鬼和尚 2020/11/26(木)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

526:513[]:2020/11/26(木) 17:15:29 ID:EtOEBRSM0
>>鬼和尚

2007年、鬼和尚の仏教勉強会の記事、『観照から悟りを得るまで』を再読すると、記事内の智慧との自問自答について、「智慧が湧いた」と書かれていました。今まで智慧の声が聞こえたと勘違いしていたようです。

わかりました。集中する場所は常々心臓を主に。観察も常々同時に行うことにします。アドバイスをありがとうございます。


ところで、名誉 結婚 子供  
といったことに未練があります。
それが悟りへの障害となっています。

それらを獲得・体験してから悟りを目指す場合、
仕事に関わる人、配偶者、子供
などを「己の悟りという欲望のために」
利用することになります。

第1の質問:これは悪い業を積むために福楽から遠ざかりますか?(自分も相手から利用されるのではないでしょうか。)

第2の質問:福楽から離れることで、心が苦しみ、安定がなくなり、悟りからも遠ざかることになりますか?

第3の質問:マハラジは「見返りを期待せず、求めることなく、絶え間なく与え続けることだ」と言っていました。
悟りという見返りを期待して自己中心的に生きていると、福楽と悟りから遠ざかりますか?

第4の質問:他人を強く巻き込むことは、悟りのためという基準ではなく、慈悲を基準に、行うor行わないを決めるべきでしょうか?

527:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/26(木) 18:49:10 ID:0XYcYclc0 [1/2]
この先万が一悟る事が出来たとしても、自分が望むなら家族に迷惑や心配は掛けずに生活をする事も可能そうなのですね。
安心して精進しようと思います。

そしてまだ初歩段階ですが…
数息観を開始して大体早くて5分位で、
ボーッとしてきて、
目の前がモワモワしてきて、
夢の様な雑多な雑念が流れて行く…
落ち着き、快さ、眠さを感じます。
しかしその辺からどうしても姿勢の凝りとかが気になって、何度も姿勢を正したりしてしまいます。
長く座ってみても、それ以上に進めないです。
自然に集中が続き何もせず座っていられる…状態にはならないです。

なので大体、ボーッとしてきたらとりあえず成功ということで切り上げてしまいます。
前からここで停滞してしまっていますが
それ以上に進むにはどうしたら良いのでしょうか。
姿勢など我慢して座り続ける方が良いのでしょうか。

ちなみに楽な姿勢というのは見つからないです。
背筋を伸ばすとどうしても疲れるし、かといって猫背でも疲れるので、座る事自体が疲れる感じです。

普段から椅子に寄りかかったり寝転がっているので姿勢の筋肉が弱いのかもしれません…。

528:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/26(木) 19:18:10 ID:0XYcYclc0 [2/2]
坐禅の姿勢を調べたら座布団を使っている方が多いようなのでちょっと調べて使ってみます。

なんとなく座布団は邪道なのかなと思っていたらそんな事は無かったのですね… 道元禅師が勧められていたという文も読みました。

禅のことはあまり知らなかったのですが日本人の姿勢は座布団があった方が安定しやすいのでしょうか?

ヨーガではあまり聞かなかったし写真などでも地べたに座っている写真が多かったように思いまして…

529:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/26(木) 22:03:05 ID:1d4drIFg0 [139/139]
>>526 一 それは悪にはならないのじゃ。
      慈悲を持って事に当たれば善事にもなるのじゃ。
       動機が大事なのじゃ。

    二 遠ざからないのじゃ。
       慈悲があれば善事にもなるからなのじゃ。
 
    三 慈悲があれば遠ざからないのじゃ。
       常に慈悲を持つと善いのじゃ。

    四  そうじゃ、他人とは慈悲をもって付き合うのじゃ。
        そうすれば福楽も付き従うのじゃ。
          実践あるのみなのじゃ。

>>527 腹式呼吸をしてみるとよいのじゃ。
    自然に腹力もつくのじゃ。 
    姿勢もよくなるのじゃ。
    ヨーガとか気功法の呼吸法でもよいのじゃ。
    日々精進すればサマーディも近くなるのじゃ。

>>528 そうじゃ、座布団も使って善いのじゃ。
     安定しやすいじゃろう。
     足が短いから結跏趺坐も難しいのじゃ。

     実践あるのみなのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

20:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/26(木) 20:59:18 ID:Dp/qMVVc0 [12/12]
宗教とは何か? 宗教、ダルマは思考や考えることとは何の関係もない。それは無思考と関係がある。考えることは哲学だ。それはあなたに結果や結論を与えるが、あなたに充足感をもたらしはしない。ダルマとは充足だ。論理のプロセスは思考への入り口であり、サマーディは充足への入り口だ。

