悟りました
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1150895240/
1 :悟ラー:2006/06/21(水) 22:07:20 ID:sE0azmZW
何か質問ありますか。
446 :自在:2007/02/12(月) 22:51:42 ID:eX2eu4Mq
本来、私はこのような言葉遊びに口を出すことはないのだが、義務として書いておく。
悟りを得ていないのに得たと言うのは止めなさい。
悟りを得ていないのに得たと言うものは、天地を欺く咎を負う。
かつて悟りを得ていないのに得たと言った者がいた。
一人は今、刑務所で死刑を待つ身だ。
一人は若くして命を落とした。
真摯なる修行者を欺き、自らを昂ぶらせてはならない。
ちいさな満足感を得るために、永劫の地獄に落ちるのは愚か者である。
私がこのように説いても、心昂ぶらせたものは聞くまい。
だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
私は確かに真実を教え、警告したのだから。
456 :brown:2007/02/13(火) 02:16:04 ID:tBSJu4Tb
>>光ファイバーEOさん
なんだかとっても怒ってるみたいだけど,とにかくごめんなさい。
光ファイバーEOさんは瞑想を心得てるんですか?
他力本願であれだけど,心得てるなら,その方法でちとその怒りの矛,
納めてみてください。
457 :光ファイバーEO:2007/02/13(火) 02:28:41 ID:habbmUoQ
怒る?
そのような話はしていないのだが・・・
もう一度書くけど
概念と悟りは等しくないぞ
迷いには原因があるぞ
自己観察などでは悟れんぞ
こう主張しているのだが・・・
464 :吽狛:2007/02/13(火) 06:59:27 ID:xaLGqfsj
>>446 自在さん
具体的に、どの書き込みに対して、そう思ったのか、書いて欲しかったなあ・・・。
>だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
>私は確かに真実を教え、警告したのだから。
まあ、本当に、悟ってたら、そんな事、気にしないと思うけど、
悟ってなくて、悟ってるって勘違いしてた場合はどうなるの?
468 :自在:2007/02/13(火) 13:36:32 ID:WSZa7F86
>>446 あなたは真面目に修行をしているようだから書いておきます。
私が誰かを名指した非難をすることはありません。
しかし、自己観察では悟れないと書くのはいけません。
そのような言葉が間違いであると書けばわかるでしょう。
自己観察こそが真摯な修行者を真の悟りへと導く最も正しい道です。
このような言動に惑わされないように修行を続けてください。
あなたは正しい道を歩んでいる。
私が警告を書いたりするのは、気になるからではなく、哀れみからです。
例えば親が子供に、間違いで自分を傷つけないようにと諭すのと同じことです。
僅かな満足感のために永劫の苦痛を受けないように、気をつけなさいということです。
残念なことに真実を告げられてもかえって反発してしまう者も多いが。
最後の質問
勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
確信して他人を欺く者よりは軽く。
470 :承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/02/13(火) 21:57:48 ID:XZmGPp2d
>>468
面白い奴だな。
真似してやろう。
初心者の貴方には維摩経を勧めよう。
自他の不二門を知らぬが故に。
471 :トトロン:2007/02/13(火) 23:14:56 ID:kAqVt6ny
>>446
すばらしいお言葉身にしみます.簡単に悟ったなど言うべきではないとは
私も思います.ただ私が思うに,この世の一部の人が悟った状態になるだけ
で良いのでしょうか?私は全ての人が,呼吸をするように悟った状態にな
れる日が,いつか来れば良いなと思っています.でもそうなった時に痛みが
発生するとするなら,その痛みに絶えられるかどうか・・.
488 :吽狛:2007/02/14(水) 09:05:32 ID:pxHVRY7f
>>468 自在さん
ありがとうございます。う~む。。。。自己観察は、続けます。
ただ、まあ、どうでも良いことかもしれないですが、
自己観察では、悟れない、と言うのは、ある意味、間違ってはいない。と、私は思います。
悟りには、段階・・・というか、純度というか・・・そういう、あ、
十牛図は、私は、詳しくないので、よく分からないですが、
たぶん、それで説明が付くのかもしれないと思います。
「全ては悟っている」という事と、「悟っている人が、悟っていない人を導く事」は矛盾しているように感じる。
けれど、それは、十牛図の8,9,10のいずれかから、覚者が話しているからでしょう。
後は、個人の方便の違いとかですね。とか、私は、思います。
>最後の質問
>勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
>確信して他人を欺く者よりは軽く。
うへえ・・・。そうか、やばい。
以前に、「自分は、悟った」と勘違いして、人に言った事があって(汗
まあ、でも、説法とかはしてないので、大丈夫かな??駄目か・・・。
この場を借りて、謝ります・・・。私は悟ってなかったです。勘違いでした。
単に、魔境に入ってただけです。バカでした。迷惑かけた方々、ごめんなさい。
これでも、駄目だったら、マジで悟るしかないですね。
悟ったら、きっと、地獄も極楽でしょう・・・。
492 :自在:2007/02/14(水) 11:27:45 ID:+wlIoOYO
>>470 あなたはもう正しい知識を得ている。誰の真似をすることもない。
>>471 全ての人が悟りを得るべきであると、私も思います。自分自身の意志によって。その時には痛みはなかったと全ての人が知るでしょう。
>>488 自己観察が正しい道であるというのは、どのような道を通っても結局は最終的に自我を観照することになるからです。三昧や空観などの、どの行においても最後は自我を観照することで、悟りに至ります。
修行中にはどうしても迷いが出勝ちですが、自己観察が最も正しい道に違いはありません。
例えば山の頂上に上ろうとするとき、真っ直ぐに頂上を目指す道が、回り道に比べて最も正しい道であるが、最も険しく困難な道であるように、正しい道であるが故に苦しい道なのです。
あなたは既に頂上の近くまで来ている。
恐れは観照されようとする自我を、未だ自己であると思っているからです。
恐れが生じたなら恐れは空であり、縁起によって出来たものであり、実体の無いものであると空を観じてもいいでしょう。
そのまま正しい道を歩んでください。
最後に、
あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
494 :金平糖 :2007/02/14(水) 11:46:33 ID:23WZ3BaY
>>492
自在さんは、仏教徒ですか?クリスチャンですか?
どちらでもあり、どちらでもない、自由人なんですね。
自由人だからどっちにもトランスできるし、超越しているんでしょうね。
499 :金平糖 :2007/02/14(水) 19:12:57 ID:nT2x6udZ
>>492 自在さん
>最後に、あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
>私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
>>494で書き漏れたので、追加。
どうして、あなたに告白することで赦されるんですか??
神だからですか?覚者だからですか?
