断食について(4) 西勝造

断食について(4) 

西勝造

断食と飢餓

断食と飢餓とは混同されているが、全然別のものである。食欲があるのに食物を摂らないのは断食である。食欲がなく食物を食べることのできない場合がある。これは3つの区別がある。疾患のためと言えば全てはそうであるが1つは食道狭窄、1つは腸閉塞、他は高熱の場合などがそれである。これは自然の断食である。飢えていて食べたいけれども、食べる食物がないとか、食べさせられないのは飢餓である。しかしある疾病を治さんとして飢えが盛んに襲来しても、その食欲を抑圧して生水ばかりを飲んで、食物を摂らないで7日間とか14日間とかを実行する場合を普通断食と言うている。腹は空いたが食べるものがない、今の戦争に対してではなく、仮に敵に重囲されて食物がない、食べようにも食べることができない、この場合は飢餓であって、断食とは言わない。かかる場合、平素実行しようと思っていた断食をしようと考えをそういう風に転換すると極めて晏如として1日でも2日でも4日でも7日でも何でもない。却って不健康の原因である、疾患が取り除かれる場合もある。2週間、3週間の断食を実施しながらでも、常の日と少しも変わらないで役所なり会社なり、海軍、陸軍の相当の激務に勤務されつつ少しも欠かさず生水だけを飲んで優性難症( * 慢性難症?) を治された多くの人々を知っているが、実に決心の確固たるには頭の下がるのがある。私も今回新京のヤマトホテルの一室で、原稿を書くのが忙しくて夕食を続いて3日抜いてしまったが、却ってそれがために身体の具合がよく、旅行中2、3日断食をやりたいと思っていた際とて、昼飯や夕食を忘れたのが却って愉快であった。もちろん朝夕(*朝食?)は数十年食べていない。既定の時間に2、30分も遅れると『売切れ申候』と書き出してあるので、そのまま昼飯も抜いてしまったことも、3、4度ある。満州国立の大同病院での講義は朝の8時で、自動車は迎えが7時半には来ている。正午は講習生と一緒──講習生といってもみんな科長級、司長級のお偉所で初めのときは66名であったが、次は230名という大多数であった。実に皆様がきちんとした礼儀正しいのには第一敬意よりも尊敬の念が起こった位である。講師の私に対して敬礼をされ、箸を取られ終わって一同起立敬礼をして既定の時間校庭を散歩する者、喫煙室に入られる者、図書室に入られる者がある。午後の5時まで講義をしたときは夕食を一同と一緒に摂る場合もあるが、午後2時で大久保氏に実習をやってもらうときは、ヤマトホテルに帰るが、室に入るなり、「健康科学」の原稿を書くので時間の経つのを忘れて夜中の1時頃になることがある。実に新京の5月下旬といえば何ともいえない絶好の断食期間だとつくづく思った。飢餓ということと断食ということはほとんど心の持ち方の言葉の相違である。

断食を一度決心したなら

必ず実行すべきもの

断食を7日間とか10日間とか14日間というようにまず方針を決めてからは、前後の重大要件その他のところを予め済ますとか回復後に処置できるか否かを見定めて、断食の途中で重大事項を決定するとか、それは頭脳は明哲になるから判断力などは鋭くはなるが何といっても霊肉一体である我々人間ではあるが、感情というものが伴う以上、あまりに明敏すぎる場合は、たとえば裁判官が判決を下すべき場合、一度あらかじめ決定しておいたものが、脳神経がはっきりとなるにつれて、今少し調査資料を今迄と違った方面から目を通してみようという気分になって、読んでみると瞭然として来てこれまで連絡の不明の点がハッキリとわかってくる。すると更に再調査の必要が起こるといった具合になり、それではせっかく、断食を始めたがここで打ち切ってまた改めてやり直すことにしようなど、そんなことでは却って身心を傷めこそすれ益にならない。そこで私はできるだけ断食をやらないで断食療法と同じ効果を持ち得られる方法、たとえば生の玄米、生の野菜食(別項『栄養勢力の本質と構成』記事参照)療法、腹部賦活浴等を発表したり、寒天断食法を工夫したり、平床仰臥腹部露出をせよとか、とにかく、要は宿便排除法であるが、何といっても真の断食療法に越したことなないが、一々多くの人々に実行させて、途中の指導ができないような無責任のことはできないし、実行するとなれば、私の書いた断食療法を再三熟読了解してから断食前の準備の注意とか、また断食中の心得、断食後の養生とかを十分理解しないでおこのうてはならない。カーリントンもハッザード博士その他の研究家は、断食は『必ず完行すべきこと』ということを強く主張している。つまり飢えが自然に再来するまでは、断食をおこなわねばならぬというのである。自然の飢えであるが、人間道の飢えか、つまり餓鬼道の飢えかの判断が付かなければならぬ。多くは料理の香りが堪えられないとか、刺身に蛤の汁を思い出したら急に腹がきゅうきゅう鳴り出したとかいうのは餓鬼道の飢えである。カーリントンは言う”断食を時期尚早に中断することは、我々のおこない得べき実験の中で、最も愚かな且つ危険な実験の1つであって、私はこのことを特に力強く主張しておかねばならぬ。断食を中断すべき時期に到れば、自然は常にこれを指示するであろう。断食者を始終注視している人々は、いつ、断食をやめねばならぬかということを判定するに際しては、決して誤謬を犯すことはないはずである”云々。