サマーディはシューニャとチャイターニャ、空虚と意識の結果だ。心は空っぽだが注意深いものでなければならず、その静けさの状態で、真理への扉が開く。真実は空からのみ実現され、その後、生全体が変容する。

私たちは瞑想を通してサマーディの段階に到達するが、一般的に瞑想として理解されているものは、真の瞑想ではない。それもまた思考だ。思考は魂や神に関係しているかもしれないが、それらはまだ思考だ。思考が何に関係しているかに違いはない。現実には、すべての思考は別のもの、外部に関わる。それらは自己ではないもの、物質的なものに関係する。自己についての思考はありえない、なぜならば思考が存在するためには二つが必要だからだ。したがって、思考は二元性を超えたところには連れて行ってはくれない。もしこの統一を実現し、自己の中に生き、それを知るためには、思考ではなく、瞑想がその道だ。

思考と瞑想は正反対の方向にある。 前者は外に向かって動き、後者は内に向かって動く。思考は他を知る方法であり、瞑想は自己を知る方法である。しかし、思考は一般的に瞑想と見なされている。これは非常に深刻で広範囲に広がっている間違いであり、私はこの根本的な間違いに対して警告したい。瞑想とは、行動のない状態になることを意味する。瞑想は行動ではなく、存在の状態だ。それは、自分自身の中で安定していることだ。

行動の中では、私たちは外の世界と接触し、不行動の中では、自分自身と接触する。何もしていないときは、自分が何者であるかに気づくことができるが、私たちは常にさまざまな活動に関わっていて、自分自身のことを知らない。私たちは、自分が存在していることさえ覚えていない。私たちは深く夢中になっている。少なくとも身体は休んでいるが、心は全く休んでいない。起きているときは考え、眠っているときは夢を見る。このような絶え間無い関心事や活動に没頭していると、私たちは自分自身を忘れてしまう。自分の用事で頭がいっぱいになり、自分自身を見失ってしまう。何と奇妙なことだろう! しかし、これは事実なのだ。人ごみの中ではなく、自分の考えや夢の中で、自分の用事や活動に夢中になって、自分を見失ってしまっているのだ。私たちは自分の中で自分自身を見失ってしまった。瞑想は、この自作の群衆から、この精神的な迷いから、自分自身を解放するための道だ。

いつも回答をくださり、ありがとうございます。今回は特に意味がわからないことはありませんでした。
気づいた時にはできるだけ自分の観察に励みます。

21:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/26(木) 21:49:31 ID:1d4drIFg0 [9/9]
オショーは一般的に言われている瞑想は瞑想ではないというのじゃ。
それはまだ思考の過程であり、注意が外に向いているからなのじゃ。
外とは心以外の対象なのじゃ。
呼吸とか眉間とか心臓もまた心の働きではない故に外のものといえるのじゃ。
それらの外の対象から離れて自分という観念を生み出す心の中を観ることが瞑想だというのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

408:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2020/11/26(木) 18:01:58.14 ID:Wsc0h/YI
>>406
ありがとうございます
ぼちぼち精進します

409:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/11/26(木) 22:03:32.80 ID:o79JH4mw
↑そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

113:避難民のマジレスさん[]:2020/11/26(木) 19:51:54 ID:T9jfcAc60
喜びいっぱいの一休さん
231
新造大應國師尊像 大應國師の尊像を新造す
活眼大開眞面門  活眼大いに開く眞面門
千秋後尚弄精魂  千秋ののち尚ほ精魂を弄す
虚堂的子老南浦  虚堂のてき子老南浦
東海狂雲六世孫  東海の狂雲は六世の孫

柳田聖山先生訳
尊像の眼は大きく開き、口元も鋭い。
何年経っても魂を見透かすようだ。
虚堂の高弟、南浦紹超、東海の狂雲、六世の孫。

くま訳
新造の大應國師尊像
目をくわっと見開き、ありのままだ。良く出来てよかったのだ。
長い年月を経ても、こちらの精魂を思いのままに操るようだ。
虚堂直伝の南浦老師、
正伝の狂雲は六世の孫弟子なのだ。