500 :自在:2007/02/14(水) 20:56:47 ID:+wlIoOYO
>>499
私はかつて仏陀を信じる者であった。
今は仏陀の法を知り、証する者となった。
懺悔の法はかつて仏教にあった。
初期経典には紛れも無く記してある。
目覚めたものや先達の菩薩に罪を告白し、悔いたものは許される。
それが仏陀の定められた法である。
人々が忘れ去った法を再興するのも私の仕事である。
それをあかすのに、あなたの力が必要だった。
善き者よ。
あなたを祝福する。
501 :金平糖 :2007/02/14(水) 21:11:08 ID:nT2x6udZ
>>500 自在さん
信じる 証(あかし) 懺悔 罪の告白 許し(赦し)
善き者 祝福
これって、キリスト教用語ですよ。
なんか、わからんなぁ~~~~~。(笑
502 :自在:2007/02/14(水) 23:03:05 ID:+wlIoOYO
>>501
もう少しのところまで来ている。
この国にキリスト教が入ってきた時、キリスト教の用語を理解できなかった日本人は仏教から言葉を借りてあてはめた。
懺悔も罪も善き者と言う言葉も、もともとは仏教語なのだ。
そこのところは承狂師の方がくわしかろう。
若い者が知らなくとも無理は無い。
懺悔の法も忘れさられて久しい。
あなたの問いはそれをあきらかにした。
再び仏教語であなたを祝福する。
524 :金平糖 :2007/02/15(木) 09:12:01 ID:JVP4NiFD
>>502 自在さん
リンク、ありがとうございます。
>もう少しのところまで来ている。
天の御国は近いってことですか?これまた、キリスト教的発想ですね。
そうではなくて、「既にそこにいるんだよ。なのに迷いにとらわれてそれに気がつかないだけだよ。」
っていうほうが仏教的だと思いますが。
あなたに祝福していただく道理がわかりませんねぇ。
祝福している御自分を祝福していらっしゃるんですよね。自在さんの自己満足の世界ですね。
>>492で山登りの例え、brownさんとそっくり。
543 :自在:2007/02/16(金) 11:51:23 ID:by3lXTDj
今後のために自我が観照されてからのことを書いておこう。
自我が観照された時、それはもはや維持力を失って消え去る。
もともとそれはイメージに過ぎなかったのだと修行者は理解する。
そして、沈黙、静寂、安心の境地があらわれる。
これは言葉通りのものではないが、そこに達したものだけに理解できる単語である。
しかし、未だその境地を見るもの、認識が残っている。
これを観照しなければ大悟徹底の境地ではない。
白蔭禅師などが「大悟二度」とい言っているのはこの自我と認識の二度の観照を意味している。
自我の邪魔がなければ認識の観照は容易い。
修行者は今、この感覚を見ている者は何か、どのようにして見ているのかを観照するか、あるいは空観を用いて見るものは空であり、実体が無く、縁起によって生じたものであると、観じ消滅させよ。
そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
もはや為す者も為される物もない。
ただ無為にして座せよ。
全ての神秘が目覚めた者の前に開かれる。
ニルヴァーナの喜びは至上のものであるが、目覚めた者は現世に戻り、未だ苦渋に迷う衆生を救うべきである。
目覚めた者よ、願わくば多くの衆生を導かれよ。
548 :名無しさん@3周年 :2007/02/16(金) 18:30:44 ID:bNgTek7M
>>543
自在さん、マジでお聞きしたいのですが、
>そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その現れた悟りをまた認識するのですか?
現れた、ということを知覚してというのはどういうことなのでしょう?
>その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
>もはや為す者も為される物もない。
その境地のとき、その状態をどう知覚しているのでしょうか?
境地と一体となり、観察者はいないということですか?
その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
そのあたりがいまだよくわかりません。
どこまで消えるのかということが。
555 :吽狛:2007/02/17(土) 05:32:34 ID:3kcOwIXk
>>543 自在さん
「自我が観照されてからのこと」と、書いてあるので、悟ってからのことですね。
自我を観照し、沈黙し、安心の境地が現れる。これが大悟の一度目。
でも、こんなの、大悟でもなんでもない・・・。
これを、大悟思ってる人に向けて言ってる言葉だとは思うけど。
だから「観照者」という自我が残っている。
「観照者」である自我を「観照」する。これが、いわゆる大悟だと、私は思う。
けど、自我のとき「観照者」は、どこまで行っても「観照者」でしかありえない。
悟らないと、「観照者」を観照する事は不可能。
自我のまま、やれることじゃない。
ま~、はっきり言って、自在さんが説明している観照は、私には意味がないというか・・・汗
564 :自在:2007/02/17(土) 19:57:06 ID:gKqG9aS2
>>548
>その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
>こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
感覚的にはこの表現が一番近い。
理論的に表現されたものでは「唯識論」の中の阿頼耶識の消滅について書かれたものを参考にしていただきたい。
>>555 正直な所、その境地については、今はまだ判ってもらえぬであろうとは考えていた。
言葉は全て仮説であり、言葉自体を超えたところを表すにはとても不自由な道具でしかない。
しかし、悟りを得た時に、私が何を言おうとしていたのか、判る時が来る。
全ての目覚めた者の言葉、全ての聖なる教典は目覚めた後にしか本当の意味は判らない。
ただ、自我を失った後もこのように言葉を操り、思考し、意識を保つことができるということを示すことで、自我を失う恐怖も無用なものと知るだろう。
569 :迷い人:2007/02/17(土) 21:20:39 ID:i8/FEw3x
自在さんにお聞きしたいんですが、
自我を失うと意志だけで行動するように
なると思うのですがいかがでしょうか?
意志はただ「する」か「しない」かのどちらかですよね。
そこに善悪の区分もないし、強迫観念もない。
ただ、したいからする、したくないからしないって感じで。
でも自我があると、意志した後に
「しようとする」「嫌々する」「怒られるからする」
「不安で怖いからしない」「めんどくさいからしない」
って感じで自我が割り込んで来て、動機が不純になりますよね。
意志だけだと動機も純粋で、したい事がなんでも出来そうな気がします。
意志が強い人って、自我をはねのける力が強いんだろな。
いまいましい自我の出端を挫いてやりたい!!
581 :自在:2007/02/18(日) 13:10:35 ID:cmpDjPDm
>>569 あなたの言う通りだ。
自我が意志を縛り、迷わせ、人をして間違った道に足を踏み入れさせる。
そして自我を肥大させた軍人や政治家たちが虐殺を繰り返している。
小さなブリキの勲章を胸につけるために、自分の命を危険にさらし、他人の命を奪っていく犯罪者達。
自我を擁護するにせものの言葉は、今世界で起こっていることに目をそむけ、自らの自我を守るための言葉でしかない。
戦争を止めさせるための戦争、虐殺を止めさせるための虐殺を信じてはならない。
真の平和は自我の終焉と共に訪れる。
貴方達こそ真の平和を実現する者だ。
心を止める数息観や集中などの行をなし、己の心をみつめなさい。
止むことなく修行を続けるものは、いずれ自我の消滅を果たし、誰の言葉にも縛られることのない自由な意志を獲得するだろう。
584 :自在:2007/02/20(火) 12:09:53 ID:wO6Yo/gR
>>446について。
仏陀の教えは我々のみならず全ての衆生の宝であり、梵天をはじめとする天神地祇達が守っている。
そのような宝を汚すものに、容赦の無い罰があたえられるのは当然のことである。
そして、天神地祇の加護を失った者に、魔王が盗り憑く。
魔王に盗り憑くかれた者は、己の意志を失い自らを滅ぼす過ちを犯して止むことが無い。
数々の過ちを犯しながら、己は正常であると思っている。
既に他者から見れば破綻は明らかであるのに。
例えば何も知らない幼い子が台所から刃物を持ち出し、悪戯に振りまわしたらどうなるだろうか。
そのような子は刃物で自分も、他人も傷つけるであろう。
そして刃物の危うさを知る大人は、例え己の子でなくとも刃物を取り上げ、叱るであろう。
仏陀の法は人を悟りに至らしめるが、他人を欺くために用いれば自分も他人も地獄に陥れる。
刃物が台所では役立つが、幼子の悪戯に用いれば自他を傷つけるように。
目覚めた者はこの危うさを知り、何も知らぬ幼子のような者に警告を出す。
幼子と他人を傷つけまいとして。
しかし、既に魔王に盗り憑かれ、己の意志を失った者は聞かず、地獄への道を辿っていく。
そのような者は欺瞞の罪を告白し己を救おうとしなければ、仏陀も救うことは出来ない。
585 :自在:2007/02/20(火) 12:25:50 ID:wO6Yo/gR
>>543 について。
これは修行者が行く最後の関門を示したものだ。
例えば大学の卒業試験や論文のようなものである。
初心の者に対しては入学からの行を説く。
しかし、順番が逆になったわけでもない。
頓悟は初心の者にも偶然に訪れることがある。
