鬼和尚の前々身「お翔」まとめ

J. Krishnamurti, Osho, and Gurdjieff 2.0

J. Krishnamurti, Osho, and Gurdjieff 2.0

1 :名無しさん@3周年:2006/06/24(土) 18:31:30 ID:d/qEzSDF
ベルゼバブの孫への話、読み切れねー
というわけで、まとめて2.0だ。
ロングテイル~

137 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:17:48 ID:GFceyxAg
まあ聞いてくれ。大愚は大賢に通ず、とも言うからな。
クリシュナムルティだとかグルジェフだとか、oshoだとか、
何読んでも一緒さ。夢中で読んでるときは呼吸が浅くなってるし、
脳の酸素濃度も薄いわね。それは脳にとって心地よいことさ。
しかしその快楽にずっとながされて脳が機能しつづけているとよくないよな。
新鮮な空気吸って覚醒すれば全てたわごとよ。しかしよ、新鮮な空気吸って
覚醒ばっかりしててもしんどいわな。それがよ、自然なリズムでできてるうち
はええよ。しかし、社会の要請やらなんやらで年食えばだれでも少しずつ狂って
くるわ。呆けとったら。それを直そうと思ったら、運動とか体操とか瞑想とか
したらええというのは完全な嘘や。一生続けてもあんまし意味ない。
脳は多少、低酸素で耄碌してるぐらいのほうが快楽物質がでてきもちええんや。
だから、それでいい。しかし何かしら気づくときがある。そのとき、自分の
意思でそれこそ好きなだけ呼吸したらいい。今まさに自分が気づいたから言ってる
だけやで。脳波が覚醒する手前の印象が、固定化されてくるとだいたい悩みの種に
なるんや。覚醒のインパルスの前に悩んで多様なことが壁になってくるわけよ。
しかし、悩みなんて脳の快楽を生んでいきすぎた状態だから、ということは
悩みは脳に快楽を生み出しているわけだから、自分の意思でやめようたって
やめれない。だから自分の気づいたとき、悟ったときだけ自分の意思で呼吸すればいいと
いうかそれだけいい。それ以外はまた思考を生み出すだけだからさ。
最近、耄碌と覚醒を繰り返してて気づいたから友達とおもって書いてやってるよw
自然に逆らえるのはそれくらいだよ。快楽主義でも成功すると思うで。
あはは。全力疾走してるほうが心臓が楽なぐらいのときもあった私の
言うことです。まちがいないわ。
何言うてるのかわからへんかったらそのままどうぞw
では熱く、クリシュナムルティとかグルジエフとかoshoとか語ってください。
でもさ、真剣に人の話聞くときは、大体覚醒と耄碌のベクトルでいえば、
耄碌のほうにすすんでるよ。息殺して低酸素で聞くでしょ。w
余談だけど、高山なんかでは、もともと低酸素だから頂上着いて騒いだり
するとよくないみたいね。しかし、残念だったな~~

138 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:19:29 ID:GFceyxAg
悩んで多様な→なやんでいたような

142 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:50:19 ID:GFceyxAg
137の中ほどは
一生続けても意味がないじゃなくて
一生続けないと意味がないか。ははは

149 :ばんこ:2006/09/19(火) 22:36:14 ID:GFceyxAg
グルジェフ恐ろしく難解だなぁ~
すこしぐらいわかるんでしょ?

150 :お翔:2006/09/21(木) 11:51:29 ID:soSE93RY
ばんこよ。良く勉強しているようじゃな。感心感心。
これからは己の心を観る修行をしなさい。
わしが指導してやろう。
まあ 嫌ならいいんじゃが。
おぬしにとっては、千世に一度のチャンスじゃよ。
怖がることはない。やってみて騙されたと思ったら止めればいいだけじゃ。

151 :お翔:2006/09/21(木) 21:38:20 ID:soSE93RY
クリのいうように、自我を直接見ることが出来ればそれでいいのじゃが、
やはり普通の人間には難しいじゃろう。
じゃからわしは数息観を勧めるぞい。
これで集中力をつけるのじゃ。そして自我を観るのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に意識を集中し、おのれの息を数えるのじゃ。
吸う息は短く、吐く息は長く、1から十まで数えたら今度は十から1にへらすんじゃ。

152 :お翔:2006/09/22(金) 11:53:25 ID:lwoxOcAs
若い者にはいらいらする事もあるだろう。そんな時には一度止めて体を動かすのじゃ。
スポーツをやったり、太極拳をしたりして体を動かして少し疲れさせるのじゃ。
そして、いらいらがおさまったら又、一から始めるのじゃ。

