって得られる。この神を探すことが宗教だ。

平和のない力は自滅的なものだ。自己を知らずに物質的なものを知ることは、無知な者の手に力があることを意味する。そこからは良いことは何も生まれてこない。科学と宗教の間に蔓延している対立は、これまでのところ悲惨な結果をもたらしている。科学の領域だけを研究してきた者は、力を持つようになったが、彼らは落ち着きがなく、不幸だ。そして、宗教だけを研究してきた者は、間違いなく平和を手に入れたが、彼らは弱くて貧しい。このようにサーダナ、これまで行われてきた探求は不完全で、部分的なものだ。これまでのところ、真理のための不足なく完全なサーダナはなかった。

私は、その完璧さの中にある力と平和を見たい。私は、宗教と科学の統合、調和が欲しい。そうすることで、完璧な個人、完璧な文化、内なる価値と外なる成果に富む人々が生まれるのだ。個人は肉体でも魂でもなく、この二つの組み合わせだ。したがって、これらのうちのどれか一つだけに基づいたものは不完全なものだ。

これは、科学を信じる人への対機説法ということでしょうか?

37:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/04(金) 21:40:29 ID:1d4drIFg0 [17/17]
↑そうではないのじゃ。
科学が本当に観察とその結果だけを尊重したならば、悟りに導く真の宗教と全く合致したものとなるのじゃ。
神とか幻想を信じる宗教とは矛盾するがのう。
科学が正しく発展されたならば、悟りの境地も証明され、悟りへの道もあかされるのじゃ。
間違えば破滅への道となるのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

434:おさかなくわえた名無しさん[]:2020/12/04(金) 11:40:38.93 ID:HouuSB/1 [2/2]
鬼和尚、今まで迷っていましたが、結論が出ました。
「善い事を心がけ、楽しまないと損だ」という事です。
悟るのは半分あきらめました。

436:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/04(金) 21:54:34.98 ID:4crwfd6Z
>>434 そうじゃ、善事を積むと善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

509:マジレスさん[]:2020/10/17(土) 19:21:08.76 ID:+I4e+AR6
鬼和尚、非想非非想処とはどのようなところでしょうか?

512:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/10/18(日) 01:17:42.24 ID:bhonQWDU [1/2]
>>509 無色界の最高天じゃな。
 もはやこの上は無いのじゃ。
 想念が消えて想念以外も無いのじゃ。
 認識が残っているからまだ輪廻するのじゃ。
 認識も消えたら悟りなのじゃ。

636:マジレスさん[]:2020/12/03(木) 22:22:42.06 ID:G72qpQp0 [1/2]
>>512
鬼和尚、ここでは何を認識するのでしょうか?

637:マジレスさん[]:2020/12/03(木) 22:22:42.09 ID:G72qpQp0 [2/2]
>>512
鬼和尚、ここでは何を認識するのでしょうか?

640:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/12/04(金) 21:54:06.35 ID:G53C3DOq
>>637 まだ想念の無い自分が認識されているじゃろう。
 観念として自分があると認識するのじゃ。
 それがなくなれば無我なのじゃ。
 更に認識もなくなれば大悟なのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

128:避難民のマジレスさん[]:2020/12/04(金) 18:50:44 ID:1GQG89x.0
反権力クレーマーの一休さん
238
剪妙勝寺竹木  妙勝寺の竹木を切る
在官忘却不容針 官に在って忘却す針を容れざることを
妙勝封疆剪樹林 妙勝の封きゃう樹林を切る
立破商君胡亂法 立ちどころに商君うろんの法を破る
去來没跡一身吟 去來あとなし一身の吟

くま訳
妙勝寺の竹木をきる
官職にある者は、公の事をなすにあたっては、峻厳でなければいけない事を忘れているのである。
妙勝寺の敷地の境界の樹林を切れと言われたのである。
たちどころに、論破したのである。商君書のような強権的で根拠曖昧な相手の主張を。
過去の慣例を引き合いに出すなど未熟ものである。我が主張を通したのである。