そのような時には慌てずに、この教えを思い出すように。
偉大な仏陀・釈迦牟尼は「我が教えに師拳なし」と言われた。
仏陀の全ての教えは金で購われることなく、全ての衆生に開放される。
それはネットの上でも同じことである。
まがい物の導師たちよ、我が教えを模倣するがいい。
魔王に憑かれた者たちよ、我が教えをけなすがいい。
それら全ての行いが、仏陀の真の法を広げる役に立つだろう。
全ては仏陀の経綸の内に在る。
目覚めた者の智恵は常人には計り知ることが出来ない。
586 :自在:2007/02/20(火) 12:39:55 ID:wO6Yo/gR
発菩提心
悟りを得ようとする者は、初めに悟りを得る強い決意を持たなければならない。
これを菩提を求める心を発するという意味で発菩提心という。
修行の途中で訪れるさまざまな誘惑や、倦怠、恐れなどによって諦めてしまわないように、強い意志を最初に培っておかなければならない。
「私は必ず悟りを得るまで修行を止めない」
と、あなたの信じるものに、出来ればはっきりと声に出して誓いなさい。
大乗の道を行く者なら更に
「悟りを得た後に現世に戻って衆生を導く」
と、いうことも誓うべきであろう。
強い意志を奮い起こし、悟りを得ようと固く決意することが悟りへの第一歩である。
人は意志することで様々な不可能を可能にしてきた。
空を飛び、地を速く走り、海や川も征服して来た。
人の意志に勝る力はこの世にはない。
強い意志を持てば必ず修行を全うすることが出来るだろう。
588 :自在:2007/02/21(水) 20:40:38 ID:2cWzvV55
座法
座法とは座り方を意味する。
座法は修行の基本であり、同時に最後の行でもある。
修行の最後には修行者は全ての技を捨て、ただ座り続ける。
座法を極めた者には三昧も、無想も容易である。
修行者はまず、足の組み方を工夫しなければならない。
必ずしも足を結跏趺坐にしなければならない、ということはない。
背中を真っ直ぐにして、楽に長時間座れるのが一番よい。
片足だけをももの上にのせる半跏坐や、あぐらのように座ってもよい。
ただし背中が真っ直ぐになっていなければならない。
骨盤を床に立て、腹を乗せ、胸を乗せ、首から頭を乗せるように座る。
肩の力を抜き、頭の中心、お腹の中心、下腹の中心が、真っ直ぐに重力の方向に向かうようにすれば、何もせずとも自然に無念無想の境地に入れる。
中国ではこの三ヶ所を上中下の三つの丹田と呼ぶ。
三丹田をいきなりコントロールするのは難しい。
初心のうちは頭の中心、上丹田と、下腹の中心、下丹田だけでも重なるようにしなさい。
592 :自在:2007/02/22(木) 19:58:01 ID:kw6SBqyZ
座法Ⅱ
三つの丹田を揃える最も良い方法は、正中線を真っ直ぐに整えることだ。
体の前面を通る真中の線、鼻先、胸の中央、臍の三点を合わせる。
部屋にある垂直な柱の線などを利用し、自分の体の正中線が真っ直ぐになっているか確かめても良い。
正中線が真っ直ぐになっていれば、後は体を少しずつ動かして微調整をする。
体を動かして居るうちに、体が気持ち良くもっとも集中する所がわかる。
そこがあなたの座法の正しい位置である。
この感覚が判るようになるまで、座法の研究を続けるべきであろう。
道元禅師は禅とは只管打座であるとして、小賢しい技術は捨ててただ黙々と座りつづけるべきだと説いた。
座ることは修行の基本であり、基本を疎かにする者は大成することはない。
例えば野球やサッカーなどのプロスポーツを教えるコーチなどは、本当に選手を育てようとするなら、まず基本をしっかり教えるであろう。
そしてテクニックなどは、基本を身につけた後で教える。
それが正しい教え方なのだ。
同じように真の悟りを得ようとするなら、まず基本である座法を身につけるべきなのだ。
修行の基本である座法はいくら研究しても、し過ぎということはない。
各自、力を尽くして研究して欲しい。
594 :馬渡 :2007/02/23(金) 18:15:09 ID:zG7v6Im8
気になる点がひとつ。
観察行というテーマでいろんなやり取りがあった中で
禅の大悟を否定した文章があったと思う。
人によって方法が違っても
最後にたどり着くところは同じという考えもあるけど
実際のところどうなんだろう。
windowsを入れ直していて思ったんだが
例えば禅の大悟を
OSのクリーンインストールのようなものとしたら
観察行を主張する人って
あなたというOSは初期化できません
クリーンインストールは無理です
だから一つ一つのアプリケーションが
どのように動作してるかを把握して
原因を特定することで一つ一つ削除していくしかないですよ
という話なんだろうか。。。
瞑想も座禅もアプリケーションだから
それを動かしてるOSはそのままあるんだよ、てか。
どうなんでしょうねえ。
例えに無理があるかなあ
595 :自在:2007/02/23(金) 22:12:21 ID:H0EpV0Bs
>>594 なかなか良い例えだ。
例えは事実の一端を示していればそれで良い。
PCのシステムは人をモデルとして作られたために、参考になるところがある。
OSを自我と例えると、禅やヨーガのような集中系の行は、強い集中力によって自我を観照するのであるから、OSを力技で排除しクリーンインストールするようなものと言えよう。
観察はOSの仕組みそのものを理解してOSを排除するようなものと言えよう。
どちらにせよ、最後には自我を観照するのであるから、正式な方法として私は観察を薦めている。
多少、質問の傾向を違えてしまったようだが、これで答えになっているだろうか?
596 :自在:2007/02/23(金) 22:47:21 ID:H0EpV0Bs
無常
座法ができるようになったのなら、この世の在り様を知り、悟りに向かう意志を固めるために、無常の観想をする。
無常とは字の通り、全てこの世にあるものは常にあるといことが無く、移り変わって行き、止まるもののないことを意味している。
私のこの身も時がくれば滅びる。
そしてあなたの身はどうであろうか。
近親者を亡くしてしまった者は、この無常ということが良くわかるであろう。
人も物も、全て変化し続け、やがて滅びる。
それを逃れるためには修行して悟りを得るしかないと、深く心に思うのだ。
私は修行中は死を思うことに疲れ、修行を止めようかと思った時があった。
私も世の人々のように、死を思うより、限られた生を楽しもうと、そのような事を考えながら歩き、交差点で信号待ちをしていると、一匹の蝶が飛んできた。
蝶は車の行き交う車道に飛び出した。
そして、車にぶつかり一瞬にして消えた。
その体は一枚の羽も残さなかった。
あの蝶は恐らく何も知らずに死んでいったろう。
この世には自動車というものがあり、それにぶつかって自分が死んだという事さえ判らなかったであろう。
自分が死んだという意識さえなかったかも知れない。
何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。
その恐ろしさに私は震えた。
私にはそのようなことは耐えられなかった。
その蝶の最後は百万の経典より、確実に私に無常、死というものの恐ろしさを教えてくれた。
その後、私は修行を続け、悟りを得て死の恐怖を克服することができた。
死を克服しようと言う動機こそ、人を悟りに向かわせる最も強い力になる。
例えばあなた自身が生まれてから成長し、成熟して、やがて衰え、死に至る過程をイメージすることで、無常と死を免れぬ自分というものを意識できるだろう。
精進していただきたい。
598 :金平糖 :2007/02/24(土) 09:28:16 ID:kTj2YMiM
>>596 自在さん
>何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。
>その恐ろしさに私は震えた。
>私にはそのようなことは耐えられなかった。
悟りを得られたとのことですが、悟りを得たことによって、それまでの死の恐怖は
どのように変化しましたか?
現在、死をどのようなイメージでとらえていますか?
601 :自在:2007/02/24(土) 22:01:47 ID:gEeVMYrI
>>598
悟りを得た後、死は存在しないと知ることができた。
そして死への恐怖は消えた。
肉体の消滅は自己の消滅ではなく、変化の相の一つに過ぎない。
それは永遠不滅の意識への、ステップなのだ。
しかし、その知識を得ることが、即ち悟りを得ることではなく、副産物として得ることが出来る知識の一つだ。
>>594
この例えの良い所は多くの修行者を悩ませ、真の覚者達が言及して来た問題を明示している点だ。
PCではOSに依存しているアプリケーションは、OS自体を削除することができない。
人では自我によって行う全ての行為は、自我を補強するだけで脱落させることが出来ないということだ。
それ故に観照というものが必要になる。
この観照は観察の一種であるが、自ら引き起こすことは出来ない。
これをクリシュナムルティは見ることと呼び、オショーはアウェネスと言い、鈴木大拙は看と呼んだ。
PCに例えればOSの働きを止め、BIOSからの指令を待ってOSを削除するというような感じになろうか。
自我の働きを抑え、自然に湧き起こる観照だけが自我を消滅させ得る。
この観照はとても大切なものであるから、別に一項を設けて言及する。
今日はこれまで。
602 :金平糖 :2007/02/24(土) 23:06:21 ID:Pa8bIUaO
>>601 自在さん
>肉体の消滅は自己の消滅ではなく、変化の相の一つに過ぎない。
>それは永遠不滅の意識への、ステップなのだ
永遠不滅の意識ですか・・・・・・・・。
輪廻のことをおっしゃっているのですか?
