『古書医言』解説 西勝造

『古書医言』解説 

西勝造

一、万病一毒説

それでは本日は『古書医言』の説明をいたしたいと思います。

『古書医言』の原本には、吉益東洞の肖像画もなければ、伝記もないのですが、私はそれを入れておきました。原本の写真版は小さくて、ご覧になりにくい方もありましょうが、拡大鏡でご覧なさればはっきり読めるようになっております。実はこの写真版は3回もとりかえたのです。最初は非常に大きくとってしまった。これではあまり大きいというので小さくとりすぎてしまった。いろいろこの本ができるまでには苦心をいたしましたが、とにかく原本の写真版の字は読めるようになっております。

それで私はまず最初に、吉益東洞という人はどういう人かということを序文に書いておきました。

「医界に於ける吉益東洞の名声は、二百年後の今日に至るも猶籍々として、四百数十年前のパラケルススに比較せられてその響きを存しつゝある。西医学の生れる一役としての東洞学、その元を質せば東洞の遺稿『古書医言』である。東洞の批評必ずしも当れりとは云はず、日進月歩の今より見て足らざる点、補ふべきもの、廃すべき部分勿論多々あり、然し乍ら、疾病に対する考察の識見、高邁なる達観、西洋医学にのみ没頭してこれ足れりと思ふ医学者、医師、一読玩味すべきである。」

序文はこういうところから書き出しております。吉益東洞は元禄15年から安永2年、西暦1702年から1773年まで生きていた人で、名は為則、字は公言、通称周助、安芸の広島の人で、東洞と号しました。元は畠山の武士で、東洞は初め武士になるつもりで、「阿川氏に従ひて兵学を修め馬を馳せ剣を使ひ父祖の相継ぎし医業を修むるを欲せざりしが、年齢稍々長ずるに及んで大平の世、武を以て興るべからざるを悟り、時に年十九才、ここに於て祖父政光の門人なる能津祐順に従ひて吉益流金瘡産科の術を受けたるも、満足せず、劉、張、李、朱の治病も空説なりと断じ、刻苦研精日夜已まず、素、霊、難経以下百家の書を爛読し、これを実地に試みて空論浮説と感じ、やうやく三十才に至りて大いに悟入発明する所あり、遂に万病一毒の説を立て、秦越人、張仲景を標準として治療の方針を立つべきを主張し、症状を治療の方針となし、病即毒也薬亦毒也、凡そ病なるものは薬を以て思ふ存分に攻撃して之を平げざるべからざること」を主張するのであります。「劉、張、李、朱」といえば、この当時の漢方の代表であります。また秦越人とは、『史記』の「列伝」によく出て来る有名な扁鵲のことであります。「万病唯一毒」という口絵の写真版は、東洞の真筆で、原本にはないのですが、私が東洞の草書の中からとって入れたものであります。

二、東洞と山脇東洋

ところで東洞は、広島のような田舎にいては駄目だと考え、初め江戸に出ようとするのですが、当時山脇東洋という医者が京都にいて、非常に有名さくさくたるものがあるものですから、「人に語るに『天下の医を医するにあらざれば、医たりと雖も救疾の功(こう)少し、偏陬(へすう)の地は志士の伏処(ふくしょ)すべき処にあらず』と遂に元文三年春三月、父母女弟を説得して、京都に徒(のぼ)り、万里小路、春日町南入に居を卜し、古医道を標榜して開業」するのであります。時に東洞37であります。「しかし当時、誰一人として下痢症に下剤を投じて之を強行し、嘔吐に吐剤を与へて吐するを激励し、発熱発汗に発汗剤を与へて、これ薬の毒を以て体毒を一掃するものなりと唱へ、これを実施」するものですから、世人は皆な恐れて、一人として来る者はなくなるのであります。「是に於て自ら其の家興すことなく医に隠るゝを恥じ、或は又本姓を汚することあらんをおもんばかり、姓を吉益氏に改め」遂に「裏店(うらだな)に退却して人形(木、土又は紙にて張り胡粉(こふん)を塗るもの)を造り、張子の虎を細工し、軽土(けいど)の鉢皿など焼くことを習ひ、之を売りて纔(ひそ)かに糊口を凌んでいた」のであります。ちょうどそこへ友人の村尾氏が来て、佐倉候に侍医として推薦するけれども、東洞は「窮達は命なり、何ぞ憂ふるに足らん、天斯道を喪(うしな)はざらんとせば、我をして餓死せしめじ、貧困窮乏するも豈吾志を降して祖先を汚辱せんや」とあくまで自分の主張を曲げないのであります。そのため遂には断食までもしなければならなくなり、一家を挙げて貧困のどん底に陥るのですが、その東洞に「声名業務の大いに宣揚すべき機会が突然として」来るのであります。私は岐阜で東洞の人形を見ましたが、なかなかもって天下の名工で、塗りといい、筆で画いた毛筋といい、実に精巧をきわめたものであります。

