十日のあやめ、二十日の菊 難波精三

十日のあやめ、二十日の菊

西先生満四周年の追悼会記念講演より

難波精三

(1)

久し振りで全国の皆さんにお目にかかります。今日の講師は私一人のために、大阪のある方から辞退して、多くの方に講師を譲ってはとの忠告の電話がありましたので、私と致しましては却って責任が軽くて好都合だと存じましたので同意いたしましたところ、須藤副会長から、そんな遠慮はいらない。これは主催側の都合からで午後の時間が欲しかったからだとのことで、とうとうお引受けさせられてしまいました。

(2)

今朝大阪を発って飛行機で只今着いたばかりでありますが、昨晩は大阪でも西先生の追慕会を開きまして、その節わたくしは「十日のあやめ、二十日の菊」という演題でお話ししたのであります。考えてみますと、私達は西先生から、先生の滾々と湧き出でる知識の泉から、惜し気もなく自らの手で汲み取って我々に与えられてきましたが、もうこれからは、先生のお情けに甘えているわけには行かなくなりました。しかしこの泉は我々のために残しておかれました。これからは自分の努力によって汲み取り自分の身体の栄養としなければならなくなりました。そこで先生の古いノートや著書から勉強し直していったのであります。そして最初から順を追って研究しているうちに、これまでに感じなかったことを知ったのであります。それはいかに創始者というものが初めて自分の学説をですね、世に問うとするとき、どんなに苦労をされるか──その苦労のほどが今となってしみじみと知らされたのであります。知ってみるとこれまでの私の行動なり態度なりが悔やまれてならなくなりました。相済まぬという悔やみが私の心のほとんどを占めております。で、昨日の大阪で喋りました演題が「十日のあやめ、二十日の菊」となったのであります。つまりいくら悔やんでも後の祭りだという私の心を表したつもりであります。

(3)

西先生が西式強健術としてご発表になった当時は一体どんな時代だったかと申しますと、その時は民間療法が非常に盛んで、いわゆる民間療法の黄金時代であったのであります。しかもそれが上流階級に多かったのであります。なぜ上流階級に多かったかと申しますと、金や地位のある人は、いくらでも名医にかかれるわけでありますが、原因不明とか療法なしとかで、期待に反した結果となり漢方や民間療法に走ったのでありますが、貧乏人は金さえあれば天下の名医に脈を取ってもらえるものをと憧れます。名声と真価の間に相当開きのあることを知らないからであります。現在でも漢薬やクコ王国でありますが。

全国のことは存じませんが、当時大阪で流行していた民間療法は紅療法──枇杷の葉療法──つまり青酸療法に対して紅の持っている紅酸を塗ったり、飲んだりする療法でありまして大阪の江戸堀にありましたが、予め時間の打合せをしておかなければ随分待たされたという繁盛振りでありました。

それから小山式血液循環療法──これは筋肉のしこりを指圧して柔くほぐす療法で、これもまたよく流行しました。全国的に流行ったものに、石井氏の生気療法というのがありました。筋肉反射を起こさせる療法で、後に生気療法から転向する人が多くなってまいりましたが、なにぶんにも反射を起こす癖がついておりますから、40分の合掌した手を近づけますと猛烈な反射運動を起こす。そうすると身体の一部分を平手でポンと叩くとパッと止まる。また手を近づけると反射運動を起こす。書痙で悩んだ実習に通ってきた人今でも、大阪の会員がこんな調子の人であったため、ずいぶん手を焼いたものでありました。

ちょっと下火になっていたのでは岡田式の静座法、自彊術、自彊術から分派した村雲竜三氏の革身術──これは大阪時事新聞が後援しておりましたが、この村雲氏は後に西先生の講演を聴講するようになりましたが──。

修養会というのがありまして、これは精神修養と健康とを兼ねたもので、流汗鍛錬、同胞相愛をモットーとしておりましたので、学校や大会社のような団体に入り込んでおりました。運動法はよく知りませんが、その一部分にエヤサー、エヤサーと舟を漕ぐようなのがあったことを覚えております。私が東京に参りましたとき、どの辺であったかよくわかりませんが、タクシーの窓から修養会という看板を見たことがありました。

こんな時代でありましたので、西先生はまず民間療法に集る人達の蒙を啓くために、手技を用いられたということを、後に知ったようなわけであります。

(4)

西先生は悪を善導するとき、いきなり説教したのでは逆効果をもたらすもので、「お前のすることは悪い」と真っ向から打ち込むと「何が悪い」と打ち向かってくる。「お前も相当やるナー。しかし俺の目からまだまだちゃちだ」と一応度肝を抜いておいてから、じりじりと善導してゆく。ズボンに泥のハネをあげ、その汚れを取るときアンモニア水で拭えば取れるのは、泥はアルカリーだから、アルカリーのアンモニアで取れる。塩辛い干物などの塩を抜くとき、真水の中に入れても塩気は抜けない。塩水に漬けだんだん塩水を薄くしてゆけば塩は抜ける。断食中は体液は酸性(饑飢アチドージス)になっているから、いきなりアルカリー性食品を入れると食欲不振を起こすので、酸性の白米の重湯、玄米の重湯、麦の重湯と次第に酸度を薄め、終いにアルカリー性の野菜スープを入れてゆくのである。──これはずっと後に訓された話でありますが。

そんなようなわけで講演会の席上で、坐骨神経痛で歩行し難い者を、その場で歩かしてみたり、四十肩、五十腕で手の挙がらない者を、その場で挙げさせてみたりされました。確かにこの方法は、大向こうの大喝采を博したものであります。大阪の朝日会館で、会館の管理人の四十肩、五十腕を聴衆の面前で挙げてみせて、満場を唸らされましたが、そのときの先生のご胸中はどんなでありましたでしょうか、さぞかし苦笑せられておったに相違ありません。それは後に先生のご胸中を伺える機会を得て知ったのでありますが、このことは後に申し上げることとして、当時の私達は鼻高々でありました。

とにかく、民間療法心酔者の目は、西式強健術に次第に集ってきたのであります。ここで先生は小山式血液循環療法で、指圧してしこりをほぐして事足れりとしているようであるが、なるほどホプキンスの法則によっては一時はよくなることはあっても、原因を除かない限り根治したとは言えない。またカイロプラクティックは顎を持ったり腰を持ったりしてボキボキと、背骨の狂いをアジャストして得々としているが、長い間狂った脊柱に骨を繋いでいる靭帯や、椎間板にも異常を来しておる。だから、ボキボキと嵌めてもらっても帰る道でまた元の木阿弥となってしまう。平床に寝かせ、硬枕を宛がい、金魚運動をさせて自然に脊柱を正常に戻ったものは、そう簡単には狂わない。流汗鍛錬も汗によって失う水分と、塩分の補給を考慮しなければ、終いには健康を害することになる。山極博士は刺激することによって、人工的に癌をつくることに成功したが乾布や、束子で皮膚を擦る健康法などもってのほかと、言わなければならない。後に肺癌の患者が、大阪西会を訪れたことがありましたが、子供のときからずっと、今に至るまで乾布摩擦を、続けていたということでありました。

浜口熊嶽の気合療法がありました。全国を叉にかけ、新聞に全面広告をし、郷里和歌山に?浜口御殿を建てたりして、有名でありました。ヤーと気合を掛け「治った、治った、治ったッ」これで終いです。お次お通りといった具合で文句を言う暇もない。西先生は気合も上手く掛ければ効果はある。病気をするということは交感神経と迷走神経の不揃いのときに罹る。そこで「ダーッ」と気合を掛けると、ハッとした瞬間この2つの神経が揃う。間髪を入れずに「治ったッ」と暗示を掛ける。ヤーでは相手の心に徹しない、ダーッの方が強く響く。しかし毎日朝夕背腹運動をやり良くなる能くなる善くなると、自分で自分に言い聞かせておれば何も、ヤーッとかダーッと言う必要もない。気合は治ることもあるが、信じないとか疑い深い者には効かない。ちょうど大阪に浜口熊嶽が来ましたので、私の3つ年上の姉が、歯を痛めておりましたので姉に「すまんが1つ浜口熊嶽のところへ、歯の治療に行ってみてくれ。しかし返事はよく考えてからするよう」と頼んで行ってもらいました。そこで浜口先生「ヤーッ治った」少し考えて「先生ヤッパリ痛いです」「そんなことはない。ヤーッ治った、お次の方」「先生やっぱり痛いです」「あんたは駄目だ。時々こういう奴が来るので困る」と言ったそうであります。(笑)

