【2018-01-02】全てを観察するのじゃ【悟りを得るための修行法】
修業のために心を観察しようとする時は、体になにか動きがあればそれも観察するべきなのじゃ。
今は心を観察しているから、体の働きは観察しないでおこうとか思わなくてよいのじゃ。
今ここに起こる事を注意深く全て観察するのじゃ。
それでこそ観察は完全になり、自我も観られるのじゃ。
例えば心を観察してお腹に反応が有るとか、喉がしめられるような感じが有るとか、そのような肉体の反応も全て観察すると善いのじゃ。
それもまた心の反応とも呼べるのじゃ。
心と体は完全に離れている訳ではないからなのじゃ。
心の動きはからだの反応としても現れるのじゃ。
心身は一つのものであるからそのような反応があっても当然なのじゃ。
それを無視していれば観察も不完全になってしまうのじゃ。
肉体を観察していて心に反応が有る事も珍しくは無いのじゃ。
肉体の記憶が心にも反映されるのじゃ。
例えば昔、転んで怪我をした傷を観察すると痛い想いが蘇ってくるとかのう。
そのような心の反応も肉体を観察する時に観るとよいのじゃ。
つまりは今ここで起こる全ての反応を注意深く観て、受け容れ、認識することが大事なのじゃ。
観察している時の心身の全ての反応に注意していれば、観察力も高まるのじゃ。
自我も認識対象への主体の投射として現れるものであるから、そのように全てに注意して観察していれば観察できるようになるのじゃ。
観察から余計なものを排除しようとすれば、自我も観えないのじゃ。
それは観察しようとする主体の観念であるから観察対象からは外れてしまうのじゃ。
自我は観察対象外の働きとして見過ごされているのじゃ。
しかし、常日頃から観察領域を広げていれば、それも観察対象のうちに入れることが出来るのじゃ。
常に全てに観察を加え、注意深く全てを観ようとすれば、主体の観念が働くところも観られるようになるのじゃ。
全てを観ようとすれば主体も全ての内であるから観られるのじゃ。
観察によって何を観るのかと、思い煩うことは無いのじゃ。
全てをありのままに観るのじゃ。
それでこそ悟りも向こうからやってくるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
【2018-02-03】帰宅の喩【悟りの真実】
悟りとは人が変じて別の何かになることではないのじゃ。
むしろ本来の状態に戻ることなのじゃ。
偽りの観念世界から真実の家に帰ることとも言えるのじゃ。
例えば金持ちの子が家に飽き足らず、どこか遠くへ旅に出たとしよう。
その子は厳しい世間で何年も暮らし、乞食に成り果ててうろつきまわっていたのじゃ。
持っている物は汚い破れた衣と、破れた地図と獣を打つ為の折れた杖と壊れたお椀だけなのじゃ。
どんどん流れて行き着いたのはかつて暮らしていた自分の家だったのじゃ。
しかしあまりに長くよそに行っていたために自分の家ということもわからなかったのじゃ。
金持ちの子はただ一日の糧となる食事を求めて、その家に行ったのじゃ。
その家の門を叩くと金持ちの親が出てきたのじゃ。
すると金持ちの親は直ぐにそれが自分の子供とわかったのじゃ。
親は子にこう告げたのじゃ。
「お前はわしの子じゃ。この門を入ればこの家も財産もこの地方の土地も全ておぬしのものじゃ。
しかし、この門に入るにはその汚いものを全て捨てなければいかんのじゃ」
すると子は直ぐに破れた衣を脱ぎ捨て、破れた地図も折れた杖も壊れたお椀も捨てたのじゃ。
そして門に入り、家も財産も土地も全てを自分のものとすることができたのじゃ。
悟りを求めるのも元からある本来の全てを取り戻すことなのじゃ。
それには今自分のものと思っているものを悉く捨てなければいかんのじゃ。
人が自分と思っている破れた衣のような自我。
破れた地図のような愚かさ。
獣を追うための折れた杖のような怒り。
壊れたお椀のような貪欲。
それらを捨ててようやく全てを得られる悟りの門に入れるのじゃ。