今日も東洞は人形を担いで、人形問屋柳屋清兵衛のところへ参りますと、番頭が出て来て、「今日は取込んでおるから帰ってくれ」と言う。「いや、それは困る。拙者はこれによって糧を得ているのだから、金を払ってもらわなければ困る」、「だって今日は取込んでおるから、今店を閉めようとしていたところなんだ」、「一体なぜそういう勝手なことをするのか。今日は約束の日でござる……」東洞があまり大きな声でどなるものですから、奥から主人が出て参りました。「これは周助ではないか。何でそう大きな声でどなっておるのか」「実はこれこれしかじか……」「それはいかん。こちらが取込んで店を閉めようとするのは、こっちの勝手だ。約束は約束、払ってあげなさい」と言って、主人は心よく代金を払ってやるのであります。「ときに御主人、取込みとは何でござるか」「実は母堂が傷寒(ショウカン)を患って、病危篤に陥り、ただいま恐れながら御典医の山脇東洋先生がおいでになるところです」「実は拙者、かく人形作りに落ぶれてはいるけれども、元をただせば医者でござる。一度参考のために診せていただけまいか」主人はどうせ医者が駄目だと言うのなら一応診てもらってもいいというので周助を病室へ通します。病室に通った周助が調合を見ると、石膏が使ってある。そこで一筆借りたいと言って筆を取り寄せ、紙にすらすらと書いたのが、「石膏を省かれては如何。おそらく天命まったからん。但し瞑眩御注意のこと」というのであります。瞑眩はメイゲンではなく、メンケンと読みます。これは英語でいえばシンプトン(Symptom)、日本語の症状ということです。「山脇先生がお見えになったら、せひこれをお見せ願いたい」こう言って周助は帰るのであります。そこへ入れかわりに山脇東洋が多くの弟子を引き具し、いときらびやかな乗物に乗って到着をする。何しろ天皇の御典医ですから大したものです。そして奥に通って診察をした東洋は一間に下って、「さて御主人、遺憾ながら御寿命でござる。御近親は今のうちにお集め願いたい」と申します。そこで主人は「実は先ほど手前どもに七、八年も出入りをいたす木偶作りで、いと実直な男ではございますが、何でも昔は医者だとか大きなことを申して、これを先生に差上げてくれと言って置いて参りました」と言って、先ほどの書状を出します。見ると、口絵にもありますようにお家流の達筆ですらすら書いてあるものですから、東洋はまずその字に敬服いたします。そして中を見ると「石膏を省かれては如何。おそらく天命まったからん。但し瞑眩御注意のこと、後の手当こそ肝要ならめ」と書いてあるものですから、東洋は膝を打って、「自分今日一日石膏を用いたものか省いたものかと工夫に心を費やす折から、その話を聞くからには天の声なり、ただちに今日よりこれを除くべし」と言って、石膏を入れない薬を置いて帰るのであります。石膏をとると非常な下痢が来るのです。今では下痢をしているときには木炭の粉末を入れ、その木炭の粉末に腸の中の水分を一応吸収させて下痢を止める方法もございますが、昔は石膏を入れたものです。その石膏をとるのですから、非常な下痢が来る。そのために大抵は命を失ってしまう。いわゆる死花が咲くといって、危篤に陥った人間が、いよいよ助かろうとするときには必ず下痢をするのです。それは宿便が全部出てしまうのですが、そのために腸が閉塞し、脳に出血をして死んでしまうというのが常道であります。「後の手当こそ肝要ならめ」と周助が書いたのはここのことで、その後の手当には葛根湯を用うるのです。葛根湯といえばたいへん難しく聞こえますが、実は葛湯のことなんです。その葛根湯の熱さは、熱のあるときは少し温かに、熱のないときには冷たくする。それから濃さは、あまり濃いのをつくると鼻について飲めないし薄いとまた腸閉塞の助けにならない、ここがいわゆるサジ加減であります。その晩ご隠居さんは大変な下痢をいたします。下痢をいたしますと、すぐに手足が冷たくなりますから湯タンポで温め、部屋の中を温め、咽喉を乾かしてどんどん葛根湯を飲ませるものですから、遂に御隠居さんの病気は治ってしまうのであります。「ときに一斗に及ぶことあり」ということがありますが、まさか水を一斗も飲むわけではない。昔の一斗は今の一升なんです。一升といえば今の一合のこと、だからただいまは大体昔の10分の1であります。

