鬼和尚の仏教勉強会 2020年度まとめ(音声ななこ)

【2020-01-02】般若心経実践法⑥【悟りを得るための修行法Ⅴ空の法】

 般若心経によって空の法を実践しようとしている者は、特に注意して心がけなければならないことがあるのじゃ。
 それはいかなるものごとをも、空であるという見解を持ってはいかんということなのじゃ。
 今まで空の法を述べておきながら、おかしなことを書くと想う者も居るかもしれんが、それが最も肝心なことなのじゃ。
 
 空の法とは修行のための方法であり、一般的な真実ではないのじゃ。
 実在する何かが空であるという事はありえないのじゃ。
 修行のために実在するものごとを空であると、念じるだけなのじゃ。 

 それを理解できずになにものかが空であると、知識として覚えれば見解を持つことになるのじゃ。
 何かを空であるという見解を持つことは、法に囚われることになるのじゃ。
 空見を持ってしまうことになるのじゃ。

 いかなる見解をも破壊するのが空の法の真髄なのじゃ。
 それを理解できずに空という見解を持てば、法の核心を取り逃がすことになるのじゃ。
 空見を持てば却って悟りから遠ざかることになるのじゃ。

 空見を持つものに自己同一化が起こるからなのじゃ。
 空という見解を持つ主体が自分であるという自己同一化が起こり、厭離できなくなるのじゃ。
 
 そもそも五蘊を空と見なすことは、自分という観念を空として厭離するためなのじゃ。
 それが全ての般若経の目的とも言えるものじゃ。
 自己同一化を取り除くための観念が空なのじゃ。

 空の法を実践して自己同一化が厭離できなくなり、逆に強化するならば、それは本末転倒というべき事態なのじゃ。
 そうであるから空という法とその主体をも空であると見なさないければならないのじゃ。
 
 それが般若心経の最も肝心な法なのじゃ。
 全てを空と見なしても、それを実践する主体が残ってしまえば空ではないのじゃ。
 空の法を実践する者も空と観るのじゃ。
 空の法を実践する主体もまた空であると見なすのが、正しい空の法なのじゃ。

 空という法を知る者も実践する主体も空であると観るのじゃ。
 空という法をも空と観るのじゃ。
 空という法を行使する心も、行使される対象も空と観るのじゃ。

 それが実践できれば主体が空であるとして感じられない無我に至るのじゃ。
 更に主体が感じられなくとも、それを認識するものがあるのじゃ。
 それを阿頼耶識と唯識論では呼ぶのじゃ。

 それもまた空と見なせば、消えていくのじゃ。
 そのようにして菩提、悟りも究極にまで至れるのじゃ。
 記憶に依存した認識である阿頼耶識さえも空として滅すれば、もはや大悟徹底の境地なのじゃ。
 究極涅槃であり、不死の境地なのじゃ。
 一切の苦悩と憂いが無く、永遠の至福と唯一つの意識が残るだけなのじゃ。

 空の法を実践する者は、そのような言語も絶した究極涅槃の境地に至るまで、実践在るのみなのじゃ。

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【2020-02-02】法は意を超えず【悟りを得るための修行法】

 今までさまざま法を示してきたが、それによって必ず悟りを得られるとは限らないのじゃ。
 どんなに法を実践しても悟りを得られない者も居る。
 そのような者は悟りを得るという意志がないからなのじゃ。

 例えばこの道を真っ直ぐ行けば目的地に着けると教えられても、目的地に行く意志が無い者はどこか別の所をさまよい、目的地には着かないのじゃ。
 それと同じように悟りを得る方法を教えられても、悟りを得る意志が無い者は、実践も迷いのうちに入って悟ることも無いのじゃ。 
 人の意志はこの世で最も強いものである故に、法もそれを曲げられないのじゃ。

 この世の執着を全て捨てて悟りを求める意志がある者に、悟りは訪れるのじゃ。
 それほどの意志がない限り悟りは訪れないのじゃ。
 金は大事だから悟っても金儲けはしようとか、今の地位や権力は維持したまま悟ろうと思っても無理なのじゃ。
 そのような都合の善い悟りはどこにもないのじゃ。

 本来一切衆生は老病死の限界がある故に、全てを捨てて悟りを求めるのも正しい考えなのじゃ。
 金や地位や名声をどんなに求めても、やがては老病死によって消えてしまうのじゃ。
 自分の意志で捨てなくても、消えてしまうのが必然なのじゃ。

 やがては誰もが必然的に捨てなければならないものを、自分の意志で捨てるだけなのじゃ。
 そうすれば全てを手に入れ、永遠への道が開かれるのじゃ。
 
 死を恐れる余り、死を考えることを拒否した者はいつか自分が死なないようにさえ思うようになるものじゃ。
 それはもはや現実を見ていないことになるのじゃ。
 幻想の中で生きている狂人と同じなのじゃ。
 自分が死なない前提で金や権力や名声を求めていれば、老病死の苦が迫ってきた時に絶望するのじゃ。

 更には社会への貢献とか人類のためとかの目的さえ、幻想に他ならないのじゃ。
 それらも滅び去る性質からは免れないからなのじゃ。
 社会や人類や生物とかの集合より、個人の中にこそ永遠への道が在るのじゃ。
 
 初めから人や社会には老病死の限界があり、それを超える道があると正しく考えれば、悟りを得る意志も芽生えるのじゃ。
 人が自らの意志で老病死の苦を超えようとした時にこそ、法は役に立つのじゃ。
 悟りへの意志によって実践された法は、速やかに人を悟りに導くのじゃ。
 幻想に陥る事無く、老病死という現実について正しく考え、悟りへの意志を持つことが真の正見なのじゃ。