自我は衣のように人を守り、他人から見られる自分があると言う観念なのじゃ。
しかし、それは実は破れた衣のように心身を守れず、我執によって醜さをあらわすだけのものじゃ。
自分の名前とイメージがその本体であり、それらのために人は自らの心身を疲弊させ、壊すのも厭わないのじゃ。
その観念に囚われて全てを自分のものとしたいと思う醜さが現れるのじゃ。
それは捨て去ってよい薄汚れた観念でしかないのじゃ。
人の愚かさは破れた地図のようなものじゃ。
我執や囚われによって人は愚かさを保ち、自らの利益を図ろうとして却って迷い、苦しんでいるのじゃ。
それもまた必要な物ではないのじゃ。
怒りは折れた杖のようなものじゃ。
折れた杖で獣を打とうとしても役に立たないばかりか、自らを傷つけるものじゃ。
恐れから逃れるために人は怒りを起こすが、それは却って自らを傷つけるのじゃ。
そのような怒りも捨て去るべきものじゃ。
貪欲は壊れたお椀のようなものじゃ。
壊れたお椀に食物を入れても、こぼれてしまうからいつまでも一杯にならないのじゃ。
そのように欲は不安に拠って起こるものであるから、限りが無いのじゃ。
貪欲があればいつまでも満足することは無く、無駄に時間を過ごしてしまうのじゃ。
それも捨てなければ悟りの門には入れないのじゃ。
人がただ老病死の苦を逃れようとして悟りの道を行くのは、自分の家に一日の糧を求めて行くようなものじゃ。
そのために今自分であり、自分のものとしている全てを捨てれば全てが得られるのじゃ。
それは他から与えられるものではなく、自らが変ることでもなく、本来のありように回帰することなのじゃ。
そのような悟りによって全てと本質的に繋がり、永遠の安楽に到達するのじゃ。
修行者は実践によって確めるのじゃ。
【2018-03-02】苦によって進歩するのじゃ【元気が出る説法】
この世界に苦は尽きないものじゃ。
この世で苦を味わった事の有る者や、今苦の中にある者もいるじゃろう。
執着によって、身の病によって、貧窮によって、あらゆる苦がこの世に生きる者には襲い掛かるものじゃ。
果てしなく続くように思える苦に、人は時に絶望してしまうかもしれん。
この世で苦に悩まされた最後には、死の苦が待っておる。
誰もが逃れられない苦なのじゃ。
そのような一切苦のこの世に生きる意味はあるのかと、疑問にさえ思うかも知れん。
しかし、そのような苦の中に真の幸福への道は有るものじゃ。
人が苦に苛まれもはや今までの生活をも捨てて、新たな人生に脱却しようとする時、欺瞞を捨てて真の幸福への道は開かれるのじゃ。
苦は確かに人にとって忌むべきものであるが、大局を見れば人を進歩させるものとも言えるのじゃ。
苦がなければ決してしなかったであろう瞑想も、苦によって行うことが出来るじゃろう。
瞑想をすれば心は整い、智慧もわくのじゃ。
苦に負けない心が芽生えるのじゃ。
更に苦を滅する法を知れば、自らの行いによって苦を克服できることも知れるのじゃ。
苦は人を強く、賢くしてくれるのじゃ。
今苦の最中に在る者にはわからんかもしれん。
そのような法より今有る苦をどうにかしようと、酒や薬やさまざまな逃避に走ってしまう者も居るじゃろう。
しかし、逃避は苦をますます強くするだけなのじゃ。
逃避によって苦がなくなることは無いのじゃ。
むしろ逃避に執着する苦が加算される故に、ますます苦が強くなるのじゃ。
そのようにして人は苦から苦へと逃避し続け、何をして良いのかもわからない迷いに陥るのじゃ。
苦は逃避によっては決してなくなりはしないのじゃ。
そのことをはっきりと知って逃避をやめることが出来れば、真の苦を滅する法を行うことも出来るじゃろう。
正しい法に従って観察すれば苦は滅することもできるのじゃ。
苦は心に有る故に心を観察すれば苦は滅するのじゃ。
たとえ身の痛みであっても、観察する事でそれが苦にはならないのじゃ。
痛みよりも痛みによる不安、恐れが苦になるのじゃ。
