鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2019/07/13(土)

鬼和尚に聞いてみるスレ part14
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1555858441/

492:避難民のマジレスさん[]:2019/07/13(土) 09:15:36 ID:jF/TBPNs0
鬼和尚様

性命双修は修行に慣れた人には良い刺激になるでしょうか?
一方、初心の方々には最初は数息観が良いでしょうか?

どうぞよろしくお願いいたします。

493:487[sage]:2019/07/13(土) 19:31:32 ID:6JPuj06k0

490
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分が大きくなることに納得できる方法で考えてみます。
ちょっと浮いてみて、そこから風船みたいに膨らむみたいなことを思いつきました。
ありがとうございます。

494:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2019/07/13(土) 22:08:36 ID:1d4drIFg0 [120/120]

492 そうじゃろう。
 実践してみるとよいのじゃ。
 心をコントロールするためには数息観がよいのじゃ。
 それはすでに心の修行なのじゃ。

493 そうじゃ、いろいろ試してみると善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 50
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1561161133/

186:おさかなくわえた名無しさん[]:2019/07/13(土) 06:06:14.23 ID:PlFRoyiZ [2/2]

184
鬼和尚、10年ほど前に仕事を辞めた時、感謝状をもらったけど、今は
嬉しいです。
欲でも名誉でもありません。
自分の過去が証明されているからです。

188:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/07/13(土) 22:05:06.47 ID:Me4i3L6P

186 それが名誉なのじゃ。
 名の誉れなのじゃ。
 その感謝状に他人の名が載っていれば怒り狂うじゃろう。
 喜びと怒りや苦しみは常に裏表にあるものじゃ。
 あることで喜びがあれば、それを奪われたりすると苦になるのじゃ。
 それをよく観察するのじゃ。

悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】 75
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1562553866/

116:マジレスさん[sage]:2019/07/12(金) 23:02:39.64 ID:Wuelksdf [2/2]

115
なにブヒブヒ独り言をほざいてるんだよw

で、何で僧侶って嘘ついた?

120:マジレスさん[sage]:2019/07/13(土) 00:54:50.66 ID:X3o8jxYy [1/3]
臨済宗は禅宗としてお釈迦様以来法脈をつなぎ、更に中国は唐の時代の嗣法者である臨済禅師の宗風を由来にしてる。
得度式も歴史と伝統に基づいてその法脈と共に受け継がれている。

130:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage]:2019/07/13(土) 22:17:01.83 ID:fo+q5EQr

116 とうとうわしに論破されて屈服して敗北して瞬殺されて泣きが入ったのう。
 何一つ反論できずに又も臨済宗が僧侶と嘘をついていると書いているのじゃ。
 自分が書いていることすらわかっていないのじゃ。
 単語に反応しているだけなのじゃ。
 おぬしは分かってないと言わざるを得ないと言わざる時、言うのか言わないのかおぬしには理解できるかのう。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1560853465/l50

61:避難民のマジレスさん[]:2019/07/13(土) 14:40:26 ID:73lwfNNQ0 [16/17]
ラマナ・マハルシとの対話63

政府の高官が尋ねた。

「もし下級職員が自分よりも高い地位に昇進した場合、心は狼狽するでしょう。
 『私は誰か?』という探究は、そのような状況でも心を静める助けとなるでしょうか?」

マハルシ
 そのとおりです。
 「私は誰か?」という探究は心を内側に向けて静かにさせるのです。

質問者
 私はムールティ・ディヤーナ(神の姿に瞑想すること)に信仰を抱いています。
 それは真我の知識(ジニャーナ)を得る助けとなるでしょうか?

