西医学と古典医学 小屋壽

西医学と古典医学

西会常務理事 小屋壽

何が幸になるかわからぬ。太平洋戦争が無条件降伏で終幕したために、我々は言論、出版、結社の完全なる自由を獲得した。そこで西会も20余年隠忍の殻を脱し、自由の天地に放胆なる論述を試みて差し支えない様になった。誠に欣快に堪えない。

医学の革新が叫ばれ始めてから長い年月を閲した。しかし西医学の出現までは、この革新に正しい方向を指示するに足る新しい研究業績はなかった。西医学は西先生が幼青年時代、医学に見放された病弱の心身を改造せんとして、古今東西の医科学文献を渉猟すること実に7万3千余巻、当時世におこなわるる保健治病法を研究実践することまさに360有余種、その短を捨ててその長を採り、その精を科学的に総合し、これに幽玄なる釈老荘孔孟の東洋哲学の粋を抜いて融合し、更に先生の透徹せる叡智による独創の見解を加えて、而して集大成せる新興医学である。先生はこれを親しく自ら実践して金剛不壊の心身を獲得せられたのである。爾来20余年、先生はこの稀代の妙法を利他の菩薩業として知己近親より始め、全国数十万の西会会員、並び米華多数の信奉者に普及し、その理論の正整とその驚異的効験とを普遍的に確認せられておるのである。換言すれば西医学は他の理化学等と併行して、その正しき科学性をあらゆる条件下に実証しておるのである。

即ち、西医学が、医学概論の提唱、毛細管原動力説、症状即療法論、血圧論、平衡論、等質論、心身一如説、万病一毒説、汗吐下和治法論、食塩論、皮膚論、中庸論、空論、正食論、西哲学等々、極めて多岐にわたるも全体として総合統一せられたる新学説を掲げて、医学の革新を叫び、現代医学の根底にメスを入れ、その革命的改新を強要せんとする、まさに医学界の驚異でなければならない。

ちょうど、これは物理学において、アインスタインや、キューリーや、プランクや、ボーアなどの碩学泰斗が、相対性理論や原子論、量子力学や波動論の展開によりて、従来の幾多矛盾を暴露せる物理学に対し、革命的改新を強要したように、燦然たる理論体系と実践的効験と、純正なる科学性とを確証せる西医学の出現は、暗黒にして行き詰まれる現代医学に炬火のごとき光明を投ずるものに外ならぬ。まさに医学のルネサンスである。現代医学の非科学性と医療界の醜状とを達観すれば、ここにルネサンス以上の革新が医学に起こっても敢て不思議ではあるまい。

今や、西医学に対し現代医学を古典医学の名において呼ぶに何の憚りがあろう。

古典医学が、徒に病原菌の探究や、動物実験や、外科手術や、屍体解剖や、レントゲン照査や、煩雑なる病理解剖に憂身をやつして、肝腎の病気の治療法や、予防法や、保健法に対しては単にビタミンやホルモンその他の薬物の注射または投与、ワクチンの製造、特効薬の発見、患部の切除等に終始して、些かの光明をも見いださず、病名は17万6千余の多数を数うるも、原因不明、療法なしの病床のみ続出し、終わりなき迷路に彷徨し、あたら貴重なる日月と人命とを徒費しておる事実は何を語るか。何かそこに従来の研究の方針や方法、乃至その過程において、根本的錯誤があるいのではないか。現代医学者がこういう疑問を起こさずにおられるということは、むしろ不思議ではないか。起こしても能力不足のために、これを如何ともなし得ないのか。無躾な申状ながら、病気が治らなくても医師の生活には何等の支障を来さない医療組織になっておるから、苦労して病気を早く治す必要を認めていないのか。

現代はあらゆる科学が絢爛たる発達を遂げ、輝かしき業績を誇っておる。此間に処して独り医学のみが限りなき迷路に惨憺たる彷徨を敢てする実状に対し、当事者としてまた医学者として、内心忸怩たるものがないのであろうか。

言論の自由を得たる我々は、今や保健、予防並び治病の自由を獲得せねばならぬ。いつまでも我々は無効なる官僚的古典医学の強要に屈従しておってはならぬ。我々が健康生活を維持増進することは国家発展の原動力であり、国民としての義務であり、また権利でなければならぬ。世に言う生存権とは病弱なる生存を辛うじて維持することでは意義をなさぬ。健康は何物にも代えがたき貴重なる資産である。日本再建の基礎である。この貴重なる健康を無力なる現代医学者に委任して何の生存権ぞ。何の日本再建ぞ。重ねて言う、我々は今こそ保健予防並び治病の自由を獲得せねばならぬ。

西医学は本来我々の保健予防並び治病の自由のために、創始せられたるものとも言い得るのであって、自己の責任において、健康生活を維持増進し得る方法を指導するもの、換言すれば国民に真正の健康生活法を指導するものである。

西医学はそれ自然科学であって、その理論は誠に高遠であり、その体系は科学的精緻の極を尽くしておるが、その方法は極めて簡単にして、その効果は真に驚異的である。然るにこれを現代医学を科学なりと盲信し、医学とはかくの如きものなりと速断する増上慢の古典医学者に了得せしむることは、難事中の難事だ。ちょうどそれは、釈尊の法華経におけるが如く、これら古典医学者に対して、驚異的効験を有する西医学は難信難解である。この理解できないということが西医学に対し、古典医学者が挙って反対する一つの理由であろう。他にも色々の理由が考えられる。古典医学者の生存権の問題までここに持ち出す必要はなかろう。

しかし西医学は絶対に了得し得ないものでは勿論ない。それはただ、心柔軟にして、真理の探究に雪山童子の誠を捧げ、如説修業の進行に不惜身命の精進を傾倒して、これを体得するもののみが、初めて了得の特権が与えられるのであって、これ以外にこの革命的学説と、未曽有の効験とを了解する方法はないものと知らねばならぬ。

古典医学者に了解が行かないからといって、そのままに放置することは、西医学行者として衆生済度の菩薩業ではない。末法濁悪の世には、逆化折伏もまた止むを得ないのではないか。信奉者の中の気の早い連中は、新旧医学の立会討論を計画するものもある。

いずれにしても、医者を助け、国民を済い、敗残日本を再建し、而して日本文化の精華として世界の進運に貢献し得るものは、いくら考えても我が西医学以外にはないのだから。

機は熟した。西医学信奉者の一大救世運動を展開するのは今だ。

奮え、起て、西医学信奉者よ。日本を再建するために、国民を済うために、而して古典医学者を助けるために。

(終)

『西医学』第9巻第2号 昭和21年6月15日発行

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