鬼和尚 2020/11/29(日)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

544:避難民のマジレスさん[]:2020/11/29(日) 03:50:49 ID:pK5kMKUM0
>>543
御指南頂きありがとうございます。
唯一の望みは死を超える事であり、ヨーガに用はありません。自分の修行に励みます。
ありがとうございました。

545:513[]:2020/11/29(日) 18:02:05 ID:WhJQUCKw0
>>鬼和尚

1 故意ではなく、相手が傷ついたときは、悪かったと反省する必要はない。あっていますか?

2 過失があり、相手が傷ついた場合、善がなかったと反省する。次は相手が傷つかないようにしようと注意する。これが、善でしょうか。

3 レス540の5の場合、相手への慈悲に基づいて結婚生活を続けるほうが、福楽を招き、かつ、悟りも早く訪れますか? 
 それとも、自分への慈悲を優先して離婚した方が、福楽を招き、かつ、悟りも早く訪れますか? 
 あるいはどちらを選ぶにせよ、無理なく、本心から決めることで後悔が少なく、福楽を招き、かつ、悟りも早く訪れますか? 

4 「自分への慈悲」という言葉に違和感があります。そもそも、本来の慈悲は意図なく、自然に成されるものだからでしょうか。 
 慈悲を考えている時点で慈悲が小さい気がします。

546:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/29(日) 19:26:06 ID:On57x39I0 [4/7]
上のレスに関して、私も常々思ってたのですが、
基本的に、何か行為をするときに悪意がなければ、悪いことをしたことにはならない、という法則のようです。
では、
1.運転を誤って、相手をひき殺してしまった。轢き殺された相手の家族はそれを恨み、運転者を害した。
 この場合、運転者は悪意があったわけではないので、悪いことをしていない。
 轢き殺されたうらみで運転者を害した家族は悪となってしまいます。

2.夜に暴走族が走り回ります。彼らは騒音で危害を加える意思はなく、ただストレス解消に走り回っていたとします。
 ただ、その騒音で周りに住んでいる者は迷惑しています。
 この場合でも、暴走族には悪意はないので、悪いことはしていないという解釈になってしまいます。

これは、その通りでしょうか?

3.拡大解釈すると、悪意なしに行為を行うことは悪ではないので、他人の迷惑は一切考慮せず好き勝手すれば悪ではないとなってしまいます。
 あまりにも理不尽な気がします。

4.ほかにも、善意で道路に打ち水をしていたところ、実は周りの住人は道路を水浸しにされて困っていたとします。
 この場合、善行を行っていたので、良いことをしたと解釈されるのでしょうか?周りの住人はやられ損ということになりますか?

よろしくお願いします。

550:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/29(日) 23:22:49 ID:1d4drIFg0 [144/145]
>>544 どういたしまして、またおいでなさい。

>>545 一 間違いで他人を傷つけたならば大いに反省する必要があるじゃろう。
       反省して二度と同じ間違いをしないようにするのじゃ。
     
    二 善ではないのじゃ。
       何も行為をしていないからのう。
       悪を防いだだけなのじゃ。
        
     三 本心で決めるが善いのじゃ。
        それが最も悟りに近いといえるのじゃ。

     四 自他が一つであると知れば自分にも慈悲を行うべきであると知れるのじゃ。
       自分に慈悲を施せなければ他人にも施せないのじゃ。
        大抵の者は自己の利益を優先するから他人の利益は後回しになるのじゃ。
        すると自己に施した慈悲よりは常に他人への慈悲が下回るのじゃ。
        そうであるから自分に大いに慈悲を施さなければ他人へも慈悲が回らないのじゃ。

>>546 一 恨みで他人を害すれば悪なのじゃ。
       それがよいことならば害された他人の遺族もまた報復するのがよいことになるのじゃ。
        そして怨みは止まないのじゃ。
        怨みは怨みを捨ててこそ止むとお釈迦様も言っているのじゃ。