うむ。一休さんに木を切れと言ったお役人さんは、かなり凹まされたでありましょう。

*妙勝寺:1288-1293年に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身。1331-1334年に兵火にあって衰退していたのを、
 1456年に一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。その
 後、一休は1481年12月12日、88歳で亡くなるまでをここで過ごした。
*官不容針私通車馬:官には針をも容れず、私には、車馬をも通ず。曹山と鏡清との問答の中で曹山が語っ 
 た言葉。公けには針をも通さないほど峻厳でも、裏口からは馬車をも通すほどツーカーであるということ。
 建前と本音とは大きく異なっていること。(龍泉院HP解説抜粋)
*封境・封疆(ほうきょう):領土のさかい。国境。
*立破(リュウハ・りっぱ):因明(いんみょう)で、論議の際の主張と、それに対する反論のこと。また、 
 自分の主張を立てて、他人の非説を破ること。りっぱ。
*商君書(しょうくんしょ):戦国時代の政治家で,法家の祖の一人,商鞅 (しょうおう) の著・土地の開 
 墾と戦功をあげることを国策の主眼とし,労働力増加のため貴族の特権を抑制し,分家を奨励し,耕作者 
 に耕地を解放し,諸子遊説の策謀を禁じ,学問,文学を排し,商業を押え,また厳罰主義をとり,隣保の
 連座制をしき,税制,度量衡の統一を説き,酷薄な国家統治の典型を示している。
*胡乱(ウロン):1 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。2 確かでないこと。真実かどうか疑 
 わしいこと。また、そのさま。
*没從跡(もっしょうせき):自分の跡を消す。修行の跡が見えるのは未熟者。努力の跡など見せるもので 
 はない。
(´・(ェ)・`)つ

129:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/04(金) 21:50:14 ID:1d4drIFg0 [62/62]
大体そんな感じじゃな。
本来切ってはいけない筈の寺の竹とか木を切りに来たのじゃな。
論破して立ち去らせたのじゃ。
乱世になって役人も法を破って儲けようとしたのじゃろう。
おかしなことじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

401:避難民のマジレスさん[]:2020/12/04(金) 18:02:46 ID:SpAN1P/60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 2

 私たちは、それを展開する・紐解くにつれて、この中心、この核が存在しているかぎり、理解はありえないことが、やがてわかるでしょう。理解があるのは、この核の消散をもってだけです。なぜなら、結局、その核は記憶であるからです-名前、レッテル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です。名づけられ、レッテルを貼られたそれらの経験をもって、その核から、経験の記憶の感動 [に応じ] 、楽しみと苦痛に応じて、受け入れと拒絶、あろう、あるまいとする決意・決心・決定があるのです。ですからその核は言葉です。あなたがその中心に名づけないなら、中心はあるでしょうか。すなわちあなたが言葉という見地に立って考えないなら、言葉を使わないなら、考えられるでしょうか。考えることは、言語化・言葉にすることをとおして生じます。または言語化は、考えることに応答し始めます。中心、核は、言語化された無数の楽しみと苦痛の経験の記憶です。どうかそれをあなた自身のなかに見守ってください。すると実体よりも言葉のほうがはるかにもっと重要になってしまったこと、レッテルのほうがはるかにもっと重要になってしまったことが、わかるでしょう。それで私たちは言葉を拠り所に・糧として生きているのです。
 私たちにとって真理、神のような言葉が-またはそれらの言葉が表す・表現する感情が-とても重要になってしまったのです。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「ヒンドウ-教徒」という言葉や「怒り」という言葉を言うとき、私たちが、感情を表す言葉です。しかし私たちはその感情が何であるかを知りません。なぜなら、言葉が重要になってしまったからです。あなたが自分自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉はどういう意味でしょうか。その言葉の裏の意味は何でしょうか-あなたはそれを決して検討したことがありません。私たちの中心、核が、言葉、レッテルです。レッテルが大事でないなら、大事なものは、レッテルの裏にあるものであるなら、そのときあなたは探究することができます。しかしあなたはレッテルと同一化されて、それに突き刺されている・それがこびりついているなら、前進できません。私たちはレッテルと同一化されています-家、形・姿、名前、家具、銀行預金、自分たちの意見、自分たちの刺激物等々と-。私たちはそれらすべてのものごと-名前により表されているそれらのものごと-です。ものが、名前が、レッテルが、重要になってしまったのです。ゆえに中心・核が言葉です。
(´・(ェ)・`)つ

402:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/04(金) 21:52:40 ID:1d4drIFg0 [148/148]
言葉や名前による分別が記憶から起こっているというのじゃ。
それが問題の核であるというのじゃ。
その核がなくならない限り理解はないというのじゃ。
仏教で言えば阿頼耶識じゃな。
今ここにあるものごとよりも、記憶による名前の方が現実と認識してしまっているからそれは消滅させなければならないのじゃ。

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