鬼和尚 2020/10/29(木)

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53 
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/

332:おさかなくわえた名無しさん[]:2020/10/29(木) 19:53:01.13 ID:tXxIiaVE
鬼和尚は悪夢を見ますか?
怖いものはありませんか?

333:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage]:2020/10/29(木) 21:09:18.32 ID:GRYQXTLC
↑見ないのじゃ。
もはや恐れることも無いのじゃ。
恐れる自分が無いからのう。
無畏なのじゃ。

鬼和尚の仏教講読会 別館2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/

62:避難民のマジレスさん[]:2020/10/28(水) 21:53:54 ID:hqpPt0vs0
208    3/5
工夫日用閉門車 工夫日用門車を閉づ
五十年来烏有歌 五十年来ういうの歌
素老茘支真敗闕 素老の茘支真の敗闕
徳山臨済竟如何 徳山臨済つひにいかん

くま訳
禅の奥義を窮める為の工夫として、門を閉じる。
五十年来、もともと無いもの、空想の詩を詠んで来た。
わしの茘支、即ち、看話禅による導き法は、完全に壊れている。
臨済の喝、徳山の棒、の禅風は、どうなってしまうのだろうか。

*烏有に帰す:すっかりなくなってしまうこと。特に火事ですべてを無くしてしまうことをいう。「烏有」 
 は漢文で「烏(いずくん)ぞ有らんや」と読み、全くないこと。
*工夫:坐禅参学における精進の意味を含む。公案の思量でもあり、また坐禅そのものとしての意も含む。 
 本分の工夫をなす人とは本当に禅の奥義を窮めようとする人のことで、真の参禅修行するものは、日常の 
 万事が修行であり、修行とそれ以外の俗事などとは分け隔てた生活はしないものである。
*敗闕(はいけつ): きずつきこわれること。また、欠けていること。欠点があ
*素:①他のものを付け加えない、ただそれだけの、などの意を表す。②人を表す語に付けて、ただの、み 
 すぼらしい、などのさげすむ意を表す。
(´・(ェ)・`)つ

63:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM[sage]:2020/10/29(木) 21:08:27 ID:1d4drIFg0 [30/30]
大体そんな感じじゃな。
寺に閉じこもって日々工夫したのじゃ。
五十年修行して烏の歌で目覚めたのじゃ。
しかしもはや茘支を捧げる弟子も受ける弟子も無いというのじゃ。
徳山臨済の伝統は廃れてしまうのかと嘆くのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

330:避難民のマジレスさん[]:2020/10/28(水) 21:55:52 ID:hqpPt0vs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 2

 それから自己批判があります。自分自身に批判的であること、自分自身を批判し、非難し、正当化すること-それは自分自身の理解をもたらすでしょうか。私は自分自身を批判しはじめるとき、理解する [過程]、探検する過程を制限しないでしょうか。内省 [つまり] 一つの形の自己批判は、自己を展開するでしょうか。自己の展開を可能にするのは何でしょうか。常に分析的で、恐れて、批判的であること-確かにそれは展開するのを助けません。あなたがそれを理解しはじめるほどに、自己の展開をもたらしてくれるものは、どんな非難もない、どんな同一化もない、それへの常なる気づきです。一定の自発性がなければなりません。あなたは常にそれを分析し、それを修練し、それを形造っていることはできません。この自発性は、理解するために・理解にとって本質的 [・不可欠]です。私はたんに制限し、制御し、非難するだけなら、そのとき思考と感情の動きを中止する・止めるのではないでしょうか。私が発見するのは、思考と感情の動きのなかでです-たんなる制御のなかではありません。発見するとき、それについてどのように行動するのかを見出すことが重要です。私は観念に応じ、規範に応じ、理想に応じて行動するなら、そのとき自己を特定の様式に押し込むのです。それには理解がありません。超越がありません。私がどんな非難もなく、どんな同一化もなく、自己を見守れるなら、そのときそれを越えてゆくことが可能です。そういうわけで、自己を理想に近づけるこの過程全体が、全く間違っているのです。理想は自家製の神です。自己投影されたイメ-ジに順応することは、確かに解放ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

331:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/10/29(木) 21:05:40 ID:1d4drIFg0 [113/113]
自分を批判することもあるがままに自分を観ていないことになるのじゃ。
それは一種の自己正当化に他ならないのじゃ。
批判する自分は正しいという自己揚棄なのじゃ。
非難も同一化もなく自己を観まもることが超越というのじゃ。

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