     二 ストレス解消したいという欲から他人を傷つける可能性のある行為をすれば悪なのじゃ。
        
     三 好き勝手にしたいという欲からの行いで他人を傷つければ悪なのじゃ。

     四 それが他人への慈悲で行われれば善なのじゃ。
        それで誰かが傷付いたり、何かを奪われることは滅多に無いのじゃ。
         無理に特殊な状況を思考しても無意味なのじゃ。

547:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/29(日) 19:34:28 ID:On57x39I0 [5/7]
追加ですが、
悟った人間の言葉を聞いていると、最後は自分の心の問題であって、周りは気にしないといった印象を受けます。
危ない解釈ですが、最終的には、自分が善行をしていると心から思っていれば、周りはどうなっていようが関係ないという結論に収束してしまいます。
これはどうなのでしょうか?

548:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/29(日) 19:36:59 ID:On57x39I0 [6/7]
上の訂正です

×危ない解釈ですが、最終的には、自分が善行をしていると心から思っていれば、周りはどうなっていようが関係ないという結論に収束してしまいます。
○危ない解釈ですが、最終的には、自分が善行をしていると心から思っていれば、善い行いをしたことになり、
 周りはどうなっていようが関係ないという結論に収束してしまいます。

549:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/29(日) 19:58:06 ID:On57x39I0 [7/7]
ただ、悟りの本質として、すべての観念を放棄してしまえば、こういった善悪の思考操作もなくなる。
そのようにして無に収束すれば、なにも無いのだから、自他も無く、善悪もなく、行為もなく輪廻もなく、ただただ安心平穏の境地に至る。
自分の解釈ではこうなるのですが、自分勝手すぎる気もします?

551:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/29(日) 23:28:01 ID:1d4drIFg0 [145/145]
>>547>>549 他人を己の身に引き比べて思えば何が善事であるかわかるのじゃ。
 論理的思考に拠っては特殊な状況を作り上げて観念遊戯に陥るばかりなのじゃ。
 自他を一つとして思うことが慈悲の本質なのじゃ。
 そうすれば他人にしたことが己に還ってくると知れるのじゃ。
 悪をすることへの恐れから観念遊戯に陥ってはいかんのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

26:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/29(日) 20:22:04 ID:Dp/qMVVc0 [15/15]
たとえ気絶していても「見る」ということは存在する。気絶から覚めた後、「私は何もわからない。どこにいたのかわからない。」と言う。これは無知だと思わないでほしい。これも知識だ。もし、「見る」ということが全くなかったら、「何も知らない」という知識はありえないし、その場合、あなたにとって、気絶中に流れた時間は存在しなかっただろう。それはあなたの経験の一部ではなく、記憶には何の痕跡も残されていないだろう。しかし、あなたは何も意識していない状態にあったことを知っている。これもまた知識だ。そして、見ることもまたここに存在している。記憶はこの時間の間、内部的、外部的な現象を記録していないが、私たちの見ることは間違いなく、この隔たり、この間隔を経験している。そして、出来事の記録の隔たり、間隔の経験は、後で同様に記憶に残っている。同じように、夢がない場合でも、睡眠中には見ることは常に存在している。私たちは朝、目が覚めた時に、夢も見なかったほど熟睡していたと言えるだろう。この状態もまた、観察されているのだ。

これらすべてのことから、状況が変化し、意識の内容が変化しても、見ることは変化しないことをあなたは理解しなければならない。私たちの経験の領域のすべてが変化し、すべてのものは無常である。見ること、見ることだけが常に存在している。見る者だけが、このすべての変化の証人であり、このすべての流れの証人だ。この不変の永遠の見者を知ることが、自分自身を知ることなのだ。他のすべてはよそ者であり、他のものだ。他のすべては輪廻、世界だ。

