鬼和尚 2020/11/23(月)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

508:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/23(月) 12:53:17 ID:czRftzgI0 [25/26]
和尚さんは小周天と大周天を達成されたのですか?
禅のほか、気功から入って大周天をしてさらに対象なきサマーディに至り、悟る道もあるのですか?
ちなみに私は、スワイショウ(動功)でようやく気を感じたと確信できた段階です。

509:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/23(月) 16:16:35 ID:czRftzgI0 [26/26]
「今ここ」というのは今この瞬間の五感に集中し、記憶が浮かんでも流していく状態という理解でいいですか?

510:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/23(月) 17:03:37 ID:h5P9mv0k0 [21/21]
他人と関わりたい、集まってワイワイしたいという欲は例外なく逃避なのでしょうか?
はじめから他人に期待せずに接すれば、それほど苦はないのでしょうか。
そのような交流にどんな意味があるのかはともかく。

自分も刺激が欲しい・気を紛らわせたいときは誰かと関わりたい欲が強く出ます。
孤独に苦しむものが出会いを求めて人と会ったり集まっても苦しみが増すだけなのでしょうか?

511:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/23(月) 21:49:11 ID:1d4drIFg0 [134/134]
>>508 達成していないのじゃ。
  わしは気功法はやっていないのじゃ。
 
 そのような道もあるのじゃ。
 気を利用することでサマーディも達成し易くなるからのう。
 どんどん実践するとよいのじゃ。

>>509 それでよいのじゃ。
 更に実践すれば長く今ここに止まれることができるようになるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>510 そう言えるじゃろう。
 生きていくために必要は無いことであるからのう。

 期待しなければ苦も少ないじゃろう。
 
 執着すれば苦は増すじゃろう。
 執着せずに愛することができれば苦ではないのじゃ。
 それも意志があればできることなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

オショーのSadhana Pathを読んで実践する
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

13:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/23(月) 08:46:34 ID:Dp/qMVVc0 [8/9]
>>12 ありがとうございます。
確かに自分を観察して理解することを怠り、逃避として行うのであれば無意味なだけでなく有害ですね。

鬼和尚は修行に関して、観察だけすればよいとか、ただ静かに何もせずにいればよいなど、衆生にとって困難なことは説かない印象があります。
自他の区別が無いのにどうやって、衆生を適切に理解し、道標となれるのでしょうか?

14:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/23(月) 20:58:53 ID:Dp/qMVVc0 [9/9]
第二の格言は、「自然に生きる」だ。人間の全ての行動は人工的であり、条件付けの結果だ。私たちは常に偽の外套に身を包んでおり、この覆いのために、徐々に本当の存在を忘れている。この偽りの外被を脱ぎ捨てなさい。私たちはドラマを上演するためにここに集まったのではなく、本当の自分自身を知り、見るために集まったのだ。劇中の俳優たちが、演技の後に衣装や化粧を取って脇に置くのと同じように、この5日間では、あなたの偽りの仮面を外して脇に置かなければならない。あなたの中にある根源的で自然なものに出て来させなさい – そして、その中に生きなさい。自分の修行、自分の道は、単純で自然な生を通してのみ開く。このサーダナキャンプの間、あなたは何の地位も、職業も、地位も持っていないことを意識しなさい。これらすべての仮面を捨てなさい。あなたはただのあなたであり、名前も身分も階級も家族もカーストもない普通の人、名も無い、ごく普通の人だ。あなたはこのように生きることを学ばなければならない。なぜならば、本当のところ、それがあなたなのだ。

第三の格言は、「一人で生きる」だ。修行は、完全な孤独の中、全くの一人である時に生まれる。しかし、一般に人は決して一人あることはない。常に他の人たちに囲まれている。外側の周りに群衆がいなければ、その人は内側の群衆の中心にいることになる。この群衆を散り散りにさせなければならない。

内側では、物事が自分に群がってくるのを許してはならない。そして、外にも同じことが言える-このキャンプでは、完全に一人であるかのように、生きなさい。誰か他の人との関係を保ち続ける必要はない。数え切れないほどの人間関係の中で、あなたは自分自身を忘れてしまっている。敵か味方か、父か息子か、妻か夫か、これらすべての関係があなたを飲み込んでしまい、自分の中に自分の存在を見つけることも知ることもできなくなってしまっているのだ。

あなたは今までに、これらの関係から離れて、自分が何であるかを想像しようとしたことがあるだろうか? あなたは今までに、これらの関係の衣装を捨てて、それからかなり離れた自分を見たことがあるだろうか? これらすべての関係から自分自身を取り除き、自分が父親や母親の息子ではなく、妻の夫でもなく、子供の父親でもなく、友人の友人でもなく、敵の敵でもないことを知りなさい – そして残っているものが、あなたの本当の存在だ。あなたの中に残るものが、あなた自身だ。これらの日々の間、あなたはその存在の中で一人で生きなければならない。
―-
自然に生きているのが分かるのは、それが自分にとって楽だったり、生き生きとしたりすることだと思いますが、他に何かありますでしょうか。またもし、仮面の外し方が分からない場合は、どのようにしたら良いのでしょうか?
あと、自分の内側の人間関係から自分自身を取り除く方法もお教えください。

15:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/23(月) 21:53:01 ID:1d4drIFg0 [6/6]
>>13 悟った後にもよく学ぶことで可能になるのじゃ。
 お釈迦様も悟った直後の説法では失敗しているのじゃ。
 人の苦を知り、四諦を説く事で説法もよくなったのじゃ。