痛みは痛みだけのものと知り、それが自分ではないことに気づけば苦にはならないのじゃ。
お釈迦様がこの世は一切が苦であると説いたのも、苦を滅する道が有るからなのじゃ。
例えば冬に降り積もった多くの雪は何をしても消えることは無いが、春になれば忽ち全て融けて消えるように、逃避に拠ってなくなることの無い苦も正しく観察する事で全て無くすことも出来るのじゃ。
正しく苦を観察し、苦が原因から起こる事を観察し、原因が無ければ苦が起こらないことを観察すれば苦は春の雪のように跡形も無く消えていくのじゃ。
そして更に苦の根本原因である自分が有るという観念をも観られたならば、自我もなくなるのじゃ。
更に認識をも観察すれば苦を起こす観念も無くなり、永遠の安らぎへと導かれるのじゃ。
そこまで徹すれば一切の苦は永遠に無くなり、不死の境地に辿りつくのじゃ。
その時にこそ苦は人が超越するためにあったと言えるのじゃ。
【2018-04-04】自らの価値観と評価を観察するのじゃ【苦滅の道実修】
未だ悟りを得ていない者には条件付けされた価値観と自己評価が心の中にあるものじゃ。
その価値観と自己評価によって行いも決められてしまうのじゃ。
それが善いものならば善い行いに繋がるが、悪いものならば悪い行いに繋がってしまうのじゃ。
それらは親とか友人等によって条件付けされるのじゃ。
例えば犯罪を良いものとする価値観を条件付けされた者は、泥棒より強盗が勇気が在るとか間違った価値観を身に付けてしまうものじゃ。
そして今の自分は泥棒しかしていないから強盗をして勇気があることを証明しようとしてしまったりするのじゃ。
そのようにして悪事を続け、何度捕まってもやめられないのじゃ。
心にそのような価値観と自己評価の働きが在る限り、自分でやめようとしてもやめられないのじゃ。
何の得にもならず、明らかに損になるとわかっているのにやめられないのじゃ。
知性や理性で理解していることも、心の中の条件付けによる行いをとめることは出来ないのじゃ。
逆に親から駄目な者とか条件付けされた者は、自分を駄目な者と想い、駄目な行動をしてしまうのじゃ。
それも自己評価から起こる行いなのじゃ。
思春期になれば親から独立した自分の考えを持つようになるが、心の中の条件付けは変わらないのじゃ。
それは心の中に残り、行いを選択する時に働いてしまうのじゃ。
そのようにして親から与えられた価値観と自己評価に沿った行いを一生繰り返してしまう者もいるのじゃ。
そのような価値観と自己評価を乗り越えるためには、やはり観察するしかないのじゃ。
自分の本心を観てそのような価値観と自己評価があり、今までそれに反応して行いをしていたと気づいた時、それは滅するのじゃ。
悪しき行いに向かおうとする価値観と自己評価が在る限り、悟りに向かう修業も全うできないじゃろう。
悪しき行いを求める心は、自己の心を整える行ないに反発するからのう。
そうであるからそれも修行の妨げになる煩悩の一つといえるのじゃ。
金や権力や名声をひたすら求めることが善いとする価値観や自己評価も同じなのじゃ。
必要以上の欲は貪欲として三毒の一つとして教えられているのじゃ。
今の知識や理性と照らし合わせて不要の価値観と自己評価は滅するべきものと言えるのじゃ。
修行者が自分の本心をよく観察してそのような価値観と自己評価に気づけば、それも滅するのじゃ。
そして今の自分の知性と理性に沿った行いも出来るようになるのじゃ。
真の悟りを求める心の働きを最も尊ぶべきものとして進むことも出来るのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
【2018-05-02】さらに観察について学ぶのじゃ【悟りを得るための修行法】
観察とは本来そんなに難しいものではないのじゃ。
例えば道を歩いている時に、道端に花が咲いていると観ればそれも観察なのじゃ。
花びらが五枚在るとか、葉っぱが二枚とか観ればそれもまた観察なのじゃ。
