鬼和尚 2020/11/14(土)

鬼和尚に聞いてみるスレ part17
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1598506868/

458:避難民のマジレスさん[]:2020/11/14(土) 05:18:19 ID:2U5JySoo0 [4/4]
鬼和尚は釈迦しか認めない所がありますが、釈迦の思考の方法である順観逆観は、西洋哲学の本質看取の方法と全く同じですよね。
つまり物事の成立原因=本質を見抜くと言うのが哲学の目的です。
これが外部に向かえば科学の発展に繋がるし内部に向かえばブラフマー(集合無意識)との合一みたいな話になるのではないでしょうか。

459:避難民のマジレスさん[sage]:2020/11/14(土) 05:28:49 ID:czRftzgI0 [22/22]
今朝短時間でしたが、自我が生じる契機を見ることができました。
私の場合、頭に自然に沸き起こる記憶または感覚の情報を認識、反応、意識集中の過程を経て自分というものがひとりでに起きるようです。つまり、自我は認識によって生じるということです。
そして、恐れが脳の奥でひとりでに起きていることも観察できました。さらに観察を続けます。

460:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/14(土) 22:00:21 ID:1d4drIFg0 [122/122]
>>458 そのような看取りは看取る者を起こすじゃろう。
 心を止める法が無い限り観念遊戯に陥るのじゃ。
 看取る自己があれば自己の信念と異なる事実が受け入れられないからのう。
 神を信じる者は神が本質じゃとか看取り、物しか信じない者は物が本質じゃと看取るのじゃ。

>>459 善い観察なのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580742911/

581:マジレスさん[sage]:2020/11/14(土) 03:58:46.06 ID:7To37ctZ
本スレとはどこの事ですか?

582:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/11/14(土) 22:02:46.21 ID:Zw4iVqkJ
↑心と宗教の悟りを開いた人のスレなのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

90:避難民のマジレスさん[]:2020/11/14(土) 16:11:14 ID:vnzMlciY0
222 童謡 二首 2/2
皇城山野野皇城
変雅変風人不平 がを変じ風を返じて人平かならず、
骼皮秋?覧山骨露 かく皮秋?覧せて山骨露る
狂雲一片十年情  狂雲一ぺん十年の情

武田鏡村先生訳・解説
皇居は山野の田舎ほどに荒れはててしまった。
混乱の世の中をうたった詩は、人の不平と不満を述べている。
それは、あたかも秋に山肌の骨格がむき出しになってしまうように、荒れはてている。
狂雲子一休の詩も、この十年の荒涼とした風景を憤りをもって吟じたものである。

肝冷斎先生訳・解説
みやこが壊れて原野になったり、原野がみやこになったり、
みやこの歌も変わり、田舎歌も変わったが、人の不平は収まらぬ(から、いつの世にも歌は生まれてくるの
だ)。
それでも季節は廻り来る。
秋の大地は骨も皮も痩せ、山々は巌をむき出しにする(人間の心も乱世には真実の本心をむき出しにするの
だ)、
狂ったおれはただひとひらの雲になって、この十年を彷徨い続けている。

「雅」と「風」は「上流の文化」と「しもじもの風俗」と考えてもいいと思うのですが、「詩経」の王家の
儀礼歌「雅」と各国の民謡「風」をイメージしていると思うので、みやこ歌と田舎歌、とさせていただきま
した。
「骼」(かく・らく)は骨、特に「骨組み」という意味に使われます。ここは、秋の「骼」と「皮」は、お
そらく草とか木葉のことで、それらが痩せ落ちて山の本体である岩石が露出してきたことをかっこよく言っ
ているのでしょう。もちろんそこにはニンゲン世界の比喩がある。

くま訳
皇居が山野のようになってしまった。野が全て皇居である。
人々の情緒は変わってしまい、平安な気持ちで居られなくなっている。
秋に野枯れ、岩肌が露になるように、人の荒れた心もむき出しになっている。
狂雲、一片の雲として流れ流れてきた十年である。
(´・(ェ)・`)つ

91:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/11/14(土) 21:56:57 ID:1d4drIFg0 [44/44]
都も荒れ果て野も城も同じになったのじゃ。
それを見て人は不平をもらすのじゃ。
山も地肌がむき出しじゃ。
一休も乱世の十年を嘆くのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

361:避難民のマジレスさん[]:2020/11/14(土) 16:05:40 ID:vnzMlciY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 3

 それを違ったふうに言うと、問題はこうです-私たちのほとんどは、一つの特定の形の条件づけを拒絶して、もう一つの形の、もっと広い、もっと意義のある、もっと楽しい条件づけを、見つけます。あなたは一つの宗教をあきらめて、もう一つを採り入れます。一つの形の信念を拒絶して、もう一つを受け入れます。そういう代用は明白に、生を、関係である生を理解することではありません。私たちの問題は、どのようにしてすべての条件づけから自由であるのか、です。それは不可能である。人間の精神は、決して条件づけから自由でありえない、とあなたは言うか、それとも実験し、探究し、発見しはじめるか、どちらかです。あなたは、それは不可能であると主張するなら、明白に競争・競技に加わっていないのです。あなたの主張は、制限された [経験]や広い経験やたんなる信念の受け入れに基づいているのかもしれません。しかしそういう主張は、探求、調査・研究、探究、発見の否定です。精神がすべての条件づけから完全に自由であることは可能なのかどうかを見出すには、あなたは自由に探究し、発見できなければなりません。
 今私は、精神がすべての条件づけから自由であることは、明確に可能であると、言います-あなたは私の権威を受け入れるべきである、ということではありません。あなたはそれを権威に基づいて受け入れるなら、決して発見しないでしょう。それはもう一つの代用であるでしょうし、それは意義がないでしょう。私が、それは可能であると言うとき、私にとってそれは事実であるから、そう言うのです。私は言葉であなたにそれを示せます。しかしあなたは、自分自身でそれの真理を見出すつもりであるなら、それを実験して、それにすばやく付いていかなければなりません。
 条件づけの過程全体の理解は、分析や内省をとおして、あなたにやって来ません。なぜなら、あなたが分析者を持った瞬間、まさにその分析者自身が、背景 [・地盤]の一部であるし、ゆえに彼の分析は意義がないからです。それは事実であるし、あなたはそれを脇へ置かなければなりません。自分が見ているものを検討し、分析する分析者は、彼自身が条件づけられた状態の一部であるし、ゆえに彼の解釈、理解、分析が何であろうとも、それはやはり背景 [・地盤]の一部です。ですからそのように逃避はないし、背景を打ち壊すことが不可欠 [・本質的]です。なぜなら、新しいものの挑戦に出会うには、精神は新しくなければならないからです。神、真理-何であれ-を発見するには、精神は新鮮で、過去により汚染されていてはなりません。過去を分析すること、一連の実験をとおして結論に達する・到り着くこと、主張と否定、その他すべてをすることは、まさのその本質において、違った形での背景の継続、という意味を含んでいます。あなたはその事実の真理がわかるとき、分析者が終わってしまったことを発見するでしょう。そのとき、背景から離れた実体はありません。背景としての思考だけがあるのです-思考は、意識的と無意識的、個人的と集団的両方の記憶の応答です。
 精神は過去の結果です-それ [過去]は条件づけの過程です。精神が自由であることは、どのようにして可能でしょうか。自由であるには、精神は、その振り子のような過去と未来の間の揺れ動きを、見て理解するだけではなくて、また思考の間の間隔にも、気づかなければなりません。その間隔は自発的です。それはどんな原因・因果関係をとおしても、どんな願いをとおしても、どんな強制をとおしても、もたらされません。
 あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

362:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/11/14(土) 21:53:59 ID:1d4drIFg0 [128/128]
人は条件付けから拒絶して、別の条件付けを受け容れるだけというのじゃ。
それを分析しても分析する者が起こるから無意味なのじゃ。
思考の止まった間に静寂の時があるというのじゃ。
その時だけ条件付けからの自由がありえるというのじゃ。

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