こういう風に次第に民間療法の影が薄れてまいりまして、西式強健術が台頭してまいりました。当時新聞でも医者の間でも、一般の人も西式強健術を健康法の玉座と認めるようになりました。その証拠には実業之日本社から出版した西先生の円本は、九条武子の「無憂華」と共にベスト・セラーズになったのであります。

(5)

さて民間療法が一段落つきますと今度は、鍼灸の番となってなってくるのであります。このとき、我々は「へんぐ」という言葉を覚えました。へんぐとはこういう字を書きます(砭愚)へんとは鍼のことで、今の鍼は金属でできておりますが、昔は石でできておりましたので、石偏になっております。鍼一辺倒を笑ったものであります。所謂つぼに刺激を与える療法で、つぼは今のヘッド氏ゾーンに当たるもので末梢知覚神経を刺激して、脊髄神経を通して中枢に刺激を伝達させようというものでありますが、ただ鍼のみに頼るということは愚かしいことであります。我々が病気をするということは、生活に間違いがあるわけでありますから、これを正すという大切なことが抜けている。灸に至っては皮膚を焼く。身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなりで、何も皮膚まで焼いて不孝をするよりは他に方法がありとすれば、他の方法を求めるべきで、この方面でも大いに啓蒙されました。

(6)

次は何でありましょう。それは占いであります。占いはこれを取り扱う人の人格によって人を不幸に陥らせる危険があるからです。私の宅の電話番号は、西宮4237です。今は2という局番が付いておりますが、この電話が引けたとき電話開通の通知を出したことがありましたが、ある人は「えらい電話を引きましたな。死に皆とは何たることです。こんな電話は取り換えなさい」と忠告してくれました。ところがある人は私の元に祝詞を送ってくれました。

「先生、よい電話番号をお当てになりましたな、これも先生のお徳のいたすところです。死にさんな。ぴったりです。」

またある人は、

「全く西式の将来を占ったような電話番号じゃありませんか。世に皆西式とはネ。」

このように1つの電話番号を読んでもこのように開きができるものです。暗い面のみを考える人、私に好意を寄せておらない人は「死に皆」と読み、明るい人、好意を持っている人には、この番号が明るい意味に取れるのでありますから、いわんや、人の一生、運命の吉凶を占う場合においてをやであります。

(7)

あるとき西先生は私に大阪の観掌家を研究してみたいから案内してくれということで、これはまたどうしたことかと思いながら案内いたしました。いつもなら会の役員などとぞろぞろと出かけるのでありますが、このときは同伴者を一切断られたのであります。方々廻りましたが感心させられるほど手相を読んだのはた唯一人。しかも千日前の地蔵尊の前にみすぼらしい机を置いたよぼよぼした老人でありました。その他はどうかと思うような者ばかりでありました。いやもう一人老人で上手い人がおりました。この老易者とは後に交渉を持つことになるのでありますが──。

よぼよぼした老人は西先生の手を観て、首を傾げ考え込んでしまいました。そしてしばらく経って、

私は長年人の手を観ていますが、この手相ではどんなお仕事に就いておられるかわからない。しかし人のために尽くしておられることはわかる。それが今や100万円以上の会社の社長となられる──当時の100万円は大したものでありましたが、ここがどうもわからない。しかし、人のために何か独得のことで働かれたことが、この実を結んだものと考える。お子様は4名おいでになりますな。

間もなく先生は資本金125万円の六大製薬株式会社の社長となられたのであります。もう一人の老人はやはり先生の仕事がわからないと言いました。そしてこうした手相に当たったことがない。思うにあなたはこれまでになかったことを自分で創り出し世のために活動している方だと思います。災難をお受けになると思うが、これまでの徳で難なく解決することでしょうと言いましたが、果せるかな警視庁問題を起こし大々的に新聞種となりましたが、事無く終わったのであります。そのうち最も酷かったのは、

あなたは金も入るが散じることも多い。散じる面は女だろう。これで観ると妾は3人以上作るだろう。しかし金はどんどん入ってくるから心配はいらん。しかしやり過ぎて健康を害せんように注意したまえ。2、300万位な財産はできるだろう。

健康法創始者に健康を注意して得々となっているので、私は吹き出しそうになったのを堪えて、先生1つ私の手相もお願いしますと、手を出すと、

ウーン、君の手相はこちらと違って大分落ちるね。まず出世しても警察で言えば警部止まりというところかネ、それ以上見込みがないネ。しかし救う道は1つある。それは改名することだ。この紙に君の姓名を書きたまえ、開運の名を付けて進ぜよう。

先生改名の料金も手相に含んでおりますか、

いや、それは別じゃよ、しかし手相もあるから割引してあげよう。

先生と私はおかしさを堪えて、料金を支払い、こそこそと退散したのでありますが、その後西先生は「手相新解」という本を出され、手相は変えられることを強調せられたので、あの観掌家歴訪はその下準備であったことを知ったのであります。西先生の手相新解にはハッキリと東京においては大久保君、大阪においては難波君の案内により観掌家の実態を視察したと書かれてありますから嘘は申しません。西先生の念頭には予言者のでたらめまたは前にも申しました暗い暗示の人の予言が他人の将来に及ぼす影響を考えてのお心遣い、ほんとに頭が下がります。

(8)

運命の打破、これが人を幸福に導く大切なことではないでしょうか。悪い線があった場合、良い線を少しでも延ばす考慮が指導者として心得べきだと、そのとき以来心に持しているのであります。

易についても、支那にはいろいろな易がありました。五行易とか、黄帝の何々とか、しかし文王、周公の時代にこれらの易を統一したのが周易であります。その後孔子が50歳になられたとき、易を完璧なものにされました。いかに熱心に研究せられたかは、いへん三度切れたという表現を用いております。いへんとは古本(俗に和綴)は糸で綴じてありますから、何度も捲り返しているうちに、今の凧糸のような糸でも切れてしまうのであります。それが三度でありますから、私は暇があったら何回繰り返したら糸が切れるかを実験してみたいと思っております。それはそれといたしまして、終いに孔子は彖伝(たんでん)象伝(しょうでん)繋辞伝、文言、序卦、説卦、雑卦の十篇、これを十翼と唱えておりまして、周易を開いてみますと彖伝曰くとか象伝曰くと註釈のあるのは孔子の意見だということであります。孔子から3代の朱子の中庸(西哲学思想)は易の精神を中心としたものであると、岩波書店版、東北大学教授武内義雄先生が述べておられます。言い忘れましたが書名は「易と中庸」であります。

釈迦が寂滅するとき、沙羅双樹下の涅槃に入られたとき、仏弟子は号泣して仏よ、今しばらくこの世に留まりたまえ、仏亡き後、我々は誰を頼りにいたしましょうや。そこで釈尊と仏弟子の問答があの大涅槃経となったのでありますが、これと同様、孔子も自分亡きあと弟子の指針として易を遺されたということでありますので、大阪西会の登興会において、西先生より手解きを受けた易によって西先生のご指示を得たいと思ったとき、西先生を心に念じつつ易を立てることにしております。

西先生の講習を受けた易者が梅田の地下街に店を出しております。これは映画館が跳ねてから出すのです。私は地下街を通って阪急に出て帰宅する事にいたしておりますが、晩く通りますと大変調子がよろしい。

