【仏教】悟りを開いた人のスレ481【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1581836015/
1:坐睡の大山 ◆JBP.OYid8g []:2020/02/16(日) 15:53:35.17 ID:fd0LJuQg [1/20]
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1581481176/
113:坐睡の大山 ◆JBP.OYid8g []:2020/02/16(日) 22:02:25.23 ID:fd0LJuQg [16/20]
諸法無我っていうのも理解が難しいのですが、こう考えたらどうですかね。
お釈迦様は瞑想をされて、我を五つの諸法に解体されました。即ち五蘊(色受想行識)です。
そしてそのいずれにも我なるものは(見当たら)ないと知見されました。
諸法 無我 って事です。
120:日本鬼子@2ch覚者 ◆rlzTxpgv.dqM [sage]:2020/02/16(日) 22:08:08.58 ID:O7pS4ZD7 [10/15]
>>113
それだと昔、鬼和尚が六識を一切として一切法無我→諸法無我とした、ぶっ怖しと変わらなくなる。
122:日本鬼子@2ch覚者 ◆rlzTxpgv.dqM [sage]:2020/02/16(日) 22:09:34.89 ID:O7pS4ZD7 [11/15]
>>113
南無大師遍照金剛
弘法大師が残した法脈で解るよ。
125:日本鬼子@2ch覚者 ◆rlzTxpgv.dqM [sage]:2020/02/16(日) 22:17:01.02 ID:O7pS4ZD7 [12/15]
>>113
何で諸法無我が有耶無耶になってるか
↓
諸法無我とは本来何か
↓
仏教系カルトは何が目的か
↓
政治家の票田にカルトが多いのは何故?
↓
法◯を現在弄っているのは誰か
鈍感でも解るだろ( ・∀・)
127:日本鬼子@2ch覚者 ◆rlzTxpgv.dqM [sage]:2020/02/16(日) 22:19:05.36 ID:O7pS4ZD7 [13/15]
龍樹は龍樹菩薩とせずに、阿弥陀と統合すべきだった。
これもヒント。
128:坐睡の大山 ◆JBP.OYid8g []:2020/02/16(日) 22:19:31.50 ID:fd0LJuQg [18/20]
>>120
法をどう解釈するかなんだよねぇ。
132:日本鬼子@2ch覚者 ◆rlzTxpgv.dqM [sage]:2020/02/16(日) 22:24:33.93 ID:O7pS4ZD7 [14/15]
>>128
その一点。
繰り返し言うけど、大山くんの理解のために、ヒントしか示せない。
答えはもう大山くんが持ってるよ?
133:日本鬼子@2ch覚者 ◆rlzTxpgv.dqM [sage]:2020/02/16(日) 22:27:18.99 ID:O7pS4ZD7 [15/15]
あと、哲学って宗教の後追いだから。
仏教哲学って、あり得ない話。
136:坐睡の大山 ◆JBP.OYid8g []:2020/02/16(日) 22:35:45.88 ID:fd0LJuQg [20/20]
>>127
難しいなぁ。
138:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/16(日) 22:54:40.13 ID:qhMi/Isd [1/3]
>>1 ご苦労さんなのじゃ。
>>127 そのような妄想はやめるがよいのじゃ。
おぬしは関連妄想という病にかかっている精神異常者じゃ。
仏教用語の本当の意味もわからず出鱈目に解釈しているだけなのじゃ。
わしのように大悟徹底した真の知識を持つ者にとっては、そのような妄想はお笑いでしかないのじゃ。
それに同調する者も漫才をしているようなものじゃ。
哀れな者じゃ。
139:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/16(日) 22:55:09.97 ID:qhMi/Isd [2/3]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
140:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/16(日) 22:55:44.48 ID:qhMi/Isd [3/3]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
149:麦 ◆MUGI/AIUgo []:2020/02/17(月) 00:27:54.74 ID:AjlQiIrD [1/6]
>>24
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ 「即非の論理」で鈴木大拙さんは
>例えば「洞山無寒暑」(『碧巌録』第 43 則)に以下の問答がある。
洞山に或る僧が「寒暑到来、如
何が廻避せん」(生死の一大事が到来、
どうしたらよろしいでしょうか?)と問うと、洞山は「何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる?」
(生死のない世界に行ったらよいではないか)と答える。
僧は「如何なるか是れ無寒暑の処?」(それはどこにあるのでしょうか?)