ブッダでさえ「死後の世界」については沈黙を通したらしいですよ。
自在さんのお話って、どうもキリスト教的解釈としか思えないんですが。
もし、例え肉体は滅んでも「自分の意識(魂)」は後世に受け継がれるということを言わんとしているとしても、
「あなたの意識(魂)」というのはそれを受け継いだ(受け継ぐ)人間の意識(概念)によるものではないでしょうか?
「永遠不滅の意識」ということ自体、自在さんの概念であり信仰に過ぎないと思いますが・・・・・・・。
604 :自在:2007/02/25(日) 19:54:46 ID:m8v/Q6Xw
>>602
あなたの質問に答えるのは容易であるが、>>524のような反応を考えると、あなたは私の話を聞こうという気はないようだと、思わざるを得ない。
だから逆にあなたが私に教えて欲しい。
Ⅰ 私は輪廻を知って死の恐怖を克服したと書いただろうか?
Ⅱ 仏教において輪廻と悟りはどのような関係であると説かれているか?
Ⅲ キリスト教は輪廻の概念を肯定しているだろうか?
Ⅲ キリスト教は神を信じないものが修行によって救われると教えているだろうか?
Ⅳ 仏陀は死後の世界を説かなかったと言うなら、「ダンマパダ(法句経)」の次のような詩句は何を意味しているか?
テラワーダ協会による和訳「ダンマパダ」
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhammapada-jp.html#10
棒の章より
131
安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害する者が、自己の安楽を求めるなら、死後に、安楽を得ることはない。
132
安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害さない者が、自己の安楽を求めるなら、彼は、死後に、安楽を得る。
悪の章より
或る者たちは、〔母〕胎に再生する。悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔堕ちる〕。善き境涯(善趣)の者たちは、天上に行く。煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。
Ⅴ あなたに仏陀は死後の世界を説かなかったと誰が教えたのか?
Ⅵ あなたに嘘を教えた者をこれからも信奉すべきだろうか?
正直な所、あなたの才能は教義とは異なる所にある。
あなたには実務の素晴らしい才能がある。
今後はそちらの才能を発揮して欲しい。
605 :自在:2007/02/25(日) 20:05:49 ID:m8v/Q6Xw
数息観
数息観は集中力をつけるために非常に良い。
観察が本道であるが、集中力の無い一般の人間には観察自体が困難だ。
集中力を増し、雑念を静める力を養うために、数息観を止の行としてお薦めする。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていく。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数える。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻る。
簡単であるが効果は非常に高い。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けてほしい。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなる。
そして、日常生活でも落ち着きが出て、不意の出来事でも慌てないようになる。
精進していただきたい。
606 :自在:2007/02/26(月) 22:28:05 ID:FHXYPjOS
数息観 雑念の処理
数息観などの瞑想をしていると、必ずといっていいほど悩ませられるのが雑念である。
瞑想をしていたはずなのに何時の間にか、全く別のことを考えていたという経験は多くの方がしているだろう。
これらの雑念を処理するコツは無視することである。
雑念を止めようとか、抑えようとすればそれが新たな雑念となる。
それよりも雑念が生じても、無視して息を数えることに集中する。
そのようにすれば、次第に雑念は少なくなり消えていくだろう。゜
雑念ばかり頭に浮かぶからといって、怒ったり、焦ったりする必要はない。
ただ確かな信念を持って修行を続ければ、次第に集中力が付き、雑念を完全に処理することができるようになるだろう。
607 :吽狛:2007/02/27(火) 08:51:43 ID:7hLBQB93
めちゃ、庶民的な事を、悟り開いた人に尋ねたい。
ある日、ウチの子供に、ダンナが
「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
と言って、子供の鼻をつまんでいました。
子供は、まだ0歳なので、言葉とか分からないので、
「?」というような顔をして見てるだけですが、
一応、その時は、「○ちゃんは、このままでかわいいよ。」と子供に言った。
今は言葉が分からないから、なんともないけど、子供が、大きくなって、
言葉が分かるようになって、そういう事言われたら、傷つくかもしれない。
いや、本人じゃないので分からないから傷つかないかもしれないけど、傷つくと、私は思っている。
そういう場合、覚者さんは、どういった対処をするんでしょうか?
609 :名無しさん@3周年 :2007/02/27(火) 09:34:52 ID:p/VfhKwb
>>607
自分がそう思っているのなら、夫の奇行を戒める事だ
610 :自在:2007/02/27(火) 20:55:27 ID:L2vf18Sg
>>607 は >>609の言う通りだ。
子供を守るために夫であっても、もう少し積極的に止めてもいい。
子供には言葉がわからなくとも、両親の心は伝わる。
子供が寝る前に、あなたはとても良い子だと話しかけてあげなさい。
612 :自在:2007/02/27(火) 21:13:55 ID:L2vf18Sg
数息観 三昧(サマーディ)
数息観を熱心にやっていれば、雑念がやがて止まり、完全な無想の状態が現れる。
外部からの刺激にも心が動かされない完全なる集中状態を、三昧(サマーディ)と呼ぶ。
この三昧は昔からよく悟りと間違えられてきた。
悟りを得たと勘違いする者の多くは、この三昧を経験しただけの者だ。
しかし、悟りと三昧は明らかな違いがある。
三昧は一時的な経験に過ぎない。
悟りは精神の恒久的な変化である。
例えば行をする前に借金や、体の痛みに悩まされていた者がいたとしよう。
三昧の途中では世俗の悩みや痛みを忘れていても、三昧から覚めると又、悩みや痛みが戻ってくる。
悟りを得た者は、もはや悩みや痛みには苦しめられることはない。
それらが消えてしまう訳ではないが、もはや目覚めた者を煩わす苦ではなくなる。
これが三昧と悟りの違いである。
悟りを求める者は、三昧に止まらず、真の悟りを求めて更に修行を続けるべきであろう。
613 :金平糖 :2007/02/27(火) 22:20:41 ID:nfsJIv0u
>>604 自在さん
解脱者は、「私は解脱した。」とは言わないそうです。
私が申し上げたいのは以上です。
また、以下も参考にされたし。
614 :名無しさん@3周年 :2007/02/28(水) 00:20:06 ID:CV9LEIqy
>>613横レスでスマンのだが、
>604での
>あなたは私の話を聞こうという気はないようだと、思わざるを得ない。
という書き込みが当たっていたことを実証したわけですな。
>解脱者は、「私は解脱した。」とは言わないそうです。
例外なくそうなのか、その妥当性はどこに求める?
自在さんかHPか、はたまたキリスト教、仏教、
都合の良い事を選択して信じたいだけのように見える。
酔っ払いで「俺は酔ってねぇ」って言う奴は一杯いるのは確かだけど。
615 :金平糖 :2007/02/28(水) 07:43:17 ID:rgyHnrFO
>> 614
http://www.j-theravada.net/qa/qahp68.html
を読んでいただけたでしょうか?
大事なのは、以下の部分です。
>私という錯覚、『自我』という錯覚はなくなっているので、『自分』を表現しない。
>発表しない。他人に認めて欲しいという気持ちは完全に、全くもありません。
>だから、自分で「解脱した」言わない、言えないのです。
悟り=忘我とも定義できます。
自我が落ちて主客未分離の状態なのですから、指導する者(自在さん)、指導される者(ロムしている私達)という
構造自体おかしくはありませんか?