アッ先生いまお帰りですか、マアお掛けくださいと椅子を勧めます。どうです。お盛んですかとしばらく話し込みます。あるとき、

先生、西先生には済まんのですけれども、西先生の易では金が儲かりまへんのでつい我流が出ますと頭を搔きながら、男より女の方が気前が良いようです。こういうことを望んでいるなと思うことをずばりと言ってやると余分はずんでくれます。だから若い女、BGはたいがい恋愛か縁談かですからあなたの縁談が行き悩んでいるようだけれど、今に来ますネー今度来た縁談はよろしいなんて言うと、ワーと置いてゆく(笑)どうしても商売になりますとの告白を聞きました。

(9)

西先生は高島嘉右衛門先生を大変尊敬しておられたことはご承知の通りであります。呑象高島嘉右衛門といえば易の大家であり、易を本業としているように思いますが、実は貿易や開発事業家で幼にしてお母さんから程順則の六諭衍義を教わり、若くして藩の財政に参画し非常な人格者で、長女は伊藤公爵長男に嫁し、次女は内海男爵に嫁すという名門なのであります。

西先生の若い頃──大正元年の頃、高島翁を訪れて面会を求められ、玄関子との間にいろいろなやり取りのあって後、病室に通されることになります。西先生は高島翁に

先生易は当たるものですか。

何、当たる。当てるものだよ。鉄砲は当たるものかネ。当てるんだよ。

易を当てる者は学を磨き人格を高め人を導くだけの見識を備えなければならん。あなたにはそれが為し遂げられるといえば、その人は勇躍して困難を征服して成就することができる。これ当てるのである。西先生は一礼して

ありがとうございました。と礼を述べられると。

もう一度

ありがとうございました。

まだまだ、もう一度

ありがとうございましたッ!!

よろしい。今あなたは息をしましたか。

え?

本当に心から迸り出たときには、瞬間、ハッと息が止まるものである。中庸の至誠無息(しせいやむなし)ではなくて至誠息すること無しと読むべきである。

この教訓は西先生の胸に応えて、無、空、の境地を開かれたのであります。

(10)

私、和歌山に参りましたとき、お城の近くで古本屋を見つけました。西先生の感化を受けて古本屋があると入ってみたくなります。そこで経典余師という本を見つけました。文化丁丑秋に発行せられた本で全部で7巻になっております。この本を先生にお見せいたしましたら、ホウ、なかなか良い本を掘り出してきたネと褒めていただきましたが、この本の最初にどんなことが書いてあるかと申しますと、「也易の書と為也。変革之幾を悟る所以。幾とは之を未形に於て戒め、之を未萠に於て慎む。」とあり、これが最初の手解きであり、また最後の極意でもあるのでありますから、悪い予言は当たらないよう、良い予言は当てるように心がけなければならない。

こういう風に考えていきますと、悪い卦が出たからとて悲観をするに当たらないので、よくもまア未然において知ることができたと喜び、身を戒め、身を慎んで、未形、未萠に終わらしむべきであります。西先生によく大登社あたりの人は来年の景気はどうでしょうか、とお伺いを立てますと先生は当たらない予言をするのが識者だと答えられました。

生長の家では本来人間には病気はない。病気と思うことによって病気になると言っているそうでありますが、西先生は不自然生活の歪を取り除こうとするところに病気という現象が現れるから、そこに健康法の存在が価値づけられるのであると説かれました。人間が火というものを発見して文化生活が生まれましたが、煮たり焼いたり温め過ぎたりして不完全栄養を摂り、皮膚機能を弱め歪ができるのでありまして、何も思ったからなったのではありません。そこで我々は生食をしたり温冷浴をして歪の是正に努力しているのであります。病気はないのではなくて、病気のない世界をつくろうというのが西先生の悲願であるのであります。

西先生のご発表当時の民間療法はどんな看板を掲げていたかと申しますと「無薬無刀療法」つまり薬を用いない、手術をしない療法という意を表したのでありましょうが、これに対して西先生は、薬というものは人間のためになるもので水も食物も薬、綺麗な景色を見て楽しむことは目の薬、音楽を楽しむことは耳の薬です。腫物ができた。生食と温冷浴で綺麗になった。生食は立派な薬ではないでしょうか。脚湯をしたら熱が下がった。これも立派な薬です。総じて民間療法は思いつきの範囲を出でないものが多いようであります。

(11)

ご承知のように西先生は実に闘志満々でありました。非常に猛烈な勢いで相手に向かわれましたことで西医学が滅ぼされなかったのです。私、どうして知りましたかと申しますと、神戸の医師会の有志が西先生を呼んで一席ご高説拝聴と、まあ非常に辞を低くして招聘して来たのです。そこで私、お伴して参りました。実は行ってみますと、西先生を取っ締める会であったのです。実に馬鹿らしい質問をやりましてネ。

西先生が、手に傷をしたとき血の飛ばないように包帯をして、手を上に挙げて振れば治る。消毒する必要はないと話されたとき、質問が出ました。「あなたの毛管運動をやればどんな傷でも治りますか。」「絶対に治ります。」「絶対という言葉をお用いになりましたが、絶対という言葉は重大な意味を持つものですぞ。それでは伺いますが、原形を留めないまでに粉砕された関節も毛管をしたら関節ができますか。」乱暴な質問です。ところが先生は平然として「治ります。」と言い切られると、相手方は冷笑を浮かべて「そんな馬鹿げたことがありますか。」私達はハラハラしました。ところが先生は「馬鹿げた質問だから、馬鹿げた答えをしたまでです。」なかなか負けてはおられません。結局、あなたは医者の悪口を言われますが、我々は全面的にあなたを認めないわけではありませんから、公開の席上であんまり医者の悪口を言わないようにしてください」先生曰く「私が大人しくしていたら今夕あなたは私を呼んだが、何じゃあれ一人よがりのことばかり言ってやァがる。私が悪口を言うから私を呼んだのでしょう」退いて守るか、攻勢に転じて守るか、先生は後者をお取りになったものと思います。そんな深い考えを知らない役員や私達は「先生もう少しお手柔らかに」普選運動の闘士、弁護士今井嘉幸ですら「先生医者に対する攻撃は控え目に」と言ったものでありますが先生は「やあ承知しました」と軽く受けるだけで一向やめようとはせられませんでした。弱腰では袋叩きになる恐れがあったということを後に知ったようなわけで、小賢しい私達の心を恥じるとともに、誠に相済まなかった思うのであります。また先生としては苦しい戦いを一身に背負って戦い続けられたのであります。申し訳ない次第であります。

(12)

この話は民間療法を征服せられて、駒を医学の改革に進められたときのことでありますが、民間医療の盛んなりし頃は、操作法という、手技を出されたのであります。講演会は午前8時開場、会員は先生のお出を待つ間、40分の合掌行を行いました。9時ご出講、講演は正午まで続きます。そして1時から体貌観測が始まります。体貌観測を受け得る資格は西会に入会してから2ヶ月以上経た者ということになっておりました。これは冷やかし半分にやってくる者を防ぐために、役員が考え出したことなのです。ステージには寝台を置き、我々を教えるため、いろいろ説明をしながら体貌観測をせられ、自分自身で操作をおこなわれました。我々がこれを習ってからは、西先生の体貌観測は我々指導者に指示せられることになったのであります。こういう方法をお取りになったのも、当時としては万止むを得なかったことと思います。その証拠には、私、ここに持って参りました昭和5年7月26日発行の西会の機関誌です。テトラヘドロパシーという誌名になっております。私は言い馴れておりますから、平気ですが、初めての方は舌を噛んでしまいます。シドロモドロカシーになってしまいます。それで5回目か7回目から只今の「テトロパシー」と改題せられました。ここに持って参りましたこの本は第1巻の最終回12号でありますが、これにはちゃんとテトロパシーとなっております。