と問い返す。即座に洞山は「寒時
は闍黎(じゃり)を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」
(寒いときは寒いのみ、熱いときは熱いだけ、生まれるときや生まれる、
死ぬときや死ぬのみ)と答える。
寒い時は寒いのみで、そこには寒さを感じ
る「自己」すらもない、「おお寒むッ」、それのみである。
「寒殺」し、「死にきった我なき我」には不
思議な転換がある。「廻避」せず「寒時」の只中へ飛び込んで、直面の対象に成りきり死にきりゆけば、
そこに生死を越えた次元が開かれるのである。
まさに「即非の論理とは行為そのもの」(13-464)なのである。
>寒い時は寒いのみで、そこには寒さを感じ
る「自己」すらもない、「おお寒むッ」、それのみである。
だそうです
261:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/17(月) 19:45:07.71 ID:jIe0aadL [1/3]
聖地とかパワースポット等に巡礼する者はどこにでもいるものじゃ。
それらが悟りに役立つことは無いのじゃ。
自らの心を見なければ悟りはやってこないのじゃ。
人を悟りに導く真の聖地は心の中にあるのじゃ。
262:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/17(月) 19:45:35.96 ID:jIe0aadL [2/3]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
263:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/17(月) 19:46:12.68 ID:jIe0aadL [3/3]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
415:忍者ハッタリ君[]:2020/02/18(火) 19:20:06.52 ID:Np4xF3XN [1/2]
おい、コロナウィルスへの勝者は5chネラーの引きこもりどもだよ。
喜びたまえ。わしは今日、確定申告に行ってきた。9割はマスクしてたよ。
416:栄進軍曹[]:2020/02/18(火) 19:25:09.60 ID:0OJvLBVR [31/38]
ワシも申告せんとアカン
畑売ったカネ半分もろた(´・ω・`)
439:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/18(火) 22:46:31.53 ID:xepUOYV5 [1/4]
>>416 その金で小さくても善いから土地を買って、駐車場とか貸し倉庫とか金を産む資産を経営すると善いのじゃ。
その儲けた金で又資産を買うとよいのじゃ。
そのようにして金持ち父さんになるのじゃ。
447:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/18(火) 23:03:46.54 ID:xepUOYV5 [2/4]
>>149 それは間違いではないが問答の味を殺しているのう。
洞山にある僧が寒さや暑さが来たらどうすればよいかと聞いたのじゃ。
そうしたら洞山は寒さや暑さのないところにいけばよいのじゃ、と答えたのじゃ。
寒さや暑さの無いところとはどこじゃ、と聞かれたら。
寒い時は僧を寒と為し、、暑い時は僧を暑と為す所なのじゃ、と答えたのじゃ。
寒さと一如であればもはや自身の寒さは無い。
暑さと一如であればもはや自身の暑さは無いのじゃ。
それがサマーディなのじゃ。
換気扇の音がうるさいうるさいと思えば音が無いところにいくと善いのじゃ。
それは換気扇の音となるところなのじゃ。
自身が換気扇の音となってしまえばもはやうるさいこともないのじゃ。
それを一如といえば一如なのじゃ。
更に竿頭一歩進んで無如となるがよいのじゃ。
448:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/18(火) 23:04:51.78 ID:xepUOYV5 [3/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
449:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/18(火) 23:05:14.21 ID:xepUOYV5 [4/4]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
450:神も仏も名無しさん[]:2020/02/18(火) 23:05:22.56 ID:DQs0DH4o [6/6]
縁起は苦手でね。
ところで、縁起って有為でしょ?
“(-“”-;)”
453:宇宙[]:2020/02/18(火) 23:11:00.84 ID:7y9YowAe [13/13]
>>439
>そのようにして金持ち父さんになるのじゃ。
鬼さんは金持ち父さんかい?
冬は暖房器具は使わずに、着込んで寒さを忍んでるんじゃなかったの?
488:麦 ◆MUGI/AIUgo []:2020/02/19(水) 01:19:09.40 ID:yYNX7hIl [4/26]
>>447
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ会話している時は会話しているって教えて頂きました♪
782:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/19(水) 21:31:07.11 ID:fzKBEdkl [1/4]
>>450 有為でも無為でもないのじゃ。
ただの観念なのじゃ。
観念を破壊するための観念なのじゃ。
>>453 金持ちほど金を大事にするのじゃ。
大事にするから金が入ってくるのじゃ。
>>488 会話するには相手が居るのじゃ。
それではまだ二如なのじゃ。
相手と一つになれば一如なのじゃ。
更に自分も相手もいなくなって無如なのじゃ。
無の如しなのじゃ。
それが対象のないサマーディなのじゃ。
783:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/19(水) 21:40:44.07 ID:fzKBEdkl [2/4]
前に立派な人が書いていたのう。
己事究明ということが大事なのじゃ。
己のことを明らかに究めつくすという意味なのじゃ。
縁起も諸法無我もそのためにあるものじゃ。
お釈迦様も自分のしたこととしなかったことだけを見ろと説いたのじゃ。
己のことを知ろうとしないで縁起とか無我の議論だけしていてはいかんのじゃ。
それは仏教ではなく、仏教のための言動でもないのじゃ。
議論は拳をつかわない喧嘩だと偉い人も言っていたのじゃ。
己のことを究めつくした者は仏陀の言葉を一言も知らなくても、悟りを得られるのじゃ。
己事究明と書いた者は三十年も座禅をしていたというから立派な者じゃ。
784:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/19(水) 21:41:24.86 ID:fzKBEdkl [3/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
785:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2020/02/19(水) 21:42:12.24 ID:fzKBEdkl [4/4]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
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