 強い意志があれば法など無くとも悟りに行くことも出来るのじゃ。
 法は意志を超える事は出来ないが、意志は法をも超えることができるのじゃ。
 マハリシのように法など知らなくても、強い意志によって悟りを得た者も居るのじゃ。

 法は意志を超えないという事は、法を選択する時にも心がけるべきなのじゃ。
 自分の意志に沿わない方法を、師匠に勧められたからとかの理由で続けるべきではないのじゃ。
 そのような実践は全てを捨てるという選択もできないじゃろう。

 自らの全てを捨てる意志を持つこともできる、真に自らに合った法を選ぶべきなのじゃ。
 意志とは選択の際に最も力を発揮する故に、意志による法の選択に注意を払うべきなのじゃ。
 自らの全てを捨てるに足りる信頼できる法を選ぶべきなのじゃ。
 
 自らの意志で選んだ法により、全てを捨てて実践し続ければ悟りは速やかに訪れるじゃろう。
 その時、法よりも悟りを求める強い意志が悟りへと導いたことを知るじゃろう。
 その意志をも捨て去った時、真の大悟徹底の境地が現われるじゃろう。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

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【2020-03-02】ブラフマンの法 詳解【悟りを得るための修行法】

 以前にお釈迦様が説いたブラフマンの法を書いたが、更に詳しく解説する必要があるようじゃ。
 前の記事は慈悲の感情を自分の肉体から全ての空間に広げる法と書いただけだったのじゃ。
 それだけではなかなか難しかったようじゃ。
 そこで今回の記事ではブラフマンの法を詳しく解説するのじゃ。

 ブラフマンの法を実践するには、最初に慈悲の感情を起こさなくてはならないのじゃ。
 自分が慈悲を感じるものをイメージするとよいのじゃ。
 愛する者とか、ペットとかでもよいのじゃ。

 するとその縁によって、慈悲の感情が起こるじゃろう。
 それは胸の辺りに感じるかもしれん。 
 頭の中に感じるかもしれん。
 人によっては腹に感じるという者も居るじゃろう。

 どこに感じても構わないのじゃ。
 そしてその感覚も人によって違うじゃろう。
 少し暖かい感じがするとか、むず痒いとか、少し痛いとかいろいろあって構わないのじゃ。
 その感覚を全身に広げていくようにするのじゃ。

 その感じが肉体に広がると念じたり、広がっていくことをイメージすることで少しずつ広げていくのじゃ。
 頭に感じるものは頭から下に広げ、胸や腹に感じるものは頭や手足にまで広げていくのじゃ。
 そのようにして全身に慈悲の想いから起こる感覚を広げていくのじゃ。

 どうしても広げられないという者は、慈悲を起こす縁となるものを手足にイメージすると善いのじゃ。
 手で猫を撫でるとか、そのようなイメージによって手に感じる慈悲の感覚を広げるのじゃ。
 広げている途中で感覚がなくなってしまったら、また感じるところにまで戻ってやり直すのじゃ。

 そのようにして慈悲の感覚が全身に広がって感じられるようになったならば、それを肉体の外に広げるのじゃ。
 最初は頭からとか、胸から丸く広がっていくとか、少しずつ広げていくのじゃ。
 それも途中で感覚が感じられなくなったら、感じられるところからやり直すのじゃ。

 それが出来ない者は、常識で考えて感情が肉体の外にある筈はないとかの観念に囚われているからかもしれん。
 或いは全ては脳で感じるのであるから、肉体の外に感情は無いと、唯脳論から離れられないからかもしれん。
 実際には全ては意識であるから肉体の外にも感情は在るものじゃ。
 観察と実践によって囚われを打破するのじゃ。

 肉体の外に広げられるようになったら、その感覚を部屋の中一杯にまで広げるのじゃ。
 人によっては頭から上には広がるが横に広がらないとか、腹から横にだけ広がるとか感じる者もいるかもしれん。
 そのような者は囚われずに、上でも横でも構わないからどんどん広げていくと善いのじゃ。

 慈悲の想いが今ここにある全てに浸透して、慈悲に変っていくことをイメージするのじゃ。
 全てのものが名前と形を無くして慈悲の思いになっていくことを念じ、イメージするのじゃ。
 更に慈悲の想いが今ここに感じる全てから、認識する全てに広がることを念じ、イメージするのじゃ。

 その時、頭の中で地球とか宇宙とかをイメージして、それが慈悲に変化することを念じてはいかんのじゃ。
 それでは観念遊戯になるからなのじゃ。
 あくまでも自分が今ここで感じ、認識する全てが慈悲となることを念じ、イメージするのじゃ。
 
 全てが名前と形を無くして、慈悲の思いになることを念じ、イメージするのじゃ。
 自らの肉体と精神もまた名前と形を無くして慈悲の想いそのものであることを感じるのじゃ。

 それが出来たならば、全てのものごとはただ慈悲の想いだけになるのじゃ。
 そうすればそれはサマーディと呼ばれる境地なのじゃ。
 自分も他のものもなく、全てが一つであるから自他を忘れたサマーディなのじゃ。

 それはまだ悟りではないが、自己を見ることのできる最良の境地に入れるのじゃ。
 そのように大いに成果の在るブラフマンの法を実践するとよいのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 ブラフマンの法 詳解

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