この本の第1ページは巻頭言、次が保健治病六大法則の解説になっております。これは物理学的、化学的、生理学的、哲学的、心理学的、解剖学的、あらゆる視野に立って六大法則を解明しておられるのでありまして、今の頭で見ますと西先生が精魂を尽くしてお書きになったことがハッキリとわかりますが、当時の私では難しくてよくわかりませんでした。しかも何年間も続くのであります。これだけ集めても立派な文献になります。その次がラテン語の原書から完訳されたハーベーの「動物の心臓および血液の運動に関する解剖学的研究」が連載されているのであります。しかも所々註釈が加えられております。次がコーペンハーゲン大学クロー博士の「毛細管の細胞学及び生理論」が掲載せられているのでありまして、西医学は根本は学問的根拠のあることを示しておられるのであります。ちゃんと手を打っておられたのであります。つまり一般の人には手技から、知識階級に対しては学問的に説くという風に2本建てで普及に当られたのであります。こう見ていきますと、我々の考えているような甘いものではなかったのであります。それなのに申し訳ないことではありますが、我々は毎号テトラパシーが送られてきましても、難しいところはすっかり抜かしてしまいまして、終わりのほうにある治験例とか質疑応答欄ばかり読んでいたのであります。尤も私は実習指導のみをやっていた関係上、そうなったかもわかりませんが、実に立派な論文でありました。その上、フランスのクセジュに掲載された新しい医学の動向をも発表せられました。書物の上では実に難しく説かれたのでありますが、これが一度講演となると大いに洒落を飛ばして皆を笑わされました。たとえば「クロー博士は毛細管でクローしている。誠にごクローなことだ」何て洒落を飛ばしておられました。私達はドッと爆笑したものであります。

(13)

こんなことがある程度続いておりますうちに先生はこんなことを持ち出されました。私は説法において釈迦の説法が一番理想的であると思う。そこで私は釈迦の説法に倣ってその順を踏んで説くことにする。

阿含(アゴン)12、方等(ホウドウ)8、般若(ハンニャ)22、法華(ホッケ)涅槃(ネハン)共8年、華厳最初3 7日で、釈尊は最初3 7、21日間華厳経をお説きになったが、あまり難しいので一般の人にはわからない。わからないから付いてこない。そこでこれを3、7日でやめてしまって、阿含経を12年お説きになったのであります。

西先生曰く、阿含経は非常に面白く、わかりやすく説いた経で、まるでイソップ物語を聞いているかのように、比喩があって面白い。その面白さに釣られて皆が付いてくる。これが12年も続くのである。で私は、この阿含程度に説いているのである。とうとう私達の頭の程度を推測されたのであります。たとえば毛管、触手を説かれるにしても、猫が火鉢の縁で心地よく居眠りを始める。そのうち、前足を誤って炭火の中に突っ込む。火傷した猫は驚いて畳の上に飛び降りて、ブルブル、ブルブルと手──いや前足を振ってベロベロと舌で舐めて、何でもなかったような顔をして立ち去る。彼女は教えられなくとも毛管作用発現法を知り、触手──いや触舌療法をおこなったのであるとか、動物園に行って熊を見ると熊は盛んに柵の中で首を振り振りあちらこちらと歩き回っている。見物人は熊が皆に愛嬌を振り撒いているように思って喜んでいるが、実は小さな檻の中に閉じ込めれられ、そのうえ食餌を与えられるのであるから脊柱に狂いを生じたため、首を振り振り歩き回る。熊は人間と違って四足であるから歩き回ることによって背骨が左右に揺れ動く。すなわち自然に金魚運動をやっているのだといった調子です。こんな話をしておれば切りがありませんが、実に面白うございました。一度暇があったら、こんな話ばかり集めて「西式イソップ物語」といったようなものにして子供の教材にしてもよいと思っております。

こんな風に平易で且つ面白かったものですから、皆ワイワイと集まって参りました。ここに持って参りました「テトラヘドロパシー」第1号の巻頭の写真は大阪の朝日会館における西先生の講演会の実況で、ご覧のように立錐の余地もない盛況でありますが、だんだん西先生のお話が核心に触れ、グローミューに入って行くに従って、聴衆も限られた範囲にとどまるようになりました。

(14)

なにぶんにも西医学は革命的でありますので前例がありません。温冷浴1つを取り上げてみてもおわかりになりますように、水と湯と交互に入るのでありますから、風呂といえばよく温まるということが先入主になっておるところへ、いきなり水に入れ、これは堪らんと逃げてしまう。今でこそ温冷浴の効果もわかっており、多くの人もやっており、温冷浴槽を設けた銭湯も次第に増しつつあるときでしたら、水に入れと言っても逃げ出す人はありません。ところが、まだ誰もやっていないときにこれを説くというのはなかなか骨が折れます。そのときに先生は、夏と冬用の温冷浴の襦袢をつくり、これを着て太もも以下の温冷浴をする。これならある程度やれる自信が持てますから実行する。そのうち先生は一層のことジャブンと首まで浸かれ、そのときには我々水に馴れておりますから、一思いに首まで浸かる──そうすると体の調子が良いものですから、大いに人にも勧められるし、遂に公衆浴場にまで広がったのです。大阪西会事務所周辺の浴場には水槽を備えているのであります。

それから朝食廃止──これは発表の時期が良かったのでヒットしました。それは戦争も拡大の一途を辿り、一億総決起とか耐乏生活を号令された頃でありますから、朝食を抜こうという運動は大いに受けたものであります。そのうち号令者である軍人が喜びました。そして朝食廃止連盟ができる騒ぎでした。「週刊朝日」は商工会議所会頭森平兵衛氏の健康法として西式朝食廃止を取り上げました。また禊を精神修養として一般がおこなうようになってから温冷浴に非難の声が起こらなくなりました。

こんな時代でありましたので、私は昭和12年に大阪市講師に迎えられ、大阪市出征軍人遺家族援護の仕事に従事することになり、講演や健康相談に携わるようになり、権藤中将など大いに太鼓を叩いてくれたようなわけであります。この健康相談は終戦後昭和27年10月まで続けられまして、市長から「満15年の長きに亘り大阪市民の健康に寄与したことに深甚なる謝意を表す」というような感謝状とともに記念品として花瓶を頂戴しましたが、花を生けるにしても、この花の高い時代でありますから、箱に入れたまま子孫に伝えることにしております。

(15)

朝食廃止に致しましても、すぐにも朝食廃止をしろとは言われなかったのであります。夕食後朝食までは断食状態にあるのであるから断食を戻すように軽いものを摂れ、それには粥がよろしい。つまり朝食は粥にせよということでありましたので、私達は率先して粥食を摂るとともに、西先生も粥しかお召し上がりにならないというので、大阪では渡辺橋下のかき伊というかき船、京都では瓢亭が朝粥を食べさせましたので、わざわざホテルへお迎えに上がりましてお供して行ったものです。先生は腹の中で可笑しかったことだろうと思います。そのうち粥を食う位だったらいっそやめてしまえと、ここで朝食廃止に踏み切ったのでありますが、長年の習慣を破るとき徐々に転換させる配慮をせられたのであります。

心臓タンク説、血液循環毛細管説は大変難しい学理から成り立っておりますが、阿含時代では簡単に説かれました。何丈もある大木の根元から水と栄養を梢まで送り青々と葉を繁らせているが木の根元にポンプがあるわけではない。木の繊維と繊維との間が毛細管現象を起こすのであって、また富士山頂の金明水、銀明水は岩の割れ目が毛細管作用を起こすからである。私は富士山に登ったことは一度もありませんが、今日飛行機の窓から見下ろして参りましたが、汽車の窓から見た感じと違って案外小さく感じましたが、この日本一の高山の頂に水が湛えられているのであります。こんな風に誰にでもわかるように説いて、法華の涅槃時代になると、物理学的、解剖学的に説かれるようになり、高等数学を駆使せられるようになりましたが、その時分になると本職のお医者さんも弟子に加わるようになったのであります。

