鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2020/05/05(火)

鬼和尚に聞いてみるスレ part16
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1584893493/

291:避難民のマジレスさん[]:2020/05/05(火) 09:22:16 ID:4IphjdbQ0 [4/4]
鬼和尚様

いつもありがとうございます。
私はお金に余裕ができるとネットショッピングなどですぐに使おうとします。これにはどんな観念があるのでしょうか?よろしくお願いします。

292:避難民のマジレスさん[sage]:2020/05/05(火) 11:48:10 ID:Y5LPInQE0 [49/50]
>>289
ご回答ありがとうございます

と言う事は数息観をしていれば特に恐怖を観察しなくとも自動的に恐怖が厭離されるのでしょうか?

293:避難民のマジレスさん[sage]:2020/05/05(火) 18:44:53 ID:Y5LPInQE0 [50/50]
鬼和尚さん

外飼いの猫に触られた服を着ていて、その服に寄生虫が付いていて
着替えて外出しますがもし他人に寄生虫を移してしまったら罰を受けなければ
ならないのではないかと繰り返し考えてしまい苦しくなるのですが
どうすれば良いでしょうか?

294:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/05/05(火) 22:00:40 ID:1d4drIFg0 [73/74]
>>291 それはおぬしが自分の心の中を観察して見つけなければ成らないのじゃ。
 本当はお金が憎いのかもしれん。
 親も貧乏であったからお金が汚いとか、醜いとか教わって受け容れてしまったのかもしれん。
 或いは自分のイメージが貧乏な自分であるから、お金を持つと不安になり直ぐに使ってしまうのかもしれん。
 自分の心を観察して確かめるのじゃ。

>>292 サマーディにまで到達すればそのようなことも起こるじゃろう。
 集中力が足りないと厭離は起こらないのじゃ。
 直ぐに囚われてしまうからのう。
 実践によって確かめるのじゃ。

>>293 それを何度も何度も考えるから苦しくなるのじゃ。
 それが脳の性質なのじゃ。
 数息観と同じようにそれが浮かんできても流してしまうのじゃ。
 それに囚われなければ苦にもならないのじゃ。
 また寄生虫のネタが浮かんできたのう、とか思って消えるまで眺めて居ればよいのじや。

295:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/05/05(火) 22:09:00 ID:1d4drIFg0 [74/74]
5ちゃんねるは規制で書けなくなったのじゃ。
おかしなことじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1560853465/l50

830:避難民のマジレスさん[]:2020/05/04(月) 23:23:17 ID:vmrHMyY.0 [1/2]
変化の緊要

   依存 2

質問者 それで、自由とは何なのでしょうか。あなたは、それは依存の否定や依存の終わることではないと言われます。あなたは、それは何かからの自由ではない。ただ自由のみ、と言われます。では、それは何なのでしょうか。それは抽象でしょうか、現実でしょうか。

K それは抽象ではありません。それは、いかなる形態の抵抗もない心の状態です。それは、ここそこで丸石に適応し、それら(丸石)をよけたり越えたりする川には似ていません。この自由には、丸石が全くなくて、水の動きがあるだけです。

質問者 しかし、執着の丸石はそこに、この生の川にあるのですや。丸石のないもう一つの川については語れないのです。

K 私たちは丸石を回避していたり、それが存在しないと言っているのではありません。私たちはまず初めに自由について理解しなければなりません。それは、丸石のあるのと同じ川ではないのです。

質問者 私はまだ、丸石ある私の川を持っています。丸石なき何か他の知られざる川ではなく、それが、私が訊ねるために戻ってきたことなのです。それでは私には全く何のためにもなりません。

K 全くそのとおり。しかし、あなたは、あなたの丸石を理解するためには、自由は何なのかを理解しなければなりません。しかし、この比喩を使いまくってだめにしないようにしましょう。私たちは自由と執着をどちらも考慮しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

831:避難民のマジレスさん[]:2020/05/04(月) 23:28:51 ID:vmrHMyY.0 [2/2]
くまめも2

自由とは、依存の否定や依存の終わることではない。何かからの自由ではない。では、自由とは何か。それは抽象ではない。それは、抵抗のない心の状態。それは、ここそこで丸石に適応し、それらをよけたり越えたりする川には似ていない。自由には、丸石が全くなくて、水の動きがあるだけ。丸石を回避していたり、それが存在しないと言っているのではない。まず初めに自由について理解しなければならない。それは、丸石のあるのと同じ川ではない。
あなたの丸石を理解するためには、自由は何なのかを理解しなければならない。自由と執着をどちらも考慮しなければならない
(´・(ェ)・`)