この見ること、証人は、どのような行動によっても、どのような種類の礼拝や崇拝によっても、マントラやテクニックによっても、達成したり実現したりすることはできない。なぜならば、それはこれらすべてのものの目撃者だからだ。それはこれらすべてのものとは異なっていて、離れている。見られるもの、行うことができるものは何でも、見者とは別のものであり、それとは異なる。それは行動によってではなく無行動によって、努力ではなく静寂によって実現される。活動がないとき、見るべき対象がないとき、見る者や目撃者だけが残っているとき、見ることだけが残っているときにのみ実現される。が見ていても何も見られていない時、知っていても何も知られていない時、この中身のない意識では、すべてを知る者が知られる。見るべき対象がないときは、見る者の前のカーテンは落ち、知るべき対象がないときは、知識はそれ自体を認識するようになる。波がなければ海を見ることができ、雲がなければ青空を見ることができる。

この海、この空は誰の中にもあり、この空、この空間を知りたいと思えば知ることができる。そこに通じる道があり、それは誰の中にも存在し、誰もが利用できるようになっている。そして、それぞれがこの道の歩き方を知っている。しかし、私たちは一方向への歩き方しか知らない。道は一方向にしか通れないということはありえないということを考えたことがあるだろうか? それぞれの道は必然的に二つの方向、二つの反対方向に進む。そうでなければ、それは道ではない。あなたをこの丘の人里離れた場所に連れてきた道は、あなたを連れて帰る道と同じだ。来るための道と行くための道は一つしかない。同じ道は両方の目的を果たす。道は同じだが、方向は同じではない。

輪廻へと続く道、世界へと続く道は、自己へと続く道と同じだ。方向だけが違う。長い間あなたの前にあったものは、今あなたの後ろにあり、あなたは後ろにあったものに目を向けなければならないだろう。道は同じだ。私たちは単純に回れ右しなければならない。私たちは、これまで顔を向けていたものに背を向け、背中にあったものに向き合わなければならない。

どんな状況でも永遠の「見ること」は存在し、それを知ることが自分自身を知ることだとオショーは述べています。私の実践ですと、記憶が止まる瞬間までのことしか分からず、記憶が止まってからは空白があるのか無いのかすらも何も分からない状況です。
これは認識を厭離して、真の悟りを得ない限りは分からないものなのでしょうか。

27:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/29(日) 23:07:52 ID:1d4drIFg0 [12/12]
まだ悟りを得ていない者は大抵、記憶が意識であると誤認しているのじゃ。
記憶が無い状態は意識が無い状態だと思うのじゃ。
記憶したものが認識されたものとしているからなのじゃ。
実際は記憶が無くとも意識はあるものじゃ。
オショーも気絶していても見ることは存在するというのじゃ。
深いサマーディに入ってもそれは感得できるのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

413:おさかなくわえた名無しさん[]:2020/11/29(日) 06:58:22.37 ID:6Wnyazkd
鬼和尚、>>411です。
自分はもはやお金には興味ありません。
預金と年金で、豊かではありませんが、十分食べていけます。
時間が余って仕方ありません。
かといって、働くだけの気力も体力もありません。

田舎なので家や田畑の管理だけしています。
知人・友人もいますが、それでも退屈です。

414:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/11/29(日) 23:30:36.91 ID:If2pIzwv
>>413 お金に興味が無い者こそ投資すると善いのじゃ。
 欲を離れてよい投資ができるのじゃ。

 預金や資本が増えて社会が豊かになるのじゃ。
 余分な金を施せば善事にもなるのじゃ。
 多くの者が助かるのじゃ。
 善事をつむと善いのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

120:避難民のマジレスさん[]:2020/11/29(日) 17:16:40 ID:e5flW1XM0
234
香嚴?腺竹 2/3
携來?徙帚動風塵 ぜうしう(じょうしゅう)携え来って風塵を動かす
看看聞聲悟道新 看よ看よ聞しゃう悟道新たなり
半夜千竿脩竹雨 半夜千かん修竹の雨
南陽塔下弄精神 南陽塔下精神を弄す