そのように何でもありのままに観れはそれが観察であり、誰にでも出来ることなのじゃ。
今ここに在るものごとをありのままに観ることであるから本来は簡単なのじゃ。
しかし、人は記憶に依存している故に、観察も一度で終わり、記憶による認識が始まってしまうのじゃ。
先ほど観た道端の花も、少し経つとさっきの花だとか思って同じものと分別し、認識してしまうのじゃ。
実際には時が経って花が散ってしまったり、葉が落ちているかもしれんのじゃ。
そのような変化を観ずに、記憶によってさっきの花と同じと認識してしまうのじゃ。
それはもう観察ではないのじゃ。
記憶による分別になってしまうのじゃ。
このように観察は本来、簡単なことであるが、記憶に拠ってしまえば観察は観察ではなくなってしまうのじゃ。
そのような記憶による分別には注意しなければならないのじゃ。
心の働きを観察する時にも、そのような記憶による分別に注意しなければいかんのじゃ。
昨日観察した心の働きが、今日も同じく在ると思うのも記憶による分別となるのじゃ。
観察を日々続ければ心は変化していくものじゃ。
昨日観察できた心の働きも、今日にはなくなっているかもしれんのじゃ。
記憶によらずそのような心の働きの変化も、よく注意して観察しなければならんのじゃ。
毎日、自分の本心を始めて観るかのように注意深く観察していくのじゃ。
記憶による連想や雑念が生じたら、それに構わず流していくとよいのじゃ。
数息観等の集中の行が出来ていればそれも可能なのじゃ。
毎日観察を続けていると、やはり習慣化して過去と同じようになってしまうものじゃ。
昨日と同じ心の働きが在るだろうと思って集中すると、その働きを自ら作り出してしまうこともあるじゃろう。
それは観察ではなく観念遊戯なのじゃ。
毎日観察しているつもりでも、長く何の発見も無いというならば、そのような観念遊戯に陥っていないか、自らの状態を観察してみるのじゃ。
全力を集中して今ここにある心の働きを初めて観るかのように注意深く観察すれば、新たな発見も在るものじゃ。
そのようにして自我の働きが観られたならば、無我にもなるのじゃ。
そして記憶に依存していたことも気づき悟りも訪れるのじゃ。
【2018-06-02】驕りに気をつけるのじゃ【悟りを得るための修行法】
驕りとは自らの知識や能力を過信して現実が見えなくなることなのじゃ。
長年学んだり修行したりしていると、それによって驕りが出てきたりするものじゃ。
驕りにかかると進歩も止まってしまうのじゃ。
驕りは自己イメージを肥大させて修行すらもやめてしまう原因になるのじゃ。
自分はもう十分に知っているとか、悟ったとか思ってしまうのじゃ。
それで修行をやめてしまえばもはや進歩することもなくなるのじゃ。
そのような驕りも原因があるから起こるものじゃ。
驕りの原因は大抵、劣等感なのじゃ。
自らを劣っているという観念があるから、逆に肥大した自己イメージを設けるのじゃ。
そのような者が謙虚に自分の本心を見て驕りに気付くのは困難なことじゃ。
自らが劣っているという観念から逃避している故に、原因を見出せないのじゃ。
劣等感を認めることが非常に辛いからのう。
実際にはその劣等感さえも植え付けられたものであったり、ただ虚偽の観念に過ぎないのじゃ。
虚偽の観念からの逃避から、驕りが起こり、修行も止めてしまうのは愚かなことじゃ。
修行者は気をつけなければいかんのじゃ。
自分はもう十分に知っているとか、修行などはもう必要ないとか思うならば、それは驕りでしかないのじゃ。
お釈迦様でさえ、日々自ら乞食をして家々を回り、時には断られたりしていたのじゃ。
毎日瞑想をして弟子達に模範を示していたのじゃ。
悟っても悟らなくても日々学び修行を実践するのが真の道なのじゃ。
未だ死を超えていないのに、実践を止めてしまうのはもはや苦から苦へと迷う虫や獣と変わりないのじゃ。
真の道を行く修行者は驕りに気をつけて進むのじゃ。
【2018-07-02】ブラフマンの法【悟りを得るための修行法】