ある人々の胃は飢えが自然に再来するまでは食物を拒否することも多いが、慢性疾患の場合においては、かかる時期の到来するまで、断食を続ける必要のあることも稀である。僅少の食物を摂れば直ちに飢えが再来するであろう。したがって適当な食物を与うれば、何らの傷害は起こらずに済むであろう。実をいえば、今日では10万人に対し1人当たりも断食の実行者はあるまいと思う。この断食ということが疾病が治った上に食糧問題に一種の解決を与える尊い事業、朝食もやめられるようになる。この断食、言葉では簡単だがさて実行となると出来がたいのである。一口にいえば親指に三日月の全然ない人は絶対に断食を励行するか、生の玄米食と生の野菜食をある期間これはおこなわなければならぬ人々である。この三日月のない人は常に余分の食料を摂っている人々で食物に対する観念がどうしても卑しくなる傾きがあるが、これとて心の修養で必ずしも絶対に食物に対する自省心がないというわけではない。しからば、親指に三日月のある人々はどうかというに、これは栄養の吸収率が非常によろしいのであるから平常あまり、美食や飽食時衣(* 飽食暖衣?) ──このことは1つの形容詞で孟子に出ている言葉であるが裕福に暮らすという意味で──ぶらぶら遊んで膳美を尽くすと必ず脳溢血を起こす人々である。しからば三日月のない人々は脳溢血の心配はないかというに、この人々は脳軟化症とか中風とか栓塞(エンボリー)に罹る恐れのある人々である。この三日月のない人々も腸壁に堆積されている古い糞便を取り去る必要上、断食療法をやるとよいのだが、またこの三日月のない人々に限って、断食を始めるやたちまちに嘔吐をやりだす者が多いので困るのである。何故、嘔吐するかといえば腸管に宿便を多く堆積している位だから食物から栄養の吸収される率が悪いから、三日月のある人々よりも余分に摂取しなければならないので常に多量に食べる。何程多量に甘いものを食べても沢山食べても、常に空腹のような気がしてならないと、食事に対して関心を持ちすぎる者が多い。そういうわけで自然と消化器官も疲労がちである。自ずから腸麻痺に陥るわけで、腸が麻痺するとそれに従って、その関係場所の脳神経系統の麻痺出血が起こるのは明らかであり、またその脳神経が多くは四肢関係が多いのであって100人中97人、(*「9割」抜け?)7分まで脳出血を起こしていると慶応医大の川上博士が発表したのは決して想像から言っているのではく、仏国のソーレル夫妻とその共働研究者デラフェー博士共著に係る(*依る?)『足の結核性関節炎』書中には明らかに100人中95人は足の故障者なりと述べてう(い?)るのは普通100人中100人までが冬に手足が冷たいと嘆く人の多いことによって知られるのである。ところがしからば三日月の明瞭にある人々は断食の必要がないかというと、この類の人々は常日頃滅多に腸などを損じたことがないのでついつい何でも食べるといった所謂、 如何物食いの連中が多いので運動をよくやる身体の人々ならば、左程でもないが、少し肥満型の鈍重の人であるとよく脳溢血を起こすので、これらの人々を溢血型などというのである。太っておるから大丈夫だとか痩せているから病身というのでなく、要はその人の全ての点において、強靭であるか否かということで、だいたい血の最大血圧と最小血圧との比率がよくて、年齢に比較した正常血圧の所有者で、保健六大法則が手際よくでき、そのうえ、健康診断五方法ができるような人は、弱い者や、脳溢血や中風に罹るような者はないわけである。もしも宿便を所有し、常に脳神経──それに繋がる脳血管──が麻痺しているようでは、それに関連している四肢の神経筋肉が硬化するのは当然であって、すぐに疲れやすく、頭は重く、ざるか何かで締められているような感じがするとか、後頭の内部が表面あたりにちくちく疼みを感ずるとか、手先や指先が麻痺していると訴えるのである。これらの人々は親指に三日月があろうがなかろうが直ちに粥食にするとか生の5種類以上の野菜食をするとか、断食をするのが最上の方法ではあるが、これも一度決心したら1週間でも10日間でもよいから、直ちに実行をする準備に取りかかるのである。それには必ず私の断食心得150訓を熟読了解してのことにしてもらいたい。