掲示板と言う性質上、何らかの言葉(概念)で表現しなければならないという制限は受けますが、
ここに書かれている自在さんの言葉は自在さんの概念(観念)に過ぎません。
勿論、仏教の知識もキリスト教の知識も沢山お持ちの方だというのはわかりますが、
その内容(概念)に「仏教とキリスト教」がチャンポンになっているのでは?と思うところが多々ありました。
また、仏教の知識が多い、方法論に詳しいのは素晴らしいことだと思いますが、そんなに難しい言葉や
文章で表現しないと悟れないの?っとも思いました。
もし難しいことだとしても、その難しいことを平易な言葉で簡単に説明できるのでは?とも思います。
もっとも、これは私の願望ですが・・・・・・・・・。
>自在さんかHPか、はたまたキリスト教、仏教、
>都合の良い事を選択して信じたいだけのように見える。
自在さんがどういう方なのか私にはわかりません。解脱者といのも自在さんの自己申告ですから・・・・。
もし、どちらを信じるのか?と問われれば、『今は』、少なくても所在のはっきりしているテラワーダ協会HP
かもしれませんが、最終的には自分で確かめるしかないでしょう。
悟りもそんなのんじゃないでしょうか?100人いれば100人の悟りがあるはずですから。
616 :名無しさん@3周年 :2007/02/28(水) 08:34:02 ID:CV9LEIqy
>>615
ちゃんと読んだ上でレスしたよ。
引用部分には論理的帰結は見出せない。
>『自分』を表現しない
ことと表現できないこととは積極性の有無という点でまったく異なっている。後半の
>「解脱した」言わない、言えないのです。
と両方を無理矢理結び付けている。
特に、その後に続く、
>第三者に「この方が解脱者です」と言える。
>これを言うために言う人は解脱していないとできません。
ここは完全に間違っている。
悟っていない俺だって「金平糖さんが解脱者です」と言うだけなら言える。
そのとき第三者は何を持ってこの両者が悟っていると判断する?
>自我が落ちて主客未分離の状態なのですから、指導する者(自在さん)、指導される者(ロムしている私達)という
>構造自体おかしくはありませんか?
それとて、あなたが作り出しているあなたの構造。現にあなたはあちこちで質問をしている。
>その内容(概念)に「仏教とキリスト教」がチャンポンになっているのでは
あなたの知識がそう結び付けただけ。あなたが自在さんの言葉を信じるか選択する際、
仏教やキリスト教というオーソリティによる裏づけを求めたからそうなる。
選択的に信じることより、批判的批判・批判的肯定をきっちり行うことのほうが
清濁入り乱れている宗教・思想関係の理解には役立つと思うよ。
617 :金平糖 :2007/02/28(水) 09:11:37 ID:rgyHnrFO
>>602
>悟っていない俺だって「金平糖さんが解脱者です」と言うだけなら言える。
>そのとき第三者は何を持ってこの両者が悟っていると判断する?
すみません、私は悟ってませんよ。悟っていないから自在さんが悟っている人かどうかはわかりません。
ただ、なぜ自在さんが御自分の意見をそんなに表そうとするのかわかりません。
「わからないのは、あなたがわかろうとしていないからだ。」といわれればそれまでですが・・・。
もちろん、自分(この私)が正しいとも思っていません。また、自分の概念を第三者に
押しつけようとも思っていません。そもそも、押し付けられるわけがありませんから。
あなたのご指摘には感謝いたします。ありがとうございました。
618 :614 :2007/02/28(水) 10:34:56 ID:CV9LEIqy
>>617
意図が伝わってないようですね。
まぁ、いいや。
619 :吽狛:2007/02/28(水) 12:43:11 ID:cjdstMFJ
>>609 >>610
「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
と言っているダンナに、どう言って止めたら良いと思いますか?
それとも、殴るとか?(汗
今まで、全く、積極的に止めてこなかったわけではなく、
言い方を変えて、いろいろ言ってきたんだけど、忘れてしまうのか、
言い方が優しすぎたのか?また、同じような事を子供に言うんです。
だから、ダンナの行動を止める、もしくは変えるのは、不可能なんではないかと思いました。
でも、言い続けるべきなのかな?
変わることはなさそうだけど・・・・。逆に、ひねくれてしまうかも知れん(汗
620 :承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/02/28(水) 13:18:27 ID:6VH3zN3u
家族なんだから、痛みを分け合いましょ♪
って言って、旦那にも洗濯バサミするとか?
621 :吽狛:2007/02/28(水) 14:48:24 ID:cjdstMFJ
いや、実際、鼻に洗濯バサミする事はないと思うけど(笑)
鼻に洗濯バサミする事を止めるんじゃなくて、
「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
というバカな発言を止めるには、どう言ったらよいのでしょうか??
625 :自在:2007/02/28(水) 20:43:09 ID:OpT55d0E
>>621 同じ言葉で何度も何度も言いなさい。
「そんなことを言わないでほめてあげて」などの言葉を、何度も繰り返し告げるのです。
千回ほど繰り返せば、大抵は修正される。
これは仏陀が子息を諌めた時に使った技だ。
子供が少し大きくなって、危ない行動を注意するときなどにも使うといい。
626 :自在:2007/02/28(水) 20:45:48 ID:OpT55d0E
>>618 ありがとう。素晴らしい論理だ。
627 :自在:2007/02/28(水) 21:28:32 ID:OpT55d0E
>>617
あなたの言葉は意図するところと反して、かえって私の言おうとしていることを質問するような形になっている。
あなたがいろいろと活躍してくれたおかげで、まがい物の導師達は消え、ここは私のブッダ・フィールドになった。
これも仏陀の経綸の一部なのだ。
あなたの自我には理解できないかも知れないが、あなたの潜在意識は私という本物の目覚めた者にあって震え、恐れながらも質問を止めることができない。
全ては定められた通りに進行している。
あなたの質問通り、私がどうして教えを説くのかを語ろう。
例えば昔、汚れたどぶに落ちた経験のある者の子供が、同じどぶに落ちてしまったとしよう。
親はどぶが汚く、危険に満ちたところであると知っているから何とかして子供を助け出そうとするだろう。
同じように目覚めた者にとって衆生は全て我が子であり、汚濁の世にあって苦しむのを見て法を説く。
私自身、世にあって死の恐怖や執着の悩みに苦しめられた。
それがどれほど強力に人を苦しめ、悩ませるかを知っている。
そして最後には死によって、全てを失うという最大の苦痛が待っている。
だからかつての私のように同じ苦しみを抱える者に法を説くのだ。
そして、先ほどの例のどぶに落ちた子供を助けるのに、あまりにも深くて子供自身が努力して這い上がらなければならないようなどぶであれば、親はいろいろと言葉をかけてやるだろう。
「私はそのようなどぶから抜け出た。お前もそうしろ」という親もいれば「私はまだどぶから抜けていないが、そこから抜け出す法をしっている」という者もいるだろう。
私が師として言動を模範とするのはただ仏陀・釈迦牟尼だけであり、他の者達は参考にはするが、基本的に何を語ろうが関係はない。
そして釈迦牟尼は自らが解脱したと、はっきり語られた。
故に私もそのように語るのだ。
631 :自在:2007/03/01(木) 21:40:32 ID:NObbqZZo
観察
心を止める数息観で、雑念を処理することが出来るようになったなら、そろそろ観察を行ってもよい。
観察をしながらも数息観は続けていくべきであろう。
数息観によって集中力を養いながら、観察もしていくと、成長は早い。
観察は初心の者がいきなり心の中をみるというのは困難である。
故に肉体などの外から内へ、粗大なものから繊細なものへと観察していくのが判りやすい道だ。