ブラフマンの法とは元はヴェーダに記載されていた法なのじゃ。
肉体をどこまでも広がっていくイメージをすることで、意識を拡大していくのじゃ。
そのようにイメージすると実際に拡大された空間に自らの意識を感じることができるのじゃ。
集中の行を実践していると意識が際限なく広がる識無辺処定に入るが、その境地を直接に目指すのがこの法なのじゃ。
密教に伝えられている法と同じなのじゃ。
ヴェーダによって伝えられているのは、体が広がるイメージなのじゃ。
集中して座っている自分の体がどんどん大きくなっていくとイメージするのじゃ。
体が部屋一杯に広がり、更に広がっていくのじゃ。
部屋からもはみ出していって、どんどん大きくなっていくのじゃ。
山川海空の全てに体が広がり、全ての空間を満たすようにイメージするのじゃ。
このようにイメージして行くと、ただのイメージではなく、空間に意識が感じられるようになるのじゃ。
お釈迦様は三明経等で感情を使うブラフマンの法を説いているのじゃ。
ブラフマンと同じ境地になる法としているのじゃ。
心の中で慈悲を感じる対象を想い起こし、慈悲の感情を起こすのじゃ。
その感情が体中に広がっていくとイメージするのじゃ。
更に体から外にまで慈悲が広がっていくとイメージするのじゃ。
今座っている部屋一杯にまで広がっていくのじゃ。
そして部屋からも広がって、慈悲がどこまでも大きくなるようにするのじゃ。
慈悲がどこまでも広がり、大地も空も埋め尽くすほどに大きくなっていくとイメージするのじゃ。
地球とか宇宙とかの知識として知っている全ての空間を埋め尽くすのじゃ。
集中が途切れてきたら、その感情が少しずつ小さくなり、自分の体に収まるとイメージして行を終えるのじゃ。
そのようにイメージしていくのがお釈迦様の教えられたブラフマンの法なのじゃ。
これも同じように日々続けているとただのイメージではなく、空間に実感が在ることが感じられるのじゃ。
元々意識は全てに繋がり、空間にも在るものであるが個我の観念があればそれは感じられないのじゃ。
肉体の感覚だけが自分の感覚と認識するからなのじゃ。
そして自分の肉体と感覚以外に自分は無いと認識するのじゃ。
このブラフマンの法を行えば、観念を超越した空間の意識が感じられるのじゃ。
それを感得することで、肉体や感覚だけが自分であるという観念が薄れ、無辺の境地に至ることが出来るのじゃ。
未だ悟りに至らなくとも、無辺の意識に到達しただけでも死という肉体の消滅によって全てが消滅するという観念は無くなるじゃろう。
そして死の恐れも超えることが出来るのじゃ。
死を恐れる者、更なる集中の境地を求める者、真実の意識を確かめたい者はこの法を日々修業するとよいのじゃ。
【2018-08-02】自我の苦【悟りの真実】
お釈迦様は自ら衆生の病を治す医者であると言ったのじゃ。
衆生は病にかかっているから、それを治すというのじゃ。
それがどのような病かといえば、衆生は自我という観念による病にかかっておるのじゃ。
自我があれば、そのイメージによって苦も受けるのじゃ。
自分が他人より劣っているというイメージを持った者はそれによって劣等感に苦しむのじゃ。
自分が他人より優れていると思う者は、それを証明するために必死に働かなくてはいかんようになるのじゃ。
逆に優秀な自分を守るためにと、引きこもりになったりもするのじゃ。
自分があれば自分の好きなものが認識され、それに執着して苦になるのじゃ。
自分があれば自分の嫌いなものも認識され、それを避けるために行動も制限されるのじゃ。
このように自我はあらゆる人間に苦をもたらし、行いも制限しているのじゃ。
自我によって認識する全ては苦になり、一時の快楽さえもやがては苦に変わるのじゃ。
それも観念によって起こる病なのじゃ。
観念による主体を自己と呼び、観念による客体を他己と呼ぶのじゃ。
自己以外の全てが他のものであるならば、小さな自己と自己以外の全ての世界が対立するという観念を生むのじゃ。