154 :ばんこ:2006/09/23(土) 03:55:03 ID:TJ2dXZ5b
本当に、やることないから、やってみるよ。
先に聞くのはなんだけど、収穫あるのでしょうか?
息の仕方ねw・・・

では漸次、報告

155 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 04:12:01 ID:AWy4Awe9

156 :ばんこ:2006/09/23(土) 07:10:32 ID:TJ2dXZ5b
ただいま終了
随分すっきりしてありがたいけど
自我がみえるとか悟るとかいう様な様子はなし。
まあすっきりしていいのでしばらくやってみます。

158 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 11:24:07 ID:B9VFqtGL
自我を見つめているのは誰で、見つめられている対象の自我とは何なのですか?

どうか普通の人間には難しい、などと言わないでください。
それでは逆戻りです!

159 :お翔:2006/09/23(土) 19:06:30 ID:M8lB1JNa
おお、ばんこよ。早速修行に入るとは、偉いぞ。
もう、頭がすっきりしたと分かるとは、お主は筋がいい。
収穫は近いぞよ。そうじゃな、お主は筋がよいから、一週間続ければ自分でも落ち着きが
出てきたと分かるじゃろう。
2週間位すれば急に何か起こっても、慌てなくなる。不動心が身についてくるのじゃ。
この不動心は、人の上に立つ者には絶対に必要なのじゃ。不意の事件が起こっても
慌てなければ、部下も安心する。
たとえ悟りが得られなくとも、不動心を得ただけでも儲けものじゃよ。
頑張ればんこよ。

160 :お翔:2006/09/23(土) 19:32:13 ID:M8lB1JNa
>>158 なかなか良い質問じゃ。悟りというものの本質に迫る質問じゃ。
質問に答えてしまうのは簡単じゃが、この機会に少し心の仕組みという
ものを話しておこう。よいかな?
 先ず質問の答えじゃ。自我を見つめているのは、認識作用じゃ。
           そして見られている自我とは、イメージであり
           言葉であり、観念に過ぎないのじゃ。

 何とも承服しがたい事じゃろう。
 先ず>>158の質問、見るものは誰と聞いておる。何、ではなく、誰、と聞く。
 これはまだ悟りを得ていない人間が、認識に自我を投影し、我が見ていると
 いう観念を持っているからなのじゃ。
 そして自我か゛認識を主宰し、自我なしでは動かないとの観念があるからな
 のじゃ。
 認識は自我がなくとも作動するのじゃ。
 自我はお主の主体ではなく、お主自身でもなく、ただのイメージなのじゃ。
 それが刺激に応じて、脳裏に浮かび上がってくるのを見るのじゃ。
 わしの言葉で怖がることはないぞ。
 いずれはお主も真実を追究していけば、ここに来るのじゃから。
 お主も数息観をするのじゃ。  

162 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 22:17:58 ID:B9VFqtGL
>先ず質問の答えじゃ。自我を見つめているのは、認識作用じゃ。
>           そして見られている自我とは、イメージであり
>           言葉であり、観念に過ぎないのじゃ。

言葉遊びがお好きですね!

認識作用とはなんですか?
辞書に書いてある意味を聞いているのではありません。

あなたのおっしゃっていることは
認識作用が自我イメージを見ている、
したがって認識作用が主で、
見られている自我が客と言っているようです。
言葉を変えただけではありませんか?

それでは依然として分離と葛藤から逃れることができません!

163 :お翔:2006/09/23(土) 23:28:01 ID:M8lB1JNa
>>162まずコテハンを付けるのじゃ。そして数息観をするんじゃ。
そうすればわしが何を言いたかったのか、分かるじゃろう。
認識と自我どちらも主ではない。わしは認識が主であると書いたかな?
主という言葉が出て来たのは、お主が未だ主客の観念に囚われているからじゃ。
どこかに主体がなければならない、そうせねば自我が拠り所を失う、その恐れが
主を作り出したのじゃ。
認識作用という言葉が分からなければ、お主が辞書を引けばよい。
正確な言葉を使わなければ、間違う者もいよう。じゃから少し難しくとも使わな
ければならんのじゃ。
最後の言葉はクリの言葉じゃな。なつかしいのう。
じゃがこんな所で使われてクリも泣いとるよ。
わしの教えは本来、修行者用なのじゃ。修行せん者には分かりはせんのじゃ。
お主が真面目に修行するなら、疑問にも答えよう。
しかし、論争がしたいのなら、もう知らん。
わしの師匠のお釈迦様も、論争は相手にせんじゃった。わしもそうする。

164 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 23:48:08 ID:B9VFqtGL
真理は道なき大地です
いかなる方法によってもそれに近づくことはできません。

自ら見出して下さい!

