鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2020/03/08(日)

鬼和尚に聞いてみるスレ part15
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1571060959/

901:普通の者[]:2020/03/08(日) 12:27:18 ID:LDw7RhVo0 [60/65]
和尚様
無為に座り続けることで悟りが向こうからやってくることがわかり、無為に座っていました。阿頼耶識の作用がよくわかりました。過去の感覚を探るとき、胸から下半身へ動き、思考を探るとき、胸から頭へ動くのを目の当たりにしました。阿頼耶識の働きを見切ったその時でした。視界がなくなりました。頭から映像が吸いとられていくのを目の当たりにしました。ですが、最後まで完了されず、中途半端に終わりました。その瞬間、世界とは、観念すなわち、映像に過ぎないことを知りました。我思う故に我があるのであり、思わなければ、我など初めからないのです。我がないことを知り、さらに世界とは映像に過ぎないこと、映像が拭い去られて悟りは完了するのだと教えられたようです。映像が拭い去られるまで、無為に座り続けたいと存じます。
いつもありがとうございます。

902:普通の者[]:2020/03/08(日) 16:42:10 ID:LDw7RhVo0 [61/65]
>>901
和尚様
無為に座り続けているうちに悟りに至るとき、認識が観察できたことになるのですか?
無為と認識との関係について、具体的にご教示いただきたく、よろしくお願いいたします。

903:普通の者[]:2020/03/08(日) 16:59:56 ID:LDw7RhVo0 [62/65]
和尚様
度々もう訳ございません。
無為に座っているとき、思考が湧いてくることがありますが、この思考を見て消し去りますが、ただ、ただ、無為にありつづけることによって悟りがやってくるという理解でよいのでしょうか?

909:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/03/08(日) 22:30:27 ID:1d4drIFg0 [237/239]
>>901 惜しいことじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>902 そうじゃ、悟りが訪れるのは認識が観察できたからなのじゃ。
 自我が観察されて無我になれば、無為に座ることが出来るようになるのじゃ。
 それまでは無為にはなれないのじゃ。

 自我かあれば為すことがあり、それが次々に心の働きを起こすから認識も観れないのじゃ。
 無我になり、無為であれば心の働きも抑制されるから認識が観られるのじゃ。
 実践によって確かめるのじゃ。

>>903 もはや思考も消そうとしないで善いのじゃ。
 ただ流れて消えていくままにしておくとよいのじゃ。
 その方が更に深く瞑想に入っていくのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

904:旅の客人[]:2020/03/08(日) 19:05:48 ID:.DKswxsc0
鬼和尚様

世俗的なレベルの低い質問で恐縮です。
悟りを目指す修行者にとって、
下記の様な悟り以外の欲を持つ事は
修行の妨げになるのでしょうか?

① 世俗的な暮らしが困窮している。
 このままつまらん貧乏生活のまま終わる位なら
 自らの意思でくたばりたい。
② 生きるのなら、暮らしぶりを良くしたい。
③ その為に、投資(FX,株など)に手を出す。

書いていて恥ずかしくなる様な質問を覚者に致し、申し訳ありません。宜しくお願いします。

905:普通の者[]:2020/03/08(日) 19:37:43 ID:LDw7RhVo0 [63/65]
無為に座り続けて、わかったことがあります。意識が途切れたとき、思考などが湧いてくることです。つまり、今ここにいないとき、観念が生じるのです。悟りとは、意識が常に続いていること、今ここにありつづけることではないですか?
今ここにいることが完璧となったとき、修行が完成し、それを悟りと呼ぶのではないのでしょうか?

906:避難民のマジレスさん[sage]:2020/03/08(日) 20:14:25 ID:czRftzgI0 [39/39]
>898
そうですか。
それはそうと、無意識を見ることができるようになりました。これを見性というのでしょうか

907:普通の者[]:2020/03/08(日) 20:59:06 ID:LDw7RhVo0 [64/65]
>>905
しかし、意識を続けることに専念すると、眠ってしまいました。なかなか、うまくいかないですね。なにかよい方法はないでしょうか?

910:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/03/08(日) 22:39:29 ID:1d4drIFg0 [238/239]
>>904 妨げになるじゃろう。
 そのような時は一時修行を中断して資産を積むとよいのじゃ。
 現世の欲を果たしてから悟りを求めると善いのじゃ。
 それもまたおぬしの道なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>905 その意識とは何か、よく観察してみると善いのじゃ。
 それが観えたならば今ここにあることができるのじゃ。
 更にそれを観ているものも見えたならば悟りはやってくるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>906 善いことじゃ。

 見性はもっと簡単なのじゃ。
 自分の性が見えたことであるからのう。
 自分が怒りやすい性格だと見えたならばそれが見性なのじゃ。
 自らの性質が見えれば見性なのじゃ。

>>907 それは寝ていないのじゃ。
 意識はあり続けているのじゃ。
 おぬしが意識と想っているのは記憶かもしれんのじゃ。
 記憶が無くとも意識はあることを観るのじゃ。

908:普通の者[]:2020/03/08(日) 22:25:52 ID:LDw7RhVo0 [65/65]
和尚様
どうやら、記憶にまつわるネガティブなものを厭離できつつあるようです、さらに進んでいきたいと存じます。
いつもありがとうございます。

911:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/03/08(日) 22:40:02 ID:1d4drIFg0 [239/239]
>>908 どういたしまして、またおいでなさい。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】51
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1573282738/

814:おさかなくわえた名無しさん[sage]:2020/03/08(日) 20:58:44.85 ID:uMVhEy2H
>>809
>ならないのじゃ。 リスクヘッジができているからのう。

すごいですね
どういう金融商品を買ってるんですか?
チャートを作ってテクニカル分析とかしてますか?
勉強しようかなと思ってるんです

815:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/08(日) 22:45:09.62 ID:rgPwyHz/
>>814 株なのじゃ。
 デイトレードで平均が下がったときは休むがよいのじゃ。
 そうすれば損をしないのじゃ。
 昔の人は休むも相場と言ったのじゃ。
 毎日トレードしなくてよいのじゃ。
 休んでいる時に次の相場の大波が来た時のトレードを計画するのじゃ。

 youtubeでもデイトレードの人が多く居るのじゃ。
 ちゃんとトレードで利益を出している人を師匠として学ぶのが一番の近道なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】79
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1580459078/

797:マジレスさん[sage]:2020/03/08(日) 16:17:11.81 ID:e4Mi96Bf
>>792
相反する筋肉に力を入れるやつはやめちゃったんですか?

798:太上天君[]:2020/03/08(日) 20:40:07.01 ID:NiE/CQ8u
鬼和尚よ、自己イメージはなく、自己イメージは観念の要素なのか?
では観念はなぜあるのか?観念の存在理由は何か?

ハキハキ答えよ!!!

ふぉっふぉっふぉっふぉっ。

800:マジレスさん[sage]:2020/03/08(日) 21:11:37.66 ID:oBediYNX [1/4]
自己イメージは自我の一部でもあるのですね。
ありがとうございました。

感覚の観察には鐘の音も良いとのことでしたが、鐘は自分で叩きながら観察するのですか?

ヒーリングミュージックにあるようなチベットのシンギングボールの音が好きなので買ってみようかとも思っています。
鐘の音色は深く聞き入ってしまうような不思議な効果があると思いますが、やはり瞑想に適するように作られているのですか?
また、観察するにはやはりデジタルの音ではなく生の音の方が良いですか?
楽器を弾く事は集中や観察の修行になりうるでしょうか?

804:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/08(日) 22:50:53.43 ID:12kRyqQi [1/2]
>>797 やっているのじゃ。
 素人には難しいのじゃ。
 初心者は普通の筋肉体操で善いのじゃ。

>>798 観念も無いのじゃ。
 全て無なのじゃ。

>>800 そうじゃ、自分で叩くのじゃ。
 チベットのでもよいのじゃ。
 そのように言えるじゃろう。
 瞑想のために創られたものが多いのじゃ。
 生がよいのじゃ。
 しかし無ければ録音でも善いのじゃ。
 集中にはなるのじゃ。
 観察は難しいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

801:マジレスさん[sage]:2020/03/08(日) 21:40:01.17 ID:oBediYNX [2/4]
日常生活でも、観察地点に立っている事が増えて、無自覚に同一化する時間が減り、殆どその状態で居られるようになると、良いのでしょうか?
そのようになれば、不動心にも近づいて、自我を見えるチャンスも増えるのではと思っていますが、合っていますでしょうか?

