【仏教】悟りを開いた人のスレ471【天空寺】

【仏教】悟りを開いた人のスレ471【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1576375139/

1:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/15(日) 10:58:59.72 ID:k+3Br3nJ
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)

>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。

※前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ470【天空寺】
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1575802012/

913:野良[sage]:2019/12/14(土) 20:58:16.04 ID:sPfBUKu9
>>803
三毒が、浮かんでは観察し、浮かんでは観察することを繰り返すのでしょうか
完全に見られたならば、その三毒は二度と現れることはないのですね
自我と認識はどのように滅しましたか
体験によって滅したことを理解したのか、
滅したことが過去を振り返って「さっきは自我が無かった」とかいうように
記憶から理解したのでしょうか
意識しかないと知るならば、普段意識はどのようにさせていればよいでしょうか
意識が、すべての司令官なのでしょうか

19:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/15(日) 22:40:35.24 ID:Yn1+SvBM [1/4]
>>1 ご苦労さんじゃ。
 腹斬り三回

20:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/15(日) 22:41:26.88 ID:Yn1+SvBM [2/4]
前スレ 913 三毒も完全に観察されたならば永遠に滅するのじゃ。
    怒りも貪欲も観念によるものであり、それに対する無知が解消されれば痴も無いのじゃ。
    明知があるのであるからのう。

    完全に観察されることで滅したのじゃ。
    記憶も体験も無いのじゃ。
    意識だけがある時、自我も認識も無いのじゃ。
    それらがただ習慣によって成り立っていることを滅した後に気付くのじゃ。

    意識があるものすべてであることを信じることで恐れを乗り越えるのじゃ。
    意識が全てであるだけなのじゃ。
    そのようにして進んでいくのじゃ。

21:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/15(日) 22:41:56.51 ID:Yn1+SvBM [3/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

22:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/15(日) 22:42:14.61 ID:Yn1+SvBM [4/4]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

93:野良[sage]:2019/12/16(月) 19:40:22.43 ID:flNOEz8/
>>20
観察するという事は、現象を言語化して捉えるのではなく
現象をイメージ化して解釈をせずそのまま観るということですね
貪瞋痴だけを滅しようとするのではなく
貪瞋痴が生じるプロセスにおいて様々な思いが巡り、
たどり着く先が貪瞋痴であると観察しました
なのでそのプロセスごと、自己改革が必要だという事も分かりました
意識があるから、「これは自我だ、自分だ、他人だ」と判断するんですね
自我とは、私は他者ではないという意識の事ですね
その他者ではないという意識をしないとき自我もなくなるってことですか?

123:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/16(月) 23:00:14.82 ID:Q5RyQUe/ [1/3]
>>93 そうじゃ、今ここにある心身をありのままに観るのじゃ。
 それが自分を見ることになるのじゃ。

 おぬしの自己認識が他者ではないということに基づいているならば、それが無い時には自我も無いじゃろう。
 その心の働きをありのままに観るのじゃ。
 正しい自己認識の原因ならば、それが完全に観察できれば自我も厭離されて滅するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

124:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/16(月) 23:01:51.16 ID:Q5RyQUe/ [2/3]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

126:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/16(月) 23:02:12.75 ID:Q5RyQUe/ [3/3]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

129:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/16(月) 23:06:14.91 ID:G9sOrxzt [8/15]
>>123
見るものそのものを見ることは出来ないだろw
馬鹿w

135:くろ[sage]:2019/12/16(月) 23:26:17.25 ID:k/hvAoO1 [3/4]
>>129
自我ってのは、見るものそのものではないよ。。

自我とか私とは何か?
という問いには答えがある。。

究極的に自己は見えない、ということとは別だね。。

136:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/16(月) 23:32:15.34 ID:G9sOrxzt [12/15]
>>135
何馬鹿な事をw
見るものが見られるものでしょ?

137 :くろ[sage]:2019/12/16(月) 23:47:24.59 ID:k/hvAoO1 [4/4]
>>136
見るものが見られるものである、というだけじゃーね~。。

禅は己事究明だから。。w

141 :仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/16(月) 23:56:18.97 ID:G9sOrxzt [15/15]
>>137
だけとか言ってないけど?

