【仏教】悟りを開いた人のスレ497【天空寺】

【仏教】悟りを開いた人のスレ497【天空寺】 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1586826041/

1:坐睡の大山 ◆JBP.OYid8g []:2020/04/14(火) 10:00:41.57 ID:CkQqQyJt [1/4]
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)

>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い

※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1586433011/

53:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/14(火) 21:39:56.58 ID:SNmOjwWk [1/6]
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

54:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/14(火) 21:40:20.23 ID:SNmOjwWk [2/6]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

55:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/14(火) 21:40:42.61 ID:SNmOjwWk [3/6]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

59:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/14(火) 22:27:21.92 ID:2AOQ4p76 [1/2]
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

カブトムシおじさんは臨済宗の見性した人間という者が、どのような者かみんなに示しているのじゃ。

オウムの正悟師というものがカルト宗教の妄想でしかないように、臨済宗の見性も妄想と教えているのじゃ。

もしかすると臨済宗で見性した者は、なにか偉いのではないかという妄想を持つ者が無いようにしているのじゃ。

そのような妄想に囚われる者が居なくなるまで、臨済宗で見性したカブトムシおじさんの進撃は続いていくのじゃ。

60:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/14(火) 22:29:26.90 ID:2AOQ4p76 [2/2]
>>53 おぬしもご苦労さんなのじゃ。

76:まいっちんぐカムイ先生 ◆6JI5fAb/7M []:2020/04/14(火) 23:22:36.72 ID:Q+i8bX9/ [2/2]
>>59
さすがは鬼和尚です。
見破ってますね。

172:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/15(水) 22:40:31.89 ID:CHlUFKD3 [1/4]
>>76 そうじゃ、臨済宗の見性とはただのカルトの詐称に過ぎないものなのじゃ。
 ゛シャンキーの活躍でそれがこのスレのみんなにもわかってきたじゃろう。
 次はこの真実を世界に広めるのじゃ。

173:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/15(水) 22:53:38.49 ID:CHlUFKD3 [2/4]
知識を積み上げることは悟りには役に立たないのじゃ。
それはただ記憶による観念を積んでいるだけであるからのう。
真の学びは理解であり、気付くことなのじゃ。
そのようにして理解したり気付いたことさえも囚われずに進むべきなのじゃ。
常に初心に還って新たな理解を求めて自らを観るのじゃ。

174:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/15(水) 22:54:04.75 ID:CHlUFKD3 [3/4]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

175:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/15(水) 22:54:29.81 ID:CHlUFKD3 [4/4]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

182:宇宙[]:2020/04/16(木) 00:42:45.63 ID:aRSGmUFG [1/10]
>>173
>知識を積み上げることは悟りには役に立たないのじゃ。

確かに知識を積み上げるばかりだとダメなのでしょうが、
知識が理解の糧になり気づきの切っ掛けになることもあると思います。

>それはただ記憶による観念を積んでいるだけであるからのう。
真の学びは理解であり、気付くことなのじゃ。

真の学びって何でしょうか?一体何から理解が生まれ気づくのでしょうか。

>そのようにして理解したり気付いたことさえも囚われずに進むべきなのじゃ。

そうでしょうね。

>常に初心に還って新たな理解を求めて自らを観るのじゃ。

理解は求めて得られるものなのでしょうか?

183:宇宙[]:2020/04/16(木) 00:46:05.25 ID:aRSGmUFG [2/10]
>>172
カルト呼ばわりする根拠があるのですか?

鬼さん大人げないなあ(笑)

434:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/16(木) 23:45:37.57 ID:8TAOetsD [1/3]
>>182 ならないのじゃ。
 それは真の気付きには役立たないのじゃ。
 自己満足の糧になるばかりなのじゃ。

 真の学びは自己の学びなのじゃ。
 自分を理解するのじゃ。
 それは観察から生まれるものじゃ。
 知識のためではなく、一瞬の理解と気付きのための観察なのじゃ。

 求めなければ何も得られないのじゃ。

>>183 おぬしが聞くから答えるのじゃ。
 今臨済宗を名乗っている者たちは明治に出来た新興宗教なのじゃ。
 廃仏毀釈で一度みんな還俗したからのう。
 伝統を継いだという嘘をついているのじゃ。
 そのような嘘から、セクハラ、人種差別、荒らしなどの俗悪な活動も生まれるのじゃ。
 臨済宗、セクハラで検索してみると善いのじゃ。
 わしの言葉が嘘ではなかったと気付くじゃろう。

435:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/16(木) 23:46:41.54 ID:8TAOetsD [2/3]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

436:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/04/16(木) 23:47:08.24 ID:8TAOetsD [3/3]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

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