832:避難民のマジレスさん[]:2020/05/05(火) 20:19:45 ID:aiE4qJxY0 [1/2]
変化の緊要

   依存 3

質問者 私の執着は自由と、または自由は私の執着と、何の関わりがあるのでしょうか。

K あなたの執着には、苦しみがあるのです。あなたはこの苦しみを免れたいので、もう一つの形態の抵抗である無執着を養成するのです。対極に、自由はありません。これら二つの対極は、同一的であり、相互に強めあうのです。あなたが関心のあることは、その悲惨なく執着の楽しみを得るすべです。それはできません。そういうわけで、自由は無執着にあるのではないのを理解することが、重要であるわけです。執着から逃げ去るなかにではなく、執着を理解する過程に、自由があるのです。それで私たちの疑問はこうです - なぜ人間は執着し、依存するのでしょうか。
  何でもなく、自分自身では砂漠なので、他をとおして水を得たいと願うのです。空っぽで貧しくつらく不充分で、興味や重要性を欠如するので、他をとおして豊かになりたいと願う望むのです。他の愛をとおして、自分自身を忘れたいと願うのです。他の美しさをとおして美しさを取得したいと願うのです。家族をとおし、国家、民族をとおし、恋人をとおし、何か空想的信念をとおして、この砂漠を花で覆いたいと願うのです。そして、神は究極的な恋人です。それで、これらすべてのものごとを引っかけるのです。ここには苦しみと不確実性があるし、砂漠はかつてよりもっと不毛に見えるのです。もちろん、それの不毛は増えても減ってもいないのです。それは前のとおりです。苦しみをともなう何かの形態の執着をとおして逃避し、それからその苦しみから無執着へ逃避しながら、それを見つめるのを回避してきただけなのです。しかし、自らは前のとおり、不毛で空っぽです。それで、執着をとおしたり無執着をとおして逃避しようとするかわりに、私たちはこの所作に、この深い内的な貧しさと不足、この鈍くうつろな孤立に気づけないでしょうか。これが、ただ一つ大事なことなのです。執着や無執着ではありません。あなたは、どんな非難や評価づけの感覚もなく、それを見つめられるでしょうか。そうするとき、あなたは、観察されるもの・ことを見つめる観察者として、それを見つめているのでしょうか。それとも、観察者なしに、でしょうか。

質問者 観察されるもの・こととは、どういう意味でしょうか。

K あなたは、好き嫌い、見解、判断という結論すべて(をもつ中心から)、この空しさから自由でありたいとの願望などをもつ中心から、それを見つめているのでしょうか。あなたは、結論の眼でこの不毛を見つめているのでしょうか。それとも、完全に自由である眼で見つめているのでしょうか。あなたが完全に自由な眼でそれを見つめるとき、観察者はないのです。観察者がないのなら、さびしさ、空しさ、つらさという観察されるもの・ことは、あるのでしょうか。

質問者 あなたは、もし私が結論なく、観察者である中心なくあの樹を見つめるなら、あれも存在しないという意味で、言われるのでしょうか。

K もちろん樹は存在します。

質問者 私が観察者なく見るとき、なぜさびしさは消えるのに、樹は消えないのでしょうか。

K 樹は、中心により、「私 ‘me’ 」の心により、造り出されないからです。しかし、その自己中心的活動すべてにおける「私 ‘me’ 」の心が、この空しさ、この孤立を造り出してきたのです。そして、その心が中心なく見るとき、自己中心的活動は終わるのです。それで、さびしさはないのです。そのとき、心は自由のなか作用します。執着と無執着の構造全体と苦しみと楽しみの動きを見つめると、私たちは、「私 ‘me’ 」の心がどのように自らの砂漠と自らの諸逃避を築くのかが、分かるのです。「私 ‘me’ 」の心が止まっているとき、砂漠はないし、逃避はないのです。
(´・(ェ)・`)つ

833:避難民のマジレスさん[]:2020/05/05(火) 20:22:21 ID:aiE4qJxY0 [2/2]
くまめも3

なぜ執着し、依存するのか。自分自身では砂漠なので、他をとおして水を得たいと願う。空っぽなので、他をとおして豊かになりたいと願う。他の愛をとおして、自分自身を忘れたいと願う。他の美しさをとおして美しさを得たいと願う。家族、国家、空想的信念をとおして、砂漠を花で覆いたいと願う。それで、これらのものごとを引っかかる。
ここには苦しみと不確実性があるし、砂漠はかつてよりもっと不毛に見える。
苦しみを伴う執着をとおして逃避し、その苦しみから無執着へ逃避しながら、それを見つめるのを回避してきただけ。逃避ではなく、深い内的な貧しさと不足、鈍くうつろな孤立に気づくことが、ただ一つ大事。
非難や評価づけの感覚なく、それを見つめるとき、観察されるものを見つめる観察者として、それを見つめているのか、観察者なしにか。好き嫌い、見解、判断という結論すべてをもつ中心から、この空しさ、不毛から自由でありたいとの願望などをもつ中心から、それを見つめているのか。完全に自由な眼で見つめるとき、観察者はない。観察者がないのなら、さびしさ、空しさ、つらさという観察されるものは、ない。
質問者 私が観察者なく見るとき、なぜさびしさは消えるのに、樹は消えないのか。
K 樹は、中心により、「私 ‘me’ 」の心により、造り出されないから。しかし、「私 ‘me’ 」の心が、空しさ、孤立を造り出してきた。その心が中心なく見るとき、自己中心的活動は終わる。それで、さびしさはない。そのとき、心は自由のなか作用する。
執着と無執着の構造全体と苦しみと楽しみの動きを見つめると、私たちは、「私 ‘me’ 」の心がどのように自らの砂漠と自らの諸逃避を築くのかが、分かる。「私 ‘me’ 」の心が止まっているとき、砂漠はないし、逃避はない。
(´・(ェ)・`)

834:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/05/05(火) 22:06:32 ID:1d4drIFg0 [334/334]
真の自由とは執着だけでなく、執着の根本原因である自己の観念も無いのじゃ。
自己観念が無いから執着もありようが無いのじゃ。
執着とは自己があるという観念から起こる孤独や不安からの逃避であるからのう。
自己が無ければ執着も根本から消えるのじゃ。

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