その観念が強い孤独感や孤立感、寂しさを起こすことになるのじゃ。
それらからまた逃避、執着、攻撃欲等の苦に繋がる観念が起こるのじゃ。
自我の観念は多くの苦の源であり、苦の上に苦を積み重ねるものなのじゃ。
お釈迦様はそれを無明と呼び、観察することによって滅することが出来ると説いたのじゃ。
苦を生じ、迷いを起こす無明も一度完全に観察されれば、煙の如く消え去るのじゃ。
賢明な修行者は無明のもたらす大きな苦を知り尽くし、恐れを超えて進むのじゃ。
【2018-09-02】見られただけならば自我は無いのじゃ【悟りの真実】
自我のある人間はなにものかを認識する時、自分との関連によって認識するものじゃ。
知覚したものごとに自分との関連による意味を与えているのじゃ。
例えば何かを見れば自分のものであるとか、自分のものではないとか、自分の好きなものとか、自分の嫌いなものとか認識するのじゃ。
修行によって自我が薄れてくれば、自分との関連も薄くなり、すべてを意味の無いものと見られるのじゃ。
そこまでくれば忘我から無我にも近くなったと言えるのじゃ。
昔、バーヒヤという外道の行者がいたのじや。
修行に行き詰ったのかお釈迦様に教えを請いに行くと、お釈迦様はこのように教えたのじゃ。
「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうと。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、
あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、
両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です。」
この教えによってバーヒヤは即座に悟りを得たのじゃ。
バーヒヤも外道ではあるが、それなりに集中の修行をしていたのじゃろう。
見たものに意味が投射されない境地であった故に、自我もそこに無いことに気付けたのじゃ。
自我が無い時には何を見ても聞いてもそこに意味は投射されないのじゃ。
見たものは見ただけのものとなり、聞いたものはきいただけのものとなるのじゃ。
あらゆる意味と好悪と是非が消えうせた、知覚されたままの姿に認識されるのじゃ。
その時、過去の経験の蓄積がある自分、現在知覚している自分、これからも将来のある自分という観念は存在しないのじゃ。
それが.この世にもあの世にも中間にも自分というものが無いということなのじゃ。
この言葉によってバーヒヤも自分が無いことに気付けたのじゃ。
何も無いところに観念による自分を作り上げていたと知れたのじゃ。
それが観照なのじゃ。
そして厭離が出来たのじゃ。
見たものが見ただけのものとして知覚されたり、聞いたものが聞いただけのものと知覚されるということは経験が無い者には理解しがたい事じゃろう。
それでも真摯に修行していればいずれは経験することもあるじゃろう。
その時は自我を厭離するよい機会であると知って観察すると善いのじゃ。
どこにも自分というものが無いことが、明らかに観察されるじゃろう。
そして観照も起こるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
【2018-10-03】愛とは【ダンマパダ(法句経)解説】
お釈迦様はこのように言っておる。
210、 愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。
212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
ここで愛と言われているのは愛着であり、執着なのじゃ。
慈悲とは違うものなのじゃ。
慈悲は自他の同一観から起こるものであり、他人の喜びを自らの喜びとして感じ、他人の悲しみを自らの悲しみとして観るものじゃ。