いったい西医学の目的は何か、病気を治すのが目的ではない。病気に罹らないようにするのが目的であると、何度も聞かされて来ました。たとえ病人に接して指導によって治ったとしても、それは治したのではなく治ったのであります。だから西先生の教えを本当に身に付けた者は決して治したという言葉は用いません。治られたと申します。人が人の病気を治したのではなく、天の摂理に従ったから自然の良能によって治ったのであります。

(16)

最後に私に残された言葉もこれであります。私がラムダーの用件で東京に参りましたとき、昼食を共にするから新宿の支那料理店で待っておれ、ここまでは大変良かったのでありますが──。先生がお越しになるや否や、難波君、君は西医学を何と考えているんだ、とお問いになります。あまり突然でありましたので返答に困りジット顔を見つめておりますと、何をボヤボヤしているのだ。君は何もわかっとらん。いつまでも病人相手にしている時代ではない。病気に罹らない世の中を出現させる。つまり西医学が現代医学に取って代わる運動に全力を尽くさないのか。いかにも残念そうに、しかも大変な勢いでお叱りになったのであります。こんなことは初めてのことで、ただ私は呆然としてしまったのであります。今から考えてみますと、これが西先生の最後の説教となったのであります。これが大涅槃経であったのであります。

孫子の兵法謀攻第三に「是故に百戦百勝は善之善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるもの也。」とありまして、百度戦って百度共に勝つ──つまり全勝したからとて善の善なるものではない。戦わずして勝つのが善の善なるものであると言っているのであります。多くの財宝を費やし、人命を失い、銃後を苦しめることになるのですから、戦わずしてソ連とアメリカは思想でもって戦っている。いわゆる冷戦をやっている。賢いやり方ですね。これを病気に置き換えてみますと、たとえ病気になって西医学によって不治の病が治ったとて、自分自身は肉体的、精神的、経済的苦痛を味わい、しかも自分だけでなく家族全体をも不幸にするということを考えると、我々は病気をしないことに努力をするのが善の善ということになります。お蔭で私は65歳になりましたが、西会に入ってから今日まで病気で倒れたことはありません。私達の仕事は1ヶ月前に講演の約束をする。その日が来たら出かけて行く。未だ嘗て「講師病気につき休講」というようなことが、過去30何年間一度もないということは西先生の教えを守った賜物と大変ありがたく思っているのであります。

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ま、こんなことばかり言っていますと時間がだんだん過ぎてしまうので、結論のほうに早く入りたいと思います。

私が先生に接している内にどんなことを考えるようになったかと言いますと、我々がこれまで常識で何でも判断していたのが、常識というものがいかに取るに足らぬものだということです。これまで何でも常識ではこうだ、とこういう風に常識に頼る向きがありました。我々の持っている小さい常識はすっかり先生によって潰されてしまいました。

西先生は歯磨きは無用である。歯磨きを使うから歯を悪くするのだと歯磨き無用論を唱えられました。そして私は歯磨きを使わないから、未だに歯の根が緩んだことはないと良く揃った歯を指で叩いて見せられました。私の常識はこれはチトおかしいと考えましたが、もう1つの心は西先生の言われることだから、1つ実行してみようと考えます。それで私は心の命令に従って歯磨きを使用することを止めまして専ら食塩でずっと磨いております。歯を磨くというよりむしろ歯茎をマッサージするのです。初めは歯茎から血が出ましたが、だんだん歯の根が締まるにつれて血も出なくなりました。ご覧のようにこの歯は自分自身の歯なんです。これまでの常識では食物が歯にくっついて、それが乳酸となり、この酸が歯のホーロー質を冒して虫歯になるから、食後歯磨きで歯を磨くということは衛生常識となっていたのです。その常識が30何年後破られることになったのであります。

阪大歯学部寺崎教授はシャツの学説を発表せられたのであります。これまではドイツのミラー学説によって砂糖が発酵して乳酸をつくり、この乳酸が歯を害すというので、歯磨きはアムモニア、尿素によってこの酸を中和しようとしたのですが、アメリカのシャッツは蛋白溶解キレーション学説を立てたのであります。有機物が分解してキレート剤をつくり、これが燐酸結合をしてキレート化合物となり岩なり歯を溶かすというのです。岩の上に松やツツジが生えるのは、キレート現象を起こしたのであって、キレーション現象はアルカリー性の場合起こりやすい。故に現行のアルカリー性歯磨きは歯のために、むしろマイナスとなるというのであります。実際において神経質に歯ばかりを磨いている人達に案外歯の悪い人を見受けるのであります。

西先生の歯磨き無用論に対して、30数年後にはこれを証明する学説が出たのであります。そして歯はむしろ水で磨け、口がモヤモヤするようだったら食塩で磨けという論も出ておるのであります。だんだん西先生の説が世に出て参りました。

それから中年以後になると、白髪ができたり、頭が禿げたりします。これは熱い湯と石鹸でしょっちゅう洗うからであります。風呂に入る度に洗っている人がありますが、これは良くない。またアルカリー性の石鹸で皮膚を無闇に洗うことも良くない。西先生は皮膚は酸で養うのであるからアルカリー性は良くないと言われました。私の同級生で日本油脂の石鹸部長をしているのがいまして、同窓会で会ったとき、これからの洗剤は酸性洗剤でなければならないと言ってやりました。近来はやっと中性洗剤の時代に入って参りました。毛髪は皮膚から発生したものであるから石鹸で無闇に洗うことは良くないのであります。昔は米糠で洗いましたが、米糠は酸性でありますから、日本の昔の人のほうが合理的であったと言えるのであります。考えてみると皮を鞣すのは、タンニン酸とかクロム酸で鞣しております。試みに皮手袋を石鹸で洗ってみましたら、ボロボロになってしまいました。

私は西先生のお説によりまして、石鹸で頭を洗うことと熱い湯を用いないようにしましたお蔭で、ご覧のように多少の白髪はありますが大多数は黒髪で禿げてはおりません。私が理髪店に参りまして、石鹸で洗うな、湯を使うなと言うものですから、一現の店に行きますと親父が五月蠅い奴だというような目付きをしますので、私の家から1時間もかかる神戸の大倉山まで行っておりましたが、だんだん忙しくなって来ましたので、時間を節約する意味において今では自分で刈っております。

温冷浴をしていると身体を洗う必要はないと西先生はお説きになりました。ただし衣服より出ている部分と股は洗いますが──。そこで私は身体を拭いて出ることに致しました。家内は「お父さん、身体を洗ってもらわないと肌着が汚れて仕方がない」とぼやきましたが、それも2週間位の間で、もう垢が付かなくなってしまいました。温冷浴をしていると水で皮膚が締まりますから、水中に垢を絞り出すのと、だんだんキメが細かくなるので、垢が付いても、染み込まないので拭いただけで取れるのです。

ちょっと言い忘れましたが、頭を洗わなければ頭が痒く、フケが溜まって困るという人がありますが、雲母のようなフケの溜まる人は、足が硬いからで、毛管と下肢柔軟法をすることと、無闇にフケ取りで頭をボリボリ掻かないことです。

全く常識はメチャメチャになってしまいました。

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それから今日の核心でありますが、西先生が4年にして世に出る。──この間、東京の門脇さんご兄弟が私の家に訪ねて来られて、「あなたの弔詩を読みますと、西先生にしばらくのお別れをすると言っておられるが、しばらくという意味は、そうすると4年後に先生がこの世に出て来られるとお考えなんですか?」「いやそれは西先生は足柄山に特殊な棺桶に収めて、こうこうすると言っておられましたが、しかし私は先生のお話を聞いて、先生が釈迦の筆法でゆくと言われたことから考えて、釈迦が最後の涅槃に入られ、沙羅双樹の木陰で最後の説法に入られるときに、集ってきた沢山の仏弟子が、仏よどうか我々を見捨てないでください。仏を失った我々は何を頼りに致しましょうやと号泣して頼む──そこで大説教が始まるのです。弟子よ嘆くな。儂は軈てこの世の中に出て来る。300年かな、いや500年かな。必ずこの世に再び生きて帰って来るという意味のことを言って、寂滅されたのであります。果せる哉500年にして竜樹菩薩の出現によって仏教は地球の上に広く布教されたのであります。