下痢をして御隠居の病気が治ったものですから清兵衛は非常に喜び、山脇東洋の所に謝礼に行くのであります。すると東洋は、「これはわしが治したのではない、人形屋の周助殿が治したのだから、そっちへ持って行け」と言う。周助の所へ持って行くと、「わしは人形屋で医者ではない。山脇先生の所へ持って行ってくれ」と言う。番頭はあっちへ持って行ったり、こっちに持って行ったり……そこでもって柳屋清兵衛は非常に感激をする。

それより前、山脇東洋は清兵衛の家から帰る途中周助の所に立ち寄るのであります。そうすると周助はしきりに人形を画いている。「山脇でござる……東洋でござる」と言っても知らん顔をして「今仕事が多忙だ」とか何とか言って、すぐには応じようとしない。九尺二間のほこりだらけの中に座って、知らん顔して人形を画いているというのですから、よほどの見識家であったと見えます。しばらくして、やっと気に入ったのができたとみえまして、人形を片付け、「ようこそおいでになった、どなたでござる」とやる。ここらは芝居でやれば、なかなか面白いところでございましょう。東洋が「今でも医学を研究していられるか」と問うと、周助は戸棚を開けて、沢山の漢方の書類を持って参ります。そして遂に東洋に議論を吹きかけることになるのですが、これが東洞が山脇東洋に認められ、世に出るもとになるのであります。

「延亭四年東洞四十五、移りて東洞院街に居す。号して東洞と称したのは、これに因るのであった。この時、業(なりわい)既に大いに行はれ弟子頗る多し。宝暦の初めに門人鶴元逸、東洞の医説を集めて『医断』を著はし、これを公にし、一時これを是非にするもの海内(かいだい)に普(あま)ねし。宝暦五年(西一七五五)『方極』一巻を著はし、鶴元逸の名を以て宝暦九年(西一七五九)『医断』を世に送り、宝暦十三年(西一七六三)『類聚方』を公にし、明和八年(西一七七一)『薬徴』を出版し、功実を推し、薬能を審(つまびらか)に」するのであります。

三、疾病は健康に復する症状である

それではこれより『古書医言』の本文のほうに入りたいと思います。私は漢学者ではなく、医学という頭でこれを読んでおりますから、あるいは誤訳があるかもわかりませんが、とにかく忠実に原文にならって訳したつもりであります。まず序文から読んでみましょう。

「天に日月星辰(じつげつせいしん)あり、地に山川沢陵(たくりょう)あり、日月星辰なる者は天の文(あや)なり。山川沢陵なる者は地の象(かたち)なり、而して其の文と象とは、俯仰瞻望瞬目(ふぎょうせんぼうしゅんもく)の間、亦能く観察すべし。人は其の日月星辰を見て唯だ之を大(だい)と謂ひ、其の山川沢陵を見て唯だ之を広(ひろし)と謂ふ。而も其の広と大とは、一朝一夕尺寸(せきすん)の陰、豈に得て窮極(きゅうきょく)すべけんや。夫れ古書の尊むべきは其の信々(しんしん)に在り、古医の貴ぶべきは其の治々(ちち)に在り、而して苟くも書の明(あきらか)ならざる、病の治せざるは悪(いづく)んぞ其の之を尊貴することあらんや。我が先祖考東洞翁は、二千歳の下に生れて、二千歳の上を学ぶ。道、古(いにしえ)ならざれば則ち従はず、方、古ならざば則ち取らず、鑽研多年、用ひて以て之を今に施す。始めて万病一毒、疾として治せざるはなきを(*おそらく以下抜け→晤(あきら)かにす、乃ちこれを古に考えて)謬(あやま)ることなく、これを今に徴(しる)して疑わず、是(ここ)に於て規矩準縄(きくじゅんじょう)を立て、紀綱(きこう)法則を挙ぐ。古の疾医の道、遂に復た今の世に明なり。翁嘗て其の疾医の道熄(や)みて陰陽医(おんようい)の言、行はるるを嗟(なげ)き、これを秦漢以上、医事を言ふ者に稽(かんが)えて、之を評論弁闢(べんへき)し、題して古書医言と曰ふ。」

