【仏教】悟りを開いた人のスレ466【天空寺】

【仏教】悟りを開いた人のスレ466【天空寺】 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1573975667/

1:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/11/17(日) 16:27:47.22 ID:HWr3ze8T [1/29]
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)

>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。

前スレ【仏教】悟りを開いた人のスレ467【天空寺】
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1573816304/

5:神も仏も名無しさん[sage]:2019/11/17(日) 16:36:25.34 ID:t73Ng4F2 [1/6]
>>前スレ993
後半はその通りだと思います。
前半については、形而上学だから話せないという理由なら、例えば無色界の話
はできないはずですが、実際にはお話しされてますよね。

形而上学だから無記なのではなくて、悟っていない人間が頭で考えることは
みんな妄想概念だから悟りに役立たない、ってことですよね。

「形而上だから」ではないと思いますよ。

十無記の問いが「形而上学的な問い」だと書かれているのをどこかで読んで
そのまま受け取られているのかも知れませんが、これらの問いは、そもそも
「形而上学」ですか。

7:神も仏も名無しさん[]:2019/11/17(日) 16:40:21.21 ID:t73Ng4F2 [2/6]
要するに、悟っていない人の仏教解釈ではなくて、
悟った人(釈尊)の言葉を指針にした方がいいと思います。

145:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/17(日) 21:01:45.60 ID:KWOszcAm [1/4]
>>1 ご苦労さんなのじゃ。
 臨済宗の金でわしの教えをどんどん広めるのじゃ。
 わっはっはっは。

>>7 そうじゃ、お釈迦様と全く同じ無上正等正覚を得たわしの言葉を指針にすると善いのじゃ。
 大悟徹底したわしの言葉こそ真の仏教と言えるのじゃ。

146:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/17(日) 21:02:17.64 ID:KWOszcAm [2/4]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

147:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/17(日) 21:02:47.20 ID:KWOszcAm [3/4]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

148:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/17(日) 21:04:01.55 ID:KWOszcAm [4/4]
>>146 から読んで実践あるのみなのじゃ。
 それこそ真の仏陀の言葉なのじゃ。
 実践する者だけが進んでいくのじゃ。

304:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/18(月) 22:57:05.36 ID:hq5flkiS [1/4]
またせたのう。
↓から読んで実践あるのみなのじゃ。

305:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/18(月) 22:57:25.83 ID:hq5flkiS [2/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

306:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/18(月) 22:57:49.53 ID:hq5flkiS [3/4]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

307:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/18(月) 22:59:06.38 ID:hq5flkiS [4/4]
↑の通りに実践することが仏教なのじゃ。
真のお釈迦様の教えなのじゃ。
実践しないで言葉だけを書くのは仏教ではなく、仏教徒でもないのじゃ。

308:神も仏も名無しさん[sage]:2019/11/18(月) 23:01:22.95 ID:TSSjPZXS [4/4]
>>307

自己紹介乙

数息観一点貼りで 全く話が進行してないじゃないか?笑

521:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/19(火) 21:56:01.00 ID:yDyuoM32 [1/4]
>>308 話など進行しなくて善いのじゃ。
 言葉は塵芥なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

522:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/19(火) 21:57:17.28 ID:yDyuoM32 [2/4]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

523:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/19(火) 21:57:39.15 ID:yDyuoM32 [3/4]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

524:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/19(火) 21:58:02.94 ID:yDyuoM32 [4/4]
↑を読んで実践あるのみなのじゃ。

526:神も仏も名無しさん[]:2019/11/19(火) 22:26:56.53 ID:il1E/wrJ [37/38]
正法に関しては 多少 色々と具体的にレスしたんだけどね。

殆ど誰一人として聞こうともしなかった。

つまり そういう事なんだね。解かった。

595:聖クレアル[]:2019/11/20(水) 05:38:34.12 ID:6emisB35 [1/3]
仏教程度には悟り開いてる。
釈迦さんは動物が集まって悟り開いたんだろ。

このスレの中で悟り開いたとか言って動物が寄ってくるやつどれくらいいる?