愛着や執着は自分の孤独や不安から起こるものであり、逃避に過ぎないものじゃ。
苦である孤独や不安から逃れようとして愛着し、更に苦を増やすことになるのじゃ。
愛する者と離れる苦が愛別離苦であり、憎む者と会わなければならないのが怨憎会苦なのじゃ。
愛するものがあれば、反対に憎む者も出来るのじゃ。
愛する者を傷つける者や愛する者と反対の特徴がある者を憎むのじゃ。
そして憎む者と共に居ることで苦しむのじゃ。
そのように愛憎共に人を苦しめるものなのじゃ。
愛する者によって苦しむ人の姿は日常でも多く観られるものじゃ。
愛する者と離れる苦だけでなく、会っていても互いに傷つけあう苦もあるのじゃ。
愛し合っていても自我があれば傷つけあわずにはいられないのじゃ。
更には情痴のもつれからの犯罪や、ストーカーなどの犯罪までも引き起こすものじゃ。
愛とは麻薬のようなものとも言えるのじゃ。
人に一時的な快楽はもたらすが、やがては苦になり、破滅にさえも陥らせるものなのじゃ。
しかし、麻薬も使いようによっては薬になるように、愛も慈悲になれば人に利益をもたらすものとなるのじゃ。
愛着は自らのために他人を求めるものじゃ。
慈悲は自他双方の利益を求めるものなのじゃ。
愛着は人をありのままに慈しむことはなく、離れていれば会いたがり、会えば自らの思うとおりに操ろうとするものじゃ。
それによって傷つけあうことにも繋がるのじゃ。
慈悲は人をありのままに慈しみ、苦楽を共にして、自他の利益を図ろうとするのじゃ。
そうであるから傷つけあうことも無く、進歩していくことも出来るのじゃ。
そのような慈悲はそのまま善事であると言えるのじゃ。
愛とはこのように両面の働きがあり、慎重に見極めなければならないものなのじゃ。
自分が愛着し、執着しているならば、自らを観察して気付くのじゃ。
そうすれば執着から離れ、破滅することも無いのじゃ。
更に意志によって愛着を慈悲にまで昇華し、自他共に利益を図るのじゃ。
【2018-11-02】怒りを捨てるのじゃ【悟りを得るための修行法】
お釈迦様は法句経で怒りを捨てよと説いているのじゃ。
捨てるとは慈悲喜捨の捨なのじゃ。
心に怒りがあれば心が長く乱れ、修行も進まないのじゃ。
それだけでなく怒りが起こった心は善悪もわからなくなり、正しいことと思って悪事をしてしまうこともあるのじゃ。
そのような害悪がある故に、お釈迦様は怒りを捨てよと説いたのじゃ。
怒りに駆られた者は正しい知識すらも無くなり、暴力に走ったりしてしまうものじゃ。
肉体的な暴力だけでなく、言葉による暴力も使ってしまったりするのじゃ。
それによって犯罪にまで発展してしまったりするのじゃ。
そして怒りが消えてから何故そんなことをしたのかと、後悔したりするのじゃ。
時に怒る者は正しさとか、正義という偽りの観念によって自らを欺いたりもするのじゃ。
悪を正すとか、正義感による行いによって怒りを正当化するのじゃ。
そのような正しさや正義は、攻撃欲を満たす為の欺瞞でしかないのじゃ。
正義の欺瞞によって怒りと攻撃欲を発揮すれば、それは虚偽と他者を傷つける二重の罪を犯すことにもなるのじゃ。
自分が正しいからと他人を責める者には、このような悪徳が付き纏うのじゃ。
怒りや攻撃欲を正義として偽るならば、懺悔告白することも無い故に悪しき報いも免れないのじゃ。
ただ一時の怒りでこの世では犯罪に発展し、後には地獄に行く可能性もあることを考えれば、怒りは常に捨てるべきものであることがわかるじゃろう。
怒りが起こったことを知覚したら、常にそれを捨てる心構えで居れば、習慣の力によって怒りも制御できるようになるのじゃ。
自分が今怒っている、或いは怒りそうだと感じたらそれを捨てるのじゃ。
怒りの感情に囚われず、巻き込まれないようにしてそれから離れるのじゃ。
何度でも怒りが起こる度に行えば、それが習慣に成り、怒りも直ぐに制御できるようになるのじゃ。
或いは怒りを観察し、その原因から怒ることが観られれば怒りは消えるのじゃ。