215:野良[sage]:2019/12/17(火) 21:58:37.63 ID:B8nvse4n
>>123
ありのままに観るとは、なんの思考もなしに観るという事で
観察してから後付けのように思考が起こるとき、その思考が
自分自身についてであれば、それが自我ということですね
観察するものが観察されるものだという意見がありますがどう思われますか?

自己認識は産まれてから生来母親などによって教えられた経験の積み重ねだと感じます

216:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/17(火) 21:59:22.89 ID:c+xbqMdx [1/4]
>>129 その見るものとは何じゃ?
それはどのような性があるのじゃ?
それはどのような作用があるのじゃ?
それはどのような本質があるのじゃ?
それは何を原因として起こるのじゃ?

答えられなければ腹斬り四回なのじゃ。

218:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/17(火) 22:06:00.48 ID:c+xbqMdx [2/4]
>>215 思考ではなく認識が起こるのじゃ。
 記憶による認識が自我を起こすのじゃ。

 観察する者などいないのじゃ。
 それこそが観察しているという作用によって起こる自我なのじゃ。
 観察しているという働きに記憶からの自己の名前とイメージを投射しているのじゃ。
 そして自分が観察している者という認識が起こるのじゃ。
 それは謬見なのじゃ。
 ただ働きのみが在るところに主体を想定することが誤りなのじゃ。

 それが記憶による自己認識なのじゃ。
 父母未生の己を追求するのじゃ。

219:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/17(火) 22:06:53.03 ID:c+xbqMdx [3/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

220:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/17(火) 22:07:18.62 ID:c+xbqMdx [4/4]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

236:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/18(水) 00:44:18.04 ID:7kDbTMH/ [1/7]
>>216
体用相即。
ただそれだけのことだろ?

仏教の基本だよw

396:トム[]:2019/12/18(水) 21:30:54.28 ID:jSh11oNo [11/12]
みんなは曹洞宗住職のネルケ無方禅師や南直哉禅師についてどう思う?

399:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/18(水) 22:03:49.74 ID:NDnUIGRb [1/3]
>>236 全く答えになっていないのじゃ。
 腹斬り四回。

>>396 法を売る売僧じゃな。
 名声と金を得るために本を書いて売っているのじゃ。
 無意味な存在なのじゃ。

400:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/18(水) 22:04:33.43 ID:NDnUIGRb [2/3]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

401:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/18(水) 22:04:53.80 ID:NDnUIGRb [3/3]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

404:野良[sage]:2019/12/18(水) 22:28:54.71 ID:rGWrgQP2
>>218
>>400
観察する者という言葉に色々な動詞を当て嵌めてもいけますね
○○しているという働きに名前とイメージを投射しちゃうから
自我が確固たるものになってしまうということですね
○○している自分は△△だ!とかになって一生言い続けることになる
それを改変していくのが瞑想行だと思います

421:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/19(木) 02:33:11.22 ID:XauQF95D [1/12]
>>399
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
お前は体即用って意味さえ分からないんだろw

>その見るものとは何じゃ?
>それはどのような性があるのじゃ?
>それはどのような作用があるのじゃ?
>それはどのような本質があるのじゃ?
>それは何を原因として起こるのじゃ?

見るものがあるわけでなく(無我)、性があるわけでない無性)。
作用(用)と本質(体)はそれぞれの単体では原因とはならない(相依性)。
それを体即用という。

またまたまたまた…瞬殺だなw

即ち体即用であり、

490:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/19(木) 20:52:14.40 ID:corEU0j7 [1/4]
>>404 そうじゃ、あらゆる行いに自己同一化は起こるじゃろう。
 何かをすれば主体である自我があるという観念も起きてしまうのじゃ。

 観察によって自己同一化もなくなるのじゃ。
 観察されるものは主体ではないという気付きが起こるからなのじゃ。
 自我が見られれば、それも自分ではないという気付きが起こるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

491:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/19(木) 20:57:59.79 ID:corEU0j7 [2/4]
>>421 恥の上塗りじゃな。
 そのようなものは仏教でもなく、仏法でもないのじゃ。
 夢の中で仁王に痛めつけられるのわ恐れるようなものじゃ。

 腹斬り五回

492:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/19(木) 21:01:03.90 ID:corEU0j7 [3/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

493:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/19(木) 21:01:26.23 ID:corEU0j7 [4/4]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

494:ハジ[]:2019/12/19(木) 21:12:47.82 ID:yGGmgZwY [1/10]
仏教というのは、確かにあるんだが
誰一人として、仏教が何なのかは、わかっていないんだよ
そーだよね

鬼和尚w

511:神も仏も名無しさん[sage]:2019/12/19(木) 22:44:08.82 ID:essNAH/W [4/13]
>>494

誰よりも解ってない詐欺師に訊いてどないすんねんな? 笑

526:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/20(金) 04:26:03.12 ID:azG9iDnN [2/45]
>>491
だから、違うと言うのならその理由を示せよw
理由も示せないで違うとか、駄々っ子か?

またまたまたまた……瞬殺だな、www

527:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/12/20(金) 04:29:25.70 ID:azG9iDnN [3/45]
>>490
> 観察によって自己同一化もなくなるのじゃ。

だから、観察するから見るものと見られるものに分裂するんだろ?
仏教はそうした分裂を分別っていうの。

その分裂が見るものという自己同一化をおこすの。

お前の言ってる事は真逆なの。

528:神も仏も名無しさん[]:2019/12/20(金) 04:32:31.13 ID:+Ge1C0aw [1/67]
>>490
主客なしのレベルですね。

767:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:07:54.13 ID:bznk5ZfB [1/7]
>>494 大悟徹底したわしにはわかっているがのう。
 お釈迦様と全く同じ無上正等正覚を得た故にわかるのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

788:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:25:43.63 ID:bznk5ZfB [2/7]
>>511 他人が詐欺師に見えるならば、おぬしが詐欺師ということじゃな。
 何でもお見通しなのじゃ。

>>526 完全にひっかかっているのう。わっはっはっは。
  おぬしは見るものは見られるものと書いたはずであるがのう。
 そうであるならば見るものとは何か知っている筈であるがのう。
 見るものが何かわからないのに、見るものは見られるものと書いたということじゃな。
 いつもの知ったかぶりじゃな。
 何でもお見通しなのじゃ。

 見るものの性がどのような時に見られるものとなるのじゃ?
 実に簡単な公案なのじゃ。
 問いに全て答えが書いてあるのであるからのう。
 偽臨済宗ならば解けないのじゃ。
 腹斬り五回なのじゃ。

>>527 おぬしは見るものが何かわからないのに分裂するとか知ったかぶりをしているだけなのじゃ。
 分裂は無く、それを分別とは言わないのじゃ。
 仏教を知らないのに、仏教ではとか書かないほうが善いのじゃ。
 ますます恥をさらすことになるからのう。

791:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:28:20.62 ID:bznk5ZfB [3/7]
>>528 そうじゃ、主客もなくなるのじゃ。
 主体から客体という観念も起こるのであるからのう。
 主体が無ければ客体も無いのじゃ。
 一切が平等なのじゃ。

 そもそも止観を知らないで仏教とか知ったかぶりをしているから、頓珍漢なことばかり書く事になるのじゃ。
 今日は二回もわしのレスがもらえてよかったのう。
 止観をちゃんと学んで出直してくるのじゃ。

794:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g [sage]:2019/12/20(金) 23:29:38.70 ID:AmQDh9YD [28/38]
>>788
だから、相依性って云ったろ、馬鹿w

796:神も仏も名無しさん[sage]:2019/12/20(金) 23:33:08.21 ID:6/7FcbUA [22/23]
>>788

見えるじゃなくて実際に人を詐術で欺いてるだろ?笑

肺炎がマッサージで治るって大嘘吐いて 証明一つしようともしないで逃げ回ってる医師法違反の詐欺師がよ(o^∀^o)

797:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g [sage]:2019/12/20(金) 23:34:07.52 ID:AmQDh9YD [29/38]
>>791
>主体から客体という観念も起こるのであるからのう。

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

主体から客体という観念が起こるというのなら、それは此縁性で無限遡及に陥り、主体を認める事になるだろ?
主体と客体は相依性なんだよ。

そんなの仏教の基本中の基本だろうがwww

803:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:36:28.34 ID:bznk5ZfB [4/7]
>>794 腹斬り六回。
 わしは問いに答えが書いてあると書いた筈であるがのう。
 どこに相依性などと書いてあるのじゃ?

807:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:44:09.07 ID:bznk5ZfB [5/7]
>>796 何じゃ、ジャンキーだったのじゃな。
 それならば詐欺師そのものであっても不思議は無いのじゃ。
 わしの言葉が又あたってしまったのう。
 何でもお見通しなのじゃ。

>>797 主体を認めることにはならんのじゃ。
 ならないということをおぬしが説明しているのじゃ。
 愚か過ぎてわしの言葉を補強していることも気付かないのじゃな。
 意味もわからず言辞だけを適当にはめこんでいるから真実を語るわしの手に落ちるのじゃ。

 ジャンキーは簡単すぎてつまらんのう。
 もっと面白いことを書かなければ相手にしないのじゃ。
 臨済宗ではセクハラしまくりとかのう。

806:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g [sage]:2019/12/20(金) 23:42:33.69 ID:AmQDh9YD [33/38]
>>803
だから、相依性って云ったろ、馬鹿w

相依性も分からないのか?

813:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:48:26.52 ID:bznk5ZfB [6/7]
>>806 相依性は間違い。
 腹斬り七回。
 相依性禁止。

 おぬしだけではわからないのならば親父に聞いても善いのじゃ。
 おぬしの親父ならば知っているかもしれんからのう。
 簡単な公案なのじゃ。

 見るものが見られるものであるならば、見るものの性とは何じゃ。
 もはや答えを書いてしまったも同然なのじゃ。

818:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g [sage]:2019/12/20(金) 23:54:06.55 ID:AmQDh9YD [37/38]
>>813
見るものがそれ単体であるのではなく、見られるものがそれ単体であるんじゃないだろ?

互いに対象となるから成立、だから相依性って言ってるんだよwww
ばかw

823:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/20(金) 23:59:49.66 ID:bznk5ZfB [7/7]
>>818 また字が読めないふりじゃな。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。 
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。

 これぐらい書けばジャンキーにもわかるじゃろう。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。
 相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。相依性禁止。と書いて在るのじゃ。

 ちゃんと親父をたたき起こして聞くが善いのじゃ。
 見るものが見られるものであるとき、見るものの性とは何じゃ?
ジャンキーにはもったいない位の公案じゃな。
 次に答えられなければジャンキーをすてて解説じゃ。

824:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g [sage]:2019/12/21(土) 00:05:37.82 ID:zITca1IN [1/48]
>>823
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

なにが相依性禁止だよwww

見るものがそれ単体であるのではなく、見られるものがそれ単体であるんじゃないだろ?

互いに対象となるから成立、だから相依性って言ってるんだよwww
ばかw

827:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g [sage]:2019/12/21(土) 00:10:20.38 ID:zITca1IN [2/48]
見るものと見られるものは非同非異。

”私は○○を観察する”って云うのは成立しない。

828:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/12/21(土) 00:14:18.59 ID:/MQcYOmI
公案とは一見して非論理的で不合理な問いに見えて、実は凡人の窺い知れぬ高い論理性と合理性を持っているものじゃ。
そうであるから座禅中に長く集中させて案ずることができるのじゃ。

見るものが見られるものであるとき、見るものの性とは何か。
このような問いをも高度な論理によって説くこともでききるのじゃ。

これはA=Bであるとき、AのCとは何かと数式に変換することができるじゃろう。
AのCとはAがBと等しいのであるから、BのCとも言えるのじゃ。
BのCこそAのCであるのじゃ。

これを日本語の見るものが見られるものであるとき、見るものの性とは何かとあてはめるのじゃ。
すると見るものが見られるものであるのであるから、見るものの性とは、見られるものの性でもあるのじゃ。
正解は見るものの性とは、見られるものの性そのものと言えるのじゃ。

見られるものの性を以って、見るものの性と為すというのが答えなのじゃ。

知的好奇心がある者には面白い公案じゃろう。
深夜の知的エンターティメントじゃな。
更に見られるものの性が、見るものの性とはどのような意味か深く案じるのじゃ。

見るものは見られるもの、そのままなのじゃ。
おぬしが書いたことじゃろう?
自分の書いたことがわからんとはのう。

 見るものの性とはどのようなものじゃ?
 速やかに答えるのじゃ。

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