この観察地点にいること、気付いていることというのは、観念との同一化と何が違っているのでしょうか?
自覚的、自分に気付いている、感じだとも思います。
また、その方が印象により残ったり、ちゃんと生きている感じがします。
観念の中で何時間も過ごす事は本当に夢を見ているようなものだと思います。

802:マジレスさん[sage]:2020/03/08(日) 21:56:31.64 ID:oBediYNX [3/4]
好悪も自己のイメージから起こるものなのですか?
私はアート等好きで、心が高揚したり、心が静かになって見入ったり聞き入ったりしてしまうようなものが好きですが、
そのような感動も自己イメージから起こるのでしょうか?

普遍的な感動や芸術、
自己を超えたインスピレーションというのはありますか?
それとも感情も感覚も全て自己ありきなのですか?

自我を捨てたいと強く意志するときと、感動のような心は無くしたくないと思ってしまうときがあります。

803:マジレスさん[sage]:2020/03/08(日) 22:10:47.20 ID:oBediYNX [4/4]
連日連投すみません。
さっき電気を消して少し恐怖が起こって、見るものによって心のスクリーンが一面に変わってしまうこと、自己イメージも電気ひとつによって微妙に変わってしまうことが少しわかりました。
そして若干恐怖が起こりました。
普段自我を見ようとする時は怖いものなど無いと思うのに、少しだけでも見えかかる(と感じる)と、恐怖がありました。具体的に何を恐怖しているかわからない恐怖で、今はもう忘れてしまいました。
自我を見ようとすると咄嗟に恐怖が起こるものなのでしょうか?

また、寝不足で寝る前などは呼吸が苦しくなって死の恐怖を感じる時があるのですが、死の恐怖は何が怖いかと考えてみるとやはり自分が無くなることです。死の恐怖と自我を見ようとする恐怖は同じものなのでしょうか?

805:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/03/08(日) 22:58:17.35 ID:12kRyqQi [2/2]
>>801 それがよいのじゃ。
 難しいことでは在るがのう。
 合っているのじゃ。

 それも未だ観念との同一化が行われているじゃろう。
 ただそのように自覚することで、観念への同一化が観やすくなるのじゃ。
 そして熟達することが出来るのじゃ。
 そうすれば自我も観る機会が増えるのじゃ。

>>802 そうじゃ、十二因縁でも明白に示されているのじゃ。
 自分の過去の記憶や価値観や経験から起こるのじゃ。

 そのようなものはないのじゃ。
 全ては自分があるからなのじゃ。

 それらも恐れや不安からの逃避と気付けば捨てられるのじゃ。
 無常の世ではいずれはどのような芸術も消えていくのであるから、囚われてはいかんのじゃ。

>>803 そうじゃ、大抵の者は恐れが起こるじゃ。
 自分が消えていくという謬見が起こるからのう。

 同じものなのじゃ。
 観念の自我を自分と認識しているから起こるのじゃ。
 恐れを勇気で乗り越えて進むのじゃ。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1560853465/l50

