鬼和尚 2020/12/03(木)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

567:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/02(水) 23:00:23 ID:X1QPqN9U0 [1/2]
ブッダの言葉は自分の貪欲さや慢心にグサグサと突き刺さるものがありました。


この部分だけお願いいたします。

「煩悩の残りがあるならばこの迷いの生存に戻らない事」の意味を教えて頂けますか?
悟りとは違うのですか?

568:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/02(水) 23:07:24 ID:X1QPqN9U0 [2/2]
あと、この言葉についても教えていただきたいのですが、

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。
諸々の所有欲は欲求を縁として起る。
欲求がないときには、<わかもの>という我執も存在しない。
形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」


これは鬼和尚が仰っている言葉とイメージの事ですか?
形態(イメージ)が無くなれば物理的な接触すらも無くなるのですか?

この後形態を消滅させる方法についても書かれていましたが、それは悟りを得た後の境地になりますか?

悟る前には想像したりしても無意味で、まずはディヤーナに至るくらいの集中力を付けて観察しないとわからないことですか?

569:避難民のマジレスさん[]:2020/12/03(木) 01:00:36 ID:1VtuVbn60 [2/2]
>>567
それは不還果のことですね。

570:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/03(木) 16:28:23 ID:eiiUZvSo0
ディヤーナについて色々教えて頂きたいのですが、
ディヤーナと初禅は同じものですか?

ディヤーナには何分位で入れるものなのですか?

精神が瞑想後に鎮静するのは、
ディヤーナに入りかけているのでしょうか?

私の場合精神を1箇所に集中しているというよりだんだんボワボワして来る感じです。
瞑想すると頭が澄んで集中している感じというより、精神が落ち着いてボーッとする感じなのですが
これは集中が上手く行ってないのでしょうか?
数息観で数を数え続けていることは一応出来ています。

あと、鬼和尚の仏教勉強会のブログで、眉間などに集中する方法も書かれていますが、
眉間に集中しながら数を数えるのですか?
集中する場所を変えることはどんな意味があるのですか?
人によって集中しやすい場所も異なる場合があるのですか?

試しにやってみると、私は胸だと心臓の鼓動が気になってしまい、眉間だと集中しやすい気もしました。
ただ、眉間に違和感というのか熱感というのか、何かそのような感覚を感じます。
これは正しい、もしくな何か良い兆候ですか?

意識を上の方にやる方が雑念が発生しずらい気がしました。雑念というか思考の意識は口あたりにある気もしますがそのようなこともありますか?

また、眉間に集中すると眉間のチャクラが強化されて、幽霊などが見えるようになってしまったりはしないでしょうか?それだけは心配しております。

また、回数や時間より「集中するぞ」という意識の方がでしょうか?

沢山の質問をすみませんが
よろしくお願いいたします。

まずはディヤーナを達成したいです。

572:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/03(木) 22:56:26 ID:1d4drIFg0 [149/151]
>>567 それはまだ悟りではないのじゃ。
 途中なのじゃ。
 迷いが無いだけなのじゃ。
  
>>568 そうじゃ、言葉とイメージなのじゃ。
 物理的な接触はあるじゃろう。
 ただそれをなにものかとの接触と認識しないだけなのじゃ。
 椅子と接触してもそれが椅子であると認識しないのじゃ。・

 その法を実践すれば悟りに至るのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

>>570 ディヤーナとは禅那と中国語で翻訳されるのじゃ。
 禅は全てディヤーナなのじゃ。
 
 出来ない者は何時間でも出来ないのじゃ。
 実践していれば直ぐにでも入れるものじゃ。

 瞑想中に心が集中すればディヤーナなのじゃ。

 数が数えられればできいるのじゃ。

 集中できなければ数えると善いのじゃ。
 数えなくとも集中できるならば数えなくて善いのじゃ。
 
 呼吸に集中するのが苦手な者は眉間とか胸に集中するとよいのじゃ。

 毎日続けてやりやすければそれが合っていることなのじゃ。
 
 瞑想中には何でもありえるのじゃ。

 何でも見えるのじゃ。
 見えないものが後ろに居たりするほうが恐ろしいかもしれん。
 
 日々続けることだけが大事なのじゃ。

571:513[]:2020/12/03(木) 17:04:04 ID:ZsLL3qPE0
>>鬼和尚

 鬼和尚の発言から。

「観念がある行動は行動ではないばかりか、観念そのものとまで言うのじゃ。
行動は無く観念が続いているだけなのじゃ。
汚い自分を洗おうとする観念による行動は汚い自分を続けるだけというのじゃ。」

 ー

 質問です。

 善い人間でありたい。という観念に基づいて、人を助けたり、物をお布施することは、

 1 他人への善事ですか?

 2 自分には、善いことですか?

 3 自分に対して、慈悲はありますか?

 4 他の人にしたことが自分に返ってくるので、自分も助けられたり、お布施されたりしますか?

 5 福楽を招きますか?

 6 悟りに近づきますか?

573:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/03(木) 22:59:15 ID:1d4drIFg0 [150/151]
>>513 一 他人への善事にもなるのじゃ。

 二 自分にも善いことなのじゃ。

 三 慈悲は在るのじゃ。

 四 助けられたりお布施されるのじゃ。

 五 福楽を招くのじゃ。

 六 悟りには関係ないのじゃ。
    善い環境になるから修行し易くなるのじゃ。

574:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/03(木) 22:59:21 ID:1d4drIFg0 [151/151]
>>513 一 他人への善事にもなるのじゃ。

 二 自分にも善いことなのじゃ。

 三 慈悲は在るのじゃ。

 四 助けられたりお布施されるのじゃ。

 五 福楽を招くのじゃ。

 六 悟りには関係ないのじゃ。
    善い環境になるから修行し易くなるのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

34:避難民のマジレスさん[sage]:2020/12/03(木) 20:56:39 ID:Dp/qMVVc0 [19/19]
あなたの視覚が内向きに導いている。ただ観続けなさい。思考、呼吸、おへその動きを観なさい。反応しないこと。その結果、心の創造物ではない、あなたの創造物では全くないものが現れる。これは実際にはあなたであるものであり、存在だ。これは、私たちすべてを支えている働きだ。それは私たちに自分自身を明らかにし、そして、そのとき、自分自身、つまり、すべての中で最大の驚きが現れるのだ。

ある物語を思い出した。 ある時、サドゥー、求道者が丘の上に立っていた。朝は早く、太陽は輝き始めていた。何人かの友人同士が散歩に出かけていた。彼らは、たった一人で立っているサドゥーを見た。そして、お互いに尋ね合った。「このサドゥーはここで何をしているのだろう?」 そのうちの一人は、「たぶん牛がジャングルでよく迷子になるので、丘の上に立って探しているんだろう。」と言った。他の友人は同意しなかった。もう一人は、「立っている様子からすると、何かを探しているようには見えない。むしろ誰かを待っているように見える、たぶん同行した友人がどこかに取り残されてしまったのかもしれない。」しかし、他の人たちはこれにも同意しなかった。三人目は、「誰かを探しているわけでも、誰かを待っているわけでもない。神の観想に没頭しているんだ。」と言った。

皆が同意できなかったので、状況を明らかにするためにサドゥー自身に近づいた。最初の人は、「失われた牛を探しているのですか?」と尋ねた。サドゥーは、「違います。」と答えた。次の人は「それでは、誰かを待っているのですか?」と聞き、サドゥーは「いいえ。」と答えた。三人目は「神を観想しているのですか?」と聞くと、サドゥーはまたしても否定的な答えをした。三人とも驚いた。全員で「では、ここで何をしているのですか?」と聞くと、サドゥーは言った。「私は何もしていません。ただ立っているだけです。ただ存在しているだけです。」

私たちは、このように単純に存在しなければならない。何もしないでいなければならない。すべてを捨てて、ただ存在しなければならない。そうすると、言葉にできない何かが起こる。起こるであろう経験は、言葉では表現できない。それは経験の体現だ。それは真実の実現であり、自己の実現であり、神の実現なのだ。

第2章はここまでです。悟りを得るのに最大の障害は自我だと思うのですが、自我に対する執着が弱まると、例えばどのようなことが起こるでしょうか?
私の場合ですと、以前に比べてこだわりが無くなり、感情の働きが薄くなり、何もなくとも楽な感じが増えたように思います。また、様々なことに対して、意味を感じられにくくなっているようにも思います。

35:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/03(木) 21:47:01 ID:1d4drIFg0 [16/16]
自我に対する囚われがすくなくなれば、怒りは少なくなるじゃろう。
欲も少なくなるじゃろう。
何もしないこともできるじゃろう。
ただ存在していることもできるじゃろう。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

126:避難民のマジレスさん[]:2020/12/03(木) 19:39:49 ID:hh98Jcm20
237    2/2
小欲知足 二首
果満羅漢有三毒 果満の羅漢も三毒有り
純一願小欲知足 純一に小欲知足を願ふ
無衣貧病得相治 無えの貧病あいおさむるを得たり
山堂一夜聞促織  山堂一夜促織を聞く

くま訳
修行の効により、果として阿羅漢になった者にも、貪・瞋・癡の三毒はあるのである。
一休、嘘偽り無く、小欲知足を願っているのである。
着るものも無い貧しさが、病を治し、病が治まったから貧しさから脱することも出来たのだ。・・断食療法
でありましょうか?
山堂で一夜、こおろぎの鳴き声を聞く。

一休さん、もしかして、こおろぎを食してたのでありましょうか?
*果満:修行の功により「果」としての悟りが完成すること。
*三毒:克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)人間の諸悪・苦 
 しみの根源とされている。(むさぼり・怒り・愚痴(おろかさ))
*純一:まじりけがないこと。飾りけや、うそ偽りがないこと。また、そのさま。純一将軍・一休さん
*薬病相治(薬病相(やくへいあいじす):薬は病気を治すために用いるが、病気が治ると薬は不要になる。
*促織(そくしょく):こおろぎ(蟋蟀)中国では闘こおろぎ等の為、ペットとして盛んに飼育されたが、 
 東南アジアでは食用や民間療法の薬として、売られている。アメリカではコオロギの粉末を原料としたプ 
 ロテイン・バーを開発・販売し日本では徳島大学発スタートアップ企業で参入を計画している。養殖コオ 
 ロギから醤油もできるらしい。
(´・(ェ)・`)つ

127:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/12/03(木) 22:13:10 ID:1d4drIFg0 [61/61]
大体そんな感じじゃな。
断食かもしれん。
こおろぎは食べていないじゃろう。
声を聞いただけなのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

397:避難民のマジレスさん[]:2020/12/03(木) 06:52:42 ID:h1RGr7360
うむ。
確かに、永遠に続く苦しみの様に思われる強い感情や、負の思考も、やがて消え去ることを知っています。
Kの方法は、その思考、感情が消え去るまて考え抜き、感じ続けることでありますかね?
「観」の徹底を求めてるのでありましょうか?
呼吸への集中→雑念に巻き込まれて集中することを忘れる→そのことに気づいて集中に戻る→雑念が消える。
↑こちらの方が、だれでもできる楽な実践法のように思えるのでありますが、Kは、「集中」「止」が、「観」の徹底の邪魔をすると考えてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

399:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/03(木) 21:51:42 ID:1d4drIFg0 [146/147]
>>397 そうじゃ、それを観察と呼ばないだけなのじゃ。
 実際は観察しているのであるがのう。

 そのようじゃ。
 集中なく観察をしろというのじゃ。
 困難なことじゃ。

398:避難民のマジレスさん[]:2020/12/03(木) 19:32:02 ID:hh98Jcm20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 1
質問
 情動に名づけることやレッテルを貼ることなしに、どうしてそれに気づけるのでしょうか。私は [ある] 感情に気づくなら、それが生じた後にほとんど即時に、その感情が何であるかを知っているように見えます。それともあなたは、「名づけてはいけない」と言うとき、何か違ったことを意味しているのでしょうか。

 なぜ私たちは何かに名づけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人物に、感情に、レッテルを貼るのでしょうか。自分の感情を伝達するため、花等々を叙述するため、または自分自身をその感情と同一化するため、のどれかです。そうではないでしょうか。私は伝達するために、何かに、感情に名づけます-「私は怒っている」。またはその感情を強めるため、解消するため、それについて何かをするために、自分自身をそれと同一化します。私たちは他の人たちに伝達するために、何かに、バラに名前をつけます。またはそれに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちは「それはバラです」と言って、急いで・すばやくそれを見て次に進みます。それに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちはそれを分類しておいて、よってその花の内容と美しさ全体を理解したと、思うのです。
 何かに名前をつけることにより、私たちはたんにそれをに入れただけです。それでそれを理解したと思うのです。私たちはそれをもっときっちりと見ないのです。私たちはどんなふうにでもそれに名前をつけないなら、それを見るように強いられるのです。すなわち私たちは花でも何でも、新しさをもって、新しい検討の質をもって接近するのです。私たちはまるで今まで見たことがなかったかのように、それを見ます。名づけることは、ものごとや人を整理する・処置するとても便利なやりかたです-彼らはドイツ人、日本人、アメリカ人、インド人であると言うことにより、あなたは彼らにレッテルを貼って、レッテルを破壊できるのです。あなたは人々にレッテルを貼らないなら、彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことは、はるかにもっと難しいのです。あなたは爆弾でレッテルを破壊して正しいと・正義だと感じることができます。しかしあなたはレッテルを貼らないで、ゆえに一個の・個々のものごと-それが人でも花でも出来事でも情動でも-を見なければならないなら、そのとき、それと自分の関係、後に続く行動との関係を考えるように強いられるのです。それで用語づけることやレッテルを貼ることは、何かを処理する-それを否定したり非難したり正当化したりする-とても便利なやり方です。
 あなたがそこから名づけてくる中核・核芯は何でしょうか。いつも名づけ、選択し、レッテルを貼っている中心は何でしょうか。私たちは皆、中心、核があると感じるのではないでしょうか-そこから私たちは行動しています。そこから判断しています。そこから名づけています。その中心、その核は何でしょうか。或る者は、それは霊的本質、神、などであると考えたいように思うのです。それでその核、その中心が何であるかを見出しましょう-それが名づけ、用語付け、判断しているのです。確かに、その中心は記憶なのではないでしょうか。同一化され、閉じ込められた一連の感動-現在をとおして命を与えられた過去です。その核、その中心が、名づけること、レッテルを貼ること、覚えておくことをとおして、現在を常食にするのです。
(´・(ェ)・`)つ

400:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/12/03(木) 21:53:44 ID:1d4drIFg0 [147/147]
名づけるのはものごとや人を整理するのに便利であると言うのじゃ。
しかし、それは記憶による分別なのじゃ。
記憶により分別されてしまえばそれはもはや古いことになってしまうのじゃ。
今ここにいることはできないのじゃ。
過去の記憶に生きているのじゃ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました