断食について(1)~(2) 西勝造

断食について(1)~(2) 西勝造

断食の起源とその意義

断食とは水以外の一切の食物を自発的に断つということである。制限食または限定食は断食とは言わない。いわゆる、果実断食は果実食であって断食とは言われない。特にインドとか南洋方面のように常夏のところでは果汁位は飲んでも差し支えない。

寒天断食とかオーギョーチー断食は真の断食とは言われないが9割5分ないし9割8分(95~98%)断食と言ってよいであろう。

断食も体重の多い人は安全で痩せた体重の軽い人は危険だなど言われるが、私はこれまで骨と皮ばかりになって、多くの名医が絶望を唱え手離した者を、是非とも頼むと言われて治した数多くの実例に接しているが、中には途中から医師の注射を受けていけなかった例もある。私の体験と多くの実例から断食で死んだ例を見たことがない。もしいけなかったとすれば、それは本人の不心得から断食終了の頃から天婦羅飯を10杯も食べたが何ともない等と通知して来て、間もなく死なれた人があった。またバナナを18本食ったが平気ですとの電話が来た、そうですか、食べたのは誰が勧めたのか。親戚の医者です、栄養上食えと言われた。そうですか、私は唯そうですかとだけより返答ができなかったが、2日後には急死してしまった。婦人で腎臓結核で医師に見離され治って外出もできるようになって1ヶ年目に、私には無断で断食を7日間やり、8日目に鰻丼と天丼を2杯食べて悶死した時は、私のせいだと警視庁からお小言頂戴したことがあったが私の知る限りにおいて未だかつて断食で死んだ例がない。もし間違いがあったとすれば、それは必ず断食前後と断食中の不心得から来ている。さもなければ断食をしなくとも死なねばならぬ運命にあった者が、断食とたまたま合致した以外にはないと断言しても差し支えない。

断食の起源は、極めて古く、これを尋ねるとすればほとんど忘却された位の遠い昔の漠然としてハッキリしない時代に遡らなければならない。その頃、傷ついた動物は、初めて食欲の起こらないことを知ったのであった。爾来、動物の状態を見て人間が気付いたのか、人間の方が先か、それはどちらが先であったか記憶がないから想像するより他はないが、とにかく、疾病に冒されると、本能的に断食をおこなうようになったのである。古代の医師は急性疾患の場合、断食の効果のあることをよく把握していた。

日本における断食のことを述べるのが、科学的に研究されたのは、何といっても外人先であるからまず最初にそのほうから述べたいと思う。

”梅毒に劣らないほど激しくあまりに執拗であって、姑息な処置法を施すの他はないと長い間、見なされていた黴菌性疾患が、断食療法によって根治されたことはエジプトがフランスに占領されていた当時、その地にあったアラビヤ医術の病院の記録に記録されている”(オスワルド博士 Dr.Oswald)。

アヴィケナ(Avicena)もつとにこの特殊療法の有効であることを示唆している。彼は天然痘に対して断食療法をおこない、同じように奏効のあることを述べている。

医薬の効力を盲信していたロバート、バルトロウ博士(Dr. Robert Bartholow)も

”連続的に且つ漸次的に分子を破壊する過程や解剖学的部分の更新によって、有機組織体から病毒を取り除くことは、確かに合理的な便法である。梅毒の断食療法つまり梅毒の東洋的処置法のごときは、これに属する。かかる方法によって甚だ満足すべき結果が得られたものである”云々。

霊魂を浄化する方法としての断食は、全ての古代宗教に見られるところであり、今日でも多くの宗教において実行せられている。かかる断食は、特にインドでおこなわれている。宗教上の断食は、人類歴史の記録せられた初めの頃よりも更に古くからおこなわれており、恐らく有史以前に棲息していた我々の祖先が疾病のとき本能的に断食をおこない、その効果の精神上や情欲上にも及ぶことを認めたのがその起源であったのではあるまいかと思う。

人類歴史の黎明期においては、古代神秘教━━つまり秘密崇拝、あるいはいわゆる「叡知教」(wisdom religion)━━が幾千年もの長い年代に亘り、エジプト、ギリシャ、インド、ペルシャ、バビロン、トゥラース、スカンジナビヤ等の諸国や、ゴート人およびケルト人の間で、繁栄を極めたのであるが、この宗教では、種々な階級の位を求める者は断食と祈祷の長い試練を経た上でなくては、階位を進めてもらうことができないという規約があった。ペルシャのミラス教(ペルシャの光の神Mithras)にあっては50日の断食をおこなわなければならぬことになったいた。ケルト人の間でおこなわれたドルイド(Druid)教も、また、長い断食を要求していた。かくのごとき種々な国民の間でおこなわれていた神秘教は、共通した点が多く、その起源は、いずれもエジプトに発していたのであった。これらの宗教に例外なく認められるものの1つは何といっても断食であったのである。

ヘブライ人の間ではカルデア、バビロン、エジプト及びその他の神秘教を混合した宗教がおこなわれていたが、この宗教でも断食を宗規としていた。ユダヤの秘密科学であり、また神秘哲学であったカバラ(Kabala)も断食を公然と容認していた。

ヘブライの立法者たるモーゼは、断食の掟をつくり、これを実行させたものであった。モーゼ自身も、あるとき、40日の断食をおこなったことが記録にある。ヘブライの預言者エリアも40日の断食をおこなったという。歴代志略下の第20章第3節には、断食がユダの全国に布令されたことが記されている。ヘブライの詩人ダビテもしばしば断食をおこない、12日の断食を実行したことが記録されている。

キリストも40日の断食をおこなったことは有名である。あるときイエスはその弟子達が病人から悪魔(ヒステリーの事)を追放し得なかった理由を説示して、こう言ったことがある。

”この類は祈りと断食に由らざれば、如何にすとも出でざるなり”

イエスの忠実な弟子であり、また医者であったルカ(Luke)は

”私は1週に2日断食をした”と語っている。

こうした信徒達のおこなった断食は必ずしも治病を目的としたものではなかった。しかし断食が何か並優れてよいものを狙っておこなわれたことは確かであろう。肉体上にしろ精神上にしろ、全ての恵みといえば宗教に頼る、その頼られた宗教がまず断食をやらせるとなれば、これは確かに最良の方法であるに違いなく、断食そのものに伴うところの自制ということ、克己ということ、精神の修養の上から関係上の改造の上から確かによいから古来、讃えられもし、今もなお断食療法が禁止にもならず所々で公然とやっているのである。それを考えると感慨無量に堪えないのは、つい10年前には1日でも断食はけしからぬ。第一人体に栄養の必要なることはわかっているはずだ。1日カロリー幾千いくら要るちゅうことがわからないのかアーン、と責め寄られては全く開いた口が塞がらなかった。それが6年目には断食療法で学位を採るという者が出て、人間は半月に1日位は断食をするほうが却って健康体になるといった具合に目覚めて来た。昔から宗教国には断食が付きものであったのはそのためだ。

人間性を悪なりとする教理に教えられて、人々は自然本能の衝動を信頼しないようになった。この教理はその後、宗教からは漸次に消散して来たが、医学上においては、依然として強固な根を張っている。つまり本能の衝動というものは、全く無視せられ、病人が欲しないにも拘らず、”滋養のよい食物”をと無理矢理に詰め込まして”その体力を保持し”ようとしているのである。それでも食べられなければブドウ糖の注射、栄養浣腸で下から入れようとする実に噴飯に堪えざるものである。

ジェニング博士(Dr. Jennings)は言う、

”全ての急性疾患病に伴い、且つその症状の軽重と正確に比例する食欲不振は、造物主の犯した大きな失策の1つであり、したがってこれには当然作為を干渉させて病人が嫌うと否とに拘らず、栄養を強制的に与えなくてはならぬという意見が極めて広く流布されている”云々。

シュー博士(Dr. Shew)は言う、

”禁食は急性疾患の一般処置上においては、極端に甚だしく恐れられている。しかし病人に対しあまりにもしばしば与えられる無差別的栄養によって多数の人命が失われたと信ずべき理由は十分にある”云々。

我々が疾患の場合において、ことに食物または禁食に関することが、我々の本能であることを、信憑するに足ると再確認するに至ったについては、多くの科学的研究者ジェニング(Jennings)グラハム(Graham)トロール(Trall)シュー(Shew)ウォルター(Walter)デンスモア(Densmore)オスワルド(Oswald)ページ(Page)デュウエー(Dewey)タナー(Tanner)マックファーデン(Macfadden)ハザード(Hazzard)チルデン(Tilden)カーリントン(Carrington)シンクレアー(Tinclair)カイツ(Keith)ラバグリアチ(Rabagliati)氏等の著書報文等を読むとき、疾病特に急性疾患時に断食しない者は馬鹿だと極言しているものもあり、慢性病にしても疾病と名の付くものに断食療法以上の物は絶対にないと述べてある。断食が最良の方法には違いないが唯ここに1つの欠点が1つある。それは人間なるが故に━━動物界にはないことであって、これは動物に教えられなければならないとは情けないが、実際、動物は疾病に冒されると直ちに断食する。そして治ると同時に食べるが決して多くは食べない。猫にしても犬にしてもよく咀嚼することは忘れない━━人間が動物界の最高位に君臨することを思えば何も動物輩に学ぶ必要もないのであるが、人間が人間の研究において、それも死体解剖で教えられた人間が判断を下してつくり上げた医学では自然を忘れ、自然を冒涜するのも無理からぬわけで、それも是非のないことである。人間も動物と同じように疲れたときには食わないことにしていれば、決して生命を失うということはないのである。

もし突然、栓塞にしろ脳貧血にしろ、脳溢血でも死んだとすれば、それは必ずソコに食べてはならなかった条件があり、また仮に急疾が起こったとしても、そのままそこに水平に静かに寝かせて置けば必ず失神から覚めるものである。その覚めたときの心得さえまた正しければ決して死の転帰をとることもないが、そこが万一のことであったとして、現在の一般知識では非業死とは言えない。しかし私の話を5年も10年も15年も17年も聴講されて来た人々には強く述べもし、また注意もする、がそれでもなかなか本気には聞かれないものである。しからば西、自身はともかくとして家族に絶対に病人を出さないかと聞かれるが、そんなことを聞くだけ未だ西式がわかっていない証拠だと返事する。東京に移住して23年、健康法発表以前19年前には、1、2回、1日や2日医師にかかった例はある。小学校に行っていた当時の子供の診断書や83歳で亡くなった養祖母のときの来診、10年前に中学校時代の子供の欠席に診断書の入用で1回来てもらったことはある。しかし、これは病気をして医者にかかったとは思わない。国なり学校なりの規則であり、何も医師不要を説いているわけでもない私が、何を好んで医師の悪口を言う必要はない。医師の悪口を言ったのは医師のほうが先で、私は初め強健術なるものを唱導したのであったが、これが一度実業之日本社から新刊が出版されて、新聞にも出ると、その当時の、医学博士某々は悪口雑言を新聞に雑誌に書き立てる。そこで黙っておられなくなったのも当然であって、それに応酬することは自分のいうことは正しいと信じておるからであって、今日では最初に反対した者も味方となっていられる人々もある。中には老人の医博でも昔の仲間が言ったことを本当にして悪口を言っているということを聞かされたが、老人ならばその内に死ぬだろうと、高を括っていたら5、6人ばたばた悪口をしていた医師が死んでしまったのには自分としては落胆したのである。わかってもらいたかった、膝突き合わせて談してみたら、全て私の参考書が我が国古代より明治時代に至るまでの医書であり、その他支那や欧米各国の古代より近代までの参考書を土台としてつくり上げたものということが理解されて死んでもらいたかった。否、そうすると死なない方も相当あったと信ずるのである。━━余談に入ったが、私の家とて死者を出さないとは言わない、無人の関係子供の関係(親戚が増して来たので義理がある)信者が増して来た関係、いろいろと身辺多忙を極めて来たことから、電話のかかる度数だけでも増して来る。それが遠方だと時間が長くかかる。無人で家族の者が疲れないとは限らない。疲れているから私だけ食べないと言って遠来の義理の親戚が来たときに一緒に食事をしないことができない。そのとき私が留守で倒れたとすればどうなるか。健康法を説く本家だからとて生か死かの境界点まで行った場合、果たして自分の採るべき手段が留守の者にやれるか、現在の常識では病人が出れば医師さえ呼んでおけば義理も立てば義務を果たし、国法にも触れないことになっている。ここが難しい。私の家では下痢をすれば喜び吐けば喜び(未だ家族で吐いたことはない)熱が出れば喜ぶという方針だから寝たこともなし、困ったこともない。下痢をすれば清水を飲む。水が嫌だと思ったら湯を入れて飲む、コップに2杯3杯、時には5杯も6杯も、そして断食をすれば、それで治ってしまう。発熱すれば直ちに寝かせ、生の野菜を磨り潰したものと番茶を飲ませ、40度近ければ胸に芥子泥をなし、脚に袋を嵌めて温熱を逃がさない工夫をする。結局は野菜断食である。だから医者に用事はないわけである。医者に用事のない事を宣伝する。それが医師の悪口と聞こえる、健民運動をやるのに一向差し支えないと思っている。その代わり医師の国営化、国家が医師の生活を保証する運動を起こしてもらいたいと知己の貴族院議員および参議院議員の方々にご依頼もし、選挙運動にも再三再四参加応援したのも、唯々医師の生活保証運動を巻き起こそうとする微力の現れであった。近年ぼつぼつ口議に上るようになったが、必ずや近き将来には実現するものと信じて疑わないのである。

いずれにしても、断食に関する多くの断米学者、実地家の研究研究は結局において、疾病の最良方法は断食以外にはないのであって、これが”自然に還れ”と叫ぶ所以である。

オスワルド博士は言う、

”断食療法の本能は、言葉を知らぬ動物に限られておるものではない。疼痛、発熱、胃充血や精神的苦悩さえもが「食欲を奪う」ことは通常、我々の体験するところである。しかるに愚かなる看病人は、この点に関する自然の意図を挫折させようと努めるであろう”云々。

断食こそは、あらゆる処置の中において、厳正に自然な方法と言うてもよい。これが治病法の中で最も古いものであることは疑う余地がない。恐らく断食は人類それ自身の現出よりも遥かに古くからおこなわれていたのである。何故なれば、病み、あるいは傷付いた動物は本能的に、この方法に訴えるからである。

何かで傷付いた象は歩く力が残されていると、仲間の群に付いて歩き、仲間の象が旨そうに食事をしておるときにも、樹木に体を寄掛けてこれをじっと見ているものである。傷付いた象は、その周りにどんな旨いものがあっても、全然これを看過してしまうのである。つまり象は、蜜蜂が巣に還って来るのと同じように適確に本能に従うのである。かかる本能は、人間をも含めた全ての動物世界に遍在しておるものである。

犬や猫は、疾病に罹ったり、あるいは傷付いたりすると小屋の中や、その他の隠れた場所へ潜り込んで良くなるまで、断食をしながら休息するのである。時折、水を求めて出て来るだけである。犬や猫は前にも述べたように病気したり、あるいは傷付いたりしたときにはどんなに好きな食物を与えても、頑としてこれを退けるであろう。犬や猫には肉体的と心理的休息と水のみが治療法なのである。

病んだ牝牛や馬もまた、食物を摂らない。私はこれを目撃したことが度々あった。事実、万物は全てかかる本能に従っているのである。つまり自然が身を以って我々に教えているところによれば、急性疾患の場合における栄養補給は不必要で、これを与えるべきではない。

家畜もまた、何かの慢性疾患に冒されることが少なくない。かかる場合にこれらの家畜の摂取する食物の量は、他の健全なものに比して甚だ少ないのを常則としている。飼育者のよく知っておるごとく、牝牛馬豚または羊などが頑として食物を受け付けなかったときや、あるいは通常よりも摂取量の少なかった翌日には、必ずどっか悪いところがあるときなのである。

人間の世界においても、これと同じ原則が適用されるはずである。急性疾患に冒された人に対して、自然の命ずることの1つは、食欲の停止である。病人の知人達は、これを心配して病人に食べさせようと努めるであろう。つまり病院の嗜好に適した旨そうな料理を用意して食欲を刺激するのであるが、精々のところ、病人に少しばかり余計に食べさせることができるに過ぎない。医師は病人に説き聞かせ、無理にでも食べて体力を保持しなくてはならないと言うかも知れない。しかし、医薬を捏ね回すものよりも、賢明な自然は、食べてはならないと言い続けることであろう。

病気であっても、日常の仕事のできる人は、食欲のないことを嘆くのが常である。どんな食物を摂ってみても、一向に旨くないのである。これは彼の器官が通常道りに食べると却って病気を悪化させる結果になることを心得ているからに他ならない。しかるに食欲の不振を嘆く病人はどうにかして食欲を取り戻そうと努めるのである。医師もまた、友人、知人達も、家族の人々も、これを助成するのが従来の習慣である。つまり彼らも病人は食物を十分に摂って体力を保持しなくてはならないという誤った考えに捉われているからである。医師は強壮剤を処方するし、親戚知友は見舞品として種々な滋養品と称して、品物がなければ飽くまでも探し求めて、病人の喜ぶ様ご親切は一生忘れません等、言われたさに病人の目の前に並べるのである。病人のほうでも1つ位は食べないと彼の人に済まない等、と思う。それは一品の少しも3人5人となると結局は積もれば山となる例にて病人は次第次第に悪くなるばかりである。

動物の場合でも将又、人間の場合でも、急性疾患のときには、水以外の食物は摂ってはならないが、他方慢性疾患のときには、摂取する食物の量を、正常な健康なときよりも著しく減じなくてはならない。これは自然の理法である。もしも万人が、この理法を墨守するならば、現に見る限り、巨数の苦悩も回避できようし、また、不慮の死に襲われる人も著しく減ずるであろう。しかるに「病人は十分に食べて体力を保持しなくてはならぬ」という医学上の謬見に災いされ、この理法が一般の人々の遵守するようになるまでには、なお、幾年かを要するであろう。

慢性疾患に捉われている人々は、多くの場合、激しい食欲を覚えるのであるが、彼らはそれを充足させるのを当然と考えるらしい。彼等は悪い慣習というものが究極においては我々の本能を支配し、且つこれを錯倒させることを看過していたり、あるいは知らないのである。最近、私を訪問して来た一人の青年がある。彼は頭痛、胃カタル、鼻および咽喉のカタル、胃酸過多症、便秘と神経過敏症に冒されており、彼は激しい食欲を持っていたが、しかも食べ物を消化させることができなかった。彼は私のところへ来る2、3日前、仕事からの帰路、どうにもならないほどの激しい空腹を覚えたりという。そこで鱈腹夕食を摂ってから、工員倶楽部へ「ピンポン」をやりに出かけたら家から7、8町離れたところで、彼は突然眩暈を感じ、目先が真っ暗くなって失神した。これに次いで嘔吐が起こり、夕食ばかりでなく前日の昼に摂った食物を吐き出してしまった。食物は消化されていなかった。彼が夕食前に感じた激しい食欲を充足させねばならぬと考えるほど愚の骨頂はない。こうしたことを考えるのは阿片、アルコール、煙草、砒素などが欲しくなかったら、これを与えねばならぬというのと同じ位、馬鹿げているのである。下の方へ通じがないのにうんとたくさん詰め込めば、上の方へ吐くのが当たり前で、この食物類のない時代に吐く等という不心得を諭し、私はなおこの青年に医師の診断書を持って来るように言ったら医師も、これは西のところへ行って相談しなさい、きっと西は断食しろと言われよう、そしたら私に経過を診せてくれと言ったそうだ。

私は早速、この青年に5日間の断食が適当だと話したら早速先の医師のところへ行って実行することになった。もちろん、5日間でも断食中の心得と前後のことは能々慎重におこなうことを教え、食養の事も教えたのであった。青年は1ヶ月ばかりして、その実母と共に私のところに礼に来た。頭痛も、便秘も、胃酸過多症も、不消化、神経障害、病的食欲も全て解消したといって、喜んで帰った。後日の養生を懇ろに話しておいたところ、その後1ヶ年後の先月半ば、今も元気で働いていますと私の留守に石鹸5個を持って礼に来られた。私は自宅では取らないからであったが、この石鹸は帰宅して家族の者に喜ばれた。いったい、本能に即した食欲、本能に即した断食および本能に即した生活は、根本的に健全な物である。しかし、我々は本能の欲求と病的の欲求とを識別することを知らなくてはならない。

ウォルター博士(Walter)はその名著「人生の大法則」(Life’s Great Law)書の209ページに次のように言っておる。

”これまでに創始された如何なる処置法も、断食ほど有効に健康回復のための諸条件を充足するものはない。断食はほとんど全ての場合において自然の固有な元始的過程であり、その第一義的要件でもある。断食は血液循環を促進し、栄養を改善し、排泄を容易にし、活力を回復し、生活の根気を本復する上においては、これに比敵するものはない。慢性疾患の場合においても、急性疾患の場合とほとんど同じ程度に断食は重要なのである。かかる疾患の場合においては生活器官ことに栄養の過程を司る器官が阻害しておるのを通例とする。したがって栄養を改善し、活力を回復するためには、これらの器官を休息させるのが最も重要である。その後二次的効果は、第一次的効果と全く対蹠的である”云々と更に語を次いで、

”しかし極端な断食は避けねばならぬ。人間というものは、無理なことに耽りやすい傾向のあるのが常である。2、3日の断食、精々のところ、1週間ないし8日間の断食は、心身を爽快にし、且つ有効である場合が多いであろう。しかし、有機組織体に1ヶ月も断食を強制するがごときことは不自然な実行である。しかし慢性疾患の場合とか、急性疾患の場合においては、数週間の断食を続けねばならないこともあろう。それは自然が食物を受け付けないからである。我々の反対するのは勝手におこなう長期の断食で途中において食べたり、果汁を飲んだりすることである。断食は必ずしも全ての疾患を治すとは断言できない。断食の方法によっては却って悪い結果を与える場合もあるであろう。経験者の指導を受けるか、断食道場のごとき、あるいはこの種の方法による医院、病院にておこなうのが一番安全である。しかし、断食は一般系統の休息と関連して実践しなくてはならない”云々。

ジェニングス博士(Jennings)は言う、

”胃に消化力がなく、食物を利用し得ないときに胃に強いて食物を与えるのは、何らの効益がない。生命の城砦を保持し、生命の大発条を更に発動させるだけの力が残されている限り、食物を摂らなくとも餓死する危険は毫もない”云々と。更に博士は続けて言う、

”何故なれば生命の維持がどうしても必要となって来れば消化器官には、何かの素材を利用する能力が与えられるようになり、且つその効用力に比例して、素材に対する要求が現出して来るであろう。有機組織体を助けようとする力が生命の圏内になければ、有機組織体は滅失する他ない”云々。

(生命の樹木、230ページ Tree of Life, p.130)

ジェニングス博士は更に「断食」の妥当なることを説き、氏の処置した1名の患者に関し次のごとく述べている。

”この小児は数日間、何らの栄養をも摂らなかったが、なお、数日これを摂らなくともよいであろう。それで生きておられるであろうか、そうした危険は少しもなかったと言ってよい。健全な小児の場合において、その生活機関が完全に働いておるとき、これに何らの栄養を与えずにおいて見るがよい。小児は自己自身の建築素材を費尽して、2週間あるいは3週間の内に倒れてしまうであろう。しかしこの小児の場合においては、系統は栄養機能の長期の停止を受け得るだけの準備ができていたのである。したがって一般に系統はほとんど作用していない。その結果として、機関もほとんど損耗しておらないので、山猫のごとく、必要とあれば、自己内部の素材を利用して数ヶ月生命を支えていくこともできるであろう。ただしそれには他のことが全て都合よく行っておらなくてはならない。腸も又、数日間、静止していたがもしそうすることが生命を保全するに肝要とあれば、数週間や数ヶ月間は何らの障害を被らずに静止していることができるであろう。随意運動を起こす筋肉は休止しており、その保持には格別何らのものを要しない。ただ、今後、これを働かす必要の生じたとき、いつでもこれを働かせるための保全力が僅かばかり費やされるだけのことである。その他の部分や部所もこれと同じである。どこにおいても最も安全な節約がおこなわれていて、生命「エネルギー」が程よく充当せられ、且つ利用せられておる。これは確かに極端な事例であり、したがって極端な手段を要求しておるものである。しかしかかる手段は方法を最も正確に目的に適合させる完全な法則の下において実践せられているのである”云々。

(「人間生命の哲学」159ページより160ページまで”Philosophy of Human Life.” p. 159~160)

体内にかかる危急に備えて、予備の貯えが存在しておる。したがってかかる危急の場合には、これらの貯えは、消化という厄介な過程によって確保される栄養よりも遥かに容易く利用せられ、且つ身体に負担を強いることも少ないのである。

ジェニング博士は更に説明して言う、

”ここにリンパ系統の脈管に関連し、1つの特殊なことがある。したがってこのことは特に注目し、よく銘記しておかねばならない。ある形態の疾患の場合において、栄養器官が、その構造上の欠陥のために不能に陥っており、これを回復させるには、その作用を停止する必要のあるときや、あるいはまた、栄養器官を維持するために用い得べき唯一の有機力が費尽せられておるため、あるいはまた、他の職能の方へ有用に使用されておるため、栄養過程が不能に陥っておるときには、リンパ管が干渉して来て、その職能を働かし、その欠陥を補全するため、あらゆる場所から脂肪質や栄養に転化し得べき一切の物質を取り上げて、これを一般循環中へ投入し、疲れて飢えている体内の器官へ、各自の必要さに順応して配分するのである。それというのも、働くものは、食べなければならぬからである。実際上、かかる便法は重症性疾患、ことに長期の全身的機能不全の場合において、採択せられることが多い。何故なれば危急の場合においては、栄養機関を働かして素材から所要の維持物を求めるよりも、かかる方法によって、これを給与するほうが、生命機構から見れば、失費が少なくて済むからである。危急の場合において、生命を維持してゆくためには、かかる賢明な整備が用意されているわけであるから、たとえ食欲がないときにも、摂食量の多寡につき危惧したりあるいは憂慮する必要はない。なぜなれば栄養が実際に要求せられ、栄養器官が、整備状態にあり、且つこれを運転させるために必要な諸力を都合よく差し繰り合わせることのできるときには、系統の必要とする栄養の量に正しく比例して食欲の現出するのが常だからである。つまり真正の食欲というものは単純であって、欠乏を補全すべきあるものを自然が欲求することであるにすぎない。自然が、そうした欲求をしないのは、補全すべき欠乏が存在していないためか、もしくは自然がそうした欲求に応ずべき状態にないためかのいずれかである。このいずれの場合においても明白な示徴を無視したり、あるいは不自然な食欲を刺発したりして、胃に食物を強いるのは無益であり、また無益以上のものであろう”云々とさらに「ジェニングス」博士は続けて言う、

”極端な症例の場合について言えば、長期にわたり栄養の助成をリンパ系統に求める便法に訴えねばならぬこととなり、かくして、結局、リンパ系統により一切の適当な補給材料が費尽せられ、消化と同化作用の方途に訴えるかあるいは餓死を待つかのいずれかを選ぶかの他ない場合に立ち至るとき、もしも、この病症が治癒し得べきものとすれば、栄養系統には、食物を欲求するだけの力が与えられることとなり、食物を受けると、その作用を開始することとなろう。食物に対する欲求は、一時極めて僅少な程度にとどまるかも知れないがしばらくすれば、肝要な器官を作業状態に保持するに足るものとなるであろう。したがって、食物の給与や、その性質および分量については細心の注意を払う必要があろう。さもなくば、虚弱な活力は、塞息し、壊滅されるであろう。しかしかかる状態の下において、他の点で適当な処置をおこなってみても、栄養器官が生命の全き消滅を停止するに努めないならば、それはどうしても致命的な病症と見なさざるを得ないであろう。なぜなれば、人工的方法によってかかる方向における扇動力や奮闘力を増進させることができないからである”云々。(『人間生命の哲学』57ページより59ページ”Philosophy of Human Life.” p.57~59)

博士は更に今一つ病症につき次のごとく述べている。

”数日間、胃には何らの栄養も摂らなかった、なお、今後数日間においても、栄養器官を強制して、材料につき仕事をおこなわしめることはたとえ可能であるとしても無益な力の消費となるからである”云々。(『人間生命の哲学』166ページ”Philo. of Human Life.” p.166)

断食中に起こる喪失や変化の若干につき、調べてみることは興味があろうと思う。餓死の場合においては、次のごとき喪失が看取されたとある学者は報告している。

(1) 脂肪 91%

(2) 脾臓 63%

(3) 肝臓 56%

(4) 筋  30%

(5) 血液 17%

(6) 神経 00%

チョーサー(Chosat)博士の研究によれば飢餓の場合諸種の組織の被る損失は次のごとくであるという。

(1) 脂肪 93%

(2) 血液 75% 

(3) 脾臓 70%

(4) 膵臓 64%

(5) 肝臓 52%

(6) 筋肉 43%

(7) 神経 2%

この表は動物実験から得たものであるが血液の損失の値を除けば、他の観察者の得たものと極めてよく合致している。他の観察者は、血液の損失を20%以下なりとしているのである。国際百科事典(The International Encyclopedia. 1936)の断食の項には動物が13日の断食に被る損失が表によって示されている。その表によると、

(1) 血液の損失 17.6% 

(2) 脳および神経の損失 0%

またイエオ博士(Yeo)がかつて公表したところによると諸組織の喪失する割合は、

(1) 脂肪 97%

(2) 脾臓 63%

(3) 肝臓 56%

(4) 筋肉 30%

(5) 血液 17%

(6) 神経中枢 0%

これによってみると断食中において諸種の組織の被る損失は同一な割合でないことが知られるであろう。つまりなくても生命に差し支えない組織は、早く損耗するのに反し、これらのものよりも肝要な組織はその損耗も遅く、最も肝要な組織は最初から損耗せず、最後になっても徐々に損失を起こすにすぎないのである。かくのごとく、自然は常に最も肝要な器官を守ることを忘れない。これを具体的に言えば脂肪が第一に消失し、他の組織は、その有用性に逆比例して損耗してゆくのである。なくてならない組織はそれほど肝要でない組織から栄養を摂る、これは恐らくは、自家融解(Autolusis, Autolyse)と称される過程、つまり酵素の作用によるものであろうとのことである。

体内には、かかる不時の必要に備えて、栄養の予備が貯えられている、これらの栄養の予備は命令が発せられると、あまり時間を隔てず、且つ身体のエネルギーをほとんど消費することなしに応召するようになっている。これらの予備は、一時ではあるが、一切の必要物を支給し得るものであり、再建築の工作が完了した後では再びゆっくりと補充されるのである。

”待ち合わせの消化器官に苦役を強いず、自然は家屋全般の清掃のために、長い間、望まれていた休暇を与えるのである。かくして余分な組織の堆積物は逐一的に検査せられ且つ分析せられ、また用い得べき一切の構成部分は、栄養を司る部署へ転移せられ廃棄物は完全かつ根本的に取り除かれてしまうのである”云々とオスワルド博士は述べている。

断食中において、傷害や骨折が治癒し、開いた傷口が癒着することがあまりに多いので、断食中でさえも、建設作業がおこなわれているのではなかろうかと疑わしめるほどである。

アロン(Aron)氏は断食中でも脳と骨とは実際に成長を続けることを見い出したと言われている。オスワルド博士の報告によると、あるとき、若い犬が高い物置の上から地上に落ちて2つの脚と3つの肋骨とを折り、肺臓を痛めたらしく見えたことがあったという。犬はそれから20日間、水以外の食物をことごとく拒否し、その後ミルクを少しばかり摂るようになった。犬は26日を経るまでは、一切の肉を退けたという。かくして骨は癒着し、肺の傷害も治り、以前と同じように走ることも吠えることもできるようになったという。断食中に骨が癒着したという実例は、動物の間では普通に見られるところでであり、人間の場合でも、幾多の実例が記録されている。これによってみると、身体はなくてはならない組織を維持してゆくために、それほど、必要でない組織を利用することが知られる。シェルトン氏は言う、

”私は人間の体内に、あらかじめ消化された栄養のおびただしい予備が貯えられており、食物のないとき、または食物を消化する力のないときには脳が、この予備を吸収し、構造の完全性を保持してゆくようになっていることを認めた。このことから言うと、脳というものは、急性疾患の場合においては軽い食事によって、栄養を与うる必要のある器官、言い換えれば栄養を与え得べき器官でないと言う他ない。身体が骨と皮ばかりになったとき脳の機能が却って明瞭に働くという事実は、脳にかかる自家給養力の備わっているということによって、初めて説明がつくのである”云々。(H.M.Shelton:Human Life Its Philosophy and Laws. p.254)

パシュチン(Pashutin)氏は19歳の少女が、若干量の硫酸を飲んで消化管を傷害し、遂に餓死するに至った病例を報告している。氏の記録によると、彼女の「死体は骨ばかりであったが乳腺は少しも損なわれていなかったという。氏の記録によると、冬眠する動物の場合においては、冬眠の最頂期中つまり他のあらゆる機能がほとんど停止しているように思われるときでさえも、傷口では肉芽組織の形成が続けられるという。つまり心臓は5分ないし8分ごとに1鼓動というほど緩慢に動き、血液の循環もまた極めて緩徐であって、肉を傷つけても、僅かしか出血しないというほどであるかも知れないが、それにも拘わらず、傷は癒えるのである。冬眠動物が冬眠中に食物を摂らないことは改めて言うまでもなかろう。

断食についていわゆる、科学的な研究をおこなっている人々が、例外なく全然閑却している重要なことが1つある。それは断食が異常な腫瘍、吹出物、滲出物、堆積物等を破壊し、吸収し、排泄しまた、使用する機能を看過していることである。いわゆる「科学者」はいずれも断食の実験を、健康な動物または健康な人間についておこなっているにすぎない。したがって病める身体に対し断食がどういう効果を与えるかということについては何らこれを確かめ得ない立場にあると言わざるを得ない。

彼らは、用のない脂肪やそれほど、肝要でない組織が、最初に損耗せられ、餓死の起こるときでも、身体の最も肝要な部分は、そのまま残されることを知っている。しかし彼らはその過程を実際に観察していないので、たとえば水腫患者のごときものが、どれだけの速さで腔窩または組織から吸収されて栄養として利用されるかということについては、何ら知るところでがない。彼らは腫物のごときものが、どれほど迅速に吸収されるかということや、たとえ大きな腫瘍でも、どれだけ迅速にその大きさを減ずるかということについては少しも知らないのである。

たとえば断食中においては肺炎の解消が促進せられるのであるが、この過程はあまりにも迅速に取り運ばれるため、実際にこれを目撃しないかぎり、信じがたいことが多い。疾患に冒された組織は破壊せられ、滲出物、吹出物および堆積物も吸収せられて、消失するか又は排泄されるかするのである。身体は断食中においてはこうして一切の手元にあるものを利用しなくてはならぬ組織の保全に努めるのである。したがって無用な又あまり重要でない組織が最初に犠牲に供せられるのは当然と言わねばならない。

筋肉

断食中においては、研究者の摘示せるがごとく、骨格筋は、その重さの4%を失うであろうが、心筋は3%を失うにすぎない。グリコーゲンと脂肪が最初に消失し、最後にはタンパク質の若干が失われる。しかし心筋はそのあまり重要でない組織を摂って栄養とする。脂肪または筋肉は、いつ損耗しても健康には損傷を与えないであろう。

心臓

心筋は目立つほど、減少しない。つまりそれほど重要でない組織からその栄養を摂るからである。鼓動の速さは、著しく変化し、系統の要求に応じて高くなり、また低くなる。断食が心臓を裨益することは、機能性または器官性心臓疾患が断食によって実際どんな結果を受くるかということに徴してみれば明らかであろう。断食が心臓に裨益を与う所以は、3つの事由による。つまり

(1) 断食は毛細血管に真空をつくらんとする傾向を常に付与するため絶えまなく心臓に刺激を与うることなく働くことができる。

(2) 断食は身体全般に分布する毛細血管に総動員がおこなわれ、断片的、局部的に心臓に働きかけた荷重が平等的になる故、心筋、心嚢、各心房、心室全般に律動が働くことになり、心臓本来の目的たる水槽の役目をなすが故に心臓疾患が除かれる。

(3) 血液を浄化し、心臓全体に純良なる血液を給与する。

(4) リンパ液も清浄となり、完全に心臓周辺、内辺の病毒細菌を滅却するに至る。

神経

脳と神経系統は、断食中においても、そのまま、保持せられ、ほとんどあるいは全然その重さを失わない。つまりこれを給養するため、それほど、重要でない組織が犠牲とされるのである。

脳と神経系統は、これは休息と睡眠とを与うるかぎり、最も長期の断食でも、その実質を健全に保持し、何らの傷害も被らずに済むらしい。しかし実はそればかりではない。その状態は、実際上断食によって却ってよくなってくるであろう。神経疾患の場合では、断食の効果が完全に認められるに違いない。

普通これらの患者に対しては、その食欲をそそるような「滋養のよい」食物を与えるのが習わしとなっている。これらの患者に食物、つまり彼らの習熟した刺激物を与えないでおくと精神沈鬱が起こり、神経の刺激感応性も増高してくる。食物と薬物とはそうした症状を一応解消させるのである。それはあたかも阿片の常用者が阿片を強制的に禁じられて苦悩しているときモルヒネがその苦悩を一掃するのと似ている。こうなると患者自身も、また、医師としても疾病が治ったものとツイ思い誤ってしまうのである。とはいえかかる手段を頻繁に用いて治病の目的を果たそうとすること自体が却って神経症の原因となることが多いのである。

もしかかる患者に3日間ないし5日間、止むを得なければ2、3日でもよい、断食をやらせるならば、その精神上のみではない、肉体上にも影響をきたし精神および神経上の症状は顕著な変化を起こすであろう。このことを実証するには1つの事例で足りるのである。最近一人の婦人が私のところへ健康相談に来られた。婦人は甚だしい神経症に陥っており、主人がその奥さまにタトイ一言でも何かを言おうものなら、たちまちにしてヒステリーを起こし、笑ったと思うと泣き叫び、しばらくしてからヤット平静にモドルといったほどであった。夜分、家の中や外で少しの音がしても、かの婦人ははなはだしく恐怖におののくということであった。そこで私はその奥さまに断食をするようにご主人の了解を求めて実行することにした。断食は1週間したのであった。ところが神経症は、わずかこの短期間に根治してしまった。それが2ヶ年以上も、彼方此方の名医に世話になって治らないので結局私のところへ来られたのだが、私はとくとお話をしてご主人に来てもらって完全な断食をしたのであった。それから、すっかり治って一家大喜びで、何を見ようが聴こうが恐れなくなり、ヒステリーを起こすようなことはなくなった。

精神錯乱も、また、一種の神経症であるが断食中に治るものが多いのである。

マックス・ノルドー(Dr. Max Nordau)博士は言う、

”悲観主義は生理学的根拠をもつ”敵国語ではあるが”Pessimism has a physiological basis”と、悲観主義は実を言えばいわゆる、病理学的根拠をもっている。したがって断食によって解消されるべきはずのものである。

人間の持つ一切の精神力は、断食中に改善されるのである。理性の力も増進するし、記憶力もよくなってくる。注意力も連想力も迅速に働くのである。人間のいわゆる、精神力━━つまり直観、共感愛なども全て増大する。人間の知能と、感情も、更生してくるのである。断食中ほど純正な知能的および倫理的活動力が、適確におこなわれることは他にない。断食は宗教的な力を持っているばかりでなく、性欲も自由に消散し得られるし、また強力にもなってくる。したがって、感情が心を圧服するようなこともなくなるのである。インドでは寺院にこもる僧たちは厳正な純潔を誓約しなければならない。ヒンヅー教の高僧は、長期の業(ゴー)と浄化を実践し幾多の厳しい試練にも耐えて性欲や情欲を完全に克服したことを実証し、あるいは崇高な精神力によって、これらの欲情を制御し得るようになったことを証明した後でなくては僧籍に列せられないのである。ところが今日では神経学および精神分析学上の謬見を一般の人々が平然と口にし、婦人の論客もまた純潔や禁欲は望ましいことでもないし、また実行できることでもないと断言し、またこれを実行したならば却って有害であると言い、性欲を自制するがごときことは愚の骨頂であるとも唱えているほどである。したがってこれを読まれる多くの人々には、断食の効果も馬耳東風であるかも知れない。しかし、断食が食欲および情欲に対する自制力を増大することは否めないところである。高僧や昔の宗教家が、断食をおこのうていた所以も、ある程度までこのことによって説明されようと思う。

いわゆる、精神力に及ぼす断食の効果については、ここで少しばかり述べておきたいと思う。ターナー(Tanner)博士が10数年前におこなった40日間の断食につき、その体験を次のごとく語っている。