「方」というには医学のこと、「疾医」というのは正統医学者のこと、陰陽医というのは易などを見立ててやる医者のことを申します。それでは序文のあとのほうは適当に読んでいただくとして、次に本論のほうに入りたいと思います。

巻の一、「易に曰く、九五(きゅうご)无妄(むぼう)の疾(やまい)は、薬することなくして喜(き)あり。」

「无妄」は天雷(てんらい)无妄と申しまして、至誠という言葉と同じです。易では☰こういうのを天と申します。天をもって乾(かん)となすので、天は乾であります。それから☳こういう形をしたのは雷(らい)です。雷は震(しん)であります。そこで天雷といえば、☰☳(*縦重ね)こういう形になります。一番下の棒が初爻(しょこう)で、これから数えて5つ目が陽爻である場合、これを九五と申します。「九五无妄の疾は、薬することなくして喜あり。」つまり何でもないものに薬を飲ますことは間違っている。かえって薬をしないところに喜びがあるというのであります。

「象に曰く、无妄の薬は試(もち)ふ可からざるなり。為則曰く、九五は中正(ちゅうせい)を以て尊位に当る、下又は中正を以て之に応ず。无妄の至り、其の道以て加ふるなしと謂ふべし。疾とは之の病を作すを謂ふなり。九五の無妄を以て、如(も)し其れ疾ありとも、薬を以て治すること勿れ。則ち喜あるなり。夫れ人の疾ある則ち毒薬を以て其の病毒を攻め去り、以て其の正しきに復す。」

「攻め入る」というのは攻撃のことです。攻撃というのは、たとえば下痢をしている者に下剤を用いたり、嘔吐している者に吐剤を与えたりすることを申します。下痢をしている者に下痢止めを与えるのは温補です。昔、漢方では攻撃か温補か、つまり攻めるか補うかということで、ずいぶん議論がおこなわれ、後にはあまり攻撃もいけないがまた温補ばかりでもいけないという折衷論が出て参ります。今の医学は温補のほうで、攻撃はほとんどない。つまり対症療法であります。吉益東洞は絶対的に攻撃であります。我が西医学も徹頭徹尾攻撃であります。

[評] 疾病は健康に復する症状なるが故に薬剤をわざわざ用うることなくも治癒するものとの意。

評というのは、私の評であります。

四、「瞑眩」「症状即療法」此の語読み易く行い難し

「書に曰く、若し薬瞑眩せざれば、厥(そ)の疾瘳へず。」

「書」というのは書経、つまり尚書のことです。「厥の」という字は、昔の教育勅語の中にも使ってありますが、普通の「其の」ですけれども、このほうは意味が「其の」よりやや深長なのです。

「為則曰く、書に医事を言ふは信ずべし。これより古きはなし。而も後世は此の語に由らず、蓋し漢より、以降疾医の道熄(や)み、陰陽医隆んなり。夫れ陰陽なるものは造化の事にして、人事に非ざるなり。故に聖門の天地陰陽なる者は、恭敬にして之に従ひ、慎みて犯すことなきのみ。陰陽を以て人事を論ぜざるなり。然るに漢以降、陰陽の説播(しきほどこ)して吾が道湮(ふさが)る。其の論益々微に以て、其の事益々成し難きなり。悲しい哉。天下衆庶、疾病に嬰係(かか)り、其の苦患を免脱すること能はず、是れ它(た)なし。陰陽を以て疾病を論じ、知らざるを以て之を知ると為すの弊なり。乃ち太倉公の如き是なり。蓋し医は疾病を掌る。疾病治せざれば、豈医と謂はんや。然も太倉公は死生を論じて疾病を救ふこと能はず、偶ま救ふことあるも、論、治と乖(そむ)く、空言虚論に非ずして何ぞ。故に其の伝に於て之を許す。以て考ふべし、今此の語読み易く行ひ難し、之を為さば則ち瞑眩す。瞑眩は人々皆な異る。千変万怪、名状すべからざるなり。故に薬肯綮(こうけい)に中るも、毒解せざれば則ち薬終に瞑眩せざるなり。毒解すれば則ち薬忽ち瞑眩するなり。或は瞑眩数十日、絶食羸痩(るいそう)、将に死せんとして毒尽き頓(とみ)に快(よ)きあり。或は瞑眩しばしば死し、しばしば蘇りて毒尽き漸く治する者あり。是れ皆な軀に自から之を為さざる者、奚(いずく)んぞ能く知るを得ん。故に曰く、此の語読み易く行ひ難しと。医術の習熟は茲に在り、医術の習熟は此に在り。」