643:栄進軍曹[]:2019/11/20(水) 15:04:51.61 ID:eRNauhst [11/32]
人は必ず死ぬものである。
 私の周りにいるもの、全ては死ぬものである。
 生命を持つもの全ては死ぬものである。
 これは正しい。
 よって私は、死の体験をする。
 これから死の体験をする。
 これから死の体験をする。
 これから死の体験をする。
 これから死の体験をする。
 そして私は死の体験をするように努力しよう。
 私は死の体験をするように精進しよう。
 私は死の体験をするように勇猛に精進しよう。
 この「死の体験」は、私の心を喜ばしてくれる。
 この「死の体験」は、私の心を喜ばしてくれる。
 なぜならば、人は必ず死ぬものであるから、その死ぬ前に、それを体験することは、私に、死の恐怖を取り除いてくれる。
死の苦しみを取り除いてくれる。死のショックの苦しみを取り除いてくれる。
よってこれは喜ばしいことである。大変、喜ばしいことである。 
そして、死の恐怖を投げ捨てた、死のショックの苦痛を投げ捨てた、私の心と体は軽快になる。私の心と体は軽快になる。
 この死の瞑想は、私の心と体を軽快にしてくれる。
 この死の瞑想は、私の心と体を軽快にしてくれる。
 私は、深い深い瞑想によって、死の体験をしよう。
 私は、深い深い瞑想によって、死の体験をしよう。
 私は、深い深い瞑想によって、死の体験をしよう。
 これによって、この人間の世界、人生に、遠離(おんり)し、離貪(りとん)し、そして滅尽し、喜捨することができる。
 そして私は、死の恐怖を投げ捨てよう。
 死のショックからくる苦痛を投げ捨てよう。
 この法をお説きになったシヴァ大神及び諸仏に感謝の意を表して

オウム アー フーム
ヴァジラ ナマ シヴァ ヤ
ヴァジラ ナマ ブッダ ヤ
ヴァジラ ナマ グル ヤ
ヴァジラ ナマ サティアン ヤ
ヴァジラ ナマ タントラヴァジラヤーナ ヤマ ニヤマ ヤ

729:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/20(水) 22:25:29.57 ID:gjYKI01t [1/5]
>>526 それはおぬしが人の話を聞こうとしなかったからじゃろう。
 自分が聞けば他人も聞くのじゃ。
 それが人のコミュニケーションなのじゃ。

730:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/20(水) 22:28:01.45 ID:gjYKI01t [2/5]
>>595 公園に行くと鳩が寄ってくるのじゃ。
 えさが欲しいからなのじゃ。
 奈良に行けば鹿がよって来るのじゃ。
 せんべいが欲しいからなのじゃ。
 迷信なのじゃ。

731:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/20(水) 22:36:30.36 ID:gjYKI01t [3/5]
>>643 シヴァなどいないのじゃ。
 それは人が不安からの逃避をするために作った観念なのじゃ。
 トイレとかゴミ箱とか痰つぼと同じ人の便利のために作られた道具なのじゃ。

 お釈迦様やわしが説く法は死を超える道なのじゃ。
 死を超えれば死は無かったと気付くのじゃ。
 死もまた無なのじゃ。

732:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/20(水) 22:37:12.77 ID:gjYKI01t [4/5]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

733:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/20(水) 22:38:27.67 ID:gjYKI01t [5/5]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

736:栄進軍曹[]:2019/11/20(水) 22:53:12.90 ID:Gds2R5gQ [9/9]
>>731
軍神鬼和尚さま、お返事とマジレスありがとうございます

国家権力によって粛清された某宗教団体の自称最終解脱者の説法を書き起こしただけです

あのオームとかいう連中は、結局何だったのでしょうか?

仏教の真言密教と何か関係があったのでしょうか?

総括お願いします(´・ω・`)

956:カカシ[]:2019/11/21(木) 20:34:54.07 ID:q3qYP8ed [9/17]
そういえばタロットカードって錬金術師から始まって、
最後、愚者で終わるらしいね。 不思議と符合するんだよなー。

ところでキリスト教、系列?ぽい人たち来てるみたいなんで
キリスト教ってどんな感じなの?(笑
全然知らないから簡単に教えてほしいんだけど。
仏教は簡単にいうと苦しみってのは避けられないものなんだけど、
それは無明の闇に覆われてるからで、真理を悟ることによって
その苦からの解脱を図れるってことで合ってるかな?(笑
アメリカ行ったとき、本当に仏教のぶの字もない、完全なるキリスト教圏
だったんだよなー当然だけど(笑
人は誰しもが原罪があり、唯一なる神に祈りを捧げることによって、
救われるとかそんな感じですかね?

989:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/21(木) 23:36:17.24 ID:SO23ze93 [1/2]
>>736 オウムの者は結局はこの世の権力を求めていた者達じゃな。
 権力を得るために宗教を利用しただけなのじゃ。
 真言密教とは関係ないのじゃ。

 チベット密教とかクンダリニーヨーガとかを利用したのじゃ。
 権力を得ようとして選挙をしたり、それが無理だとわかると殺人集団として力を持とうとしたのじゃ。
 そしてもっと大きな警察権力に倒されたのじゃ。
 シェイクスピアのマクベスと同じなのじゃ。
 いつの時代にも居る権力に取り付かれた者達だったのじゃ。

990:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/21(木) 23:43:06.62 ID:SO23ze93 [2/2]
>>956 そのような理解で善いのじゃ。
 お釈迦様が老病死の苦を説いたのも、それによって絶望させるためではなく、その苦を超える道があると示すためなのじゃ。
 止観を実践して縁起を心の中に観れば、無明も滅して苦は永遠になくなるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

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