”私の精神力は、日を追うて増大してきて、看護婦を甚だしく驚かせた。看護婦は私が強いて10日間も断食をおこなったならば、必ずや精神虚脱に陥るに違いないと考えて、私を見張っていたのであった。私は第1次の断食実験の真っ最中において幻想を見た。使徒ポウロのように第3天国へ導かれてゆき、そこで素晴らしいものを見たのであった。これはたとえミルトンやシエクスピヤーの筆をもってしても、ありのままに表現し得ないものであった。私は第1次実験の結果として、なにゆえ古の予言者や先見者が心霊の啓示を受くる方法としてしばしば断食をおこなったかということを把握したのであった”云々。

断食することによって精神力が減ずるどころか、却って高められるということは、すでに私の摘示したところであるが、私はここで断食者の見る幻想につき、私の考えを述べてみたいと思う。かかる幻想は私に言わしむればヒステリーまたは自己催眠によるものである。こうした幻想を見る人は神経的なものである。神秘的に言うならば神霊的とでも言うべきである。神霊的と言ったところで、それは暗示ことに自己暗示にかかりやすいという意味である。断食はこうした暗示感応性を一時的に増高させる傾向がある。すべての神秘宗教が”啓示”と言うか”悟り”と言うか”illumination”を受くるために断食を1つの苦行としてしばしばおこなったのも、また、現にこれを用いつつあるのも、この故である。宗教上の断食においてはこうした自己暗示は、祈祷の反復という形をとるのを通例としている。

ローマの古諺に”詰まった胃は考えることをしない”ということがあるが、これはすべての精神労働者の熟知せる事実を、巧みに言い表した諺である。腹いっぱいに食事をすると身体がケダルクなって、明瞭に且つ継続して物を考えることができず、したがって頭がボンヤリして眠くなることが多い。頭を働かす人の中には朝の食事など摂らないほうがよい。摂るとすれば極めて軽くそれも慣れてくるにつれてやめたほうがよく、昼も軽くするがよい。一日の仕事を終えた夕食に初めて、それもあえて多量ではなく十分に合理的な食物を摂るようにする。入浴なども温冷浴として、初めは水浴から入ることにするか水槽がなければ水をかけるのであるが、それには足の先から順次、膝、股、臍、胸、それから肩といった具合に下から上へ及ぼすようにする。そして湯の中に入るなり湯をかけるなり、湯をかけるにしても下から上へ及ぼすのがよい。特に学生が試験を受ける前日など、食事は平常の半分ぐらいがよい。私とて初めから断食の効果を知っていたわけでもなかったが、体験によって胃の空腹のときのほうが却ってよく考えられることを知りもし体験もし、理論や文献などは後から研究したのである。研究好きな私は別に医者になる気もないので発表するつもりもなく自分で自分のものを試験するといった具合で、つまり自分が健康になりさえすればよいので、それには何を食べたら、こういう物が出たとか小便が混濁したとか澄んだとか、後には何が入っているだろうとかシュウ酸石灰というものがあるとか、尿素とか尿酸とはどんなものかなどを明治専門学校時代に研究しては同輩や先輩を困らしたのであった。ここは鉱山のことや冶金の分析をやるところで大小便や汗や屁などを分析するところじゃないぞ!!と久保田助教授などから怒鳴られたものであった。それは自費で薬剤を使うのだからよいが、君は九大の医科にゆきたまえ、などと叱られたものだ。

要するに食事をすると食物を消化するために多量の血液や神経エネルギーが動員されて消化器官へ送られるであろう。もしかかるエネルギーが消化器官のほうへ動員されずに残されているとすれば、脳はこれを思考のほうに利用し得ることとなろう。そこに排泄物の上にも異なった物質が現れるのである。しかしながら、我々の断食に関する経験上から言うと、断食を始めたばかりのときには、精神力の増高が認められることは滅多にない。これは我々が断食をおこなわしめる者━━現代医学、それぞれ有名の医者、病院から見放された者、その他の悪い習慣のある者からの健康増進の相談を受けた人々━━これらの病人かあるいは食物の沈溺者、たとえば栄養狂、美食狂、コーヒーとか紅茶とかの沈溺者、タバコとかアヘンもそうだが酒の沈湎者だからである。ツマリこうした人々に、その愛用物を禁ずるとたちまちにして精神抑圧に冒され、頭痛や、その他の軽い疼痛を身体中の各所に感ずるのである。2、3日してから身体がこうした精神抑圧にうまく調整してゆくか、あるいはまたこれを克服してゆくだけの余裕を持つことになると、心は晴れやかになってくる。特殊な感覚もまた、断食によって鋭くなるのである。私はまずこれについて述べることとしたい。

人間の具有する特殊な感覚は、文化生活や疾患あるいは変質によって多少とも鈍くなり、また弱くなっていることは否めない。断食の場合には、1つの例外もなく、感覚は際立って鋭くなるのである。このことは極めて明確な具徴となって現れるのを常としているので、我々は、これを患者が断食によってよくなりつつある実証と見なすこととしているほどである。私は断食によって聴覚の回復した実例を知っている。執拗なカタル性聴覚不全に冒されておりながら、欧氏管には何らの癒着の認められない患者は、断食によって聴覚がよくなってくるかあるいは完全に回復するのを例としている。聴覚が正常であると思っている人でも、断食をおこなうと聴覚が鋭敏になってきて、普通には聴き取れない音もよく聴こえ却って困却することも少なくない場合もある。幾年も耳が聴こえなく苦しんでいた人でも、断食をおこなうと前には全く聴き取れなかった時計の音や、その他の低い音が聴こえるようになるのである。私は長い間、麻痺していた嗅覚と味覚とが断食をやっている間に正常となった実例を多く目撃もし、また指導した経験もたくさんある。嗅覚が時によるとあまりに鋭敏となり、毎日直面していた家族の者の内とか、役所の長上や部下の中に、まさかこんな悪臭か異臭をもっていたとは思われない人々の多いのに驚いたと、報告して、私にその対策を相談された人があったが結局私は、その人々に対して断食を勧めたが、素直に断食をやった人々は、みんな知らないうちに健康になった。依然として悪臭を放っている人々は急に病気のために退職したり、脳溢血を起こしたり、糖尿病に苦しむようになったり、病に患む身となったり、肺炎で逝った人もあったのには驚いたとその体験者はしみじみ話された。多年、眼鏡をかけていて、眼鏡なしでは何も見えなかった人が、断食の結果眼鏡を取っても、よく物が見えるようになった例も多くある。眼が却ってハッキリと澄んで輝くようになり、眼の美しくなった人々も多くある。私もセメント注射作業の折に外傷を受けて失明に近かったのが、今では眼鏡をはずしてもさしつかえなくなった。そのうちに暇を見て2週間ぐらいの断食をやって完全に眼鏡をハズすつもりでいる。触覚もまた極めて鋭敏になった人々の多いことも驚くばかりで、ことに盲人の方で断食をやったら点字がはっきりわかるようになったと喜んでくれた人がある。

人間の感覚が弱くなったり、減失したりする主因は活力が欠乏することと、組織中に、余分の栄養や不用物が堆積していることにある。断食はかかる過剰物や不明な病源とせられている毒素を排泄し、中和し、不用物を清掃して、これらの系統を正しくするにある。神経系統にまた休養も与え、感覚を鈍化せしめた原因を取り除くのである。