こういうわけでありますから、西先生の場合、こんな文明の世であり、印刷も高速になり、交通機関の発達で世界も狭くなったのでありますから、4年にして世に出るということは、4年にして我が学説は世に認められる。そのときこそ自分は世に出たのだという意味に私は解釈している。」とお答えしたのです。そうしたら、「もう1つ最後にお尋ねするがあなたは神秘直感力をお持ちですか」「いや残念ながら持っておりません」「あなたは人から悪口を言われたりしたら、それがおわかりになりますか」「残念ながらわかりません──しかしこういうことは言えます。私に好意を持っている人は、その善意は私にわかります」「ああそうですか、記念に写真を撮りましょう」と言ってパチパチと撮って帰られました。今日来るように言っておられましたので、あるいはこの中におられるかも知れません。

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なぜ私はこういう返事をしたかと申しますと、大阪西会ができてから間もないときのことです。西先生が大阪の講演を終えて東京にお帰りになるとき、駅に切符を持って行くことになっておりましたところ、ちょっと遅れました。駅へ駆け付けたときには、もう発車のベルが鳴っている。大慌てに慌ててプラットホームに飛んで行きました。先生は切符がないものですから、入場券で入ってステップに立っておられた。先生の側まで行き着いたときはもう汽車は動き出しておりました。「先生!!」とやっと切符をお渡ししたが、その晩は自責の念で良く眠れませんでした。

そして次の月の先生のご来阪を待ち兼ねて大阪駅頭にお迎えするや否や「この前は誠に申し訳ないことを致しまして」とお詫び申し上げますと、先生は「何のことかネ」とケロリとしておられますので、私はこれこれしかじかと事実を申し上げたところ先生は「そんなことがあったかネー。難波さん、私は人の悪いところは直ぐ忘れるが、良いところは決して終生忘れないことにしている。そうでないと自分の健康上よくないし、また相手に好意を持ってあげることは相手の人を伸ばすことにもなるのだよ。道を説く者はそれだけの心がけがなければならない。」

この一言は私の骨身に応えたのであります。それ以来、私は自分の心を傷つけるようなことは忘れるように練習いたしました。その代わり西先生がご来阪になる1週間ほど前から手落ちがあってはとの心の緊張からおちおち眠れません。不眠症のようになってしまいました。それでお伴の途中か何かの機会に「先生どうも眠れないので困っております」と申し上げると、先生は「難波さん、誠に羨ましいことだ。私はしなければならない仕事が山積しているが、眠る時間に取られるので誠に残念に思っている。仮に人生50年として、25年は寝て暮らすとすれば眠る時間が少なければ、それだけ仕事量において長生きしたことになるではないか。だから眠れない時間を活用する意味で、いま私は断食の原稿を書いているがその内の粥の研究をやってもらいたい」と言われ、とにかくお引き受けしたのであります。西先生の断食の本の中の粥の話というところは、私の不眠症治療の所産なのであります。

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さて引き受けてはみたものの、どこから手を付けて良いやらさっぱり見当が付きません。初めは図書館に参りまして、図書目録で粥のことが書いてありそうな本を片っ端からペラペラ捲って、粥の字を探し出しました。そうする内に粥という文字に非常に敏感になりまして、粥という文字だけが浮き出して見えるようになりました。

とうとう茶道の本から粥の研究の糸口を見つけました。茶は建仁寺の開祖栄西禅師によって宋の国から持ち帰られて、帰朝後、今ハッキリとは申し上げられませんが、京都に建仁寺を建立せられた前後に「喫茶養生記」上下2巻を書いて茶を普及されたのです。京都の本能寺の向かいにある佐々木竹苞堂にその版木が残っておることを知って西先生とともに参りまして、特別に刷ってもらったのでありましたが、そのとき私も先生に便乗して70部を分けてもらいましたが、今、私の手許に1冊しか残っておりません。お茶は宋の国の医法として伝えられました。朝茶には粥を食すことになっておりますから、粥はお茶とともに我が国に入ったものです。ですから粥の本家は支那ということになります。

黄帝殻を饘して(蒸す事)飯となし、殻を煮て粥となすとあり、つまり蒸した物を飯(いい)──今の強飯(おこわ)で、煮た物を粥──今の姫飯(びめいい)、水気の多い物を糜(び)と言ったのですが、その後、飯が強飯となり、粥が姫飯となり、糜(汁粥)が粥となったのです。人間がだんだん柔弱となって次第に軽い食物を食すようになったのです。ま、こういうことから粥についての見当が付き出してきました。

碧山日録という本には、飢えたる者に食を与うれば死す。故に粥を与うなりと記してあります。護良親王が吉野の奥に落ちたもうて、名主の家を訪ねられたとき、名主はお食事はと聞きます。ここ何日間何も食べておらんとお答えになると、いきなりご飯を差し上げてはお命が危ないというので、栃の実でつくった汁粥をつくって差し上げた。断食を戻すときには薄い物からということは昔から知っておったのであります。

こうして調べた文献を少しずつお送りしたのでありますが、その出所を明らかにせよということでありましたが、先生は一応誤りがあるかどうかを確かめられたのであります。先生は軽率に人の言を取り上げられることなく発表した以上、文責を自分で執られたのであります。

一番困ったことは粥の文研はほとんど漢文で、しかも送り仮名も返り点もない白文が多かったのです。これには音を上げました。それで西先生に「先生どうも漢文は苦手で、返り点のないものは全く読めません」と申し上げますと先生は「そんなことを考えては駄目だよ。君、英語には返り点が付いているかネ。送り仮名、返り点に頼っていることは、英語を虎の巻で勉強しているようなもので、訳者の考えに括られてしまう。読書百遍意、自ら通ずで、わかってもわからなくても一所懸命に読んでいる内に意味が取れてくる」と教えられました。お蔭で些かではありますが漢文が読めるようになりまして、今から考えてみるとあらゆる面、あらゆる点において先生の恩恵に浴すことのできた私は果報者だ、結構な身分だと喜ぶとともに、ありがたく存じておるわけです。

(21)

西先生が4年にしてこの世に出ると言われましたが本当にこの世に出てこられました。婦人の読みものとして権威のある「暮しの手帖」花森安治さんの編集しておられる──広告は絶対に取らない。広告主に気兼ねして事実を曲げることのないよう──それだから、そのものズバリと有名品であろうと容赦なく欠点を突かれる。この本に下剤のことが載っておりましたが、緩下剤は常用していると習慣性がつくし、また濃厚な下剤を用いると薄まろうとして糞便の中の水を取ってまで薄まろうとする。便通をつけようとして服用したのが却って頑固な便秘を招来する。それは、よく水分を含んだ便が直腸に達すると、そこで便意を催すことになるが、固渇した便が直腸に達しても便意は起こらない。便秘したら大いに水を飲みなさい。そして足の運動を大いにやれ。へたな下剤を飲むよりもずっと理想的な下剤であると胃腸クリニックの副院長が書いていました。西先生は液体の下剤をつくり、さらに200倍位に水で薄めて用いよという説が生まれ出てきました。

(22)

エ!このごろ肝臓が問題になって参りました。流行性肝炎だとか、肝硬変で死ぬ人が目立ってきている。それで強肝剤がドンドン売れて行く。新聞を開いてみると強肝剤、ラジオ、テレビのスイッチを捻ると強肝剤、大変なことです。それから次は副腎、嫌というほど目や耳につきます。