[字解]
(一)瞑眩とは疾病の症状を言う。疾病なるものは症状を呈して初めて本復するものなり。
(二)疾医とは、当時においては正当の医者を称したるものにして、陰陽医とは迷信的医者の別名とされたり。
(三)它は他に同じ。
(四)太倉公(たいそうこう)は大倉公とあるも同一人なり。太倉の長、銭穀の出納を掌る官。

[評] 症状の療法なることを述べたものである。

なお「嬰係り」の「嬰」も皆「罹る」と同じであります。

「詩経に曰く、我が言(ことば)の耄(もう)になるにあらず。爾(なんじ)憂(うれえ)を用(もっ)て謔(たわむれ)とせり、多きこと将に熇々(かくかく)として救薬(きゅうやく)すべからざらんとす。

 為則曰く、多く熇々たる惨毒の悪を行ふは、之を死病の良医なきに譬ふ。」

[字解]
(1)謔はたわむるなり。冗談なり。
(2)熇々は火の盛んなる形容。

[評] 詩経の「大雅生民(たいがせいみん)」中の一文であって、疾病もこれを小康の間に治すべきであることを言う。

「礼記に曰く、医は三世ならざれば、其の薬を服せず。

 孔氏(くし)頴達(ようだつ)の曰く、父子相承け三世に至る。是れ物を慎み調剤す。呂氏(りょし)大臨(たいりん)の曰く、医三世に至れば、人を治すること多し。 物を用ふること熟す、功己に試みて疑ふことなし。然る後に之を服す。亦た疾を謹むの道なり。方氏(ほうし)慤(かく)の曰く、医の術たる苟くも祖父子孫業を伝ふるにあらざれば、則ち術自ら精なることなし。術の精ならざるは其の薬を服すべけんや。為則曰く、礼の言ふ所は、其の常のみ、伝業にあらずと雖も其の人にして自然に克く得す。倘(も)し克く疾を治せば、三世に及ばずと雖も固より用ふべき所なり。

[評] 三代続いて医業の経験あるものでなければ、かかるなとの意なるも、治りさえすれば、その必要なしという意。

「凡そ技(ぎ)を執りて以て上(かみ)に事(つか)ふる者は、祝、史、射、御、医、卜及び百工なり。凡そ技を執りて以て上に事ふる者は、事を弐(じ)にせず官を移さず。

 為則曰く、礼運(れいうん)に曰く、臣と家僕と雑居して歯(し)を齊(ひと)しくするは、礼にあらざるなり。」

[字解]
(1)祝は祝詞を作り神に事うる者。即ちはふり。史は書を執りて神に事うる者、はふりの類。

[評] 健康指導に或は療法に従事した以上は一意専心、事を二た道にせず、一生をささぐべきであるとの意。

「孟春に、秋令を行ふときは、則ち其の民大ひに疫す。季春に、夏令を行ふときは、即ち民疾疫多し。
 孟夏の月、百薬を聚蓄す。」

孟春は春の初めということです。昔はものの初めには「孟」という字をつけて、孟春、孟夏というように言っておりました。

「為則曰く、月令の病を言ふは、治療に於て益なし。聖経と雖も疑ふことなき能わず、唯だおほよそ、以て之を言へば乃ち可なり。理にて之を推せば乃ち不可なり。又た周礼及び呂氏春秋等の月令は、皆な之に倣ふ。疾医の事にあらず。」

[評] 古書にあるからといって必ずその通りとはならない。真の医師の言ではないとの意。

「周礼に曰く、毒薬を聚めて以て医事を共にす。

 為則曰く、注に云く、薬のもの、恒に毒多しと。是れを知らずして説を為すの誤なり。夫れ薬は皆な毒なり、毒を以て毒を解(げ)す、故に瞑眩す。瞑眩せざれば、その疾瘳ゆるにあらず、五穀と雖も用いて以て薬となさば則ち毒

*『方極』『医断』『類聚方』『薬徴』
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