>>14 人の居ない所で一週間位生活すると善いのじゃ。
 自然に仮面はなくなるのじゃ。
 仮面とは人との付き合いで必要になるものであるからのう。

 ただひたすらそれを観ることでできるのじゃ。
 無理に取り除こうとしてもできないのじゃ。
 それがどのような原因から起こるのか観ることで消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

107:避難民のマジレスさん[]:2020/11/23(月) 19:18:15 ID:jN2NZNXs0
くま訳改
第一句:心身が定まらなければ、仮も真もわからないのである。

ハイテンション一休さん
230
華叟子孫不知禅 華叟の子孫、禅を知らず
狂雲面前誰説禅 狂雲面前、誰か禅を説く
三十年来肩上重  三十年来、肩上重し
一人荷担松源禅  一人荷担す、松源の禅

くま訳
華叟の子孫は禅を知らない
狂雲の面前で誰が禅を説けるというのだ
三十年来、禅を背負ってきた、肩の荷が重いのであるが、
これからも一人で松源の禅を担いで行くのだ。

*松源崇岳(しょうげんすうがく1132~1202)南宋時代の禅僧。禅宗の看話禅及び默照禅に存在した不正 
 行為を正すため、松源崇岳は座禅の方法を改革した。
 「松源二転語」です。つまり、「開口不在舌頭上(口を開いて物を言うことは単に口先だけのことではな 
 い)」、「大力量人,因甚抬脚不起(力の強い人が、なぜ足を上げないでいるのか)」という二つの転 
 語から、看話禅と默照禅を見た。松源転語 >>112 113 114 参
(´・(ェ)・`)つ

108:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/23(月) 21:59:03 ID:1d4drIFg0 [52/52]
自分以外に松源の禅を知る者は居ないというのじゃ。
なかなか壮大な自負なのじゃ。
正に狂雲なのじゃ。
これからもただ独りで松源の禅を背負っていくというのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

377:避難民のマジレスさん[]:2020/11/23(月) 09:49:27 ID:OWAnVtK.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 1

質問
 死は生とどんな関係があるのですか。

生と死の間に分割があるのでしょうか。なぜ私たちは死を、何か生から離れたものとして見なすのでしょうか。なぜ私たちは死を恐れるのでしょうか。そしてなぜ死について書かれたとても多くの本があるのでしょうか。なぜ生と死の間に、この境界線があるのでしょうか。そしてその分離は本当でしょうか。それともたんに気ままな・恣意的な精神の事柄なのでしょうか。
 私たちが生について話すとき、私たちのいうのは、そこに同一化のある継続の過程としての生活、という意味です。私と私の家、私と私の妻、私と私の銀行預金、私と私の過去の経験-それが私たちが生によって意味することなのではないでしょうか。生きることは、無意識的とともに意識的な記憶における継続の過程です-それ [記憶]には、 様々な格闘、諍い、出来事、経験などを伴っています。そのすべてが生と呼ばれるものです。その対極に・それと対比して死があります。それは、そのすべてを終わりにすることです。対極すなわち死を造り出しておいて、それを怖れるとき(ので)、私たちは進んで生と死の間の関係を探そう(探ろう)とします。私たちは何かの説明でもって、継続への、来世への信念でもって、その割れ目・隔たりに橋を架けられるなら、満足するのです。私たちは輪廻転生や何か他の形の思考の継続を信じています。そのとき知っているものと知らないものの間に関係を確立しようとします。私たちは知っているものと知らないものを橋渡ししよう(に橋を架けようと)とします。よって過去と未来の間に関係を見つけようとします。私たちは生と死の間に何か関係があるのかどうかを探究するとき、それが、私たちがしていることなのではないでしょうか。私たちは生きることと終わることに、どう橋を架けるのかを知りたいのです-それが私たちの根本的願望です。
 そこで、終わり、すなわち死は、生きている間に知りえないのでしょうか。私たちは生きている間に、死が何であるかを知ることができるなら、そのとき問題を持たないでしょう。私たちがそれを怖れているのは、生きている間に、知らないものを経験できないからです。私たちの格闘は、私たち自身-それは知っているものの結果です-と、死と呼ばれる知らないものとの間に、関係を確立することです。過去と、精神が考え出す(思いつく)ことのできない何か、すなわち死と呼ばれるものの間に、関係がありうるでしょうか。なぜ私たちは二つを分離するのでしょうか。それは、私たちの精神が、知っているものの領域の中で、連続的なものの領域の中でだけ機能できるから、ではないでしょうか。人は、悲惨の、楽しみの、愛、愛情の、様々な種類の経験の一定の記憶を持った思考者として、行為者(actor 作者)として自分自身を知っているだけです。人は自分自身を連続しているものとして・自分自身が連続していることを知っているだけです-そうでないと自分自身が何ものかであるという回想(追憶)を持たないでしょう。そこで、その何かが終わりになるとき-それが死と呼ばれます-知らないものへの恐れがあるのです。それで私たちは知らないものを、知っているものの中に引き込みたいのです。私たちの努力全体は、知らないものに連続性を与えることです。すなわち私たちは生-すなわち死を含んでいるもの-を知りたくないのです。いかに継続して終わりにならないか・終わらないかを知りたいのです。私たちは生と死を知りたくないのです。いかにして終わることなく継続するのかを知りたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

378:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/11/23(月) 21:55:57 ID:1d4drIFg0 [136/136]
死と生は離れたものではないというのじゃ。
それは同じものの変化なのじゃ。
肉体がある時に生きるということがあり、それが止まることを死と呼ぶだけなのじゃ。
死は生の終わりであり、生は死の必要条件なのじゃ。
生がなければ死も無いからなのじゃ。
その二つを引き離すことは出来ないのじゃ。

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