しかし、西先生は西医学ご発表──確か昭和2年2月11日だったと思いますが──既に重要視して、健康法の中に折り込んでおられるのであります。それから間脳が脚光を浴びて登場して参りましたが、反射のところでこれに触れられました。肝臓と脾臓との関係を論じられました。常に肝臓は温かく、脾臓は冷に保つことによって健康が保たれるというところまで言及されました。そのとき東大出の理学士で大阪高等学校の生徒時分から大阪西会員だったT君は、西医学も遂に奥義に入った、これ以上進展することはあるまいと西先生の膝下から飛び出して、肝温、脾冷を表看板にして○○医学の創始者となったのでありますが、その後西先生はビタミンCの問題、終いにグローミューなど次々に発表せられて、T君に大阪西会員十数名が彼の陣営に従いましたが、遂にまた西会に復帰するようになったことがありました。

肝臓についての講義は随分古いノートに残されておりますが、これが相当まとまって活字となったのは昭和8年版の西式断食療法で、相当のページを費やしておられます。

大阪の甲田医学士が阪大を卒業するとき教授から甲田君、君は今後なにと取り組むつもりかという質問に対して、肝臓の研究をやってみたいと答えたところ、教授はホー新しい問題に取り組むんだネと言われたそうでありますが、実は西先生の断食の本を読んで肝臓に興味を覚えたからであると──これは本人から直々に私に話されたことであります。

栄養栄養と取り入れることばかり叫ばれているときに、西先生は断食の書物を出したり、人体入るを計って出ずるを制すのでなく、出ずるを計って入るを制するのだと言われました。

食べたものは消化せられて、栄養は肝臓に送られそのカスは糞便となって腸から外部に棄てられ、肝臓で栄養を簡単なものに変化して血液によって組織に運ばれ肉や、骨やいろいろなものを養いますが、そのカスはまた静脈血によって腎臓に送られ尿として体外に棄て去られるのですが、腸から外へ棄て去るのは肝臓によってつくられた胆汁の力によるものでありますし、腎臓から尿として体外に棄て去るのは肝臓でつくられた尿素の力によるものであります。宿便は恐るべき結果を齎せることはご承知の通り、また尿閉は短時日の内に生命の危険に陥るのでありますから、この出ずるを計るということは甚だ大切なことであるのです。それで昔から一番大切なことを肝心要とか、これ肝要なりと言っているという風に説かれまして、強肝法として肝温、飲水、風浴、食餌療法、強腎法として平床、腎臓微動、足湯法などを講じ、肝臓機能について9つの項目を挙げて説かれたのでありますが、それからズット後、今から5年前の1958年3月号のリーダーズ・ダイジェストの55頁に「肝臓は神秘的な臓器である」と今更のように掲載されたのであります。

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それから副腎の問題でありますが、ご承知のように皮質と髄質からなっており、髄質からはアドレナリン、皮質からはコーチゾンを分泌しているのであります。実に小さな器官でありますが、サンショは何とやらで小粒でも偉大な力を持っているのであります。副腎の説明にはよく東郷元帥が持ち出されました。そして左団次演ずるところの三笠艦上における東郷元帥の演技に対する批評を含めて話されたものであります。あの日露戦争のとき我が海軍がバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃つ。そのとき三笠艦上で東郷元帥が剣をついて、その横に後の秋山大将がまだ士官候補生として望遠鏡を覗いている。

ヒユーッと飛来する砲弾、近くに炸裂する砲弾の轟音の中に泰然自若として形勢を見守っておられるその勇姿、私の子供の時分からの馴染み深い絵を思い出しますが──西先生は泰然自若ということは、何らのショックを受けないということではない。ショックを受けなければ副腎は働かない。副腎が働かなければ敏速に判断なり行動なりが取れないのである。年中精神緊張をしていると遂に副腎がやられてしまう。検事、弁護士などの職業は法廷闘争で精神を緊張させるからどうしても副腎が冒されると話されましたが、その後支配人病としてストレスが問題となってきたのであります。副腎の神経反射は胸椎9番に顕れます。原因不明の病気にはこの9番反射の人に多かったものです。当時ストレスとかノイローゼ等の言葉は用いられておりませんので、我々仲間ではそうした人達のことを9番さんと呼んでおりました。副腎の障害は胸椎9番に副脱臼を起こさせますが、平床の上に寝ておりますと、ここが一番よく支えられているところでありますから、狂いを防いで決してストレスになるということはないのであります。

それから癌であります。癌は脳出血に次ぐ死亡率を示しております。癌に対する原因は区々として定説というものがありません。西先生は一酸化炭素中毒説を唱えられました。フイシャーは癌細胞は生まれたときに既に潜在していて、発生し得る状態になると猛烈な勢いで増殖すると考えました。また一般の人は遺伝するものだと思い込んでいたものですから、親父が癌で死んだから俺も癌になるんじゃないかと心配したり、娘の縁談に差し障りがあってはと、死因が癌であることをひた隠し隠した時代もありました。

ところが我が国の山極博士は兎の耳にコールタールを塗り付けて人口癌づくりに成功し、これがきっかけとなり、化学物質を飲ませたり塗り付けて動物に癌や肉腫をつくり、刺激説が世に出ました。電子顕微鏡の出現によって蓮見博士は癌のウイルスを発見し、独特のワクチンをつくり、新しい療法を発表しました。西先生はウイルスについてウイルスによって発病するのか、発病したことによってウイルスができたのか、ウイルスは病気によって生じた1つの毒素という風にお考えになっていたようでありますが──

昭和30年になりますとワールドブルグが酸素欠乏によるものとし、32年にはピッグネルもまた酸素欠乏説を唱えるようになり、西先生の一酸化炭素説は非常に有力となって参りました。最近薬物によって直接癌細胞に酸素を供給する療法ができたということでありますが、これとて1つの癌の発生部位が確かめ得たとしても、癌細胞は身体の至るところに発生し、また転位するのが特質でありますから他の部位に転位があって未だ発見せられないものがあったとしたら、どうなるかという心配も出てきます。その点は西先生の風浴法は皮膚全体から酸素を取り入れ、生水、つまり酸素のよく溶け込んだ水を飲んで血液を通じて組織に送り込むということのほうが、納得できる方法だと考えるのであります。

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今から2年ほど前から関節や筋肉の痛む人の相談を受けるようになりました。初めはそれほど気にも留めておらなかったんですが、だんだん目立つようになって来ましたので、これも1つの流行病かなと思うようになりました。大概6ヶ月ぐらい入院したり通院したりして治らないので西会を訪れた人達であります。医師の診断は関節痛にリュウマチ、筋肉痛には神経痛という病名が付けられていました。

これは今から30年も前、3ヶ月の長期講習会でヘーグの尿酸学説の講義がありまして、蛋白質を食べるとこれが尿酸になる。この尿酸は尿として体外に棄て去るが、多食すると、棄て切れなくなって、それが関節や筋肉中に溜まり、痛むというのです。それで西先生はこれに対しての対策を考案されたのが野菜粥と足湯法であります。

野菜粥というのは正月の7日に祝う七種粥(ななぐさ)マアそういうものだとお考えになって間違いないと思います。七種粥は、せり、なずな、すずな、すずしろといった野草七種類を粥に入れて食べるのでありますが、野菜粥の場合は食べられる野菜の葉ッパを3種類以上粥の中に刻み込むのです。これは利尿を目的として用いるのです。実に良く効きます。1時間置き位にザーッと出ます。考えてみると昔の人は科学性はなかったかも知れませんが、経験を100%生かしたことが窺えます。

年末から年始にかけて、とかくご馳走を摂り過ぎます。勢い蛋白過剰となります。それで利尿性のある七種粥を食べる。──こう考えて行きますと、何も正月7日に限ったものでなく、毎日おこなうべきでないかと思います。