マハルシ
 もちろんなります。
 瞑想は心の集中を助けます。
 瞑想をすれば心は他の想念から自由になり、瞑想の対象である神の姿で満たされるでしょう。
 心はそれになり、それゆえ非常に純粋になるのです。
 そのとき、誰が神の姿を礼拝しているのか、と問いなさい。
 その答えは「私」つまり真我です。
 こうして、最終的には真我が得られるのです。
 
 現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにあります。
 しかしそれは誤りです。
 すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎません。
 もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放されます。
 さもなければ自ら災いを招くことになるでしょう。
 例えば、寺院の塔(ゴープラム)の土台に彫刻された像は、あたかも塔の重みをその肩に乗せているかのように見えます。 その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えています。
 しかし考えてもみなさい。
 塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っています。
 地球を背負うアトラスのようなその彫像は塔の一部分にすぎず、ただ塔を抱えているかのように造られているだけなのです。
 おかしくはありませんか?
 自分が行為をしていると感じる人もまた同じことなのです。

帰依者の一人がマラヤラム語版の『実在についての四十頌』をその訪問者のために朗読した。

それを聞いた後で、訪問者は尋ねた。

「修練における二元性と最終的な合一にはどのような関係があるのでしょうか?」

マハルシ
 ある人々は「二元的概念に基づいて修練を始めなければならない」と考えています。
 修練における二元性と最終的な合一の関係を問題として取り上げるのはこのような人たちです。
 彼らは「神が存在する。人は神を崇拝し、神に瞑想しなければならない。そして究極的にジーヴァは神の中に融け入る」と言います。
 別の人たちは「至高の存在とジーヴァは永遠に分離したままけっして互いに融け合うことはない」と言います。
 たとえどうであろうとも、それらはみな最終段階についてのことで、今それについて頭を悩ませる必要はないのです。

 誰もがジーヴァが「存在している」ことに同意するはずです。
 ジーヴァ、つまり自我が見いだされるべきなのです。
 その後で、もし自我が「至高なるもの」の中に融け去るべきかどうか、それともそれの一部なのか、あるいはそれとは異なるのかを知る時間もあるでしょう。
 結論へと先走るべきではありません。
 心を開いて内面に飛び込み、真我を発見しなさい。
 そうすれば、真理そのものがあなたに開かれるでしょう。

 なぜ最終結果が合一された絶対なるものか、あるいは限定されたものか、あるいは二元的なものかを前もって決定しなければならないのでしょう?
 それは無意味です。
 その判断は理論と知性によって下されます。
 知性はより高次な力、すなわち真我から光を得ているのです。
 どうして反映された部分的な光にすぎない知性が、全体である本来の光について考察できると言うのでしょう?
 知性が真我に達することはできないのです。
 どうして知性に真我の本性を突き止めることができると言うのでしょう?

 これが二元性と最終的な合一の関係です。

62:避難民のマジレスさん[]:2019/07/13(土) 14:41:01 ID:73lwfNNQ0 [17/17]
質問者
 『実在についての四十頌』の中の一節に、「初期段階では綿密に学ばれた聖典も、最終的には役に立たない」と言われています。
 一体どの段階で無用になるのでしょうか?
 
マハルシ
 聖典の本質が理解されたときです。
 聖典は高次の力(真我)の存在とそれを獲得する道を示すためにあります。
 聖典の本質はただそれだけで、それさえ理解されれば残りは無用となるのです。
 しかし探究者の発展段階に相応して書かれてきたため、聖典は膨大な数になってしまいました。

 発展段階が向上するにしたがって、探究者は通り過ぎた領域がもう一段上の段階へ登るためのものでしかなかったことを理解します。
 それはそのように続いていき、今まで登ってきた段階は、目的に達するまで次々と克服されていくためのものとなるのです。
 ひとたび目標に達すれば、ただそれだけが残り、他はすべて無用となります。
 聖典はこうして無用となるのです。

 私たちはあまりにも多く読みすぎです。
 今まで読んだすべてを覚えていますか?
 それでも、書かれていたことの本質は憶えていますね?
 本質だけが心に浸み込み、その他は忘れられてしまうものです。
 聖典も同じことなのです。