くま訳
ほうきで、砂ぼこりを巻き上げる。
看よ、音を聞いて悟り、新たになったのだ。
深夜、高い背丈の千竿の林竹に降る雨
南陽慧忠の墓塔の下で心をもてあおぶ。

*脩竹:修竹:長く伸びた竹
*風塵:1 風で舞い立つちり。きわめて軽いもののたとえにもいう。2 わずらわしい俗世間。また、こま
ごました雑事。
*半夜:子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支で表した。子(ね)の刻は、午前0時 
 を中心とする2時間、前日の午後11時から当日の午前1時までを指す。(一つの刻を、30分刻みで四等 
 分して、たとえば、丑一つ(丑1刻)は、午前1時から午前1時30分までの間)
(´・(ェ)・`)つ

121:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/29(日) 23:41:09 ID:1d4drIFg0 [58/58]
掃除をしていたのじゃ。
今ここで風の音を聞いたりしていると悟道はいよいよ新たに見られるのじゃ。
塔の下で竹林にふる雨の音もありのままの精神を曝け出すのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

389:避難民のマジレスさん[]:2020/11/29(日) 17:00:18 ID:e5flW1XM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 2

 行動とは、すること、動くことという意味です。しかしあなたが観念を持つとき、それはたんに行動との関係において、観念作用が続いている、思考過程が続いているだけです。観念がなければ、何が起きるでしょうか。あなたは、あるがままのあなたです。あなたは慈悲深くありません・無慈悲です。あなたは許していません。あなたは残酷で愚かで無思慮です。あなたはそれと共にとどまれるでしょうか。あなたはそうするなら、そのとき何が起きるか、わかります。私は自分が慈悲深くなく愚かであるのを認識するとき、それがそうであることに気づくとき、何が起きるでしょうか。慈善の心がないでしょうか。智恵がないでしょうか。私が慈悲深くないことを、言葉ではなく、作為的にではなく、完全に認識するとき、自分が慈悲深くなくて愛がないのを認識するとき、まさにそのあるがままを見ることこそに、愛がないでしょうか。私は即時に慈悲深くならないでしょうか。私が清潔であることの必要性がわかるなら、それはとても単純です。私は洗いにゆきます。しかしそれが、私が洗うべきであるという観念であるなら(私は洗うべきであるということが観念であるなら)、そのとき何が起きるでしょうか。そのとき清潔さは延期されるか、または表面的です。
 観念に基づいた行動は、とても表面的です。全く真の行動ではありません。ただ観念作用だけです-それはたんに思考過程が続いているだけです。
 人間としての私たちを変容させ、革新、償い、変容をもたらす行動-何と呼ぼうと-そういう行動は観念に基づいていません。それは、賞罰の連続とはかかわりのない行動です。そういう行動は時間がありません。なぜなら、時間の過程、計算する過程、分割し、孤立化させる過程である精神が、その中に入ってこないないからです。
 この質問はあまりたやすく解決されません。あなたたちのほとんどは、質問をして、「はい」とか「いいえ」とかいう答えを期待します。「あなたのいうのはどういう意味でしょうか」というような質問をして、それから深く坐って、私に説明させることはたやすいです。しかし自分自身で答えを見出すことのほうが、はるかにもっと困難です-問題がなくなるほどに、それほど奥深く、それほど明晰に、なんの腐敗もなく問題の中に入ることのほうが、です。精神が問題に向き合ってほんとうに静寂であるとき、それは起こりうるだけです。問題は、あなたがそれを愛するなら、夕暮れと同じほど美しいのです。あなたは問題と敵対しているなら、決して理解しないでしょう。私たちのほとんどは敵対しています。なぜなら私たちは、結果に、進めば起きるかもしれないことに、怯えているからです。それで問題の意義と範囲・視野を失うのです。
(´・(ェ)・`)つ

390:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/11/29(日) 23:33:39 ID:1d4drIFg0 [142/142]
観念がある行動は行動ではないばかりか、観念そのものとまで言うのじゃ。
行動は無く観念が続いているだけなのじゃ。
汚い自分を洗おうとする観念による行動は汚い自分を続けるだけというのじゃ。
観念に基づかない行動だけが変容を引き起こすというのじゃ。
 

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