なず野菜粥が利尿させる働きがあるかと申しますと、生食の理論において、葉は遠心性、つまり内部のものを外部に出す働きがあるのです。便通が良くなり──これは繊維の問題だけではありません。──この頃ミミッチクなりまして、うどん屋に参りましても薬味の七味唐辛子、葱は自由に取らしてくれませんが、昔は大きな器に葱は山盛り一杯入れていたものです。

私の書生時分は寒い日など1杯2銭5厘のうどんを取り、うんとこさと葱の薬味を入れてツルツルと吸い上げますと、額から汗が浮かび上がる。葉ッパは利尿、利便、発汗の働きがあるのです。根は吸収性を持っておりますが、時間の都合上ここでは詳述を避けますが、野菜粥の製法については西医学健康原理実践宝典でご研究願います。

野菜粥は原則として夕食に摂らすのでありますが、良く効く代わりに夜中何度も小水に起きなければなりませんので、寝付きの悪いような人は少し効果が減じても昼食に摂らせるようにします。そして1分交互の足湯法を午後3時、6時、9時と3回おこなわせますと、1時間置き位に尿意を催し、しかもその都度自分でもびっくりするほどの尿量があります。そして排尿の度に目に見えて痛みが取れて行きます。私の経験では、6ヶ月入院しても治らなかった人が、3日間からほとんど苦痛を感じなくなり、5日間で床上げするほどで、熟々と西医学いや西先生の偉さを今更のように知らされたのであります。ありがたいことであります。

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生食はもちろん必要です。動けるような人であれば、温冷浴をする前に、腎臓微動をしてから温冷浴をして、上がるときにコップ1杯の水を飲みます。そうすると1時間以内に尿意を催し、びっくりする位の小便が出る。そして目に見えるほど痛みが軽減します。ところが今頃になって九大医学部の教授がこんなことを新聞か週刊誌に発表しました。自分はゴルフをしようとしたら足の親指の関節が痛い。我慢をしてやろうとしても、痛みは実に酷くなるばかり、そこで関節炎だろうと、いろいろな抗生物質を用いてみたが一向に効果がないので、とうとう整形外科の先生の厄介になったところが関節に尿酸が溜まっているとのことで痛風という病気だということがわかった。なるほど痛風という病名は学生時代に講義を聞いたことがあったが、この病気はアメリカに多いが、日本では稀なということであったので必要もあるまいとすっかり忘れていた。恐らく町のお医者さんで尿酸による痛風と見分ける人はあまりなかろうということを書いていました。

考えてみますと近年牛豚肉屋の増えたことはおびただしいものです。大阪や神戸のターミナルでは1丁に1軒位あります。それだけに肉食する人が多くなって、盛んに尿酸を生成して関節や筋肉に溜め、したがって痛む病気が増えたということになります。私は野菜粥や足湯法を教わっていたお蔭で、多くの人を救い、また感謝されました。ありがたいことです。

九大で思い出しましたが柿茶の効果について発表しておりました。それによると、高血圧性の眼底出血、糖尿性の眼底出血、結核性の眼底出血について柿茶を実験したら、1週間で止血した。これはビタミンCだけの問題ではなく、脳出血に柿の渋を用いるように何らかの止血性要素があるのではないかと研究しているか、研究しようと思っているとか、そこはハッキリと覚えておりませんが、そんなことを言っておりましたが、西医学の目をもってすれば、プロアスコルビックアシッドだから効くのだと説明したいところであります。ニシス、オキザリック、アシッド、サークルによって化学方程式で証明せられております。この頃ビタミンCの分析表を見ますと、C前駆体を載せるようになりましたネ。澱粉ばかりだと思わせるような馬鈴薯を食べるとビタミンCができる。これはその前駆体から体内でビタミンCができるのであります。よく柿茶を分析してみても、西先生が言われるほどに、ビタミンCがないと、会員から衛生試験所あたりの分析表を突き付けられますが、西先生はそれでは尿中のビタミンCの測定をしてみなさい。柿茶に含有するビタミンCよりも、もっと多くを検出するであろうと言われていました。

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それから栄養化学の藤田博士は「漬物の栄養学における地位」と題する論文中に新しい実験を試み、繊維は大腸菌と共同してビタミン類をつくり、また整腸性を持ち、唾液の分泌を高めるということを発表せられました。青汁ではいけないのでありまして生食は滓ごと食べるところに意義があるのです。確か同志社大学の教授であったかと思いますが、ここに用意して参りませんでしたから、間違っていたら訂正いたしますが、青汁はその植物の持つ栄養の一部分だけしか用いないのだから不完全栄養となると言っておられます。西医学における生食の摺り餌は確かに合法的だと言えるのであります。

また西医学においては肝臓病には蜆の味噌汁を食物として勧めておりますが、お茶の水女子大の稲垣長典博士は、赤いビタミンと言われるビタミンB12は、動物の肝、腎、脾の臓器に多く含まれ、植物性食品にはないが、微生物の働きによって、味噌、納豆などにある程度期待が出来る。また海草などの表面に付着したバクテリアがビタミンB12(造血性ビタミン)をつくると言っています。血液には銅、鉄分が必要ですが蜆にはこれを含んでおります。しかしアイノリナーゼというビタミンB1の破壊酵素がありますので煮て食さねばなりません。煮た蜆、血液の要素と造血性ビタミンの味噌とで蜆の味噌汁をつくる。誠に合理的と言わねばなりません。ただし蜆が煮立ってから味噌を入れることは申すまでもありません。こういう風に調べて参りますと、勝手な考えから蜆汁はお澄ましでも良いですよと澄ましていることは不勉強を白状していることになるのであります。

それから先ほど樫尾先生も仰いましたが、大阪市立大学の附属病院では小児喘息の治療に温冷浴をやらせており非常に効果を挙げております。それで八尾の市立病院でもやっているか、やることになったかであります。それで八尾の甲田先生が見学に行ったところ、元来子供は水が好きなものでありますから、嬉々としてザブッと浸かっては湯に入っている。ところで西先生は喘息はアレルギー疾患ということになっているが、1つは栄養の消費に対して供給過剰から全身運動である発作が起きるのであると言っておられました。実際わたし達の元に来る喘息の子供達は、富裕の子弟が大多数でありました。富裕でなければ、甘やかされた子供であります。病院の発表したところを見ますと、富裕の子弟に多いので、ドンドン運動をさせては温冷浴をさせ、これを4回繰り返させれば発作が起こらない。西先生と同じようなことを言うようになりました。

(結び)

こういう風に見て参りますと、西先生が世に出てこられた感じが緊々と胸を打つのであります。西先生の教えを受けない人達によって西先生の学説を裏付ける諸説が出て参りました現在、教えを受けた我々はボヤボヤしているわけには参りません。

西先生から何をボヤボヤしているのか、病気にならない現世をつくりだすことに努力を致さないのかのお叱りを受けましたので、そこで私、西医学健康法の普及に努力することに決意しましたが、さてやってみると、これは大変なことであることを知ったのであります。それは治療を主とすれば収入がありますが、普及となると収入よりも費用を要する仕事で、これは大変な仕事であるわい。流石に先生の残された使命はなかなか凡人のよく為す能わざる大きな仕事であると気付きました。そして大衆の力と資金の結集が必要であると存じております。皆様と共に力を合わせて西先生の悲願を達成したいものと念願いたします。大所、高所に立った西医学──先生は西銘の講義のところで、東の窓には砍愚(へんぐ)西の窓には西銘すなわち中庸思想、へんぐの砍は石でつくった鍼のことで、鍼治療に偏るの愚、すなわち治療に堕し、手技に堕すことを戒めておられます。西医学の本道に精進して皆様と共々に大いに活動したいと念願しております。

時間も13分過ぎました。エー、マ、この位のところで私の任務を終わらせていただきます。

(拍手)


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