165 :お翔:2006/09/24(日) 09:18:49 ID:RpawbDVj
 あんまりつれなくするのも可哀相じゃ。少し補足しとくかのう。
 わしが自我も認識も主ではないと書いたのは、悟りの瞬間には本当にそのような
ことが起こるからじゃ。
 主も客も無く、ただ自我が観照される瞬間があるのじゃ。
 じゃからわしの書くのは純粋に修行者用なのじゃ。一般論ではないのじゃ。
 一般論では見る者が主で、見られるのが客という論もなりたとう。
 しかし、この特殊な状況ではそれがなりたたん。主も客も消え去る。
 じゃからそれを知る為には修行するしかない。修行せん者には分からん。
 わしが何を書いても、ただ論議がしたい者は言葉の一つを捉えて、それは
 主だ、客だと言うじゃろう。
 己の知識に振り回され、本当のチャンスを見逃してしまうのじゃ。
 クリの奴も自分はヨーガのテクニックで悟りを得たのに、他人にはテクニック
を使うなという。
 それが教義としては正しくとも、後に怠け者の言い訳に使われるようになって
しまったのじゃ。
 本など捨てるのじゃ。
 必要なものは全部、お主の心の中にある。数息観をするのじゃ。
 心を止めて、ただ見るのじゃ。

172 :ばんこ:2006/09/25(月) 20:05:55 ID:CyUQpUip
数息観してると、ふーっと落ちるようで落ちきらない。
道元が心身脱落という言葉を残したのは知っているが、
心が落ちても、身がおちなかったり、その逆だったりする。
また、呼吸のコツがわかりだしたりすると、落ちるような”感覚”になる。
これはどう考えても心身脱落するのは無理っぽい。
それで、出てきたキーワードがやっぱり只管打座。
これはやったことがないのでまだ全然わからないのでやりがいがあるかもしれない。
それから、落語と禅は似てるように思う。落ちるのに、落とされるも
落ちるもないが、禅の場合心身脱落というように身”まで謡っている。

ふと今、身が落ちるわけないと、気づいて落ち込むわけだが、笑えない。
この辺が落語との違いかと思った次第である。
浮き沈みも飽きれば笑うこともない。w

177 :お翔:2006/09/25(月) 21:05:25 ID:LYCl+K3S
>>172おお、ばんこよ。たった三日でそこまで境地が進むとはたいしたものじゃ。
 ずいぶん長い時間、修行しているようじゃな。偉いものじゃ。
 そこまで進めば、日常でも落ち着きが出て来たと分かる位じゃろう。
 今の時点で心身が落ちないと嘆く事はないぞよ。
 少しずつ出来るようになってくるのじゃ。
 例えば野球や水泳でも、最初からカーブが打てたり、1キロも泳げないじゃろ。
 だんだんに修行を重ねるうちに、何でも出来るようになるのじゃ。
 修行日記を付けると、自分がだんだんと進歩しているのが分かるぞい。
 まあ、このスレを日記代わりでも良いがの。
 さて、慣れてくるとだんだん雑念が出て来たりするじゃろう。
 そんな時は雑念をスルーするのじゃ。ぜんぜん構わずにただ呼吸に意識を
 戻すのじゃ。そうすれば雑念は自然に消えていくじゃろう。
 今日はこの位でいいかな?

183 :ばんこ:2006/09/27(水) 11:10:33 ID:rgjnea4o
興奮してたりまた逆に立ち呆けたりすると、まあ座れと言われたり、
言ってみたりするもんだけど、なかなか自分でやらない。
あ、座ってみようとは思わない。おなじく、小言の言い合いのあげく、
胸に手を当てて考えてみろなんて言ったり言われたりするもんだけど、
なかなか自分でやらない。数息観もまあ、それによく似たもんだと少しや
って思ったよ。とにかく、人は切のつかないことは、皆一様にやりたがら
ない。前職では延々と重い袋担がされて、自分でゴミかたづけて、これが
ずっと続くだけだと思ったら、イヤでたまらなくなってやめたけど、
数息観もまた、おなじことだと思ったよ。切は自分でつければいいとね。
いやなことをやりつづけなきゃいけない、世の中において、これは個人的
にはひとつの展望と成り得たよ。いやなことやり続けなきゃいけない理由は
ないわけだしね。
 インドなんかじゃ、カーストが根深いけど、切のないことやり続けなきゃ
いけない人は、やりつづけるし、そういうのを悟りがないとするひとはそう
理解しつづけるし・・・・
結局なにやっても、すべては永遠だし、きりのないことだと思うよ。
kもそのようにしたし、またKを信望する人たちもみな、ないものはないと
はっきり言い続けなきゃいけない。ところがkのいた協会はあれは禅だみたいな
ことでまとめようとしている。
もうちょっと降りてくるひとがいてもいいんじゃない?
と世の中的には思う。

184 :ばんこ:2006/09/27(水) 11:26:05 ID:rgjnea4o
一言いってもいいかな?
「矛盾に満ちた世界を笑うつもりはない」ということだよ。

186 :お翔:2006/09/27(水) 21:13:20 ID:gEj6S4Ky
 おやおや、ばんこよ。少し疲れてしまったようじゃな。あまり長い時間やりすぎた
のじゃろう。
 最初に言っておくべきだったかもしれんが、たまに長い時間やるより、少しずでも
毎日続けたほうがいいんじゃ。例えば寝る前の五分間、三往復するぐらいでも、いい
んじゃ。毎日やっていれば、その位でも、確実に進歩する。
 睡眠薬がわりに、寝つきがよくなるからやっていると自分にいいきかせて、己をコ
ントロールするんじゃ。コントロールと強制は違うのじゃ。
 自分に強制する必要は、勿論ない。ただ自分が決めたことを、やり易いように、自
分の心をなだめ、操縦するのじゃ。それにはたまには息抜きも必要じゃ。
 自分こそが自分の主人であり、感情が主人ではないと言う所を見せつけるのじゃ。
 その経験はこれから多いに役立つ事じゃろう。

189 :ばんこ:2006/09/28(木) 18:40:27 ID:xZNdXTDw
言われるとおり寝つきもよくなったし、動く気もなかったのが
また動けるようになってきた。自律神経と呼吸はやっぱり関係ある
のかな?まあとりあえずお礼申し上げる。謝礼はないよw。
また運動でもはじめるか・・・運動と数息でしばらく過ごすことにした。
今の体力では、ちとまだ働けん・・・

193 :お翔:2006/09/29(金) 12:31:46 ID:XaO/UwXB
おお、ばんこよ。謝礼などいいんじゃ。お主の成長がわしの何よりの謝礼じゃよ。
たしかにお主の言うとおり、数息観は副交感神経の働きを良くするとか、学者が
言っておった。
まあ、理屈はともかく体にも、心にも良い事は間違いない。
不動心がそろそろ身について来た事じゃろう。
真面目に行に励む者は1日1日と成長していくものじゃ。

206 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:17:00 ID:cvH0VQwz
過剰になった自意識を減らすには、現象の問題よりは、原理の問題に
目を向けなければいけないようだ。なぜ細胞は分裂するのかと問うたら
それは太古の昔からそうしてきたと答える以外ないのであって、現象を
問うても仕方がない、むしろ原理の問題だ。原理をしりたければ、大悟
一発という気持ちでうん!とひねり出す以外ないようだ。直感は他意識
よりやってきて、自分をたすけるものだが、この他意識というのが味噌で
いっぱいありすぎたんじゃ心が忙しくて仕方ない。しまいには窒息して
しまう。得てして自分に必要なものをみつけるまでに徒労を費やすことに
なるだろう。大本に立ち返る術は自分で身につけなければしょうがない。
俺は呼吸というものに直感を得、数息という術を教えてもらった。

207 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:22:36 ID:cvH0VQwz
よっていいものだったので、皆に勧める。
オリジナリティや旗色というものは勝手にでるものだからである。
やりかたはこのスレの上に、”書いてある”w

208 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:31:59 ID:cvH0VQwz
直感には上等なものと下等なものがやっぱりあってw
それは個々人によって判断される以外ないんだ。終わり。

209 :お翔:2006/10/02(月) 14:08:19 ID:mgWOpFOP
うむうむ ばんこよ。人に教えるのはいいことじゃ。
ハートのラブでおしえるの。とエディさんも言っておった。
簡単なことを一つずつおしえるの。とも言うておった。
お主のように自分が修行し、体で確かめたものこそ、他人に教えられる。
本から得た知識などは、そのままではただの雑念に過ぎぬ。
出来ればこれからも、そして悟りを得た後も、多くの者に役立つ技を教えてあげなさい。

228 :ばんこ:2006/10/04(水) 20:21:45 ID:rZTiKSuJ
そもそも、体と心は一体だ。
禅を問う前に、医者にいく手もある。
医者に行くほどでもなけりゃ、生活を全面的に工夫しなければならない。
健康な人が勝つに決まっている。無論勝ち負けだけじゃないが・・・
社会や、自然や、その他もろもろ問うてもしょうがないこともある。
病の始まりだ。胸がフルフルwするんだ。不整脈の気があるといわれていた。
心音がやたら気になる。いてもたってもいられなくなってくる。
医者はあまり好きではないが医者に明日行くことにした。
皆さんのクリシュナムルティ読書会が社会にかたむくか、個人に傾くか
それはわからない。教えてやろうとすると教えられるこれひとつの智慧だよ。w
 まあ真剣にやってくれ!笑

232 :ばんこ:2006/10/05(木) 13:26:34 ID:hshuYP5Y
クリシュナムルティのことを救世主としてみる動きがあるようだが、
それはどうなのだろう?確かに生きている人ではありがたくないと
いうのはあるかもしれない。しかし、現に深くただただ息づいているひとが
あるということを感じることがありがたいということもあるだろう。
しかし、そういったことを超えて、一本の木を正確にみるということは
彼のいうとおり、人生の中で最もむづかしいことの一つなんである。
木のように深くただ息づくということはむづかしいんである。
 私の結論としては、人工呼吸器だけはつけて欲しくないし、つけられたく
ないんである。

233 :お翔:2006/10/05(木) 19:38:04 ID:l8eiE0jZ
ああ ばんこよ。勉強にせいだしているようじゃな。感心なことじゃ。
それだけクリの本を読んでいるなら、もう次の段階に行ってもいいじゃろう。
これからわしの最後の教えに入る。といっても最初から二つしかなかったんじゃ。
その二つとは止と観 心を止めること、そして観察する事の二つじゃ。
普通の人間はやはり心を止めなければ、観察は難しい。
やさしい事から一つ一つ学んで行かなければ、観察は身につかないものじゃ。
さあ、ばんこよ。観察の最初の一歩を聞くのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような
物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほ
ど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。

234 :お翔:2006/10/05(木) 19:51:09 ID:l8eiE0jZ
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたお主はどうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず
ただやり過ごして、観察に戻る。そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

235 :お翔:2006/10/05(木) 20:09:28 ID:l8eiE0jZ
そのように観察を続けていけば、やがて目の前の世界が、急に輝くような感じになる
ことがある。今まで知っていたものが、突然見知らぬ新しいものになったかのような、
新鮮な感覚が蘇るのじゃ。それは無心な観察眼、赤子の眼が芽生えたのじゃ。
ここまでくれば、漸くクリの言葉が判るようになるじゃろう。
クリの教えは元々大学生の勉強を、何も知らぬ幼稚園生に教えていたようなものじゃ。
クリ自身は子どもの頃からヨーガを習い、観察にも瞑想にも熟練しておった。
だから他人もそうじゃと思っていたのじゃろう。
普通の者は止と観の行をして漸く、彼の言葉が判るようになるのじゃ。
さあ、クリのいうように、何も知らぬ赤子の眼で観察するのじゃ。
こんどは外の対象から自分自身を対象にするのじゃ。

236 :お翔:2006/10/05(木) 20:30:52 ID:l8eiE0jZ
最初は体を、腕や足から始めて全身を、そして感覚、思考、感情、意志、認識を
観察して行くんじゃ。このどれかにお主は自我を投射しているじゃろう。
それが観察できた時、自我は消える。
更に自我が消えた後、見ている認識が残っている。それすらも観察した時、もはや言葉で
表す事の出来ぬ、大悟徹底の境地に至るのじゃ。
さあ、ばんこよ。そして皆も、心を止め、恐れずに観察するんじゃ。
悟りはいずれ向こうからやってくる。クリの本もoshoの本も役立つじゃろう。
しかし、一番大切なのはやる気じゃ。諦めてはいけぬ、必ずできると思うのじゃ。
わしの教えはこれで終わりじゃ。さらばじゃ、ばんこよ。
縁があれば又合おうぞ。さらばじゃ。

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