619:避難民のマジレスさん[]:2020/03/08(日) 08:21:08 ID:3u9Q62c.0 [1/3]
変化の緊要

気づき 5

質問者 ここで私は迷っています。私はどうすれば数秒で過去をぬぐい去れるのでしょうか。

K 私たちは気づきを議論していることを、心に留めましょう。私たちはともに、気づきのこの疑問について話し合っているのです。
  樹があります。樹への条件づけられる応答があります - それが、関係での「私」、葛藤、抗争のまさに中心である「私」です。ここで、疑問を訊ねているのは、この「私」(でしょうか) - 私たちが言いましたように、過去のまさに構造であるこの「私」でしょうか。疑問が過去の構造から問われていないなら、疑問が「私」により問われていないなら、そのとき、過去の構造はないのです。構造が疑問を訊ねているとき、それは、それ自体の所作との関係において作動しているし、それはそれ自体に怯えているし、それ自体から逃避するため作用するのです。この構造が疑問を問わないとき、それはそれ自体との関係で作用していません。要約すると - 樹があるし、言葉が、樹への応答があるし、これは監視者または「私」ですし、これは過去から来るのです。そのとき疑問があるのです - 私はこのすべての動乱と苦悶から逃避できるでしょうか。「私」がこの疑問を訊ねているなら、それはそれ自体を永続化しているのです。
  ここで、それに気づいて、その疑問を問わないのです!その含意すべてに気づき、分かるので、疑問は問えないのです。それは罠が分かるから、全くその疑問を問わないのです。ここで、あなたは、このすべての気づきが表面的であることが、分かるでしょうか。それは、樹を見る気づきと同じことです。

質問者 他の種類の気づきはあるのでしょうか。気づきには他の次元はあるのでしょうか。

K 再び、気をつけましょう。私たちは、どんな動機をもってこの疑問を訊ねているのでもないことを、明確にしましょう。動機があるなら、私たちは、条件づけられた応答の罠に戻っているのです。観察者が静寂になるのではなく、全的に静寂であるとき、存在するに至る気づきの違った性質が、確かにあるのです。

質問者 どんな境遇でも観察者なしにいったいどんな作用がありうるのでしょうか - どんな疑問やどんな作用が。

K 再び、あなたが川のこちら岸からこの疑問を訊ねているのでしょうか。それとも、それが向こう岸からあるのでしょうか。あなたが向こう岸にあるのなら、あなたはこの疑問を訊ねないでしょう。もしあなたがかの岸にあるのなら、あなたの作用はかの岸からあるでしょう。それで、その構造、本性のすべて、罠のすべてをともなう岸の気づきがあるし、罠から逃避しようとすることは、もう一つの罠に陥ることなのです。そして、そのすべてには、なんと命取りの単調さがあるのでしょうか!気づきは、私たちに罠の本性を示してくれました。ゆえに、罠すべての否定があるのです。それで、心はいま空なのです。それは、「私」と罠について空なのです [「私」と罠を欠いているのです] 。この心は、気づきの違った性質、違った次元を持つのです。この気づきは、自らが気づいているということに、気づきません。

質問者 神さま!これはあまりにむずかしすぎます!あなたは、真実に思われること、真実に聞こえることを言っておられますが、私はまだそこにいないのです。違ったように表してもらえるでしょうか。私を私の罠から押し出してもらえるでしょうか。

K 誰もあなたをあなたの罠から押し出せません - どんな導師も、どんな薬物も、どんな真言も、私を含めて誰も。誰も、特に私自身は。あなたがなすべきすべては、途中で不注意になるのではなく、始めから終わりまで気づくことばかりです。この気づきの新しい性質は、注意です。そして、この注意には、「私」の造った辺境がありません。この注意は、最高の形の美徳です。ゆえに、それは愛なのです。それは最上の智恵です。そして、あなたがこれら人工の罠の構造と本性に敏感でないなら、注意はありえないのです。

(´・(ェ)・`)
(おわり)

620:避難民のマジレスさん[]:2020/03/08(日) 08:55:26 ID:3u9Q62c.0 [2/3]
観察対象についての叙述は対象そのものではない。
叙述される想いは全て記憶に基づく(=過去)ものであり、それとは離れた「気づき」があるという構造を理解する。
その構造を理解した上で「私」を否定する。
その為に常に注意深くあるようにする。

Kは実践を否定すると言われてますが、常に注意して内面を観察せよと言うのがKのおすすめの方法であり、実践でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

621:避難民のマジレスさん[]:2020/03/08(日) 09:11:35 ID:3u9Q62c.0 [3/3]
「所作」
仏語。身・口・意の三業(さんごう)が発動すること。能作に対していう
(´・(ェ)・`)つ

622:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2020/03/09(月) 00:39:19 ID:1d4drIFg0 [265/265]
>>620 そうじゃ、それこそが真の実践なのじゃ。
 過去の記憶に基づいた行は気付きの機会を少なくするばかりなのじゃ。
 それは観念遊戯に陥ってしまうのじゃ。
 今ここにあるものごとに集中して観るしかないのじゃ。

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