そして同じ原因から怒りが起こることもなくなるのじゃ。
それはただの反応で在るから消すこともできるのじゃ。
怒りの原因とは、誰かが自分から何か奪ったとか、自分のイメージを傷つけたとかなのじゃ。
そのような原因から怒りが起こり、原因が無いと怒りも起こらないことを観察出来れば消えるのじゃ。
怒りを抱える者は怒りによって自分を無能にしてしまうのじゃ。
怒りを制御した者には敵わなくなるのじゃ。
怒りを捨ててこそ優れた者になるなることもできるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
【2018-12-02】自分を知るのじゃ【元気が出る説法】
洋の東西を問わず、昔から今に至るまで全ての賢者達は一つの教えを繰り返し説いているのじゃ。
それは自分を知ることなのじゃ。
観察や経験によって自分を知ることが、賢者によって説かれた真の利益ある教えなのじゃ。
自分を知ることで人は世間で大きな利益を得て、最後には世間を出る悟りにも到達できるのじゃ。
自分を知らなければこの世で苦しみ、迷いのうちに死んで後にも苦しむのじゃ。
自分を知ることがこの世に生まれてきた理由とも言えるのじゃ。
例えば幅が三メートルのトラックに乗る者が自分のトラックの幅を知らなければ、幅が二メートルしかない山道に無理に乗り入れたりしたら転落して事故になるじゃろう。
逆に四メートルの道幅のところに走るのは無理だと諦めてしまうこともあるかもしれん。
そのように自分を知らなければ能力を過信して事故にあったり、逆に能力を低く見積もってチャンスを諦めてしまうこともあるじゃろう。
能力についてだけでもこのように自分を知ることで事故を防ぎ、チャンスを生かすこともできるようになるのじゃ。
その他、自分の好悪や肉体の習癖や心の働きについて知ることが多ければ、不調を減らし利益を多く出来ることは言うまでも無いのじゃ。
自らの好む所を知ることで、それを生かして楽しめる職業に就いて成功することも出来るのじゃ。
自らの好まないことを知って、利益が多いからと嫌いな職業に就いてストレスで心身を壊すということもなくなるのじゃ。
肉体についても寒さに弱いとか暑いと倒れるとか、よく知っていれば病を防ぎ、長生きも出来るのじゃ。
他人に効く薬も体質によって自分には効かないこともあるものじゃ。
自分の肉体について日頃から知れば薬も合うものを選ぶことが出来るのじゃ。
更には心の働きを知ることで苦を滅することも出来るのじゃ。
苦しみも自分の心を観察することで滅することが出来ると知れば、安楽の境地に至れるのじゃ。
自分の心を観察するといっても初めはわからないことばかりじゃろう。
そのようなことが出来るということさえ知らない者も多いじゃろう。
何事も初めはわからないことばかりであるが、実践し続けることで知識も増え、慣れてくるものじゃ。
何があろうと自分の心を知る努力を続けることが大事なのじゃ。
人が苦を嘆き、迷いの内に生きていくしかないのも自分を知らないからなのじゃ。
自分のしたいことも、すべきこともわからないのは自分に対して無知であるからに他ならないのじゃ。
それは地図を持たない者が目的地も無く道なき道を旅するようなものじゃ。
そのような状態ではただ苦しみ迷い続けたというだけの人生になってしまうのじゃ。
自分を深く知っていれば、理想とすることも目的も自ずから明白になってくるものじゃ。
それは慣れた道を行くものが行く先も、道筋も完全にわかって晴天の下で歩くようなものじゃ。
確実に目的地に着くであろう事は明白なのじゃ。
自分を知れば世間において大きな利益を得て、出世間の道においても永遠の安楽に辿り着けるのじゃ。
自分を知れという賢者達の言葉は、真に虚しくないと言えるのじゃ。
修行者は日々自分を知る努力を続けるとよいのじゃ。
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