【仏教】悟りを開いた人のスレ487【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1583742577/
1:神も仏も名無しさん[]:2020/03/09(月) 17:29:37.07 ID:yy1JGAI7
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。
※前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1583499423/
51:神も仏も名無しさん[sage]:2020/03/09(月) 20:49:41.98 ID:gfG5pK2R [1/7]
スレ487まできました
なんでこれだけ悟った方がおられるのに明確な答えがないのでしょう?
なんで悟りが普及しないのでしょう?
なんで悟った方は煩悩まみれなんでしょう?
53:神も仏も名無しさん[sage]:2020/03/09(月) 20:56:11.35 ID:gfG5pK2R [2/7]
釈迦はだれをすくったのでしょう?
他者を悟らせることができて完成するのではないでしょうか?
61:神も仏も名無しさん[sage]:2020/03/09(月) 21:12:46.51 ID:gfG5pK2R [3/7]
ちなみにご存命な著名人で悟りを開かれているのはだれですか?
もしくは師と仰いでいるのは誰ですか?
62:神も仏も名無しさん[sage]:2020/03/09(月) 21:18:08.41 ID:gfG5pK2R [4/7]
私も悟りに触れたいのです!
65:神も仏も名無しさん[sage]:2020/03/09(月) 21:25:27.06 ID:gfG5pK2R [5/7]
私が悟りに近いと思っているのはエックハルト・トールです
68:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/09(月) 21:42:32.53 ID:U89gjo7m [1/5]
>>1 ご苦労さんなのじゃ。
>>51 それはおぬしに明確な答えがないからなのじゃ。
自分自身に明確な答えが無ければ、どれほど明確な答えが出てもわからないのじゃ。
答えあわせが出来ないからのう。
おぬし自身の明確な答えとは何かを追及するのじゃ。
自らの心を観るのじゃ。
おぬしが悟りに眼を背けていれば普及しない世界だけが見えるのじゃ。
自らの心を観るのじゃ。
悟った者が煩悩まみれに見えるならば、おぬしが煩悩まみれだからなのじゃ。
煩悩とは悟りの障碍になる心の習性なのじゃ。
貪り、怒り、愚かさなのじゃ。
本当に悟ったならばそれらは既にないのじゃ。
おぬしにそれがあれば目の前に貪らず、怒らず、智慧のある者が居ても気付かないのじゃ。
自らの心を観るのじゃ。
70:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/09(月) 21:52:03.48 ID:U89gjo7m [2/5]
>>53 ゴータマ・シッダールタだけを救ったのじゃ。
後は誰一人救っていないのじゃ。
人が救えるのは自分自身だけなのじゃ。
誰もが自らを救うことができるだけなのじゃ。
他人を悟らせる者はいないのじゃ。
お釈迦様も自分は道標になるだけと言ったのじゃ。
他人を悟らせたならば脳になるからなのじゃ。
誰でも自らの意志によって悟らなければならないのじゃ。
その思い込みがおぬしの煩悩である愚かさなのじゃ。
>>61 いないのじゃ。
悟れば如来なのじゃ。
>>62 それならば自らの心をちゃんと観るがよいのじゃ。
そこに真の悟りはあるのじゃ。
悟った者を探したり、他人を頼るのはむしろ悟りからの逃避なのじゃ。
悟りから逃げるために自分が悟れないことを他人のせいにしたいのじゃ。
>>65 悟っていないのじゃ。
もはや講演とか本で金を儲ける人になってしまったのじゃ。
71:神も仏も名無しさん[sage]:2020/03/09(月) 21:52:21.50 ID:gfG5pK2R [7/7]
>>68
気付かないってのは悲しいですね
せめて人のやさしさには気づきたいものです
おやすみなさい
72:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/09(月) 21:55:32.72 ID:U89gjo7m [3/5]
>>71 それもおぬしにやさしさがなければ気付けないのじゃ。
人を測る秤で自分も測られるとナザレ人の大工は言ったのじゃ。
74:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/09(月) 21:55:55.14 ID:U89gjo7m [4/5]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
75:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/09(月) 21:56:32.91 ID:U89gjo7m [5/5]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
394:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/10(火) 22:07:52.37 ID:r/NTdyJo [1/3]
神がいてもいなくても関係ないのじゃ。
人が心に持つ神はいずれも幻想なのじゃ。
それにしがみついても何の意味もないのじゃ。
それは両親のイメージにしがみついているだけであるからのう。
自らの心の中に聖なるものを見出すのじゃ。
395:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/10(火) 22:08:12.34 ID:r/NTdyJo [2/3]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
396:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/10(火) 22:09:06.12 ID:r/NTdyJo [3/3]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
723:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/11(水) 21:51:18.03 ID:hkg1HOml [1/3]
依存が恐れを生み、それがまた依存と恐れを産むのじゃ。
そのような心の連鎖反応をお釈迦様は縁起と説いたのじゃ。
その心の働きに気付くことが出来ればそれは滅するのじゃ。
心の働きを滅する気付をクリシュナムルティは理解と呼ぶのじゃ。
724:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/11(水) 21:51:53.91 ID:hkg1HOml [2/3]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
725:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/11(水) 21:52:12.92 ID:hkg1HOml [3/3]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
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