断食をしてから真の飢餓を感ずるならば、それは完全の断食がおこなわれた証拠であるが、そうでないと断食の日数が足りない証拠である。断食中によく皮膚病ができたり、舌に苔が沢山できたり、神経痛が出てきたり、吐き気があったり、種々の症状の現れるものであるが、少しも心配する必要はない。全て治るためのもので、したがって断食がされると次のことが現れるであろう。

(1)舌が綺麗になる。

(2)皮膚が美しくなる。

(3)身体が軽快になる。

(4)息が心地よくなる。

(5)体温が正常になる。

(6)唾液の分泌が再起すること。

(7)口腔内の悪味が解消すること。

(8)視力が明澄になり、且つ鋭くなること。

(9)排泄物が無臭に近くなる。

(10)飢えの再来すること──渇きと同じく喉および口に飢えの感じられること。

断食中の死

ハッザード博士はアール・ビー・パーソンに与えた書簡中においてこう述べている。

”私は16年間、医療に従っていたが、その期間中において、私は約2500人もの断食をさせたが、死亡したものは18名にすぎなかった。屍体解剖をおこなってみた結果、これらの死亡者は、いずれも、器官に欠陥があり、断食をおこのうたとしても、あるいは食物の摂取を続けたとしても、所詮は死を免れることのできないものであったことが判明した”云々。

さらにカーリントン博士は、

”私は、患者を追い返したことはなかった”と付言して、

”それで私は死者を出したことがない、断食をして死んだとしたら、それは本人が必ず、陰で内密に何か栄養になると思って食べたものであって、絶対に断食というものでは死ぬるというものではない。死ぬのは他の原因なりと断言する”云々。

デュウエー博士は『朝食廃止案と断食療法』書中に次のごとく述べている。

”歳月の経過してゆくにつれ、私の体験したところによると、私の処置を受けて死亡したものは、全て、餓死を思わせるような特徴を少しも具示しなかったし、他方回復した患者はあたかも、数学上の問題に見るがごとき精確さをもって、健康の回復したことを証明していた。つまり疾患の退潮に伴うて、全ての筋、全ての感覚および全ての性能が、その力を増進させてきていたのであった。私は幾年もの間、患者が健康を増進させてくるのを目撃してきたが、何故そうなったかということについては、これを解義すべき何らの端緒をも得るに至らなかった。ところが偶然のことから、イオーの生理学(Dr. Yeo : – Physiology)の新版を入手し、これを翻訳してゆく間に飢餓後の死に伴うて起こる組織喪失表を見いだしたのであった。このとき、真夜の天頂に太陽が突如として現れたかのごとく、私の脳裏には、新しい啓示の照光が閃いてきたのであった。かくして私は人間の内には、予め消化された食物が豊富に予備されていることを把握した。したがって今日では、私も身体が骨ばかりの状態になるまでは、絶対に餓死の起こるはずがないと信じている。餓死することは、日数ではなく、月数の問題であり、しかもそれは急性疾患からの平均回復期間を遥かに超えた幾週間か幾月かの問題であることを知得確信するに至った』云々と述べている。

(未完)

西勝造 「健康科学」 第7巻第9号 昭和18年12月15日発行

* 晏如 (あんじょ) :安らかで落ち着いているさま。

晏如(アンジョ)とは - コトバンク
デジタル大辞泉 - 晏如の用語解説 - [ト・タル][文][形動タリ]安らかで落ち着いているさま。晏然(あんぜん)。「従容(しょうよう)として逼(せま)らず、―として惕(おそ)れず」〈露伴・運命〉

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