そうすることによって観察するということも学ぶことが出来る。
まず数息観を行い、雑念が無く、集中力が増した状態で、あなたの手を観察してみなさい。
初心の者は心の中で言葉にして観察してみるのもよい。
手や指という言葉を使わずに表現してみるのだ。
「これには五本の突起がある。それには曲がるための皺がある。先の方には固いものが覆っている・・・」
などというように判りきっているようなことでもよいから、出来る限り細かく、詳しく観察していく。
そのように観察していると雑念が起こるが、数息観によって雑念の処理が出来る者にはすでにそれは邪魔にはならないはずだ。
例えば手にキズなどがあり、それを見て「このキズは子供の頃、車に轢かれたキズだ。あの時は大変だった・・・」などと考えてしまうのが雑念である。
観察は今、ここにある物だけを純粋に見つめる行為だ。
雑念と観察は明確に区別して修行を行わなければならない。
632 :自在:2007/03/02(金) 21:38:02 ID:lF1a/kYP
観察Ⅱ
手の観察を真面目に行えば恐らく注意力のある者は、その力に驚くだろう。
ただ手を観察するというだけでも、大きな効果が得られる。
それがどんな効果なのか、自ら確かめていただきたい。
手からはじまった観察は腕、肩、体、足、頭、顔、そして眼に進んで行く。
鏡を使って顔や、眼を観察するのも良い。
肉体の全てを観察し終えたとき、ある資質を持つ者は、既に自我の脱却を果たしているかも知れない。
そのときは慌てずに>>543を思い出して、認識の脱落を目指して欲しい。
肉体の観察が終わっても自我を滅し切れない者は、続いて感覚、感情、思考、意志、認識の観察に進んでいただきたい。
この違いはただ自我を何に同一化しているか、という違いに過ぎないので、修行者は余計な劣等感、優越感を持たずに修行に専念すべきであろう。
635 :自在:2007/03/03(土) 21:12:51 ID:/ASh5eSa
観照
この辺で観照について書いておかねばなるまい。
観照は観察の一種ではある。
しかし、通常の観察と違うところは以下の二点にある。
Ⅰ 意識的にではなく、無意識的に行われる。
Ⅱ それは観察者そのものを観察する。
これをまとめると、観照とは無意識的に観察者を観察する行為であると言えよう。
これは言葉にすると難しいが、実際には多くの者が大なり小なり経験している。
例えば旅行などに行った時、今まで悩んでいて結論が出せなかった問題が、状況を離れて自分自身をも客観的に観察した結果、結論を出すことが出来たというようなものでも、小規模だが観照の一種といえよう。
このような場合でも自分を客観的にみようとするのではなく、無意識的に頭に浮かんだ自分自身を含む状況を客観的に見ることによって観照はできる。
前述のように自分を客観的に観察しようとすればするほど、かえって自我の介入を招いてしまうので観照は困難となる。
しかし、この観照を起こしやすくするのは、やはり観察を続けることなのだ。
観察を続けることによって、いずれ無意識のうちにも観察が働くようになるだろう。
そしてその観察が自我に向かった時、観照は起こる。
その時まで、あきらめることなく精進していただきたい。
637 :自在:2007/03/04(日) 21:44:30 ID:RVjQe+sN
観察 感覚の観察
感覚を観察するのには、長く響く鐘の音などを聞く方法が良く使われる。
集中力を保ったまま、聴覚を観察できる良い方法だ。
まず、出来るだけ長く響く鐘を用意する。
パソコンなどの音でもよい。
自分で叩かなくとも、定期的に音が鳴るようにするのが理想的だ。
肉体の観察と同じように、数息観を行い、集中した状態で鐘の音を聞く。
その時、音、音に反応する耳、耳からの刺激によって起こる心の動きなどを詳細に観察していく。
その他の視覚、触覚、臭覚、味覚なども、大体同じように、感覚の対象、感覚器、感覚主体を観察する。
各自工夫して観察していただきたい。
638 :自在:2007/03/05(月) 22:41:16 ID:GrQKU+dw
観察 感情の観察
観察もこの辺りから困難になってくるであろう。
感情を観察するという行為そのものに、強い反発を感じる者もいるだろう。
その反発自体が、感情を自己と同一化しているせいなのだが、感情の満足を求めて今までの人生を過ごしてきた者にとっては、感情の観察は人生の目的をも破壊されるような感覚を受ける。
その他にも感情を心に起こし、それを観察する間もなく、感情に引きずられてしまう者もいるだろう。
このような時こそ、己が何故、悟りを得ようと決意したのかを思いだし、発菩提心を発揮して集中して修行していただきたい。
感情の観察では心の中にある感情を引き出し、それを観察する。
喜怒哀楽といった感情を呼び覚ますのだが、過去の記憶を思いだし、感情に流されないようにしながら、今の反応を観察するというむずかしいことをしなければならない。
初心の内は悲しみや喜びというような穏やかな感情から、観察をしたほうがいいだろう。
精進していただきたい。
642 :自在:2007/03/06(火) 21:38:28 ID:mX2dh3RZ
観察 思考の観察
思考を観察するのは数息観で行った、雑念の処理を無視するのではなく、見守るかたちにすればできる。
生じては消えていく思考を、ただ見守る。
そこに批判や意見は付け加えてはならない。
ただそれが生じては消えていくさまを見続ける。
思考の対象、思考という行為、思考する主体を見る。
それがどこから起きて、どのような作用を及ぼすのか、詳細に見つづけて欲しい。
643 :自在:2007/03/06(火) 21:48:26 ID:mX2dh3RZ
自我の同一化
この辺で自我の同一化について書いておく。
体や感覚、感情、思考、意志、認識などのどの部分に自我を同一化しているのかは、人によってかなり違う。
ある者は自分を感情と同一であると感じ、他の者は思考こそが自分自身であると考えている。
われ思う、故にわれ在りと言葉を残した古代の哲人は、その思考に自分を同化していたのだ。
私自身は認識に自分を同化していたと、悟りを得てから判った。
あなたの自我がどの部分に同一化しているかは、あなた自身が探り出さねばならない。
一度それがわかったら、それをみるだけで、自我の離脱がはじまる。
精進していただきたい。
645 :自在:2007/03/09(金) 20:37:18 ID:BbmCJd7H
観察 意志と認識
この意志と認識の観察からは特に難しくなってくる。
この二つはすでに表層の意識をはなれ、潜在意識の部分で働いているからだ。
人間が何かを認識し、選択して意志を発動させるまでの動きは、殆どが潜在意識で決定されている。
認識から意志決定に至るまでの心の動きを観察するのは。非常に困難なことだ。
その原因は早さにもある。
人が例えばリンゴなどを認識すれば、瞬時にそれがリンゴであり、リンゴという名前やリンゴに間しての記憶が蘇る。
その過程を観察するのは非常に強い集中力が必要となる。
真の悟りを得ようとする者は、行住坐臥の全てにおいて己の心を見守り、修行に専念すべきであろう。
これで私の教えは終わりだ。
ここに示したのは、多くの者が悟りを得た古来の修行法の、おおまかな解説に過ぎない。
しかし、それでも真摯に悟りを求める者には、役に立つはずだ。
死から逃れる道は確実に存在する。
愚かな者はそれを笑い、死ぬ時になって泣くが、賢いものは修行を続け、死ぬ時になって笑うことができるだろう。
死は消滅ではなく、永遠への扉であったと知って。
649 :名無しさん@3周年:2007/03/11(日) 19:37:26 ID:Pdm77Hxx
覚醒された方に質問ですが、参考になる書籍があれば教えてください。
よろしくお願いします。
652 :自在:2007/03/11(日) 20:30:24 ID:juZifynh
>>649 オショー 昔はバグワン・ラジニーシと言った。
クリシュナムルティもいいが、少し難しいかも知れない。
他にも悟りを得て本を書いた者はいるが、この二人が一番理論的だ。
後はダンマパダ(法句経)などの初期経典を読んでいただきたい。
653 :名無しさん@3周年:2007/03/11(日) 20:30:48 ID:HQC6fI9m
覚者に聞きたい。
空とはどんな感じですか?
659 :自在:2007/03/12(月) 20:36:06 ID:9at+7UTO
>>653 良い質問だ。
空にはどのような感覚もない。感覚があれば空とは言えない。
空を観じるのは悟りを得るためのテクニックであり、一般論ではない。
一般人が全ての物は空だと茶飲み話で語るのは間違いだが、悟りを得ようとする者が物は空であると観るのは正しい。
唯識論では全ての物は空だと考えることを、空見に我執するといい「物事を空であるという概念を抱いてはならない。概念を破するのが空である」といさめている。
止観の観に属し、天台では空観を正式な観法にしている。
観察が苦手であったり、金や名声などにどうしても執着して修行が困難な者はこの空観を修行するといい。
空観を修行するにはまず、空性を体得しなくてはならない。
目の前に何か物を用意して、それが空であると見なす。
リンゴならリンゴを用意し、それが「皮と果肉と種の集まりであり、木の栄養と日の光と水によって出来たものであり、有るものではなく、無いものでもない」と観る。
何度も何度もそのように観じていると、やがてリンゴを見ても名前が思い浮かばず、それに関するイメージも思い浮かばなくなる。
リンゴが消えてなくなる訳ではないが、それを見ても何も感じなくなる。
それが出来たら今度は体、感覚、感情、思考、意志、認識などが空であると観じていく。
この辺は般若心経などが参考になるだろう。
金や異性などの執着する対象を空と観ることで執着を消すこともできる。
観察が苦手な者も、空観なら出来るという者も多い。
精進していただきたい。
672 :自在:2007/03/14(水) 19:48:27 ID:MpqgkpF2
空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
観察のところで書いたように、観察と空観の違いはテクニックが直接的であるか、間接的であるかの違いに過ぎない。
空観は能動的であり、受動的な観察が苦手な者はこちらを選ぶといい。
仏陀の法は全人類の宝であり、全ての衆生に無償で与えられる。
それはこのネットの上でも変わりは無い。
私はあなたたちにチャンスを与えた。
死から逃れる法を知るチャンスを。
偉大な仏陀・釈迦牟尼が言われた通り、目覚めた者は道しるべとなり、悟りにたどり着く道を教えるのみだ。
そのチャンスを生かして悟りを得られるかどうかは、つねにあなた自身が修行をやりとおすことができるかどうかにかかっている。
673 :自在:2007/03/14(水) 20:08:18 ID:MpqgkpF2
無常 死の考察
人間という存在にとって、死は常に前途にそびえたつ壁であった。
その壁の前に全ての者がひれ伏し、消えていく。
この絶望の前には金も、権力も、名声も何の意味もない。
世のものは多くがこの金、権力、名声を求めて止まないが、この死という観点から人の一生を見直してみれば、これらが何の意味もないことが判るだろう。
例えばルールの違うゲームを終わったあとで知らされるようなものだ。
人々がボールを手に持ち、ゴールに入れるゲームをして多くの点を得る。しかし、ゲームが終わってみれば審判がこれはサッカーであり、得点は無効、選手は永久に出場停止とされる。
これが多くの人間の置かれている状況だ。
人々はこの世に生まれていやおう無く金、権力、名声、異性などを争うゲームにまき込まれる。
しかし、死が近づけばそれらが何の意味もなく、ただ失ってしまうだけのものであることに気付かされる。
この世はまるごと大きな罠なのだ。
二度と戻っては来ない貴重な時間を、失われてしまう物のために使ってはならない。
あなたが修行によって集中力を高め、自己の存在の根底まで透徹した時、自己がこの失われていく体に限定されるものではなく、大いなる海のごとき存在であることが実感される。
その時、死は大海のはしでたわむれる波のような小さな変化の一つに過ぎなかったと気づくだろう。
そしてあなたは目覚めた者、仏陀となる。
674 :名無しさん@3周年:2007/03/14(水) 22:39:53 ID:rqNoLclR
仏陀にならなくても苦しみから開放される生き方が有って、それが仏教だろ。
そのために苦しむなんて馬鹿げてる。
覚者ってのは生まれつきそうなる定めが有って、本人にとってそれは偶然の出来事なんだよ。
悟るために修行をすればするほど遠ざかっていくのが悟りだと思う。
日々を懸命に生きるのも大切。それが中庸というものだろ。
677 :自在:2007/03/15(木) 22:47:20 ID:MWEuQ5JZ
クリシュナムルティ学友会
正田大観氏による和訳ダンマパダ(法句経)
第二十二章 地獄
306 事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいはまた、為しておきながら「〔わたしは〕為してない」〔と〕言う者も、〔地獄へと近づき行く〕。
彼らは、死してのち、両者ともどもに、下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において、等しきものと成る。
仏陀の法において偽りを書いてはならない。
悟りを得る以外に苦しみを逃れる道があると仏陀は説いただろうか?
修行は苦しいものであると仏陀は説いただろうか?
世の快楽を離れ、苦行も離れた道を仏陀・釈迦牟尼は「中道」と説かなかったか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93
中庸は儒教の教えではないのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8
悟りを得られるものは定められていると真実ではないことを教えた者は誰か;?
あきらかに間違っている言葉を真実と認めるのはなぜか?
自分自身の言葉を飾るのか、あるいは同じ邪悪な教えを受けているのか?
目覚めた者の智恵は人の及ぶところではない。
全てを見ぬきながら、あわれみから暴いたりしないだけである。
邪悪な教えをはなれ、真の仏陀の言葉に帰依せよ。
679 :670:2007/03/15(木) 23:46:51 ID:G2N06drK
>>672 空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
私はとくに瞑想も自分探しもしない。悟りにも執着しない。
表現が難しいが簡単に言えばこういうことですか?
自己は空の一部であり同質である。また自我は対極にある。
自分を探ることで空を知ることができるし、対極の自我の視点からは
空のすばらしさを知ることができる。
680 :自在:2007/03/16(金) 21:22:03 ID:KOpdETTo
>>679
一字訂正する。
「空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのを促すという手順に変わりは無い」
これは空観に対する包括的な解説に過ぎない。
この言葉の意味は悟りを得た後にわかるだろう。
修行中の者にはむしろ空を楽しんでほしい。
自分の体に空を観じ、自分の体が空であることを楽しむ。
自分の感覚にに空を観じ、自分の感覚が空であることを楽しむ。
自分の感情に空を観じ、自分の感情が空であることを楽しむ。
自分の思考に空を観じ、自分の思考が空であることを楽しむ。
自分の意志に空を観じ、自分の意志が空であることを楽しむ。
自分の認識作用に空を観じ、自分の認識作用が空であることを楽しむ。
このように空を楽しめば、いずれ観照が起こり、悟りは自然にやってくるだろう。
681 :醤油:2007/03/16(金) 23:39:54 ID:FbfhAYQR
いつもロムしておりますものです。自在さんにならい、息数観をしています。
止観すれば目の錯視も止まります。という例を載せてみます。
次のWebの錯視を止観で止めてみてください。なかなか面白いですよ。
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/index-j.html
684 :自在:2007/03/18(日) 20:54:19 ID:0V6Ikfj/
>>681 ありがとう。
面白いサイトだ。
お気に入りにいれさせてもらった。
685 :自在:2007/03/18(日) 21:01:45 ID:0V6Ikfj/
空観と観察の違い。
それは例えば散らかった部屋で物を探す方法の違いと言えようか。
ある者は部屋を詳細に見ることでものを探し当てようとする。
他の者はとりあえず部屋を片付けて、自然に出てくるのを待つ。
部屋をそのまま見るのが観察であり、片付けてからというのが空観と言えよう。
物を探すのであるから、見つめるのが本道であろう。
しかし、片付けてから見つけるというのも悪くは無い。
どちらを選ぶのかは修行者個人の好みや、適性による。
自分にあった方法で精進していただきたい。
687 :白ふくろう:2007/03/18(日) 22:41:47 ID:Ba2h9kvh
>>685
空観と観察
観察は、生きてる自分が自分以外のことを観る。
空観は、生きている自分そのものを観る。
ってのはどうですか?