中村満次郎先生HP解説
1453年七月、大徳寺は焼失し、灰燼となっている。この漢詩は、康正二年、六十三歳の作で、大徳寺が
炎上して三年後のことになり、多分尊像も失われたので、新造されたのであろう。
ちなみに、このころ田辺の薪に入り、大応国師の塔所、妙勝寺が興されている。
*真面目:本来の姿・ありさま。転じて、真価 まじめであること。
*弄精魂:通常は妄想分別によって精魂を消し尽くされることを意味している。しかし、道元禅師は精魂を 
 尽くして日常底に修行弁道する意味であるとした。
(´・(ェ)・`)つ

114:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/26(木) 21:55:30 ID:1d4drIFg0 [55/55]
新しい寺の仏像ができたようじゃ。
一休もよろこんでいるのじゃ。
鋭い眼は今も己の心底を見抜いているようじゃ。
千年たってもまだ精魂をこめて実践しているようじゃ。
わしはその六世の弟子なのじゃというのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

383:避難民のマジレスさん[]:2020/11/26(木) 19:46:58 ID:T9jfcAc60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 2

 背景から自由であるには、あらゆる応答、あらゆるコンプレックス、あらゆる障害、あらゆる閉塞物(障害・妨害)を検討しなければならないと、分析者の多くは言います-それは明白に時間の過程という意味を含んでいます。これは、分析者は自分が分析しているものを理解しなければならない、自分が分析するものを誤って解釈(誤解)してはならない、という意味です。彼は自分が分析するものを誤って解釈するなら、それは彼を間違った結論に導き、ゆえにもう一つの背景を確立するでしょう。分析者は自分の思考と感情を、極わずかの逸脱もなく分析する能力がなければなりません。そして彼は自分の分析において一歩も失敗して(はずして・見失って)はなりません。なぜなら、間違った歩みをすること、間違った結論を引き出すことは、違った線に沿って、違った水準で、背景を再確立することであるからです。この問題もまた生じます-分析者は自分が分析するものとは違っているのだろうか。分析者と分析されるものとは接合した(共通の・共有の)現象ではないでしょうか。
 確かに、経験者と経験とは接合した現象です。それらは二つの分離した過程ではありません。それでまず最初に、分析することの難しさを見ましょう。私たちの意識の内容全体を分析して、よってその過程をとおして自由になることは、ほとんど不可能です。結局、分析者とは誰でしょうか。分析者は、自分が分析しているものと自分は違っていると思うかもしれませんが、違っていません。彼は自分が分析するものから自分自身を分離するかもしれませんが、分析者は自分が分析するものの一部です。私は或る思考を持っています。或る感情を持っています-例えば、私は怒っているとします。怒りを分析する人物は、やはり怒りの一部です。ゆえに分析されるものと共に分析者は、接合した現象です。それらは二つの分離した力や過程ではありません。ですから私たち自身を分析すること、展開すること、次から次へとぺ-ジをめくって私たち自身を見つめること、あらゆる反応、あらゆる応答を見張ることの難しさは、計算できないほど難しくて長いのです。ゆえにそれは、私たちを背景から自由にする道ではないのではないでしょうか。もっと単純でもっと直接の道があるにちがいないし、それが、あなたと私が見出そうとしていることです。見出すためには、偽りであるものを切り捨て [なければなりません] 、それにすがりついてはなりません。ですから分析は道ではありません。私たちは分析の過程から自由でなければなりません。
 そのときあなたは何を去ったのでしょうか。あなたは分析することに慣れているだけではないでしょうか。観察している観察者-観察者と観察されるものは接合した現象です-自分が観察するものを分析しようとしている観察者は、自分の背景から自由にならないでしょう。そうであるなら-そうなのですが-あなたはその過程を捨て去るのではないでしょうか。あなたは、それが偽りの道であることがわかるなら、それが偽りの過程であることを、たんに言葉の上だけでなく現実に悟るなら、そのときあなたの分析に何が起きるでしょうか。あなたは分析するのを止めるのではないでしょうか。そのときあなたは何を去ったのでしょうか。それを見守ってください。それに付いてきてください。すると、どんなに急速にすばやく、背景から自由になれるかがわかるでしょう。それが道でないなら、他に何を去ったのでしょうか。分析すること、探り、覗き込むこと、解剖すること、結論を引き出すことなどに慣れている精神の状態は、どんなものでしょうか。その過程が止んでしまったなら、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

384:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/11/26(木) 21:52:30 ID:1d4drIFg0 [139/139]
記憶から自由であるためには全ての観念を見る必要は無いのじゃ。
自分自身が見る者であり、見られるものであることに気付けば善いのじゃ。
それが自分を見る事になるのじゃ。
観察する者と観察されるものがあるという観念があれば記憶から離れることは無いのじゃ。
 

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