【仏教】悟りを開いた人のスレ465【天空寺】

【仏教】悟りを開いた人のスレ465【天空寺】 
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1:仏教棄民の大山 ◆JBP.OYid8g []:2019/11/15(金) 20:11:44.84 ID:5SqgTb7r [1/7]
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)

>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。

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【仏教】悟りを開いた人のスレ464【天空寺】

17:神も仏も名無しさん[]:2019/11/15(金) 21:30:55.63 ID:UVIKEWld [1/5]
ちょっと真面目に聞きたいんだけど
ここにいる人達の悟りは何を根拠にした悟りなの?
仏教の経典の9割9分は偽経といわれていて
最古の仏典と言われているスッタニパータですらゴータマの言葉を正確に伝えている保証はないのに
特に中国経由で道教の思想にどっぷり浸かった日本仏教を信仰してる人たちって
その日本仏教の内容が本来のゴータマの主張とは全く違うということに対してどう考えているのか気になったのよ

118:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 00:19:03.82 ID:rJEdCFb/ [1/4]
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

>>17 智慧が生じるから悟ったとわかるのじゃ。
 経典とは例えば医者のカルテのようなものじゃ。
 仏陀が苦に悩む衆生のために説いたものじゃ。
 同じ医者ならば他の医者のカルテが理解できるように、悟った者もその智慧によってお釈迦様が何を説いたのか正確にわかるのじゃ。
 そのように智慧と経典の理解によって他人にもわかるのじゃ。

 わしが説くとおりに実践すれば確かに苦が無くなり、お釈迦様の説いた法が今も実効力があると知れるじやろう。
 そしてわしがお釈迦様の経典を正確に理解する智慧を持っているとわかり、わしが真の大悟徹底した者とわかるのじゃ。

119:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 00:19:29.35 ID:rJEdCFb/ [2/4]
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

120:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 00:20:12.17 ID:rJEdCFb/ [3/4]
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

121:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 00:22:04.38 ID:rJEdCFb/ [4/4]
↑このような基本的な止観の実践を行った後に、苦を滅する法を実践するのじゃ。
 わしのブログを参考にするのじゃ。
 それによって苦が一つでも消えたならば、真実がわかるのじゃ。

126:鬼イヌ麦name&は異名同一極悪人 ◆aha/N3QzSg []:2019/11/16(土) 00:33:34.37 ID:R1xLEJcj [2/2]
>>121 鬼 さん

おまじないが終わってよかったねぇ、無内容だよ。無いよう。

639:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 21:18:00.30 ID:RaQ0267a [1/3]
>>126 それはおぬしの書くことが無内容であるからじゃろう。
 実践しない者は人生そのものが無内容になるのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

641:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 21:18:22.69 ID:RaQ0267a [2/3]
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

642:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/11/16(土) 21:19:14.90 ID:RaQ0267a [3/3]
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

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