690 :自在:2007/03/19(月) 20:46:28 ID:e/J2iS/V
>>687 面白い。
少し言い換えてみよう。
観察は今、ここにあるものを観察して見つかるのを待つ。
空観はいらないものを片付けて見つかるのを待つ。
どちらも言葉の通りではないが、このような感じであろうか。
先ほどの例えにはまだ続きがある。
どちらの方法で探しても、探しても目的の物は見つからない。
そのうちに探している物が何であったのか、忘れてしまう。
探し疲れて、ふと、顔の前に手を伸ばした時、メガネをしていたことに気付き、同時にそれが探していたものだと気付く。
滑稽な話だがこのようなことが起こるのが頓悟というものだ。
探し物は実は目の前にあり、それを通して探していたのだ。
そして、探していた物が何であるのか、探し当てた時にしか判らない。
悟りを求める修行は自分を探すゲームと言えよう。
それがどのようなものなのかは、それが目の前にあり、それを通して見ていても、見つけるまでは判らず、迷い続ける。
困難なゲームではある。
あなたが心や体のどの部分に自我を同一化させているかは、あなた以外の誰にも判らない。
それが判るものはあなた自身しかいないのだ。
仏陀の法においてはあなたを救い得るのは、あなた自身しかない。
あなたの救世主はあなた自身だ。
迷わず精進していただきたい。
706 :自在:2007/03/20(火) 20:58:48 ID:qGM6mgPQ
自我同一性
観察、又は空観によって自我を見出そうとすれば、さらに自我の同一性について深く踏み込んでいかなければならない。
自我の同一性とは即ち、あなたが何をもって自分であると認識しているかを意味する。
あなたとは一体何だろうか?
体であろうか?
体だけがあなたであり、他に自分と呼べるものはないのか。
或いは他の感覚や、感情、意志、認識などの心の作用があなたの本体であろうか?
この問いに言葉で答えを出す必要は無い。
言葉による回答は何の意味も無い。
それが見られた時、観照が起こり、悟りが得られるのだから。
多くの者が誤解しているようだが、悟りとは何物かの知識や見解を得ることではない。
知識は悟りではない。
見解も悟りではない。
知識や見解には対象があり、それ自体も無常であり縁起によって生じたものに過ぎない。
観察や空観の目的も、自我についての知識や見解を得ることではない。
観察や空観そのものが、対象と自己に及ぼす作用を狙った行為なのだ。
その為には自らの自我を突き止めねばならない。
あなたとは何だろうか?
多くの真の導師達が放った問いを、私も何度も繰り返す。
あなたとは何だろうか?
722 :自在:2007/03/21(水) 20:39:59 ID:JBCx+gsc
悟りによって何が得られるのかを、初めに書いて置くべきだったかも知れない。
多くの人は死を恐れ、或いは真理を知るために、悟りを得たいと思う。
死を恐れ、生きることの意味を知りたいという小さな望みだ。
しかし、悟りを得たときに受け取るものは、計り知れないほどに大きなものだ。
これについて昔から伝わる美しい例え話しがある。
あるところに金持ちの息子がいた。
かれは家を出てよその国に旅に行き、とても苦労をして浮浪者、今のホームレスになってしまった。
彼はさまざまな家の前で食を貰い、ようやく生きていた。
そして、彼はいつしか自分が生まれた家に戻っていた。
彼が家の前に立って食を貰おうとすると、父親である金持ちは直ぐに彼を息子であるとわかった。
そして息子を家に招き入れ、全ての財産を譲り渡した。
ただ死を恐れ、悟りを得ようと願う者は一食のご飯を求めるホームレスのようなものだ。
しかし、そのような者も悟りを得た時、自分が全てを受け取っていると気付く。
全てを。
全てなのだ。
今、外に出て上を向けば見える空の全て。
今、人々の足元を支える大地の全て。
そして今、この存在する空間と時間の全てが、本当はあなたのものなのだ。
それは概念や思考ではなく、例えば右手で左の手を触るような確かな実感として認識できる現実であり事実なのだ。
区別の幻想を離れたところには、永遠の喜びがある。
この文を読む全ての者が速やかに悟りを得て、真の喜びに到達するように。
723 :白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/21(水) 23:08:06 ID:gVMFFEmy
>>722
まるで私の学生時代の話みたいだな。
有り金10万円ほどもって3ヶ月ほど、北海道東北へと旅に出ました。若いころ特有の熱病でしょうか。自分がいやになりまして。
最初は不安ですが、いざ、家を出てしまうとなんとかなるもんです。
寝袋、一人用テント、下着、食器、ガソリンコンロ背そして地図帳と。少しかっこよく言うとホームレス・ライフです。
都会は避け、田舎に向かいます。道に迷うと畑仕事のおばあさんに道を尋ね、たいてい「一人で?どこから?」と尋ねてくるので、
「一人で歩いてきました。」と言うと、おばあさんはにっこりし、ご飯いただいたり家に泊めてもらえたりしばしばで、自分には何もないのでおばあさんの話し相手します。
でも、そんなの物貰いは10日に1回あるかないか、特に人気のない山を選択しましたので。
実際は汚いもので、寝る場所は学校の倉庫、無人駅やバス停の待合室、山の非難小屋です。あるいは背負っている一人用テント、道中で風呂にあたればラッキーで、食料は、駅の場合便所の手洗い場で米といで、ガソリンコンロで朝に一日三食分のご飯たいて出発です。
歩きつかれて苦労感じる余裕もありません。ただ、自分の力だけでどれだけ歩けるのか試したかった。
でも、ホームレス・ライフを追及しても、自分一人では絶対に歩けないんですよね。
一人旅は自分しか話し相手がいない。テントは誰が作った?米は?歩いてる道は誰が切り開いた?と自問自答する。
もっと人の助けを借りないところ、吉野から那智へ山伏の奥駆けを一人で雪の中、飯も全部背負い、ある意味、山伏以上に山伏したけれども、やはりそこには切り開かれた道がある。気がついたら日本中旅してました。
いけどもいけども人がかかわってきて、もうそろそろ家に帰ろうと思う気に負けてしまう。
生きれない。
一人では生きれないのだ。
結局は生きて家に帰ってしまっている自分がいた。
726 :自在:2007/03/22(木) 21:41:01 ID:3nSOCbIl
>>723 素晴らしい体験だ。
その旅であなたはとても大きく成長したようだ。
それがあなたのイニシェーションだったのだろう。
その経験は今後の人生においても役立つだろう。
728 :自在:2007/03/23(金) 22:56:13 ID:ZOF45dX9
数息観から随息観
数息観を修行していくと、しだいに集中力が深まり、雑念も簡単に流せるようになる。
そして、雑念が止まり、無念無想の三昧に入る。
そこまで行くと、息を数えるのがかえって邪魔になるだろう。
そのような時は、自然に数えるのを止めて、呼吸に集中するだけでいい。
この状態を随息観と呼ぶ。
呼吸に集中しているだけで、意識は深く、深く集中していくだろう。
そして、次第に表面の意識だけでなく、潜在意識と呼ばれるものも感じられるようになっていく。
例えば雑念を無視していると、雑念とは別に呼吸に集中している意識があるのがわかってくる。
意識が二重にあり、それぞれが別に動いているのがわかるのだ。
さらに修行が深くなると、意識は二重だけでなく、幾つもあって別に動いているのが感じ取れるようになる。
人間の頭は普段から多重に動いているのだが、普通の人間にはわからない。
修行によって集中力が深まると、潜在意識も見えるようになるのだ。
ここまで集中力が深くなれば、自我を見るのも可能になる。
精進していただきたい。
775 :自在:2007/03/25(日) 22:24:22 ID:TwdaKtpA
止の行
これまでに主に数息観を止の行として紹介してきたが、集中系の行は全て止の行として使える。
天台の止観などでは鼻先に集中する法、胸に集中する法なども紹介されている。
チベット仏教などで教える鼻先に仏陀をイメージする法、日輪や月などをイメージする法も、この集中力をつける止の行として使える。
雑念を処理し、行を深めていく段階は数息観と同じである。
仏教には八万四千の法門があり、各々の修行者が、自分にあった方法をみつけるのが一番近道であるといえよう。
肝心なことは集中力を高め、自らの心の内に有る自我がどのように起こるのかを観ることだ。
これで悟りを得る法の概要は大体説き終わった。
この2ちゃんねるという場所は、人々の言葉と思いが集まる所であり、繁華街のように喧騒の場であるとともに、真実が明らかになるところでもある。
過去にもこの2ちゃんねるで幾つもの真実が明らかになった。
愚かな者の悪言や宣伝にまどわされず、真実を求める者は、ここにおいても真実を見出すことが出来るだろう。
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