血液

ラバグリアチ博士(Dr. Rabagliati)の摘示せるところでによれば、断食の第一次的効果は、赤血球の数を増加せしむることにある。しかし断食をあまり長くおこなうと、赤血球は却って減ずるのである。断食期間の初期において、かくのごとく赤血球の増加するのは、過食の停止に基づく栄養の改善によるものであるという。

貧血症の場合においても、赤血球細胞が断食によって増加することはしばしば看取されているところである。

フランシス・ガノ・ベネヂクト教授(Prof. Francis Gano Benedict)は現行医学者連からも権威ある名著なりと好評された『代謝に対する栄養欠如の影響と長期断食の研究』(The Influence of Inanition on Metabolism and a Study of Prolonged Fasting)と題する書中で、氏はこう述べている。

”セナトールおよびミューラー両氏はセトリーおよびブリーサウプト両氏の血液を検査してみた結果、これらの2人のものにあっては赤血球の増加していることを認めた。タウスク氏は、その後スクチ氏の血液について検査した結果、次のごとき結論に到達した。

(1) 赤血球の数が短期間減少してから後、赤血球は逆に少しく増加すること。

(2) 白血球の数は断食を続けられるのにつれて減少すること。

(3) 単核血球の数が減少すること。

(4) エオヂン嗜好性白血球および多核細胞の数は増加すること。

(5) 血液のアルカリ性が減少すること”云々。

これらの実験から得た結果は、その後におこなわれたものの結果とほとんど合致している。カーネギー協会報(第203号、156ページー157ページ)には次のごとく記されている。

”前記の研究(断食のこと)から得た結果は、血液の様相に顕著な変化の現れているということよりも、むしろその現れていないことを示している点において、着目すべきものを持っている”云々。更に付言して言う。

”ルヴァニジン氏の検査から得た結果を総合すると、無併発症性飢餓が、血液に対して与うる効果については、次のごとき結論が得られるのである。他の点では正常な個人の精神および肉体の活動を制限しても、血液はこれを総体的に見れば、少なくとも31日間(レヴァニヂン氏の断食した期間)の断食によく抵抗し、その本質上、何らの病理学的変化を現出しないのである”云々。

パシュチン(Pashutin)氏は4ヶ月12日間(132日)食物を摂らないで死亡したという1名の人について記録し、その死亡する2日前には血液は1mm3につき4849400の赤血球と7852の白血球を含んでいたと言うている。

長期の断食によって血液のアルカリ性が減少することを以って、断食を非なりとするものが少なくない。ツマリ断食はアチドージスを起こすと主張するのである。しかし断食は決してアチドージスを起こさない。尤も中には長い断食の場合でさえも、血液アルカリ性の減少が、何らかのビタミン欠乏性疾患を招来するほど大なることはないのである。尤も断食の場合にしばしば見られる交〇不能症をビタミンまたは無機塩類の欠如によって起こるものと見るなれば、話は別である。断食をすると身体全体が統一均衡される関係上、一時〇接不能に陥ることはあるも決して心配するに及ばず、不能の間は用の足りるまで待つといった心構えが必要である。そこに心の修養が必要となってくるのである。

肝臓、腎臓および脾臓

断食中において、肝臓および脾臓は、主として、水分を失うのである。これに反して、これらの器官が断食によって受くる裨益は、多重性である。腎臓の被る喪失は、甚だ微々たるものである。栄養貯蔵所と排泄器官としての肝臓および腎臓の機能は迅速に増大してくる。これらの器官は断食がエネルギーを保存するという事実により、神経エネルギーを余分に供給せられるようになるのである。食物はまったく摂取されないので、これらの器官は、排泄の作業に専念する機会を恵まれるわけである。のみならず、これらの器官は、その以前に被っていた傷害を修理すること、つまり自らこれを治すことができるのである。

腸は断食の直前に摂った食物を消化した後、事実上、機能を停止する。つまり休息するのである。オスワルド博士(Dr. Oswald)は言う、

”断食をすると結腸は収縮し、小腸は最も刺激性の大きい摂取物を除いた他のものを保有している”云々。

時としては、断食を始めた最初の3日または4日間においては常則的に便通のあることもあろうし、稀には断食を始めて2週間もしてから下痢の起こることもあろう。それは生水の飲み方が足らないときのこともあり、また生水は十分に飲んでいても激しい下痢の起こる場合もある。しかし決して心配するには当たらない。さらに生水を飲み続けていると後には治ってしまうものである。なかには出血する場合もあるが、これも一時的のものであって却って宿便の剥がれた証拠にもなり、しばらくすると止血するものである。ツウエーン氏は餓死しかけた難破船員が、20日ないし30日間も便通をみせなかったことを記述している。そして後に回復したことのある例を引いて便通など3週間や1ヶ月位なくても差し支えないという人もあるが、それは人々によってまたその人の環境によってそういう場合もあるが、一般人が全てそれでよいとは言えない。とにかく、断食中は便通があろうがなかろうが微温湯で1日1回たとい30でも50mm3(cc)でもよいから軽いものを施しておくにかぎる。1日に数回する必要も、入らないといって高圧のもので多量の浣腸は却って腸壁に創面をつくるから、浣腸剤としては創面を治す力のあるもの、また滑りがよいものを配剤したものならば理想である。

断食は胃、小腸および結腸に完全な休息を与え、これらの器官が、その構造上に受けた傷害を修理し得るようにさせるのである。断食をおこなえば、痔、直腸炎、結腸炎、腸炎、虫垂炎、腸チフス、胃炎などはたちまちにして治ってしまう。

断食はまた、胃に休息を与える。かくして胃には故障を自ら修理する機会に恵まれる。拡大して下垂せる胃は、収縮して、元の大きさと緊張力に復するのである。のみならず胃の病的な敏感症も克服せられる。食欲は正常以上となるし、消化もよくなるのである。断食は実にこれらの疾患を救うてくれるがただ1つ困ったことはあまりに食欲が旺盛となって、それを抑圧するだけの自省心のない人にはみだりに勧められない。そこで断食法に寒天断食法なるものを考えて発表したのである。

肺臓

肺が、断食によって著しい裨益を受けることは、断食中において、肺疾患や、結核病の治ることによって知られる。肺疾患の場合においては、他の器官の疾患のときよりも短い断食で足りるのが通例であって、私は長くても7日ないし8日位を何回かするかが効果の分岐であり、人によっても異なるが、カーリントン氏によれば、

”肺組織が他の疾患に冒された器官よりも遥かに短い期間内で適確に治癒する力を先天的に備えている”云々と述べている。

生殖器官

長い断食においては、生殖能力はほとんど常に欠如しているのが正しいのである。後に述ぶるジョンストン博士の断食法では、そうではない。彼は〇接不能とはならなかったのである。とはいえ、長い断食中においては交〇不能症の起こるのが通例であるが、飢餓感の再来に伴うて、生殖能力もその活力を回復するのを例とする。尤も時によると、その回復の幾分遅れることもある。

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