 問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。
 その考えは誤りです。
 そしてその誤りを自覚することはできるのです。
 眠りの中では、世界も、自我も、限定された自己も、問題もありませんでした。
 何かがその幸福な状態から目を覚まして「私」と言い、世界はその「自我」に対して現れます。
 世界の中のほんの小さな存在でしかない自我はより多くを欲し、そうして困難に巻き込まれていくのです。

 自我が現れる前はどんなに幸せだったことでしょう!
 現在の不幸の原因はただ自我の出現にのみあります。
 自我をたどってその源まで戻れば、「眠りのない眠り」という、区別も分離もない「あの幸福な状態」に達するでしょう。
 真我は常に変わらず、今ここに在ります。
 それ以上得るものなど何もありません。
 誤って限定が受け入れられたため、それを超越する必要が生じただけなのです。

 これと似た話があります。
 ある十人の愚かな男たちが川の流れを渡り、向こう岸について人数を数えたところ、九人しかいませんでした。
 誰だかはわからないまま、彼らは十番目の男を失ったことを嘆き悲しんでいました。
 それを見た旅人が、彼らの嘆きの原因を突き止めようとして人数を数えたところ、十人いることがわかりました。
 ただ彼らの一人ひとりが自分自身を抜かして数えていただけのことだったのです。
 旅人は一人ずつ頭を叩きながら、声に出して数を数えさせました。
 十まで数えたとき、彼らはやっと安心したのです。
 この物語の教訓は、つまり十番目の男は新たに加えられたわけではないということです。
 彼は最初からずっとそこにいました。
 ただ無知が彼らに嘆きをもたらしただけなのです。

 このような話もあります。
 ある女性が首にネックレスをかけながら、そのことを忘れていました。
 彼女はそれを探そうと尋ねて回りました。
 探しているものに気づいた友人が、探していた当人の首もとのネックレスを指差しました。
 彼女はそれを指で確かめて、とても喜んだのでした。
 ネックレスは新たに得られたのでしょうか?
 ここでも無知が不幸をもたらし、知識が幸福をもたらしました。

 人と真我についても同じです。
 何も新たに得るものなどありません。
 真我について無知であることが現在の不幸の原因であり、真我の知識が幸福をもたらすのです。
 
 さらに、もし何か新しいものを得たのなら、それは以前には存在していなかったことを意味します。
 かつて存在していなかったものは、再び消え去るに違いありません。
 それゆえ、永久的な救済などないのです。
 救済が永久的であるのは、真我が今ここに、永遠に存在するからです。

 それゆえ、私たちの努力は無知を取り除くことだけに向けられています。
 叡知は自然で常に存在しているにもかかわらず、突然悟られるように見えるだけなのです。

その訪問者は立ち去ろうとして師に礼拝すると言った。

「トラの口にとらわれた獲物はけっして逃げられません」

それは『私は誰か?』という本からの引用で、「トラにとらわれた獲物が逃げられないように、ひとたびグルの慈悲深い眼差しにとらえられた弟子は、二度と世俗に戻ることはできない」という意味の言葉だった。

*ある人々は…
この会話においてマハルシは、ドヴァイタ(ニ元論)、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)、アドヴァイタ(不二ー元論)の各学派の解脱に関する見解の違いを示している。

63:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2019/07/13(土) 22:22:10 ID:1d4drIFg0 [23/23]
二元論も、不二一元論も、限定不二一元論も全て悟りを得るための方便に過ぎないものじゃ。
それらによって実践するならばそれでよいのじゃ。
誰もが同じ論を持たなければならないということもないのじゃ。
自らの性質や好みによって好きな論をもって実践に励むがよいのじゃ。

鬼和尚の仏教購読会 別館
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/

674:避難民のマジレスさん[]:2019/07/13(土) 00:25:09 ID:LC3de7YgO [407/407]

672
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
~SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part2(つづき)
    
Q:しかし、パパジ、時々・・・
    

「時々」を直訳しなさい。「時々」とはどういう意味だ? このまちがった文法をど
の教師が教えたのだ。これは教師のいない変わったクラスだ。教師は話す為の舌はな
いし、生徒は理解する為の頭がない。これがこの変わったクラスだ。

あなたが頭を持っているのなら、頭を落とす他の場所、屠殺場を探さねばならない。
このエゴが頭だ。わかるかね? 屠殺場に持っていく値打ちがある。彼らがうまく面
倒を見てくれるだろう。私はヘッドはいらない。私はハートがほしいのだ。ここでは
頭は必要ない。頭だけを必要とする学校はいくらでもある。

外であなたの頭を取り除いて、そして話してごらん。そうするとあなたのハートが愛
の言葉を初めて話すだろう。ハートに話しをさせなさい。あなたはいつも頭で話して
いた。カマリの言うように頭を落としなさい。

この少女はどのようにしてサットサンガに出席すべきか知っていた。「私」、「あな
た」、「彼女」はサットサンガに来るのを許されない。あなたは今真理と直面しよう
としている。それがサットサンガの意味だ。

あなたは今、真理に、自由に直面している。誰があなたを殺すことができる? 自分
の真我を恐れてエゴに依存している。つかのまの問題に完全に巻き込まれて、あなた
の人生を救うことができない。何億回と生まれて死んで来たのだから死の味は十分に
知っているはずだ。
  
今は生き方を学ぶ時だ。至福の中にいつもいるのは非常に簡単だ。だが、あなたは死
にたいので、この愛と美の楽園を屠殺場に変えてしまったのだ。
 
一瞬休んで、あなたは誰か見てごらん。あなた自身の真我があなたに姿を現しキスを
してあなたを抱きしめるのを許さなかった。あなたは何億年もの間、頭を使って生き
てきた。今、少なくともハートに時間を与えなさい。静かにしていなさい。唯、静か
にしていなさい。静かにしていると真我がやって来て、抱きしめて、キスしてくれる
だろう。あなた自身の真我に時間を与えなさい。

Q:あなたとのサットサンガは陶酔的だ。ここにいつもあるものを再発見する為に、
真我の中で永遠に休息する為に、私はあなたに会いにきました。
    
普通ならこの酒にたくさんのお金を使うものだ。どのようにしてここで酔っ払ってい
るのかね。
    
Q: あなたの存在、最高の飲み物です。 
普通、最高のお酒はスコッチだ。これは3時間しか効果がないので、お金をすべて使
い果たしてしまうものだ。しかし、「この酒」は一瞬ごとにもっともっと強くなって
、3時間後には消えてしまう酒ではない。
有名なブランド(グル)を見つけることだ。そうすると一瓶で残りの人生を楽しめる
。その上、「この酒」は蒸発しない。値段が非常に高いので「この酒」を飲んだ人は
非常に少ない。ある人は「それ」には値段が付けられないと言うだろう。静かにして
いなさい。そうするとあなたは酔っ払うことができる。ただ静かにしていることだ。

あなたの陶酔が他人や物に依存しているなら、自分自身を騙していることになる。最
高の陶酔はあなたの真我以外、どんな源泉からもやって来ない。誰もあなたに幸福を
与えることはできない。誰もあなたに平和を与えることはできない。

あなた自身を見つけなさい。
混乱したマインドだけが幸福は他のどこかにあると考えている。
この愛と美は静かにしているだけで即座に現れる。
そうして全てを得ることになる。
あなたはそれを味わったようだね。
だからあなたはそんなに光り輝いているのだ。(笑)

 OK.私はあなたに会えて非常に幸せだ。
    
(´・(ェ)・`)
(つづく)

675:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[sage]:2019/07/13(土) 22:25:37 ID:1d4drIFg0 [254/254]
質問者が何を聞いてもパパジは自分自身を観るようにいうのじゃ。
それが正しい教えなのじゃ。
自らを観る実践を勧める以外に教えは無いのじゃ。
人々がその教えによって自らを観ることが出来たならば教えは完成したといえるのじゃ。

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